天国か地獄


 09

 激痛が走る。何度も刺される。皮膚を突き破って体内へと侵入してくる硬く冷たい刃物の感触。全身から血が流れ出し、末端から全身へとじわじわと熱が抜け落ちる。
 初めてこんなに身近に死を感じた。
 声も出ない。指も動かない。倒れる裕斗の体から流れ出す血を止めることもできず、ただ眺めていた。

「言っただろ、最初から俺の言う通りにしときゃよかったんだって」

 どこからともなく響く声はよく知ったものだった。
 これは、夢か。俺は、死んだのか。裕斗は。

「あいつは死んだよ。馬鹿亮太が勝手に暴走したせいでな、あのカーペット馬鹿みてえに汚しやがって。人んちをなんだって思ってんだろうなぁ?でも、幸い目撃者はいねえ、馬鹿亮太に馬鹿裕斗、そんでお前だけだ」

 ……しんだ?
 誰がだ。……裕斗が?

「正確に言うなら、虫の息だったがどうせあの体じゃ手遅れだろうからな。楽にしてやったんだ。……本当、あいつは馬鹿で哀れなやつだよ。可愛がっていた後輩に殺されかけ、最後はテメェの弟に刺されるんだ」

 ――嘘、だ。

「嘘じゃねえよ。なら、自分の目で確かめるか?」

 見たくない。見たくない。認めたくない。
 顔を覆い、後退る。なのに、目から離れない。広がる赤い染みは止まらない。裕斗は動かない。裕斗先輩、裕斗先輩。一緒に病院行くって、夏休みどこか行こうって、言ったのに。裕斗先輩。違う。これは、夢だ。悪い夢。痛みも全部嘘で、目を覚ませば横で裕斗が眠っている。
 そう、夢なのだ。
 飛び起きようとして、腹部の激痛に思わず呻いた。全身は汗で濡れ、頬も濡れていることに気付く。目の前には見知らぬ天井が広がっていた。
 ……夢か。そう安堵するのもつかの間、腹部に違和感を覚える。まるで異物が入ってるような違和感。そして、痛み。
 違う、そんなはずない。そう、恐る恐る自分の体に目を向けた。着替えた覚えのないその服は、まるで病院の入院着だ。
 夢じゃ、ないとしたら。
 志摩に刺された記憶が過る。まだナイフを飲み込んでいるような痛みすらも蘇った。
 夢じゃなかった。俺は、確かに志摩に刺された。でも、生きてたのか?それともここは死後の世界か。
 じゃあ、だとしたら、裕斗は。

 痛みを堪え、起き上がろうとするが下半身に力が入らない。それでも、じっとしていられなかった。壁に手をつき、体重を預けるように壁伝いに俺はベッドを降りる。
 ここは、病室のようだ。けれど、窓も時計も何もない。あるのはただのベッドだけだ。足の感覚がない。下手すれば蹌踉めき、転んでしまいそうになる。痛い。一歩足を進めるだけで鈍痛が走り、脂汗が滲んだ。痛い。痛い。

「っ、ぐ……っ」

 あと一歩、もう一歩だけ、そうすれば出入り口らしき扉まで辿り着けるのだ。確かめろ。自分の目で。そう、半ば体を引き摺るように足を進めたとき、とうとう転倒してしまう。冷たい床の上、足が縺れ、転んでしまった俺は咄嗟に受け身を取ることができずにもろにその衝撃を受けてしまう。
 瞬間、腹部に裂けるような痛みと、熱が広がった。痛い。痛い。血が、出てるのか。わからない。けれど、じんじんと痺れるような痛みはに俺は声を上げることもできず、床の上に蹲った。そのときだ。

「っ、ゆうき君っ?!」

 扉が開き、誰かが部屋に入ってくる。聞こえてきたのは、酷く懐かしい声だった。けれど、目を開けることもできなかった。そのまま体を抱き起こされ、体を抱き抱えるその熱に、声に、目を開く。そして、息を飲んだ。

「し、おり……」

 これは、現実なのか。なんで、阿佐美がいるのだ。

「待ってて、すぐ人呼ぶから。……じっとしてるんだよ」
「っ、し、おり……っ」
「……大丈夫、大丈夫だから」

 安心させるように繰り返す阿佐美はベッドのそばについていた機械を操作する。瞬間、聞こえてくる知らない人間の声。痛みに気が遠くなる。全部、夢だったらよかったのに。夢で、全部。目を覚ましたら、全部嘘で。遠くなる。音も、景色も、自分自身も。
 二度目は夢は見なかった。
 瞬きをしていたかのようなほんの一瞬の出来事だった。 
 気付けば俺はベッドに再び寝かされていた。そして、ベッドの側には。

「……っ、ゆうき君、良かった……気付いたんだね」

 夢じゃなかった。
 阿佐美はそこにいた。目を覚ました俺を見て、僅かにほっとしたような顔をした。
 ……阿佐美。いつぶりだろうか。記憶が定かではない。久しぶりに見た阿佐美は何も変わっていない。唯一、首の怪我も治っているようだ。

「しおり」
「……うん、俺だよ。ゆうき君、寝たままで大丈夫だから。……ちゃんと聞こえてるよ」

 手を握り締める阿佐美の手、そこから流れ込んでくる熱に、目の前の阿佐美が裕斗と重なる。

「……っゆうと、先輩は……?」

 酷く喉が乾いていた。それでも、確かめずにはいられなかった。声を絞り出せば、俺の言葉は確かに阿佐美に届いていたらしい。阿佐美の口元から笑みが消えた。そして、俺の手を握り締めていた阿佐美の手のひらに僅かに力が籠もったのだ。

「…………」
「……っ、ゆ、うと……先輩は……」
「……ゆうき君……」

 なんで、何も答えてくれないんだ。
 なんで、そんな顔をするのだ。なんで、どうして。阿佐美がここにいる。その意味を考える。ここは病室で、俺は、怪我人で。全部夢じゃないとしたら、裕斗も。

「……っ、し、まは……」
「ゆうき君、ゆうき君はまだ起きたばかりで混乱してるんだ。とにかく今は、ゆっくり休んで怪我を治すことに専念して」
「っ、ゆうと先輩は……?詩織、なんで、何も言わないんだよ」
「ゆうき君」

 なんで、と口を開いたとき、阿佐美に抱き締められる。
 驚きも、恐怖もない。ただ、全身を包み込むような熱に息を飲む。

「……ゆうき君、ごめん」

 なんで、詩織が謝るんだ。
 なんで、そんな顔をするんだ。
 考えたくなかった。何も、阿佐美の言葉が、態度が意味するその先を。何も、考えたくなかった。信じたくなかった。指先から熱が失せていく。音が聞こえなくなっていく。包み込む阿佐美の体温だけが、本物だったのだ。
 何も考えたくなかった。それこそ、自分が何故生きてるのか意味がわからなかった。なんで、俺がここにいるのか。なんで。どうしてを繰り返す。何も出てこない。涙すら出ない。なにも。

「ゆうき君、とにかく今は自分の体を心配してほしい。まだ今は、俺の口からは何も言えないけど……ちゃんと、説明するから」
「……………………」
「……ゆうき君」

 何も頭に入ってこない。阿佐美の言葉も、まるで日本語のように聞こえないのだ。裕斗が、いない。裕斗が。俺のせいだ。俺が、志摩を追い詰めたから。
 俺の。

「また、後で会いに来るよ。ここにナースコールあるから、何かあったらすぐに押してね」
「……」
「じゃあ、また後でね」

 そう、阿佐美は立ち上がる。何も、かける言葉も見つからなかった。声が、出なかったのだ。喉に突っかかったまま、俺は阿佐美を見ることができなかった。まだ、悪い夢を見てるような気分だった。扉が閉まる。締め切られた四角い部屋の中。この部屋にはなにもない。なにも。こんな時に限って、なにもないのだ。

 裕斗が、死んだ?
 裕斗が?……本当に?全部阿佐美の嘘なんじゃないか。そうだ、まだ信じれない。だって俺は、この目で確かめていない。ベッドから立ち上がろうとするが、体が動かない。腕は動かせるが、先程の転倒で傷口が開いてしまったのか。麻酔が効いてるようで痛みは大分和らいだが、下半身の感覚すらもなかった。
 そうだ、まだ、阿佐美は何も言ってない。信じられない。だってそうだ。俺に刺されても元気だった裕斗がそんなに簡単に死ぬはずがない。……俺が生きてるのだ。そうだ。裕斗が死んでいるなら、俺だって死ねべきだろう。
 ……吐き気がする。頭痛と、目眩もだ。内側で何かが暴れ回ってるような気分の悪さだった。
 そうだ、まだ、可能性はある。諦めるな。そうだ。そう言い聞かせる。そうしなければ、だめだった。目を閉じれば広がる赤、そして鈍く光る血濡れた刃物。全身に浴びる生暖かな返り血の感触。噎せ返るほどの鉄の匂いが蘇り、堪らず俺は吐き出した。腹部が引き攣るように傷んだ。空っぽの胃からは何も出ない。嗚咽が溢れ、それでも何かを吐き出そうと内臓が痙攣する。気持ち悪い。気持ち悪い。胃液の酸味と苦味が広がり、余計吐き気は催されるのだ。
 シーツを汚した。それでも、ナースコールする気にはならなかった。あわよくばこのまま。そんなことを考えたとき、扉が開く音がした。涙すらも乾いた眼球を動かし、扉の方を向いた。そして、そこにいた人物の姿を見て息を飲む。

「どうした?酷い顔だな。なにか怖い夢でも見たのか?」

 裕斗だ。裕斗が、そこにいた。最後に見たときと変わらない裕斗が。そこに立っていた。歩み寄ってくる裕斗に、視界に色が戻ってくる。裕斗だ。やっぱり、阿佐美の嘘だったんだ。裕斗は生きてる。

「ゆ、……と……先輩……」

 そう、体を起こそうとしたとき。
 ベッドの側、椅子に腰をおろした裕斗は苦笑した。

「へえ、君には俺があいつに見えるの?そりゃ酷いなあ、齋藤君」

 瞬きをした瞬間だった、裕斗だと思ってたそれは縁だった。裕斗じゃ、ない。見間違い、幻覚。気のせい。わからない、もう、なにもわからない。愕然とする俺に、縁は憐れむような目をこちらに向けるのだ。

「齋藤君が大変なことになってるって聞いたから心配して来ちゃった。……本当、ずーっと目を覚まさないんだもん。思ったより酷い出血だったし死んだのかなって心配したけど、よかった。目は大分悪くなってるみたいだけど」
「ゅ、うと……せん、ぱい……は……」
「酷いなぁ、俺というものが居ながら他の男の心配ばかりするなんて」

「そんな意地悪するんだったら、教えないでおこうかな」そう、縁はいたずらっぽく笑う。顔の怪我は治ったのか、今は生傷すら見えない。あれからどれほど経ったというのか、俺にはわからない。

「っ、ぉ、教えてください……っ」

 思わず声を張り上げていた。痛みすらも忘れて、目の前の縁に手を伸ばす。本物だ。幻覚ではない、確かな感触と縁の体温。縋り付く俺を見下ろして、縁は微笑む。「さあどうしようか」と言うような、愉しそうな笑みを浮かべたまま縁はその足を組み直すのだ。

「それにしても、ホント亮太には呆れたよね。自制心もないなんてさ、おまけに通路のど真ん中でナイフ振り回すなんて正気じゃないだろ。前から頭おかしいやつだと思ってたけど今回は俺も参った参った」

 軽薄な言葉を並べる縁に、先程のことのようにあのときの残状が目に浮かんだ。

「俺がたまたま通りかかってなかったらあそこが殺人現場になるところだったんだからね」
「っ、なる、ところって……」
「そのままの意味だよ。それで、血の海の中倒れてる二人見つけて仕方無しに伊織にまで泣きつくことになったし。『頼むから助けてやってくれ』って、そんで、緊急病院に搬送して、手術して……ほら、自分の腹見てみなよ」

 そう、縁は俺の腹部に手を伸ばす。ゴムのように感覚が薄れたそこを縁に撫でられ、違和感しかなかったがそのまま大きく入院着をたくし上げられれば、包帯で覆われた腹部が顕になる。取り替えられたばかりなのか、真新しい包帯だ。そこに縁は指を這わせたのだ。恥骨の部分と、そして脇腹。

「ここ、亮太に刺された場所。本当、臓器を傷つけられなくてよかったね。少しでも発見遅れてたら死んでたよ、君」

 触れられてるはずなのに、自分の体じゃないみたいに感じてしまうのは視覚と感覚が噛み合ってないからだ。志摩のことを思い出し、胸が苦しくなった。それよりも、待て、縁の口振りからすると。裕斗は。

「裕斗君をあんなつまらない殺され方されたら許せないよね本当、亮太には罰受けてもらわないとな。二度と勝手な真似をしないようにね」

 裕斗は生きてるのか、と聞こうとして、息を飲んだ。
 なんの気なしに口走る縁の言葉に血の気が引いていく。
 押し黙る俺に気付いたのか、縁はぱっと微笑むのだ。

「ああ、大丈夫だよ、今回は君はただの被害者だ。悪いのはあの馬鹿兄弟だよ」

「裕斗君のことは心配しなくても大丈夫だよ。……こんなくだらないことで死なせるつもりなんてないから」裕斗が生きている、と聞いて安堵する暇もなかった。何一つ、変わっていない。それどころか、この状況を喜べない。
 縁がいる。阿佐美もいる。ということは。赤い髪の男の姿が過る。裕斗が、阿賀松たちといるというだけでそれは最悪ではないのか。

「っ、……」

 このままじゃまずい。直感する。早く、裕斗を見つけないと。縁になにかされるよりも先に。立ち上がろうとするが、腰が持ち上がらない。そんな俺を見て「おっと」と縁は俺を抱き留めた。

「駄目だよ、まだ君は安静期間なんだ。動かない方がいいよ」
「……っ、……!」

 咄嗟に、縁の手を払い除けた。乾いた音が響く。ほんの一瞬、縁の目が見開かれた。そして、「へえ」と縁の目は猫のように細められる。伸びてきた手に、今度は強い力で肩を掴まれた。

「ねえ齋藤君……自分の立場、分かってる?君は動けないんだ。俺がこのまま君をどうすることだって出来る」

 肩を撫でられ、するりと這い上がる指先は俺の濡れた口元を拭うように撫でるのだ。汚い、と思う頭もなかった。ただ、頭の中をずっと警報機が鳴りっぱなしだった。

「……っ、ど、して……こんな……」
「こんな?なにが?俺は君たちを助けたんだからもう少し感謝してもらいたいんだけどな……そんな風に言われると落ち込んじゃいそうだ」
「……っ、……」
「けど、本当君って子は最高だよ。だって、あの裕斗君を落としてくれるなんて。……ねえ、齋藤君。あの死に損ないの前で君を犯したら裕斗君どんな顔をすると思う?」

「もしかして自殺してくれるかな?」なんて、無邪気な子供のように好奇心で溢れた目で尋ねてくるのだ。縁のことは、根っからの善人だと思ったことはない。それでも、俺のことを助けてくれた。優しくしてくれた。面倒見てくれた。その恩は忘れない。けれどだ。ヘドが出そうだった。悪意だ。縁が裕斗について話すとき、俺にでも分かるほどの悪意で満ちていた。凍り付き、言葉を失う俺に気付いたようだ。縁は「ああ、ごめんね」と俺から手を離した。

「俺は君のことが好きだよ。嫌いだからこんなことしてるわけじゃないし、君が死ぬのはもちろん俺だって嫌だ。これは本当だ」

 嘘だ、とすぐにわかった。惑わされない。いくら言葉で装飾したところで、滲み出る嗜虐性までは隠せていない。先程零した言葉が本音なのだ。この男はなんとも思っていない。現に、やつは俺の傷口を撫でながら続ける。

「そういや、裕斗君の腹には今回亮太に刺されたときのものとは違う真新しい刺し傷があったみたいだね。そう、君の手首にある傷とよく似た切り口の大きな傷だ」

「もし裕斗君になにがあっても、最悪全部君に押し付けることもできるんだよ。男同士のカップル、痴情の縺れの果て相手を刺殺!なんてトップニュース飾れるんじゃないの?」笑っているのに、笑っていない。俺を見るその目は本気だ。俺が裕斗を刺したのは事実だ。本来そのつもりがなくても現に俺は裕斗を傷つけた。

「ゃ、め……て……っ下さい……」
「ん?」
「ゆ、裕斗先輩に……手を出さないで下さい……っ」

 お願いします、と頭を下げる。下半身が動かないため、土下座というには不格好だったが、それでも、こうする他なかった。
 そのときだった。

「方人さん……っ?!なんでここに……!」

 俺の様子を見に来たらしい阿佐美は、部屋の中にいる縁を見るなり驚いた。珍しく声を荒げる阿佐美に、縁は「あーあ、時間切れだね」と落胆の色を浮かべるのだ。

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