11
裕斗が無事だとわかっただけでここまで変わるのものなのだろうか。
とにかく安静に、と阿佐美は念を押して病室を後にした。
顔を見るまでは安心できそうにないが、それでも先程までの気分とは雲泥の差だ。良かった、とにかく、良かった。
それから阿佐美が用意してくれた食事も食べたが、ようやく味がするようだった。たくさんの量は一度に食べれないが、それでもいくらか喉を通るようになる。
それから、また数日が経過した。
相変わらず時間の進み方が緩やかなこの病室だが、次第に体の感覚を取り戻していくのがわかった。裕斗に、会えるだろうか。もっと元気になれば、こちらからでも会いに行ける。
その一心で怪我を治すことに集中する。
多少無理すればベッドから降りることも、歩くこともできるようになっていた。本当は無理して歩いてはだめだと阿佐美には何度か怒られたが、それでも、じっとしていると体が腐っていくようで怖かったのだ。
人の目を盗んでは歩行の練習をした。歩くと言うにはあまりにも稚拙で、何か支えがないとろくに歩くこともできない。痛みを感じるようになれば、大人しくベッドに戻る。そんな生活を続けていたとき。
病室の外、廊下の方から声が聞こえてきた。
阿賀松に忠告されてからは目を付けられるような真似はしないでおこうと大人しく病室に籠もっていたが、動くなとは言われていない。
俺は壁に手をつき、扉の方まで体を引きずって行く。そしてそっと扉を開いて外を覗いたとき。
阿佐美の背中が見えた。俺の部屋に来る途中だったのか、その手には食事が乗ったトレーが握られている。
「しお……」
『本当せっせと通い妻しちゃってさぁ、俺にも会わせてくれたっていいのに』
詩織、と飛び出そうとして、聞こえてきた声に思わず足を止める。
耳障りのいい柔らかな声は聞き間違いようがない。阿佐美の奥、そこには縁方人がいた。
どうやら阿佐美と縁が話しているようだ。思わず俺は扉の影に隠れる。この二人が親しげに話してるイメージがあまりないのもあるが、状況が状況なだけに余計見てはいけないものを見てしまったような気がしてならない。
閉じた扉の奥から二人の話し声が聞こえてくる。
『わかってるだろ、ゆうき君は絶対安静だよ。方人さんのせいでまたゆうき君が拒食になったら……』
『点滴繋いどけば暫くは死なないだろ。それよりも詩織が本当に怖いのは齋藤君がまた自殺しようとしないかだろ』
『方人さん』
『亮太のことも話してないんだろ?……いくら安定させようったってあんな期待させるような嘘まで吐くなんて、本当お前って酷いやつだよな』
「――……ッ」
嘘。なにが、なにから、どこまでだ。
まさか。と心臓が脈打つ。裕斗の顔が脳裏を過り、ぶわりと冷たい汗が滲んだ。
聞き間違いだと言ってくれ。そんなことあるわけないと否定してくれ。
聞きたくない。聞いてはいけないとわかってるのに、動けなかった。確かめるのも怖いのに、耳を離せなかった。けど、これは、俺の問題だ。
扉を開けば、阿佐美が驚いたような顔をしてこちらを振り返る。
「っ、ゆうき君……っ!」
「し、おり……嘘って……なに……?」
「……っ、ゆうき君……」
「噂をすればなんとやら、というやつだね」
青褪める阿佐美とは対象的に、あくまで縁はいつもと変わらない態度だった。
壁から離れ、阿佐美へと歩み寄ろうとするが、足がもつれそうになる。そんな俺を、阿佐美は支えてくれた。
「……ゆうき君、体が冷えるからベッドに戻ろう」
「詩織」
「……大丈夫、大丈夫だから」
「大丈夫って、なにが。……うそ、だったの……どこまで……っ」
「……っ」
その手を振り払えば、ゆうき君、と苦虫を噛み締めるように阿佐美が顔を歪めた。
どうして、なんで、違うって言ってくれないんだ。後ずさる。壁にぶつかって、痛みとか、気にならないくらい頭は混乱していた。そんな俺に、縁は「まあまあ、落ち着いて」と俺の腕をそっと掴むのだ。
「齋藤君、俺なら君に本当のこと教えるよ」
「詩織が帰ったらこの通路の奥にある部屋においで」そう、俺にだけ聞こえるくらいの声量で囁きかけてくる縁。思わず顔を上げれば、「方人さん」と阿佐美が縁を俺から引き剥がそうとする。
それよりも早く、縁は俺から手を離した。
「おお……怖。じゃ、またね齋藤君」
待ってるよ、と唇を動かし、縁はその場を後にした。
「ゆうき君、相手にしなくていいよ」
「……、……」
「ゆ、うき君……」
「嘘って……どこから、どこまで……なんで……そんなこと……っ」
怒りや悲しみとは違う、裕斗が元気だと言うのが嘘だとしたら。それに、志摩のことってなんだ。
ずっと、俺のことを心配してくれた。守ってくれていた阿佐美の言葉には何度も励まされていた。
けど、もしそれらが全部嘘だとしたら。そう思った瞬間、なにもかもが反転する。
「……取り敢えず、部屋に戻ろう。……傷口が開いたら大変だ」
ちゃんと説明するから、と阿佐美は続けた。俺は、逃げることもそれ以上責めることもできなかった。阿佐美に促されるがまま病室に戻る。
◆ ◆ ◆
「ごめん」
第一声は、謝罪だった。
ベッドへと俺を寝かし付けた阿佐美は頭を下げた。長い前髪。目元が見えずとも阿佐美が悲しそうな顔をしてるのは感じた。
「ゆうき君に、ちゃんと食事してもらいたくて嘘を吐いたのは方人さんの言う通りだ。裕斗君は……」
裕斗君は、と言葉に詰まる。
何を恐れてるのか、何を躊躇っているのか。縁との会話を思い出す。阿佐美は俺の安静を第一にしていた。その結果が、これだ。
だとすれば、阿佐美に嘘を吐かせた原因が自分にもあるのだと思うとただやるせなかった。
「詩織、俺は大丈夫だから……ちゃんと、教えて……お願いだから……」
これ以上、阿佐美を疑いたくなかった。
懇願すれば、その思いは伝わったのだろう。阿賀松は覚悟をしたように息を飲む。
「……俺が言えるのは、最悪の事態も視野に入れてるということだよ。……今は面会謝絶の状況が続いている、俺もまだちゃんと会えていないんだ」
「――……ッ」
どくん、と心臓の音が脈打つ。全身の血液が心臓へと集まってくるのを感じた。息を吐いて、吸う。それだけのことなのに、瞼裏に蘇る赤に思考が停止した。
「ゆうき君」と、阿佐美に手を握り締められた。
そこで、自分の手が震えていたことに気づいた。けれど、止まらない。止め方もわからない。
「ぉ、俺……の……っ」
「ゆうき君のせいじゃない。……悪いのは、志摩だ」
どくん。どくん。と、騒がしい程の心音が響いた。
――志摩。志摩。俺を刺して、実の兄を刺した。
どうして、なんて疑問今更沸かない。俺が志摩を追い詰めた。俺が。けど、なんで裕斗先輩まで刺されなければならなかったのだ。
落ち着け、落ち着け。冷静になるんだ。
阿佐美をこれ以上不安にさせてはいけない。息を吸って、吐く。鼓動を鎮める。
「志摩は」と、喉奥から咄嗟に声を振り絞れば、阿佐美は口を閉じた。
「詩織、志摩は……っ今、どこに……」
「……聞いてどうするの?」
それは、初めて聞く冷たい声だった。
否、何度かこういう阿佐美を見たことある。志摩に対してのときだ。けれど、阿佐美がこういう態度を俺に示したのは初めてだった。
ほんの一瞬、たった一言だった。
「……あいつのことは、俺達に任せて。ゆうき君は何も気にしなくていいから」
まばたきをすれば、そこにはいつもと変わらない阿佐美がいた。申し訳なさそうに、心配そうに、ぎこちなく俺を慰めてくれる阿佐美がそこにいたのだ。
「ゆうき君、ここで俺から聞いた話は全部忘れて。……ゆうき君は何も知らない、ただここで怪我が治るまで休むんだ。……そうすれば、ここから出られる。その後は、ゆうき君の自由だ」
「でも、ここにいる内はそうじゃない。俺はゆうき君に危険な目にあってほしくないんだ」釘を刺される。言葉で、視線で、行動で、余計な真似をするなと。ただ大人しくしてほしいと。縋るように、俺を試すように。
悪い夢を見てるようだった。
俺は、何も答えることができなかった。
阿佐美は何一つ俺に教えてくれない。全部忘れろというのだ。それが、俺のためだと。
何も答えない俺に阿佐美は諦めたようだ。俺から手を離し、立ち上がる。
「……これ、すっかり冷えてしまったけど、食べて。温かい方がいいなら、すぐに取り替えるから」
「……」
「……おやすみなさい、ゆうき君」
阿佐美は寂しそうに笑って、病室を出ていった。
サイドボードには、ようやく固形物が食べられるようになった俺のために用意した比較的噛みやすいものが置かれていた。
何を信じればいいのか、誰を信じればいいのかわからなかった。知っていたはずだ、俺は、自分以外信用できないと。けれど、阿佐美だけは。
俺のためを思ってのことだと思いたい。けど、志摩のことについて触れたときの阿佐美のあの声がまだ鼓膜に染み付いていた。俺の知らない阿佐美がいるのだ。目を瞑る。吐き気を堪えた。涙は出なかった。悲しさよりも、また他人に縋ろうとしていた自分に吐き気がした。
――齋藤君、俺なら君に本当のこと教えるよ。
――詩織が帰ったらこの通路の奥にある部屋においで。
縁方人、あの男はなにか知っているようだった。
阿佐美が教えてくれなかったことを知ってるかもしれない。あの男は裕斗の敵だ、危険だとわかってた。下手に頼って利用されるかもしれない。痛い目に遭わされるかもしれない。
そんな思考が過っては、振り払った。これ以上、最悪なことなんてない。今更保身なんてどうでもよかった。
志摩を助けたいわけではない。けれど、このまま俺がのんべんだらりとしている間にもとんでもないことが起きてるような気がして、いても立ってもいられなかった。阿賀松にはああ言われていたが、裕斗が危ない今、今更保身なんてどうでも良かった。
俺は用意された食事に手を付けることなく病室を出た。そして、通路の奥、突き当りにある病室へと向かう。
病室を出て、壁伝いにやってきたとある病室の前。そこは空き病室のようだ。閉じられた扉を開けば、そこにはベッドに腰を下ろした縁がいた。
何をしていたわけでもなく、俺を待っていたというのか。
「やあ、齋藤君」
「……縁先輩」
来てくれたんだ、というわけでもなかった。縁にはわかっていたのだろう。俺がここに来ることを。ここに来ることしかできないことを。
「取り敢えず、こっちに座りなよ」
「……大丈夫です。それより……本当のこと、教えてください」
世間話をするためにここに来たわけではない。
なるべくならあまり縁に近付きたくないというのも本音だった。
「急かすねえ。久し振りに二人きりになれたんだ、俺はもっと君と二人きりの時間を楽しみたいんだけど」
「……先輩」
「随分と怯えてるみたいだね。詩織と何かあったの?」
立ち上がった縁はそのまま俺の目の前にやってくる。背の高い影がかかり、薄暗い部屋の中、縁の表情が余計暗く見え辛い。それでも縁は変わらぬ笑みを携えてるのだろう。
「教えて、齋藤君。君が何をそんなに焦ってるのか」
優しい声が落ちてくる。
この男がろくなやつではないとわかっていても、これしかないのだ。俺は、ことのあらまし縁に話した。阿佐美が言っていたこと、そして教えてくれなかったことを。
俺の話を一通り聞いた縁は少しだけ意外そうな顔をするのだ。
「正直、驚いたな。亮太の心配をするなんて」
「……先輩は、志摩のこと、知ってるんですよね。どうなったのか……どこにいるのか」
「会ってどうするの?まさか、助けるなんて言うわけじゃないよね」
縁は乾いた笑いを零す。
「君を二度も刺したんだよ、明確な殺意を持って」そう続ける縁に、俺は何も答えられなかった。
志摩は悪くない、というつもりはない。けど、俺にも非がある。助けたいというよりも、このままだと恐ろしいことが起きる気がして怖かったのだ。
「それは……わかってます。けど、このままじゃ……」
「まあ、下手すりゃもう二度と亮太と会えなくなっちゃうかもね」
「……っ」
「齋藤君、君は亮太に復讐したいと思わないの?」
縁の言葉に、思わず目を見張る。
復讐、なんて、考えてもなかった。俺と同じように志摩を刺すなんて、考えただけで生きた心地がしなかった。そんなことしても、どうにもならない。少なくとも俺の不安もなにもかも拭われるなんてことはない。
首を横に振れば、縁は顎に指を当て少しだけ考え込んだ。
「なるほどね。けれど、会いたいわけだ。あわよくば、助けたいと。……意外だな。君なら……いや、その選択もまたありなのかな」
独り言のように呟いていた縁だが、すぐに納得したように頷いた。そして、いつもと変わらない柔和な笑みを浮かべるのだ。
「君の覚悟はわかったよ。――じゃあ、俺が会わせてあげようか」
それは、思ってもいなかった申し出だった。
「あいつらは今回の事は揉み消す気でいるから警察に突き出すつもりはないだろうし、いつものように私有地に閉じ込めてるだろうしね。場所には心当たりがあるんだ」
「……っ、い、いんですか……?」
「構わないよ。俺は好きな子には尽くすタイプでね。それに、こんなこと俺にしか頼めないんだろ?」
笑う縁に、俺は数回頷いた。
正直、半信半疑だった。縁の言動がただの善意だけではないとわかっている。けれど、詩織はあの調子だし阿賀松など以ての外だ。
「このままだったら遅かれ早かれ始末されるだろうしね。あいつはもう君にフラれちゃったショックで見境なくなってたから」
「伊織はサディストだから簡単には死なせてはくれないだろうけど、それも時間の問題だろうな」あくまで縁は冷静だった。縁は知ってるのだ、俺が気を失ったあとの志摩のことを。
友人とは言い難いだろうが、それでも志摩の数少ない親しい人間である縁の言葉としてはあまりにも軽薄に感じた。だからこそ、余計志摩の身が気掛かりで生きた心地がしなかった。
志摩が、殺される。俺のせいで。そう思うと、全身が冷たくなっていくのだ。
「それじゃ、行こうか」
「っ、え……」
「生きてる内に会いたいんだろ?なら早いに越したことはない」
「い……いいんですか、もし、阿賀松先輩にバレたら、縁先輩も……」
「明日は我が身かもしれないしね、俺だって他人事じゃない。だから俺としては死体なりなんなり見つけて伊織を警察に突き出せれたら万々歳なんだけど」
「……っ!」
「裕斗君はどうせ使い物にならないだろうし、亮太だって無事じゃないだろう。そうすりゃ伊織を警察に突き出せば君の王子様だけの天下が戻ってくる」
「格好のチャンスだと思わない?」縁の言葉に、心臓が跳ね上がる。……芳川会長が助かるのだ。
阿賀松が捕まる。それは、俺にとっても喜ばしいことだ。
「詩織も、伊織には逆らえない。裕斗君だって君のことを抱き締めることすらできないんだ。……君の手助けできる人間は俺しかいないんだよ、齋藤君」
「……っ、お、俺……」
「……時間が必要ならゆっくりと考えたらいいよ、君には時間はある。けど、俺や亮太はそうとは限らない。……今度は俺の番かもしれない」
ここでの会話が最後になるかもしれない。大袈裟なんて言える状況ではなかった。
縁の言う通りだ。言うことは過激だが、俺達には時間がない。
「……っ、お願いします、俺を……志摩のところに連れて行ってください」
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