天国か地獄


 10

「それじゃあね、齋藤君。――またあとで」
「っ、方人さん!」

 阿佐美の横を通り抜け、部屋から出ていく縁。
 阿佐美はそれを追い掛けようとしたが、俺の方を見ると慌てて部屋の扉を閉めた。

「ゆうき君、大丈夫?……なにもされなかった?」

 なにもなかった、というにはあまりにも現状が飲み込めていないというのが実際だった。
 なんて答えればいいのか、言葉に詰まる。縁の言っていたことが本当だとすれば、事態は俺が想定していたよりも最悪だった。

「あの人からなにか聞いた?」

 不意に阿佐美に問いかけられ、ぎくりと全身が強張った。長い前髪の下、その表情が見えない分余計阿佐美が何を考えているのかわからなくて――怖かった。何故、阿佐美は裕斗が生きているということを教えてくれなかったのか。その理由がわからなかった。
 そもそも、どうして阿佐美がここにいるのか。
 聞きたいことはたくさんあるのに、踏み出せずにいた。何もかもが信じられない。

「……し、おり」
「方人さんが言ってることは信じないで」
「っ、ど、うして……」
「今はまだ全部言えない……けど、必ず説明するから。とにかくゆうき君は自分の体を最優先にして」

「いいね?」と、あやすように声をかけられ、首を横に振る。だめだ、そんなこと、できない。手を握ってくる阿佐美の手のひらを掴み、離す。詰めたくて、骨っぽくて、硬い指先。

「ゆ、うと先輩に……会わせて……」
「ゆうき君」
「ぉ……お願い、だから、そしたら……ちゃんと、言うこと聞くから……っ」
「…………」

 阿佐美はただ無言で俺を見た。ここから出せとは言わない。けれど、会わせることくらいなら。そう思うのに、阿佐美は決して首を縦に振らないのだ。

「ゆうき君、裕斗君のことは……忘れて」
「っ、ど……して……」
「それがゆうき君のためだから。……俺の口からはそうとしか言えない」
「っ、……」
「ゆうき君っ、動いちゃ駄目だって!」

 会えるはずだ。縁の口振りからして、裕斗もこの病院のどこかにいるはずだ。会いに行かないと。そして、謝らないと。そう、ベッドから降りようとすれば、「ゆうき君っ」と、珍しく声を荒げた阿佐美にベッドに押し戻された。

「詩織……っぉ、お願い……っ」

 お願いだから、会わせてくれ。そう懇願する暇もなかった。俺の手首を掴んだ阿佐美はベッドの下から拘束具を取り出すのだ。逃げる暇も逃げることもできなかった。両手首をそれぞれベッドに繋げられ、ベッドの上から動くことができなくなる。詩織、と声を上げる。が、阿佐美は呼び掛けに応じることなくただ義務的に俺の足をベッドに繋げた。

「っ、詩織……っ、はずして、これ……」
「駄目だよ。……ゆうき君、無茶するだろ」

 あくまでも優しく、どこか憐れむような色すらある阿佐美だがそのことについてだけは頑なだった。

「っ、詩織……」
「こんなことしたくないけど……ゆうき君がわかってくれるまで、このままでいてもらうから」
「詩織っ」
「……ごめん」

 謝るくらいなら、外してくれ。そう思うのに、届かない。手足を動かそうとしてもそれぞれ四肢をベッドに縫い付ける拘束具が邪魔でろくに起き上がることもできない。
 俺は、おかしくない。間違っていない。それなのに、なんでこんな扱い。悔しくて、悲しくて、ただ混乱する。腹部が焼けるように熱くなり、また傷口が疼いているのだとわかった。

「っ、ぃ、う……ッ」
「……鎮痛剤、すぐ貰ってくるね」
「ぃ……いらない……」
「……っ、ゆうき君……」
「…………」

 俺のこと心配してるのなら、なんでこんな真似。聞いたところで阿佐美ははぐらかしてくるはずだ、なにも、信用できない。阿佐美も、縁も、……みんな。俺が、俺の目で確かめないと。

「わかった。けど、無理はしないで。……何かあったら、すぐに呼んで」
「…………」

 それじゃあね、と阿佐美が病室から出ていく。
 また一人になってしまった。音が一気に遠くなる。阿佐美に悲しい顔なんてさせたくなかった。けれど、俺のことを信用してくれなかったのは阿佐美だ。胸の奥がズキズキと痛い。
 何度も拘束具が外れないか力任せに引っ張ろうとしたのだが、全て効果はない。そもそも腹部にろくに力が入らないのだ。こうされてしまえば、文字通り手も足も出ない。

「――……ッ」

 こんなところでゆっくりなんてできるわけがなかった。とにかく、何かここでもできることはないだろうか。そう視線を動かしたとき、ベッドの側、ナースコール用の無線機を見つけた。俺は限界まで手を動かし、ナースコールをした。

 それからすぐ、病室のスタッフはやってきた。
 拘束されていた俺を見てぎょっとしていたが、すぐに「どうしましたか?」と聞いてくるスタッフに俺は「お腹が痛いです」と訴え掛けた。
 今にも張り裂けそうだと、お願いだから拘束具を外してくれと。大袈裟なくらいのリアクションで訴え掛けた。本当は麻酔のお陰でほぼ痛みは薄らいでいるどころか感覚もない。けれど、スタッフは当惑するのだ。恐らく何か言われてるのだろう。

「あの、それは……」
「なんだ、死ぬほど便所行きてえのか?」

 その時だった。
 病院のスタッフは慌てて姿勢を正す。そして、開いた扉。それを潜るように入ってきたのは病院の白が恐ろしいほど似合わない男だった。

「ぁ……」
「こいつはなぁ、腹じゃなくてここが悪いんだ。……こいつは俺にしか見れねえよ。わかったらあんたはさっさと職務に戻れ」
「っ、は……はい……」

 いきなり現れたそいつが誰なのか知っているのか、怖気づいた様子のスタッフはそのまま病院から飛び出した。そして、入れ違うように入ってきたのは――。

「阿賀松、先輩……」
「っは、なんだ俺のことはわかんだな。……そりゃ結構、自己紹介の手間が省けたな」

 そう、喉で笑う目の前の男に俺はただ、言葉を飲んだ。ここに阿賀松が現れたことにより縁の言葉がどんどんと現実味を帯びていく。
 それがなによりも恐ろしかった。
 夢か、これも、さっきと同じ悪夢の延長線なのか。
 既に治っていたはずの舌の火傷が痺れるように痛む。ベッドから逃げようと思うのに体が動かない。拘束具の存在が余計忌々しかった。

「お腹、痛えんだってか?」
「っ、……だ、い……じょうぶです……」
「へえ?二箇所も刺されて大丈夫なあ?……そりゃ頑丈でなによりだ」

 なんでこの男がここに。今すぐにでもこの部屋から出ていきたいのに、拘束具が邪魔をする。
 かつり、かつりと近付いてくる阿賀松の影に心臓の音は大きくなっていくのだ。
 そして、ベッドのすぐ横。立ち止まったやつはベッドに縫い付けられた俺を見下ろしていた。

「相変わらず悪運だけは強いな。お前」

 少なくとも、この男は俺が生きてることを心の底から喜んでいるようには見えなかったし、聞こえなかった。
 縁の言うことが本当なら、この男は俺をここまで連れてきてくれたのだ。そして、入院させた。……命の恩人だ。そう思うと、だからこそ余計混乱した。なんで、俺を助けたのか。なんで。俺を生かすメリットがこの男にあるようには思えない。
 この男の企みはわかるはずがない。それでも、命拾いしたのも、こうして生き残ってしまったのも事実だ。助けてくれてありがとうございます、なんていうのもおかしなような気がして、何も言えなかった。ただ阿賀松から視線を外そうとするその態度が阿賀松の癪に触れたようだ。伸びてきた手に頬を掴まれ、無理矢理阿賀松の方を向かされる。下腹部に鈍い痛みが走り、俺は小さく喘ぐ。目の前には、いつもと変わらない品のない笑みを浮かべた阿賀松がそこにいたのだ。

「……っど、して……俺まで……」

 何か、言わないと。身が竦む。怖くて震えそうだった。それでもこのまま黙ってるのが怖くて思わず声を上げれば、阿賀松は「あ?」と片眉を釣り上げる。

「どうして……裕斗先輩と、俺を……助けてくれたんですか……っ」

 それは純粋な疑問だった。
 俺も、裕斗も、縁だって阿賀松にとっては現状味方とは言い難い。それでもここまで連れてきてくれて、こうして手術までしてくれた。
 俺には阿賀松の考えがわからなかった。この男が見返りもなく慈善活動のような真似をするとは到底思えないからだ。
 そんな俺の問い掛けに、阿賀松は不愉快そうに笑みを歪める。

「なあ、ユウキ君。お前何勘違いしてんだ?」

 顎の下、するりと伸びた指が皮膚に食い込む感触にたまらず首を捻ろうとするが、逃れられない。ベッドの上、覆い被さるようにこちらを覗き込む阿賀松は笑いながら続ける。

「お前を助けたんじゃねえよ。あのままあんな場所でくたばられちゃこっちの迷惑だったからだ」

 そう、阿賀松は断言した。
 学園内であんな刃傷沙汰を起こせば、警察沙汰は免れないだろう。そうなれば俺や裕斗、志摩だけの問題ではない。一生徒である前に学園側の人間である阿賀松も関わってるとなれば尚更。
 甘い言葉を期待していたわけではなかった。寧ろ、腑に落ちた。けれど、だとすれば。

「あいつらに何聞いたか知らねえが、勘違いしてるようだから教えてやる。お前は一度あの場で死んでんだよ。お前がテメェのケツも拭けねえせいでな、その尻拭いをされたんだ」

「お前を生かしてるのは俺だ」阿賀松の目は一ミリも笑っていない。吐く息も鼓動も聞こえるくらいの至近距離、全身は急激に寒くなっていく。
 阿賀松が何を言わんとしているのか、嫌でもわかった。勝手な真似をするな、そうやつは俺を脅しているのだ。
「返事」と、首筋を爪先でなぞられ、咄嗟に頷き返す。すぐに返事したのがよかったのか、やつの表情に笑みが戻る。

「ああ、そうだ。精々、奉仕できるくらいには怪我を治せよ。毎回ベッドを血で汚されても迷惑だからな」
「……ッ」
「次余計な騒ぎ起こしたら麻酔抜きで犯してやる」

 阿賀松はそれだけを言い残し、俺のベッドから離れる。そのままやつが部屋を出ていくのを見て、静まり返った部屋の中に俺の鼓動だけが煩く響いていた。まだ、阿賀松の手が這っているような感触が残っていた。首を締め上げられる。鼓膜に染み付いた呪詛は、いなくなったあともずっと俺の思考を蝕んでいくのだ。

 雁字搦めになっているようだった。
 儘ならぬ体がただ忌々しかった。俺がこうしている間にも何が起こってるかもしれない。けど、もし勝手な真似をすれば、と思うと体が冷たくなっていく。

 この病室に運ばれてからどれほどの時間が経ったのかもわからない。暫くおとなしくしていると拘束具も外されるようになる。
 相変わらず料理は運ばれてくるが、口から何かを入れることを体が拒んだ。こうしてる間にも裕斗の身が危ないと思うと、俺一人だけ食事をするなんてことができなくて、誰もいなくなったあと俺は全部吐いた。
 傷は塞がるが、体調が優れることはない。
 最初は阿賀松に目を付けられないために大人しくしていたが、次第にベッドの上から起き上がる気力すらなくなっていた。
 そんな不規則な入院生活が数日続いたときだ。
 扉が数回ノックされる。そして、静かに開いた扉に身が固くなる。視線を向ければ、そこには阿佐美がいた。

「……し、おり」
「ごめんね、暫くこれなくて」

「具合、どう?」そう、阿佐美は扉を閉めると、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
 阿佐美とこうして顔を合わせるのは久し振りだった。阿賀松から来てから以来、病院の人間が数人入れ替わりで俺の世話や検診をしてくれるくらいだった。だからか、久し振りにあった阿佐美に緊張していた体はほっと安堵した。
 瞬間、張り詰めていた糸が緩む。意図せず、目からは涙が溢れた。突然泣き出す俺に、阿佐美は狼狽えながらも「ゆうき君っ」と駆け寄ってくれた。そして、そっと肩を撫でられる。俺は、目の前の阿佐美の腕を掴んだ。 

「い、つになったらここから……出られるの……」
「……」
「帰りたい……っ、先輩に、会いたい……」
「……ゆうき君」

 限界だった。何もかも。自分がなぜここで生かされてるのかその意味すらわからなくなっていた。怖かった。なにもないこの部屋の中で生き永らえることがただ怖かった。こうしてる間にも、何かが起きている。悪いことが、きっと。そう思うと耐えられなかったのだ。長い前髪の下、僅かに覗くその目は確かに俺を哀れんでいた。

「そのためには、ゆうき君が早く元気にならないと……。ちゃんと休んで、ご飯も……食べなきゃ」

 手を握り返される。手首に触れる阿佐美の指はその太さを確認するように包み込むのだ。こそばゆさに体が震えた。

「また……痩せたね。目の下の隈も酷い」
「も、……もし、裕斗先輩がちゃんと食べれてないのに、俺だけ食べてると思ったら……無理だ、こんな……」
「……ゆうき君」

 一秒たりとも裕斗のことが頭から離れたことはなかった。何をしていても、目を閉じても、裕斗が現れる。齋藤、と赤く染まる唇で俺を呼ぶのだ。お前のせいで、こうなったと。攻めるように、俺を。

「――……大丈夫だよ」

 思考に飲まれそうになったとき、阿佐美にぎゅっと強く手を握りしめられた。力強い手に、最後、裕斗に告白されたときのことが過る。それも、一瞬。

「裕斗君は、大丈夫だから。元気だよ。……ご飯もたくさん食べてる」

 阿佐美の言葉の意味が一瞬わからなかった。
 思わず目の前の阿佐美を覗き込む俺に、阿佐美は微笑んだ。だから、大丈夫だよ。そう、俺を安心させるように強く、繰り返すのだ。
 そんなの、なんで。今まで、ずっと、だって。

「っ、う、そだ」
「本当だよ、裕斗君は元気だよ」
「じゃあなんでずっと教えてくれなかったんだ」
「……方人さんに知られると厄介だったから」
「っ、そんな……の……っ」

 そんなの、そんなの、あるのか。
 混乱する。だって、裕斗が無事で、元気だって。ずっと望んでいたけれど実際いきなりそんなことを言われても信じられるわけなかった。
 でも、本当なら。本当に、裕斗が無事でいてくれるなら。

「……良かった……っ」

 全身から力が抜けるようだった。元気でいてくれるなら、無事でいてくれるなら、よかった。
 安堵のあまり崩れ落ちそうになる俺の体を阿佐美は支えてくれる。

「だから、ゆうき君も早く元気になって……このままじゃまたすぐ体を壊してしまうよ」

 阿佐美の声に反応して、あんなに冷たかった体に熱が戻っていくようだった。声も出せなくて、頷く俺に阿佐美は「うん」と優しく微笑んだ。

「じゃあ俺、温かいご飯用意してもらってくるね」

 そう言って、阿佐美は俺から手を離し、病室をあとにした。一人残された俺は、暫くなにも考えられなかった。ただ、よかったと。そう繰り返すことしかできなかった。

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