天国か地獄


 14

 想定していた中でも最悪の事態だった。
 阿賀松に逆らうな。そう言う阿佐美に抱えられるように連れて行かれたのは何もない部屋だった。
 ベッドもなければ椅子もない。冷たい床の上、阿佐美は俺の手首を掴むのだ。そして、どこから取り出したのか頑丈そうな黒革の拘束具で後ろ手に拘束される。身を攀じることすら許されない。

「っ、し、おり……」

 堪らず名前を呼ぶが、とうとう阿佐美は何も答えなかった。拘束が外れないのを確認すると、阿佐美は立ち上がった。
 慌ててその後を追いかけようとするが、下腹部に激痛が走りバランスを崩してしまう。そのままろくに受け身も取れずに転ぶ俺を見て、阿佐美は何かを言いかけるが……口を閉じ、何も見なかったかのように部屋を後にするのだ。
 閉じられる扉。恐らく鍵が掛けられているのだろう。
 どくどくと脈打つ傷口からじわりと何かが滲むのを感じながら俺は痛みを堪えることしかできなかった。

 時間感覚すら失った俺にとって痛みだけが本物であり確かなものだった。
 縁はどうなったのか、全部罠だったのか、だとしたら、志摩は。頭の中で悪い考えばかりがぐるぐると巡る。精液の感触が気持ち悪い。下腹部の痛みが特に酷かった。確認するのも怖かった。俺も、このまま殺されるのだろうか。誰にも気付かれぬまま。冷たくなっていく指先。
 頭に芳川会長の顔が浮かんだ。
 ……会長は、今頃どうしているだろうか。俺のことなんかもう忘れているのかもしれない。……せめて、リコールされてないのを祈るだけだった。
 涙もでなかった。これ以上体力を失うのが怖かった。動物的本能からくるものなのか、急激な眠気が襲いかかってくる。それとも、生命活動を終えようとしてるのか。俺にはもう判断することもできなかった。抗うことも諦めていた。
 目を瞑る。泥のような睡魔に身を任せ、意識を手放した。
 眠りというよりもそれは気絶に近いのかもしれない。
 次に目を覚ましたのは激痛だ。腹部を抉られるような痛みとともに体が吹っ飛ぶ。

「ぅ、ぐッ!」

 受け身を取ろうとして、拘束されていることに気付いた。そして、これが現実だということも。
 痛みに呻きながら目を開けば、まず目に入ったのは爪先だ。

「なぁにのんびり寝てんだ。俺が帰ってきたら『お帰りなさいませ、伊織様』だろうがよ」
「っ、は、ぅ……ぐ……ッ」

 ――悪夢は続いていた。
 俺を見下ろしていた赤髪の悪魔は不機嫌そうな顔をして俺の前に座り込む。近付く視線。目の前、迫ってきた手から逃れることもできなかった。背けようとした顔ごと掴まれ、力づくで起こされる。

「聞こえねえなぁ?」
「……ぉ、かえり……なさいませ……っ、ぃ……お…………」

 伊織様、と言い終わるよりも先に思いっきり頬を叩かれる。

「っ、ぅぐ……ッ!」
「遅えし全然心入ってねえ」
「ッ、ぅ……」

 この男からしたら軽く叩いたつもりなのかもしれないが、寝起きで満身創痍の体には恐ろしいほど響いた。瞼裏がチカチカと点滅する、焦点がぶれる。全身の体温が低下してるのか、ただ単にこの部屋の室温の設定の問題なのか、酷く寒い。

「腹、減っただろ。あれからお前ずっと寝てたんだぞ」
「……………………」
「今度こそ死んだと思ったら案外逞しいんだな、お前。飲まず食わずで三日だ、三日。そろそろ腹が減ってんじゃねえか?」

 阿賀松の言葉が理解できなかった。単語単語はわかるのだが、それを繋げて文章として理解するのに時間がかかったのだ。腹が、減った。……わからない。そうなのかもしれない。喉のひりつくような乾きも、腹部の違和感も、怪我のものなのかそれとも生理的現象なのか俺にはわからなかった。
 何も答えられずにいると、阿賀松の指先が頬に触れるのだ。自然と体が強張り、身が竦む。けれど、阿賀松から逃れることはできないのだ。
 阿賀松伊織に逆らうな。それは阿佐美の最後通牒だった。
 震えを殺す。逃げようとするのを堪え、じっと耐えたとき。頬に触れていた阿賀松の指が動きを変えたのだ。唇をなぞられ、息を飲む。何が正解なのか、どうすれば阿賀松に逆らわずに済むのかわからなかった。パニックに陥る頭の中、恐る恐る口を開けば阿賀松の目がすっと細められた。

「っ、ふ、……ぅ……」

 口の中に入ってくる親指は、そのまま俺の歯を開かせ、そして閉じた間に捩じ込んだ指先は歯冠の表面をなぞっていくのだ。ぞわぞわとした感覚が背筋から走り抜ける。力を入れれば阿賀松の指に噛み付ける。わかっていたが、それ以上に少しでもこの男に傷をつけたそのときの報復の方が恐ろしくて俺は歯を閉じることができなかった。ただ、口の中を掻き回されるのを耐える。

「っ、ぅ……ん…………ッ」

 試されているのだとわかった。
 開きっぱなしの口の端から溜まった唾液が溢れる。堪らず、阿賀松の指に舌を絡めたとき、阿賀松が一瞬笑ったような気がした。

「っ、ふ……ッ」

 そして、顎を大きく開かされたとき、唇を重ねられる。ピアスの付いた舌は逃げようとしていた俺の舌を捕まえるのだ。抵抗をするな。従え。今は、我慢しろ。麻痺した思考の中繰り返す。従順になるしかない。阿賀松の舌を受け入れる。舌の粘膜をピアスで刺激される都度刺し傷が焼けるように熱くなった。視界が霞む。

「っ、……舌、もっと突き出せよ」

 答えるよりも先に、言われるがまま緊張した舌を付き出す。きっと滑稽だろう。それでもよかった。殺されずに済むなら、プライドは捨てるべきだ。……そうやってここまで来たはずだ。
 抵抗は、なかった。
 思考放棄したら何もかもが終わる。わかっていた。阿賀松に従うことが賢い方法なのかわからない、もっと他に術はあるのかもしれないが俺は自分を守るためにはそうすることしかできなかった。
 腹の傷口は開き、全身の微熱は本格的な熱になって俺を苛む。性行為後体を洗ってくれるわけでもない、満足した阿賀松は俺を放置して部屋を出るのだ。阿賀松が用意してくれるのは食事というよりも水分補給だ。思考力よりも体力の方が限界が近いことはわかっていた。
 目を瞑っていてもナイフが刺さってるかのような痛みに魘され、眠ることすらできない。体調は最悪だ。どれほどの時間が経過したのかもわからない。そんな俺の元に、阿佐美がやってきた。
 性行為の匂いが色濃く残った部屋の中、恥じらいすらもなかった。顔を上げることも眼球を動かすこともできず、ただ足音が静かなことから阿佐美が来たというのは理解した。
 阿佐美を突き飛ばして逃げる。そんな思考が働いた。阿賀松ならまだしも、阿佐美だ。けれどまた銃を持っていたら、そう思うと下手に動くことは危険だとわかっていた。

「……ゆうき君、起きてる?」

 背中に向かって声を掛けられる。俺は、返事をしようか迷っていた。体を動かすことも億劫だった。こうして人の細胞は緩やかに死んでいくのかもしれない。そんな風に思えるほど。

「っ、ゆうき君?」

 返事をしない俺に焦ったのか、駆け寄ってきた阿佐美に肩を抱き起こされた。瞬間、腹部が痛み、堪らず呻く。それに、阿佐美はほっとしたような、複雑な顔をしたのだ。

「っ、ごめん……痛かったよね」

 きっと、阿佐美は俺が死んでると思ったのだろう。目が合えば、阿佐美は俺の体に負担がかからないように再び寝かせるのだ。
 そして、そのまま俺の額に触れる。抵抗すらなかった。さらりと前髪を掻き上げたその指はすぐに俺から離れるのだ。

「……ゆうき君、口開けて」

 それは命令というよりもお願いだった。だから、相手が阿佐美というのもあってつい何も考えずに口を開けたとき、何かを飲まされる。そして俺が吐き出そうとする前に阿佐美は予め用意していた水の入ったボトルを俺の口に捩じ込むのだ。

「っ、……ん、ぅ……」

 こくこくと押し流されていく異物。ぼろぼろと口の端から水が溢れても阿佐美は手を離さなかった。そして、俺の喉がごくりと鳴ったのを確認して阿佐美はボトルを口から離した。

「……これは鎮痛剤だよ。これで、少しは楽になるはずだから」
「っ、……」
「……いまの俺には、これしかできないから」

 本当に鎮痛剤かどうかもわからない。けれど、阿佐美のことを信じたかった。空腹を水で満たされた瞬間、腹部が鳴る。阿佐美は何も言わず、けれど何か言いたそうな目で俺を見るのだ。

「暫く、あいつはここには来ないよ」
「……っ」
「……だから、ゆっくり休んで」

 こんな場所でゆっくりなんてできないだろうけど、と阿佐美はそれだけを言って立ち上がる。俺は、詩織、と声をかけようとして、自分の声が出ないことに気付いた。

「じゃあね、ゆうき君」

 いかないで、と言う言葉もでなかった。
 俺も連れて行ってくれ、なんて言ったって仕方ないとわかっててもその背中に縋ってしまいそうになる。閉じられた扉。
 阿佐美のことを信じていいのか。
 何度も繰り返す。けれど、阿賀松が暫く来ないなんて嘘吐いてどうなる?俺を泳がせてまた逃げ出すのを捕まえるつもりか?……そんなこと、する必要なんてない。現状、俺は今抵抗をしていないのだから。
 阿佐美に試されているのかわからない。もしかしたら阿賀松の仕掛けたブラフかもしれない。
 けれど今だけは楽にしたかった。
 これからどうするかなんて、わからない。とにかく薬が効くまでは大人しくしておこう。
 そう、目を瞑る。
 阿佐美が持ってきてくれた薬は劇薬ではなく、本物の鎮痛剤だったようだ。解熱効果もあるのか、一眠りして目覚めたときには大分全身の痛みや熱がマシになっていることに気付いた。

 ……それでも、体の免疫力は落ちたままだろう。
 何を思って阿佐美はこの薬を俺に飲ませてくれたのか。
 同情か?それとも罪悪感か?……どちらにせよ、まだ阿佐美の心がなくなったわけではない。……そう思いたかった。

 傷の痛みがマシになったところでやってくるのは耐え難いほどの空腹だった。痛みで誤魔化されていたため、余計空腹が酷い。水がほしい。それでも、何かないかと体を起こそうとして、気付いた。俺が眠っている間に誰かが手当をしてくれたらしい。……ところどころ雑な包帯の巻き方からして阿佐美だろうか。この部屋自体阿賀松と阿佐美以外の人間が出入りできるかも怪しい。
 ……期待をし過ぎるのはよくない。わかってるはずだ、阿佐美は阿賀松の味方なのだ。
 自分に言い聞かせながら、俺は何か食べ物がないか部屋の中を探索することにした。

 この部屋の中をちゃんと見回るのは初めてかもしれない。阿佐美に連れてこられたあの日、俺は全身の怪我で起き上がることもできなかった。
 薬を貰えなければあのままくたばっていても可笑しくない。阿賀松の指示なのか。だとしたら、なんで。

「……ッ」

 全部ただの気まぐれなのだ。こうして生かされてることも、もしかしたら明日には飽きたからという理由で切り捨てられるかもしれない。
 ずっとここにいるわけにはいかない。わかっていた。でも、どうすれば。落ち着け。とにかく、飯を。なんでもいい、何かを口に入れないと逃げるよりも先に倒れてしまいそうだ。
 部屋は空き部屋のようだ。壁と床、それから照明。窓もなにもない。時計も。天井には手が届かない。やはり、扉から出るしかないのだ。
 ちらりと扉に目を向ける。部屋の中に監視カメラは見当たらないが、俺が気付いていないだけかもしれない。もしかしたら扉には電流が流れてて、少しでも逃げようとした素振りを見せた瞬間感電死するかもしれない。悪い思考が駆け巡る。でも、今しかない。薬が効いて動ける今しか。そう自分を奮い立て、俺は恐る恐る扉へと近付く。
 乾いた指先でそっと扉に触れた。静電気に驚いたが、致死量の電流は流れる様子はない。ドアノブはない。扉の側にはタッチ式のセンサーが取り付けられている。特定のキーが無ければ内側からも外側からも扉が開かないということか。
 やっぱり、扉が開いた瞬間しかチャンスはないということだ。阿佐美が来た瞬間逃げるのが一番現実的だが、成功率は低いだろう。いくら鎮痛剤のお陰で動けるからとはいえ、阿佐美相手に逃げ切れるとは思えない。それに、この部屋から出たところでこのマンション自体を抜け出せるかも怪しい。
 ……阿佐美から鍵を盗む?無理だ、部屋に出る前に気付かれるのがオチだ。阿佐美を気絶させる?できるのか?俺に?
 でも、阿賀松相手よりはましだ。考えかけて、心臓がきりりと痛んだ。……阿佐美に乱暴な真似をしたくない、甘いと分かってても心が拒んでしまう。
 他にもっと、成功する可能性が多いのは?

 ――阿賀松に飽きて捨てられるように仕向ける。
 そんな考えが頭を過った。
 阿賀松が何を考えてるのか理解したくなかった。無理だと思っていた。けど、もしあの男の目的がわかればもしかしたら……。

 阿賀松の挙動を思い出す。手当は阿佐美任せ。食事も頓着しない。この部屋に来ては俺を抱いて満足すれば帰っていく。阿賀松は俺に従順になれと言い聞かせるのだ。なら、逆にあの男に徹底的に歯向かえばどうなる?――考えずともわかるはずだ、縁のように最悪殺されるかもしれない。
 ならば、と自分の体に目を向けた。俺の体が使い物にならなければあの男はこの悪趣味な遊びをやめるだろうか。腹部に触れる。血の気が引いた。
 ……でも、俺の傷口を抉じ開けてでも抱くような変態だ。今更俺が死にかけていたところで穴があればいいと思ってるのかもしれない。
 じゃあ、俺じゃなくたっていいはずだ。
 わざわざ唇を重ねる理由は?……自惚れたくなかった、でも、もしかしたらあの男は。
 自分の顔に触れる。この顔が潰れればあの男も俺に興味を失うか。いや、寧ろあの男は人の苦しむ顔に興奮を覚える異常性癖者だ。なら、どうすれば。
 やっぱり待つことしかできないのか。
 その答えに辿り着いた瞬間力が抜けそうになる。腹部からは情けなく腹の虫の声が響いた。

 阿賀松が怒ってるのは俺と、縁、それから裕斗だ。けれど、元はといえばあの男が俺に固執する理由は一つだ。
 ――芳川会長。
 きっと阿賀松は俺を手懐けるつもりだ。それから、芳川会長にでも見せつけるのか。考えただけでぞっとしない。けれど、現実から目を背けることはできない。
 今は、生きて此処から出ることを考えろ。
 縋り付きたい気持ちをぐっと堪えた。今ここにいるのは俺だけだ。人を信じるな。甘えるな。
 心を殺す。弱音を飲み込む。
 俺を守ってくれる人はいない、自分でやるしかないのだ。そう繰り返し、言い聞かせる。何度も何度も何度も何度も呪詛のように繰り返した。できる、できる、頑張れ、俺は、死なない。また、会うんだ。ちゃんと謝らないと。今度こそお礼を言うんだ。

「………………裕斗先輩」

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