天国か地獄


 08

 他人に肯定される。それだけで、救われる。その反面で、頭の中では声が反芻する。『また裏切るのか』と、恨めしそうな会長が現れるのだ。

「志木村にも、俺の怪我のことは言うなよ」

 どうしてですか、とは言えなかった。俺は、ただ「はい」とだけ頷き返した。

「ああ、俺たち二人だけの秘密だ……ずっと」

 被害者も加害者もいなかった。
 こんなの間違っている。裕斗に甘えてるだけだ。俺の勝手な行動でこの人を傷付けた罰は受けなければならない。わかっていた。それでも、甘えてしまうのだ。俺は。裕斗の好意に。それでも裕斗は笑ってくれるから。
 二人だけの秘密という単語に、胸の奥が縛り付けられる。逃げ場などないのだ。こんな俺を受け入れてくれるのは裕斗しかいないから。

「病院には俺一人だけ行く、って言ったら……お前は怒るか?」
「……俺が、邪魔なのはわかってます……けど……」
「あー、違う。そうじゃない。……お前がいるのが邪魔とかじゃなくてだな……その……」
「……?」
「お前、気にするだろ。自分のせいだって」
「……それは……俺の、せいですから……その……」
「お前のせいじゃないって何百回言ってもお前のそれは変わらないんだろうな」

「ほら」と伸ばされた手。裕斗が何を求めてるのかわからず、恐る恐るその手の上にそっと手を重ねれば、ぎゅっと指を絡められ、そのまま抱き締められる。

「ゆ、うと先輩……っ」
「自分のせいだって考えないし、言わないなら……一緒に来てくれ。俺も、お前と一緒に居たい」
「……っ」

 酷なことを言う。俺に許しを乞うことも、懺悔することも許さないというのだ。

「……い、言いません……邪魔も、しないので……お願いします、連れて行ってください」

 本当に裕斗が病院に行ってくるか不安だった。もし誤魔化される可能性があるなら、自分の目で確かめたかった。

「そこまで頼まれたら断れねえよな、普通に考えて」
「先輩……」
「退屈だと思うぞ?」
「それでも……いいです、俺……」
「そうか、わかった」

「じゃ、準備しないとな」風呂沸かしてくる、と裕斗は俺の頭を撫で、そのまま離れていく。裕斗の後ろ姿を見てわかる。なるべく悟られないようにしてるが、左の脇腹に負荷がかからないように歩いているのが俺でも見て取れた。
 それなのに、俺には弱音を吐かない。痛いなんて言わない。風呂なんて俺に言ってくれれば準備するのに。遣る瀬無い、というよりもひたすらもどかしい。胸を掻き毟りたくなるほど感情が込み上げ、俺は、その場から動けなかった。
 好きだと、裕斗は言った。俺のことを、好きだって。
 俺には裕斗は理解できない。好きなものも、趣味も、なにもかも正反対で、だからかもしれない。裕斗は俺の嫌いなものを好きだというのだから。
 俺は、裕斗のことをどう思っているのか。自分でもわからない。けれど、最初の頃感じていた理解できないほどの恐怖はなかった。裕斗のことを知れば知るほど、不可解さは増すがそれでも、裕斗が恐ろしいほど真っ直ぐだというのもわかったし、そして案外甘えたなことも知った。
 けれど、どうしても俺は自分が裕斗の隣で笑ってる絵が想像できないのだ。裕斗と幸せになれる自分が想像できないのだ。こんなこと言ったら裕斗はどう思うのだろうか。
 俺の好きと、裕斗の言う好きが同じなのかもわからない。けれど明らかなのは唯一、会長に対するそれと、裕斗に対するそれは明らかに違うのだ。

「……齋藤?そんなところで蹲ってて どうした?」
「……」
「もうすぐ風呂入れるぞ」

「待ってろ」と、戻ってきた裕斗は笑いかけてくれる。
 俺は、最低だ。裕斗と会長を天秤に掛けては自己嫌悪に陥る。裕斗にはきっと見透かされてるのだろう。この汚い胸の内側も。だから、裕斗は俺に「好き」という言葉を求めない。俺は、裕斗にしてもらってばかりだ。何一つ恩を返すどころか、仇で返そうとした。

「……齋藤?」
「…………」
「どうした、腹でも痛いのか。……あ、腹減ったのか?」

「齋藤?」と、俺に視線を合わせるように座り込む裕斗。

「……先輩」
「ん?」
「……っ」

 覗き込んでくる裕斗の腕を掴み、その無防備な唇に自分の唇を押し当てる。ちゅ、と触れるだけのキス。驚いたように丸くなる目だったが、ぎこちなく舌を入れようとする俺に気付いた瞬間細められる。そして、大きく開いた口は俺の舌を絡め取るのだ。

「っ、ん……ふ……ッ」

 ぢゅ、ちゅぽ、と濡れた音が響く。熱い舌に、掻き回される。甘さを孕みつつも、激しく舌を絡められればあっという間に全身へと熱が広がるのだ。そして、濡れた音を立て裕斗は唇を離した。

「っ……齋藤、いいのか?」

 寧ろ、それはこちらのセリフだ。裕斗は、万全ではない。寧ろ手も体も痛いはずだ。わかっていた。それでも、自分を止められない。グチャグチャにしてほしかった。なにもかも。余計なことを考えずに済むように抱いてもらいたかった。無茶だとわかってても、己を抑えきれなかったのだ。こくりと頷き返せば、音が遠くなる。暗転する視界。再度唇を重ねる。今度は、離れることはなかった。
 優しくなんてする必要はない。乱暴に、雑に、道具のように抱かれたかった。裕斗が俺のことを好きだって思えなくなるくらいの醜態を晒せれば本望なのに、裕斗は俺を宝物みたいに触れるのだ。裕斗に優しくされればされるほど余計自分の醜さが浮き彫りになっていく。そんな俺ごと受け入れてくれる裕斗の優しさが今はただ針のように突き刺さった。

 それから、裕斗と俺は風呂に入る。
 本当は浴槽が怖かった。また赤く染まるのではないかと。けれど、裕斗がいてくれたから、平気だった。
 汚れた体を洗い流してくれる裕斗。裕斗は「傷口にお湯かからなければ平気だろ」と笑って、俺の髪を洗い流してくれるのだ。裕斗の傷は塞がりかけていた。それでも、痛々しさが開いたそこを見る度に俯く俺に、裕斗は「えい」っとお湯をかけてくるのだ。

「わ……っな、なに……」
「齋藤、またネガティブなこと考えてんだろ。約束、忘れたわけじゃないだろうな?」
「……考えて、ません」
「そーか、偉いな。偉いぞ、齋藤」
「……」

 よしよし、と体に残っていた泡をシャワーを流す裕斗に俺はされるがままになっていた。暖かい。心も、芯から温められるように満たされていくのだ。
 大の男二人で入る浴槽は狭かったけれど、それでも窮屈には感じなかった。心の隙間を埋めるように入り込んでくる裕斗という男が恐ろしくもあり、同時に裕斗がいなければ俺はどうなっていたのだろうかと不安になる。
 悪い癖だ。……心の拠り所を作ることの愚かしさを身を持って知ってるというのに、俺はまた同じことを繰り返そうとしている。
 ……裕斗に嫌われてもおかしくないのだ。自惚れるな。甘えるな。そう言い聞かせるが、頭とは裏腹に心が言うことを聞かないのだ。どんどん、惹かれていく。裕斗に甘えてしまう。よくない兆候だ。わかっていても、離れられない。今の俺には裕斗しかいないのだ。

 ◆ ◆ ◆

 あまり長風呂して逆上せるわけにもいかない。風呂を上がって、髪を乾かし、裕斗から借りた服を着替える。「まだ髪濡れてるだろ、こっちこい」という裕斗に捕まって、髪をまた乾かされる。
 病院へはタクシーを使うことになった。裕斗のかかりつけの外科へと向かう前に軽く食事でもするかと話しながら俺たちは部屋を出た。
 そして、扉の前に立っていた影に気付いたときには遅かった。

「……なんで、齋藤がこいつの部屋から出てくるの?」

 聞き覚えのある、声。
 聞き慣れた、声。

「なんで、そいつの服着てるの?」
「……っ、し、ま」
「なんで二人とも風呂上がりなの?」
「……っ」
「なんで、そいつと手を繋いでるの?」

「……ねえ、どうして?」齋藤、と、吐き出すその志摩亮太の声に、俺は何も答えることができなかった。
 最悪のタイミング、最悪の状況。なんで、ここに志摩がいるのか。おかしなことではない。裕斗と志摩は兄弟だ。それでも、俺は今ほど自分の警戒心のなさを恨んだことはなかった。

「志摩……っ」

 落ち着け、落ち着け。落ち着け。
 咄嗟に裕斗の手を振り払おうとしたとき、裕斗は俺の手を話すどころか更に強く握り締めるのだ。
「先輩」と顔を上げれば、ただ目の前の志摩に動揺することもなく真っ直ぐに見据え返す。

「俺の部屋に泊まったから服貸して風呂も入らせただけだ。それがどうかしたのか?」
「……いや、どうしかしたのか?じゃないでしょ。何、してんの?おかしいでしょ、なに……やってんだよ、一晩中、なあ、部屋で何してたんだよ」

 ずっと、待ち伏せしていたのか。裕斗を?なんで。
 必死に感情を抑えているようだったが、その言葉には苛つきが滲み出てる。志摩は、俺のことを快く思っていない。そのことも火種となっているだろう。

「用あったんじゃないのか、俺に」
「あったよ、大事な用が。あんたが携帯も見ずに齋藤と愉しんでる間、色々ね」

 吐き出すような言葉の羅列。平静、ではない。様子がおかしい。志摩が何かを取り出そうとした動作を見て、嫌な予感が過った。

「……っ、待って、裕斗先輩……っ!」

 それが何か確認することもできなかった。ただの直感だ。けれど、最悪なことに俺の悪い予感はよく当たるのだ。
 ままに裕斗の前に出た。裕斗を止めようとした瞬間だった。固く、鋭いなにかがが腹部、脇腹に突き刺さる。痛みを痛みだと認識する暇もなかった。熱が、滲む。ああ、と思った。まさに因果応報。

「……っ」
「……齋藤?」

 先輩、と裕斗の体を志摩から引き離そうとするが、力が入らない。裕斗からせっかく借りた服が、血で汚れる。皮膚を突き破るそれは、引き抜かれる。瞬間、傷からは更に血が溢れだすのがわかった。蹌踉めく俺を抱き留め、その拍子に俺の腹部を汚す血に気付いたらしい。裕斗は、自分の手のひらを見て目の色を変えた。

「……本当、馬鹿じゃん。信じられない。……なんでそいつのこと庇ったわけ?そんなに、それのことが大事なの?」

 引き抜かれたナイフ、その赤く汚れた持ち手を握り直した志摩は再度俺を刺した。逃げる体を掴まえられ、更にナイフで刺されそうになったとき、「亮太ッ!」と声を荒げた裕斗はナイフを掴む志摩の手を掴み、止める。

「……気持ち悪、本当気持ち悪い。何、そいつのこと何も知らないくせに自分の物みたいな顔してるの?ヒーロー気取り?なにそれ、ばっかみたい、本当、馬鹿じゃん。自惚れてんのすごい恥ずかしいよ、齋藤はお前のことなんて好きじゃないのにさ」

 血が、止まらない。どくどくと時限爆弾かなにかみたいに加速していく心臓の音。吐き気。傷口は焼けるように熱いのに、寒い。腹部から下腹部、そして足元まで落ちていく血の流れを止めることができない。止めないと、誰か。そう思うのに、声が出ない。少しでも力を入れるだけで、意識が飛びそうになる。
 これは、罰だ。志摩の声が、言葉が遠い。志摩の笑顔が歪む。それは、全部、お前が言われたことじゃないのか。縁に。

「ねえ齋藤、兄貴とのセックスは気持ちよかった?」

 瞬間、裕斗は思いっきり志摩を殴った。酷い音がした。反動で壁にぶつかった志摩。その手から、赤く濡れたナイフが転がり落ちる。裕斗は志摩を放り、そして、俺の方へと駆け寄るのだ。

「クソ、齋藤っ、死ぬなよ、お前は絶対……」

 痛みを痛みだと感じる器官は既に麻痺していた。全身を駆け巡る熱は腹部に集中し、そして逃げていく。どくどくと脈打つ傷口が熱い。息を吐けば吐くだけ酸素も体中の熱も失われてるようだった。それでも、裕斗に抱き締められるだけでほっとした。

「ゅ……うと、先輩……」

 指先の感覚も薄れていく。怖い。怖い。死にたくない。俺は、と裕斗の体に手を伸ばしたそのとき、裕斗の背後で揺れる影を見た。落ちたナイフを手にした志摩がそこには立っていた。そして。
「あ」と思った瞬間は遅かった。
 跳ねる裕斗の体。腹部に広がる赤。駄目だ。駄目だ。それだけは、駄目だ。裕斗、裕斗先輩。声を出そうとするのに、言葉にならない。音が遠くなる。齋藤、と確かに裕斗の唇が動いたのを最後に、俺は、意識を手放した。

 home 
bookmark
←back