天国か地獄


 07

 病院に行かないと裕斗は言った。
 これくらい大丈夫だろうと。なんとかなるだろうと。
 何故、頑なに裕斗が病院に行きたがらないのかは理由はわかっていた。俺のせいだ。裕斗は俺のせいではない、事故だと言ったが周りの人間がそれを信じるかどうかはまた別の話だ。

 今度はろくに眠れなかった。目を瞑れば裕斗の腹部に広がる血が蘇る。裕斗の苦しそうな声が、心臓の音が、呻き声が、生々しくより鮮明に目の前に現れるのだ。そして、栫井と重なる。バスタブに溜まった血の海に浮かぶ裕斗が映し出されては俺は飛び起きた。
 どれほど経ったのかもわからない。裕斗は、いた。
 俺の隣で眠っていた。恐る恐る裕斗に触れる。熱は、ある。血も止まったようだ。俺は、部屋の中の残状、そして自分たちの有様を見てぎょっとする。
 あまりの疲労感に部屋を片付ける気力もなかったが、流石にこのままにしておくわけには行かない。
 ……そう自分に言い聞かせるように口にし、起き上がる。裕斗はぴくりと反応した。

「……齋藤」

 手探りに伸びてきた裕斗の手を握りしめる。固く、冷たい手。はい、と小さく返せば、裕斗はゆっくりと目を覚ますのだ。

「具合は、どうだ」
「俺は……大丈夫です。それより、先輩は……」
「ああ、問題ない。大丈夫だ……ってて」
「……っ、先輩……っ!まだ動かない方が……」
「大丈夫だって言っただろ。……筋肉痛みたいなもんだから」

 そう、顔を歪めて笑う裕斗はそのまま立ち上がろうとするのだ。流石に心配になって、慌てて俺は裕斗の体を支える。

「先輩……どこに……」
「少し、水が飲みたい。……喉が渇いてな」
「俺、用意してきます。……だから、座ってて下さい」

 流石に、自分の体のことくらいはわかってるようだ。
 不服そうだったが、それでも裕斗は素直に「悪いな」と再びソファーに腰を下ろすのだ。
 裕斗が強がってることなどわかっていたことだ。
 刺されて、痛みなどない人間などいない。いくら致命傷にならずともだ。俺は手を洗って、それから裕斗の飲み物を用意する。冷蔵庫の中に入ってるミネラルウォーターをボトルごと裕斗のもとへと持っていけば、裕斗は「ありがとう」とそれを受け取った。
 左手でぎこちなく受け取る裕斗。裕斗の右手、そこには巻いた包帯越しに滲む血が見えた。ナイフの刃をまともに握り締めた手のひらのが無事なはずはないだろう。傷を見るだけで息が苦しくなる。

「……手……」
「手?……ああ、これか。大丈夫だ、ほら、ちゃんと指が動いてるだろう?」

 そう、俺の目の前でぐーぱーして動かしてみせる裕斗は笑った。俺は、堪らず裕斗の腕を掴んで止めた。

「っ、……や、めて下さい……ッ」
「齋藤……?」
「き、傷が……開いたら……っ」

 血が、また。冷たくなっていく裕斗の指先を思い出し、俺は、裕斗の腕にしがみついた。怖かった。大丈夫だと笑ってても、本当に大丈夫な人間なんていない。いくら裕斗が強い人間だとしてもだ、少し血がたくさん出ただけで人は死ぬ。
 裕斗の目が伏せられる。そして、裕斗は俺を抱き締めた。血の匂い。そして、熱い肌。

「……悪かった」

 裕斗の口から出てきたそれは謝罪だ。
 手にしていたボトルをテーブルに置き、そして空いた左手で俺を抱き締める裕斗。

「お前は、本当に泣き虫だな」
「……っ、ご、めんなさい……俺の、せいで」
「お前のせいじゃない。俺が、お前の気持ちを理解してやれないからだ」

 そうじゃないのだ。そうじゃない。首を横に振るが、裕斗はただ笑っていた。

「お前だって痛いのに、俺の心配ばかりしてるもんな」

 するりと指先で手首の傷の付近を撫でられる。俺の傷など、大したことではない。ちょっとした切り傷だ。そんなの、一目瞭然なのに。

「なあ、齋藤」

 俺を抱きしめたまま、裕斗は俺の名前を呼ぶ。静かな、それでも迷いのない声。

「齋藤、俺は、きっとお前が想像してるよりもずっと、お前のことが放っておけない」
「……、……」
「お前が死ぬかもって思ったら、頭真っ白になって、正直、肝が冷えた」

 ごめんなさい、と口にしようとして、「謝らなくていい」と裕斗に遮られる。優しい手で、頬を撫でられた。いつの間にかに濡れていた頬を裕斗は拭っていくのだ。
 静まり返った早朝の微睡んだ空気に、心臓の音が溶け込んでいく。

「……齋藤、お前はこの学園から離れた方がいい」

 どういう意味か、裕斗が言わんとしていることがわからなかった。ただ、俺は裕斗を見ていた。憐れむような、悲しそうな目をした裕斗がそこにいた。

「少し、休め。誰もいないところで、ゆっくり、帰った方がいい。夏季休暇だ、実家へ帰るなりしたらどうだ」
「……っ……」

 遠回しに、俺といることを避けてるのではないか。そう聞こえた。それはそうだ。自殺未遂をして、挙げ句の果に裕斗まで傷つける最悪の結果だ。俺からしてみれば俺みたいなやつとまだこうして居てくれるだけでも奇跡に等しいというのに。それでも、やはり面と面向かって言われるのとでは違う。

「お、おい……齋藤?なんでまた泣くんだ?」
「……っ、おれ、部屋に戻ります」
「どうしたんだよ、おい、待てって」
「先輩にも、もう会いません……だから、俺のことは……っ」
「待てって言ってるだろ!」

 強い力で腕を引かれ、力づくで裕斗の腕の中へと捕まる。熱い体温、すぐ顔のそばにある裕斗の胸からはとくんとくんと心臓の音が聞こえた。

「……最後まで人の話を聞け。お前の悪いところだぞ」

 子供をあやすみたいに裕斗は俺の頭を撫でながらそう続ける。グラグラと揺れる。気持ちも、なにもかも。裕斗の手が心地良い。裕斗は不思議だ。なにもかも、俺の嫌なところも全部包み込んでくれるのだ。その優しさが今はありがたくもあり、恐ろしかった。目を伏せたまま裕斗は息をついた。そして。

「俺とこの学園を出ないか。齋藤」

「休みだけでいい、お前余計なこと考えずに済むような場所を探そう」そう差し出された手は、俺にとって救いなのか、否か判断することもできなかった。
 考えたこともなかった。渦中であるこの学園を離れる。
 そうなれば必然的に芳川会長と離れてしまう。けれど、会長は俺に会いたくないと言っていた。
 裕斗と、二人で。

「……お、れは……」
「あーっと……ストップ。そんなすぐに答えは出さなくていい。……ゆっくり考えろ。俺は本気だ。お前には元気になってもらいたいと思ってる」

 触れている方とは逆の頬にキスをされた。その感触にすら驚いて固まる俺に、裕斗はじっと俺を見据える。

「……俺と来い、齋藤」

 あまりにもそれは突然で、俺にとっては考えてもなかったことだった。裕斗と夏休みを過ごす。この学園を離れて。裕斗と。
 ……裕斗と。

「……お、俺は……その……」
「……いきなりだしな、つか俺も、さっき思いついたことだからなんも準備してねえし。でも、お前がその気なら俺がどこへでも連れてってやるよ」

「行きたいところくらい、あるだろ?」なんて、裕斗は俺の頬を撫でてくれるのだ。行きたい、ところ。考えたこともなかった。最初は、ここにきたばかりのときは考えたいたはずなのに。友達と、遊びに行きたかった。特別な場所でなくてもいい、ただ町中を歩くだけでもいい。そんな時間を過ごしたかった。
 けれど、ここ最近はただ何事もなく過ごすことを望むばかりで。そんなこと、俺が考えてはいけないと。皆が大変なときに、逃げるなんて。俺だけが楽なんて、そんなこと。

「……だ……めです、俺は……行けません……それに、裕斗先輩の怪我も……っ」

 そんな怪我人である裕斗に頼るなんて以ての外だ。その手を振り払おうと、やんわりと押し返したとき。「齋藤」と手を握られた。

「……お前は自分のことだけを考えろ。他の奴らなんて考える必要ないんだ」
「……っ」
「お前が今一番欲しいものはなんだ?」
「ぉ、俺が……ほしい、もの……」

 その言葉に、芳川会長が浮かんだ。いつの日かの、一緒にケーキを食べに行ったときの穏やかな芳川。一瞬、ほんの一瞬だった。俺は。俺がほしいものは。

「……っもう……無理です」
「なんでだ?」
「俺が、俺が……俺のせいで、もう、戻らなくなって……」
「……」

 息をする度に肺に溜まる空気が苦しくて、怖くて、何も考えられなかった。呻く俺に、裕斗は「そうか」と静かに続けた。そして。

「じゃあ、新しくまたほしいものを見つければいい」

 裕斗は、簡単に俺が越えられなかった壁を壊してこようとするのだ。

「齋藤、お前は優しすぎるんだ。もっと欲張りになっても誰も文句言わないさ」
「……っ」
「俺は、お前が笑ってる顔が見たい」

「幸せそうにしてるお前が見たいんだ」頬を撫でていた指先に力が籠もる。俺は、何も答えることができなかった。それでも、裕斗が嘘を吐いてないことは肌で感じた。
 裕斗は、自分の欲に素直だ。きっと、裕斗はほしいものをなんでも手に入れてきたからそんなことが言えるのだろう。俺からしてみれば、理解ができない。それでも、そんな裕斗のことがただ眩しくて、暖かくて、言葉も出なかった。
 裕斗に抱き締められる。背中を擦られ、ぽんぽん、と優しく叩かれるのだ。

「なあ、齋藤。山と海はどっちが好きだ?」
「……静かなところならどこでも、好きです」
「そうか、お前らしいな」
「……」
「なあ齋藤、俺は本気だ。……お前さえ良ければ、このまま連れていきたいくらいだ」
「……むり、です……そんなことしたら……先輩の傷も……」
「ああ、そういうと思ったよ。けど、考えといてくれよ。そんで、俺を呼んでくれ。……ときには距離を置くのも立派な自己防衛だ」

「必要なことなんだよ」と、背中を撫でる手のひらが心地よくて、次第に波立っていた心も落ち着いていく。
 なんでそこまでしてくれるのか。俺にそんな価値あるとは思えない。それでも、裕斗の言う通りにできたらどれほど幸せだろうか。そんな風に思えてしまう自分も居た。
 裕斗と学園を離れる。夏季休暇の間、距離を置く。
 芳川会長は、きっと俺のことなんて気にしないはずだ。俺がいようがいまいが、もしかしたらいなくて清々すると思ってるかもしれない。裕斗も学園にいなければ、芳川会長を必要以上に責め立てる人間もいない。
 ただ、阿賀松の動向が怖かった。けれど、俺が余計なことすれば芳川会長は怒るだろう。そうなると俺にできることなんて限られていた。

「裕斗先輩」

「……連れて行ってください、俺を」どこでもいい。どこでも良かった。全部忘れられて投げ出して逃げられるのなら、なんでも。今の俺にはなにもない。俺が傷付けたこの人だけだ。
 裕斗はただ微笑んだ。そして、返事の代わりに俺を強く抱き締めたのだ。

「どこか行きたい場所はないのか?」
「……病院」
「え?」
「裕斗先輩の、傷を見てもらわないと……」

 そういうと、裕斗は吹き出して笑う。そして、「イテテ」と肩を揺らしながらも腹部を抑える裕斗に「せ、先輩っ」と慌てて止めようとしたとき、抱き締められた。バランスを崩し、裕斗の上に落ちてしまう。傷に負担がかかる。そう思って慌てて離れようとしても、離れない。

「せ、んぱ……」

 先輩、駄目です。傷口が開きます。そう言おうと開いたら口を塞がれた。ちゅ、と音を立て、唇はすぐに離れる。呆けて目の前の裕斗を見てると、また唇が触れた。先程よりも長い間、唇を重ねられる。確かめるように、触れるように、何度も、裕斗は俺にキスをするのだ。俺は、それに答えることも躊躇われた。それでも、優しいキスに心臓がとくんとくんと反応する。唇が離れ、残った熱の余韻に浸る俺に、裕斗は額を押し当ててくる。熱が、混ざる。暖かい。

「好きだ」

 その言葉は、息を吐くように喉奥から絞り出された。
 笑みのない、真剣な目。焦燥した、掠れた声。聞き間違いだったらどれほどよかったか。

「お前が、知憲のことが好きだって知ってる。けど、そんなの……どうでもいい。俺は、お前には幸せになってほしい」
「……っ、……」
「……それだけは、知っててくれ。齋藤、お前は一人だけじゃないんだって」

 この人は、やっぱり卑怯だ。卑怯だ。俺の気持ちなんてわかってるくせに、俺がどんなに酷いことしてきたのか知ってるくせに、それなのに、こうして俺を苦しめようとするのだ。そんなことを言われたら、俺は、俺は。
 どれだけ体重ねても、言わなかった言葉を、なんで今。

「……お前は、本当に泣き虫だな」
「っ、先輩の……せいです……」
「そりゃ、悪かったな。どうしたら泣き止む?」
「……このまま」

「このまま、もう少しだけ」お願いします、という言葉は口にできなかった。視界が陰る。唇に触れる熱が、今はただ癒やしだった。触れ合うだけで苦しかったのに、怖かったのに。今はただ、ずっと抱き締めてもらいたかった。全部、裕斗のせいだ。俺に欲を覚えさせた裕斗の、せいだ。
 こんな感情知りたくなかった。

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