天国か地獄


 12

 縁についていくと決めてからというものの、縁の行動は早かった。
 一先ずここから出ようという縁とともに病室を出たはいいが、明らかに俺と縁の歩くスピードには差がある。置いていかれそうになっていた俺に気付いた縁は俺に腕を差し出すのだ。

「齋藤君、ほら」
「ぁ、あの……」
「君を一人で歩かせていたら朝になっちゃうよ。俺の腕貸してあげる」

「それとも、お姫様抱っこの方がいい?」なんて、変わらない態度で笑いかけられると困惑する。この人になにから何まで頼り切りになるのは危険だとわかっているからだ。
 大丈夫です、と断りたいが、実際こんなところでもたもたしているところを誰かに見られるのは危険だ。俺は「すみません」と小さく謝り、そして恐る恐る縁の体を掴む。薬品特有の匂いが鼻孔を掠める。

「怪我人なんだから仕方ないよ。その様子じゃ松葉杖の使い方も教えてもらってないんでしょ?」

 俺の肩を支え、なるべく腹部に負担がかからないように俺を抱えてくれながらも歩いていく縁。一人で歩くよりも数倍楽だが、その分どうしてもしがみついてしまうような体勢になってしまうのが申し訳なかった。俺は縁の問いかけに小さく頷き返す。

「でも大丈夫、今は俺がついてるからね。……歩くの疲れたら言ってね。俺が抱き抱えてあげる」
「す、みません……」

 気を許しては駄目だ。そう自分に言い聞かせながら俺は縁についていく。
 人気のない夜の病院はあまりにも静かで、薄ぼんやりと照らされた暗い廊下の中を歩いていく。ひんやりとした空気が余計不気味さを醸し出していた。
 縁は人目につかない経路、時間帯を事前に調べていたのだろうか。幸い、途中巡回中の医師や看護師と会うこともなく俺たちは病院を抜け出すことになった。裏口の扉を開いた縁。外はすでに真っ暗闇で、どうやら関係者用の駐車場に出ることになってるらしい。
 縁に支えられていたとはいえ、広い病院内をずっと歩かされていた俺はすでに体力が消耗していた。
 久しぶりに感じた熱と湿気を孕んだじとりとした風はとてもではないがいい気分にはなれそうにない。「こっちだよ」と縁に連れて行かれる。更に駐車場を抜け、病院の敷地内から徒歩で出る。
 てっきり車に乗り換えるのかと思っていただけに徒歩のまま進む縁に内心血の気が引いた。状況が状況だ、我儘言ってられないと思うが、ただでさえベッドの上で寝たきりになっていた身だ。俺が想像していたよりもずっと体力は低下しており、このまま体が保つ自信がなかったのだ。
 そんな俺の不安を感じ取ったようだ。こちらをちらりと見た縁は「大丈夫、近くのパーキングエリアに停めてるから」と笑った。どうやら、このまま歩くのかという不安が顔に出てたらしい。恥ずかしくなって、俺は視線を外した。

 縁の言うとおりだった。
 病院から少し離れた駐車場に縁の車が停車されていた。いつから停めていたのか、誰が車を運んできたのか、聞きたいことはあったが、そんなお喋りする暇はない。
 縁に「どうぞお姫様」と気障に笑う縁は助手席の扉を開いてくれた。いちいち縁の言動を気にしてる余裕もない、俺は促されるがまま縁の車に乗り込んだ。広い車内。いつもは後部座席に阿賀松がふんぞり返って乗っていたがこの車の中にいるのは俺と縁だけだ。ドアを閉めた縁はそのまま運転席に乗り込む。縁がエンジンを掛けると、蒸し風呂状態だった車内に冷房が効き始める。

「君を助手席に乗せてドライブなんて、舞い上がりすぎて事故らないか心配だな」
「……先輩……」
「あ。そうだ。はい、これ」

 そう、思い出したように後部座席から何かを引っ張り出してくる縁。手渡されたそれは、薄手の上着だった。

「流石にその格好のままだったら警察に声かけられちゃいそうだしね。上から着て」
「あ、ありがとうございます……」

 俺はそのスウェットを頭から被った。縁の私物だろうか、縁の香水の匂いがする。それと、少しだけ煙草の匂いもだ。

「うん、可愛いね。こういうのって俺、憧れてたんだよね」
「え?」
「彼シャツっていうの?ロマンだよね」
「……」

 そんなことをいうほどの余裕はあるようだ。やっぱりと俺とは違う精神構造をしているようだ。なんて返せばいいのかわからず、逃げるように俺はもたもたとシートベルトを探す。伸びてきた縁の腕が俺の代わりにシートベルトを伸ばし、止めてくれた。「それじゃ行こうか」なんて、これが本当にただのドライブならまだ気が楽だっただろう。逃避行なんてもんじゃない、下手したらおしまいだ。俺たちは喧嘩を売りに行くのだ。逆らってはいけない人間に。

 車の中は無音だった。窓の外、道行く人の影が視界に入る度に赤い髪の男がいないか探してしまう。見えないなにかに取り憑かれているようだった。あいつの監視下にある病院から出られたというのに、ほっと一息吐く暇なんてあるはずがない。
 縁の運転は安心できる。揺れもなく、いつも阿賀松が縁に運転させる理由がわかった。
 賑わう夜の街を抜けていく。鼻歌交じり、ハンドルを指で叩く縁は上機嫌に見えた。いや、寧ろ、酷く興奮しているのを堪えるような――。

「……縁先輩は」
「ん?」
「こ……怖く……ないんですか、阿賀松先輩のこと」

 ――馬鹿なことを聞いた、と思った。
 こんなことを聞いたところでどうにだってならないとわかっていたけど、それでも、あまりにも恐怖を感じさせない縁が不思議だった。
 前を見ていた縁の視線が一瞬、俺の方を見た。そしてすぐ、ゆっくりと前に戻される。

「齋藤君はやっぱり怖い?」

 優しい声で尋ねられ、ついこくりと頷いた。
 縁は口元に笑みを浮かべる。

「だろうね。俺の場合はまあ、怖いってよりも興味があるんだ。俺が君を連れ出したと知ったあいつがどんな反応するのか、まあ勿論目的は別としてね」

「怖いというよりは、ドキドキしてるよ。あいつに見つかったら俺、どうなるんだろうって」そう、縁の口から語られる言葉は自分の心境のことのはずなのにまるで他人事のようだった。
 ドキドキ、というのは語弊があるが――確かに俺の心臓もずっと静まることなく忙しなく鼓動を打っている。そういう、ことなのだろうか。わからない。

「ああ勿論それは最悪の状況だからね。そうならないためにもちゃんと立ち回るつもりだよ」

「それに、今は俺にもやりたいことが見つかったから」そうまるで目の前にある宝物でも見つめるように楽しそうに目を細めて微笑む縁。

「やりたいことって……」
「なんだと思う?」

 脳裏に裕斗が過る。血溜まりの上、動かない裕斗が。咄嗟に俺は思考を振り払った。

「……わ、かりません」
「本当に?」

 自分から振った話題だったが、俺は裕斗の話題を口にしたくなかった。それが縁の地雷だとわかっていたし、縁に裕斗のことを思い出してほしくなかったから。わからないです、と首を横に振れば「そっか」と縁は笑った。裕斗が絡まなければ、縁は俺には優しい。その裏にどんな意図が隠されてようが、だ。
 縁も無理強いすることはなかった。
 気づけば外の景色はネオンが眩しい夜の街からビル街に切り替わっていた。そして、縁はとあるマンションの地下駐車場へと降りていく。
 数台の車が並ぶその駐車場の一角に車を停めた縁は辺りを確認する。

「っ、先輩……ここ……」
「伊織んちのマンションだよ」

 駐車場に駐められてる車種からして金持ち御用達の高級マンションだというのはわかったが、それよりもだ。金がかかっている分セキュリティも相当しっかりしているはずだ。それなのに、すんなりと駐車場まで入れた事実に驚く。

「この上、俺の部屋もあるんだ。帰りたくないとき用にって伊織から借りたんだ」
「……そう、なんですか」
「まあ、俺の持ってる鍵だと俺の部屋と公共スペースしか使えないんだけど」

 だったらどうするのか。そう尋ねるよりも先に、駐車場の奥、各フロアへと繋がるエレベーターまで歩いていく。普段住人くらいしか使わないであろうそのエレベーターの中だけでもだだっ広い。
 上着のポケットからカードキーを取り出した縁はそのままボタンすらない操作盤にそのキーを押し当てた。そして盤面には文字が浮かぶ。縁はそれを操作し、そしてようやくエレベーターは動き始めるのだ。

「そのカードキー……」
「伊織のを盗んできちゃった」
「っ、え」
「扉が開けばもう、階層全てが伊織の部屋だよ」

 息を飲む。何もない箱の中、静かにけど確かに俺は地獄へと足を踏み入れているのだ。エレベーターが停止する。
 そしてゆっくりと開いたドアの向こう、まず目についたのは黒い重厚な扉だ。直感で、違和感。何かがおかしい。そう感じた。駄目だ、そう思うのに縁がエレベーターから降りるのを見て「先輩」と呼び止めようとつられてエレベーターから降りたとき。
 背後、エレベーターの扉の方からジャキン、と音が聞こえた。その音に反応して振り返ったときには、遅かった。

「どうして部屋の明かりが点いてるんだろうか。伊織は眩しいのを嫌うから普段人感センサーな切ってるはずなのに」
「……ッ、……っ、し、おり」
「そうは思わなかったの?……だとしたら、迂闊過ぎだと思うけど」

 いつの間に、いつから、なんで。どうしてここに。混乱する頭の中、静かに阿佐美は俺と縁に目を向ける。その手には現実では早々見慣れないものが握られていた。拳銃だ。モデルガンなのか、見分けもつかない。けれど、それでもその銃口は確かに縁の頭部に突き付けられていた。

「駐在の警備員も席を空けさせてるし今だけは指紋認証システムも解除してある。……その理由、方人さんなら分かるだろ」
「なんだ。俺を罠に掛けたってわけだ」
「あいつもあいつだよ。……方人さんがキー盗んだの分かってて泳がしておいたんだから」
「…………」
「方人さん、手に持ってるものを捨てて両手を上げて」

「早くしろ」と、顔色一つ変えずに命じる阿佐美に俺はその場から動くこともできなかった。まだ、目の前の現実が飲み込めていない。悪い夢を見ているようだった。ポケットに手を入れた縁は「はいはい、そんなに怒らないでよ」と取り出したそれを床に放り捨てる。黒い鉛の塊はゴロゴロと床の上を転がった。スタンガンだ。
 頭の上で指を組むように上げた縁を確認した阿佐美はそのまま俺に目を向けた。

「ゆうき君も」

 ……ああ、これは、夢か?夢ではない。わかっていた。けど、認められなかった。あの阿佐美が、今は冷たい目で俺を見ている。背筋に冷たい汗が流れ落ちていく。心臓が今にも破裂しそうだった。叫びたくなるのを堪え、俺は手を上げた。
 それを確認し、阿佐美は顎先で目の前の扉をしゃくる。

「――部屋の中で伊織が待ってる。聞きたいことがあるなら、直接したらいい」

 入れ、と暗に促しているのがわかった。
 阿賀松がいる。全部分かってて、阿賀松は俺たちが来るのを待っていたのだ。この部屋で。
 罠にかかるのを。わかってて、ずっと手を出さなかった。心臓が騒ぐ、恐怖と不安で吐き気が止まらなかった。

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