天国か地獄


 06

 裕斗の部屋に通され、裕斗が用意してくれたホットミルクに口を付ける。熱すぎず、かといってぬるすぎない。丁度いい温度のそれは喉を通り、体の内側から俺を温めてくれるのだ。ソファーに腰をかける俺の隣、裕斗はゆっくりと腰を落とした。
「落ち着いたか?」と、優しく声を掛けられれば、あれほど波立っていて心が落ち着いていくのがわかった。そして、裕斗にみっともないところを見せてしまったことが恥ずかしくなる。

「……ご、めんなさい……ぉ、俺……俺のせいで、先輩にまた、迷惑を……」
「おい、なんの話だ?俺は迷惑なんてかけられてねえよ」

 そんなわけがない。風紀に連れて行かれたこともだ、元はといえば全部俺のせいだ。それに、疲れているところにまたこうして俺を部屋に招いてその上持て成してくれるなんて、裕斗からしてみれば元凶である俺にだ。「でも」と口を開けば、裕斗に手を握られる。

「俺が大丈夫って言ってんだから大丈夫だ。それよりも、何があったかちゃんと説明しろ」
「っ……ほ……本当に、なんでも……」
「知憲か」

 裕斗の口から飛び出した名前にぎくりと体が震える。
 それは裕斗にも伝わったのだろう。僅かに、裕斗の表情が険しくなるのだ。

「お前が庇おうとするやつなんて一人しかいないよな」
「会長は、何も……これは本当にっ、なにもないんです、俺が全部悪くて……っ!」

 咄嗟に、裕斗から手を離そうとするが、逃げられなかった。
「齋藤」と名前を呼ばれる。骨太な指先は俺の指を絡み取って離れない。体が、熱くなる。恐怖、焦り、色んなもので頭がパンクしそうだった。凍りつく俺に、裕斗はただじっと俺の目を覗き込むのだ。

「言ったよな、俺に隠し事するなって」
「っ、ぉ……俺は……」
「この包帯なんだよ、これ。昨日まではこんなのなかったよな」

 指先が、袖口の下、隠していた手首の包帯を撫でる。治りかけていたそこを包帯越しに触れられ、ぴくりと体が震えた。……裕斗の目は誤魔化せない。滲む赤に、裕斗も気付いているはずだ。そこの傷が何を意味しているのか。

「……っ、そ、の……」

 違う、転んで出来た傷だ。そう言いたいのに、裕斗は俺の言葉も待たずに包帯を外した。そして、その下。
 現れた、塞がりかけていた一本の切り傷に裕斗の目の色が変わった。

「……自分でやったのか?」

 一見穏やかだが、裕斗が怒っているというのはすぐにわかった。何に対してかは、わからない。けど、間違いなくその目は俺を見ていた。

「それとも、知憲にやらされたのか」
「っ、違います……っ!」

「本当に違うんです……会長は、助けてくれて」このことについて裕斗に勘違いされるのは最悪だ。これ以上、芳川会長を貶めるようなことはしたくない。そう思えば思うほど焦り、頭が思うように動かない。
 そんな俺を前に裕斗は態度を崩さない。それどころか、こちらを見るその目は細められる。

「――栫井平佑か」

 背筋に冷たいものが走った。
 一瞬、言葉を忘れて凍りつく俺に、裕斗は「まじかよ」と吐き捨てた。落胆した、苛ついたようなその表情に、俺は理解する。栫井の名前が出るということは裕斗も知ってるはずだ、栫井が昨日何をしたのか。そして、もしそうなると必然的に裕斗の疑いが芳川会長に向けられてしまう。
 ――それだけはなんとしてでも避けなければならない。

「っ、会長は何も悪くありません……ッ!」
「齋藤……」
「お、俺が、死ねって言われて、死のうとしたとき、会長が助けてくれて……それで、本当に栫井のことは……なんも関係ないんです……っ」

「会長のこと、そっとしておいてください、お願いですから、これ以上……会長を……」震えが止まらない。自分が何を言ってるかわからなかった。裕斗の顔が引きつっていた。成り振り構っていられなかったのだ。懇願する俺に、裕斗はただ呆れていた。

「お前、本気で言ってるのか。それが本当なら自殺教唆は犯罪だぞ」
「っ……栫井のことは、もういいんです。終わったことなので、もう……」

 頼むからこれ以上、掻き回さないでくれ。
 会長を、困らせないでくれ。そう思うのに。

「まさか……あいつが、栫井平佑が自殺計ったのは知憲のせいか?」

 雁字搦めになっていく。汚泥に取られた足はただ沈む。

「……っ、違います!栫井は、一人で死のうとしたんです、会長は関係ありません……本当に……ッ」
「お前、自分でめちゃくちゃなこと言ってるってわかってるのか?」

 わかってる。自分でも聞くに耐えないとわかってる。でも、それしかないのだ。頭が回らない。会長のこととなると、何も考えられなくなるのだ。

「本当に、もういいんです。俺は、もう……」

 会長にも嫌われた。
 だとしたら、せめてもうこれ以上会長を苦しめたくない。

「……裕斗先輩、違う話、してください。もっと、楽しい……」
「齋藤、これは大事なことだ。もし俺が考えてることが本当だったらそれはお前たちだけの話で済まないぞ。……あいつはお前のために人を殺そうとしたんだ」
「っ、違います!そんなこと、有り得ません……ぜ、全部……裕斗先輩の妄想です、でたらめです、俺は、死にたかった。だから死のうとして……っ会長は、俺のことを……」

 嫌いなんです。俺のことなんて。邪魔だと思っているんです。
 支離滅裂。言葉が繋がらない。様々な感情が込み上げてはぐちゃぐちゃになって、息が苦しくなる。どうすれば裕斗に信じてもらえるか。また抱き込もうとしても、裕斗は俺を信じないだろう。ならば。 

「……っ」
「っ、おい、齋藤……!」

 裕斗の手を離し、簡易キッチンに走る。そして、見つけた。裕斗が果物を切っていたナイフ。それを手にした瞬間、追ってきた裕斗は目を見張った。

「っ、齋藤、やめろ!」

 聞いたことないほどの怒鳴り声だった。ビリビリと鼓膜が揺れる。目が痛い。顔面も、心臓も。苦しい。震える指先でナイフの柄を握りしめた。その鋭い先端を剥き出しになった手首に押し当てる。痛みはない。恐怖も、ない。興奮していた。どうすればいいのか、どうすれば信じてもらえるのかただそれだけしか考えられなかったのだ。

「こ……これなら信じてくれますか?おれ、ぉ、俺が……死のうとしてたって」
「……っ、お前、自分がなにしてんのかわかってんのか?」
「俺は……っ、死ねます、ちゃんと……今度こそ……」

 奥歯を噛み締める。刃が皮膚に埋まる。これを、このまま横に引けばいいだけだ。栫井の血で染まる浴槽が頭を過った。噛み締めた奥歯、その奥から呼吸が漏れる。一瞬だ、痛いのは。俺だって、できる。会長のためなら。
 そう、拳に力を入れたとき。

「ッ、やめろ!」

 一瞬、何が起きたのかわからなかった。
 構えていた痛みはなかった。手首には薄い傷ができただけで、俺の握っていたナイフは。

「……っ、……ッ」
「……お前の言うことは信じる、信じるから、頼むから落ち着いてくれ」
「っ、せ……んぱい……」
「俺が悪かった。だから……」

 俺の腕を掴むように抱き締めた裕斗は、呻くように言葉を吐き出すのだ。

「頼むから、二度とこんな馬鹿な真似しないでくれ」

 ナイフの刃を握り締めた裕斗の手からぽたりぽたりと赤い血が滴り落ちる。その先端、裕斗の腹部にじわりと広がる赤いシミに、俺は、言葉を発することも出来なかった。
 目の前が眩む。血の気が引いていく。
 手のひらに残ったその感触に、広がる赤に、鉄の匂いに、頭の中が真っ白になった。 

「っ、ぁ……あ……ッ」

 からんからんと音を立てて落ちるナイフの先端は赤黒く濡れていた。言葉が出ない。体が震え、冷たくなっていく。そんな俺を、裕斗は強く抱き締め、「大丈夫だ」と繰り返す。

「……大丈夫だ、齋藤。これは、事故だ」

「お前は悪くない」と、耳元、繰り返される言葉に、何も考えられなかった。病院、警察、どっちだ。繰り返す。けれど、裕斗は俺から手を離さない。

「っ、せ、んぱい、血が」
「……大丈夫だから、心配するな」
「びょ、病院、に、早く」

 誰か、人を。助けてもらわないと。そう立ち上がろうとするが、裕斗は離してくれない。裕斗先輩、と震える声で名前を呼べば裕斗は「大丈夫だ」と繰り返すばかりで。
 その間も、血が止まらない。怖かった。栫井の血の海と目の前の光景が重なり、恐ろしかった。

「こんなのは掠り傷だ。……お前が負った傷よりも全然大したことない」
「っ、で、も」
「大丈夫だ」

 裕斗の額に滲む脂汗。そして、先程よりも明らかに血色が悪い。どこからどう見ても、大丈夫ではないのは一目瞭然だった。当たり前だ。気のせいではなかった。確かに、何かを刺した手応えがあった。

「お前は、部屋に戻ってろ」
「……っでも」
「いいから、戻ってろ」
「っ、先輩は」
「……俺は、大丈夫だ。これくらいの怪我なら、慣れてる」

 こんな笑顔、見たくなかった。裕斗の腕が離れる。俺は、また、この人に甘えるのか。

「……っ」

 裕斗の血で俺の服が汚れようが関係なかった。俺は、裕斗の腹部に手を伸ばす。そして、そのシャツを捲りあげた。
「齋藤」と驚いたような声を上げる裕斗、その腹部は赤く汚れ、その中心部――見つけた、傷口だ。一部皮膚が盛り上がったそこは目視すると僅かなものだ。深さがあるのか、見ただけではわからない。俺は、前に裕斗が用意してくれた救急箱を持ってくる。それと、綺麗なタオルをたくさん持ってきた。何がいいのか、なんてわからない。それでも、どんどん血が溢れる裕斗の傷口にタオルを押し当てた。一枚、二枚と。どんどん濡れていくタオルがただ恐ろしかった。

「っ、せ、んぱい……ごめんなさい」
「……」
「……っ、ごめんなさい」

 死なないで、先輩。そう、必死に血を止める。消毒して、乾かして、何枚ものタオルを駄目にして、それでも裕斗の血を止めようとした。裕斗は、笑っていた。優しく、まるで仕方のない子供を見るような目で。
 浅くなる呼吸。冷たくなる指先。不安で泣きそうになる俺の頬に触れ、ぼろぼろと溢れてくる涙を舌で舐め取る。血の色の失せた冷たい舌。

「大丈夫だ、お前のせいじゃない」

 悪いのは、お前を苦しめた奴らだ。そう、流れ込んでくる言葉に何も考えることができなかった。やがて、裕斗の血は止まった。俺たちの周りは血で汚れ、カーペットも服も乾いた血でベタベタに汚れていた。
 裕斗は、目を閉じたまま眠っていた。俺は、恐る恐る眠る裕斗の胸に耳を押し当てた。とくん、とくん。と。確かに心臓の音は聞こえた。熱も、ある。死んでいない。それが分かるだけでも、ほっとした。裕斗、裕斗先輩。
 何が正しいのか俺には最早わからない。裕斗は誰も呼ぶなと言った。本当にこれでよかったのか。繰り返す。とくんとくんと心音が流れ込んできて、裕斗の熱を感じていると俺は安心からか睡魔に襲われた。血で汚れたソファーの上、俺は裕斗に抱き締められるような体勢のまま眠った。
 本当はわかっていた、病院に行くのが裕斗のためだろうと。それでもそうしなかったのは、なぜか。血は止まったし、裕斗の熱も戻ってきた。これで間違ってるのか。俺にはもう何もわからない。けれど、裕斗が死ぬかもしれない。そう思った瞬間確かに世界が熱を失ったかのように冷たくなった。あんな恐怖、もう二度と感じたくない。
 俺は、乾いた涙か、それとも血か。顔のべたつくそれがわからないまま目を閉じていた。

 人でなし。人殺し。到底許されるべきではない。
 死ぬべきはこの人ではなく、俺だ。

 ◆ ◆ ◆

 深い、深い眠りについていた気がした。
 血の匂いの中、目を覚ます。背中越しに感じる熱と、心臓の音。それから、うめき声。
 飛び起き、俺は裕斗を覗き込む。血色は戻っているが、それよりも熱い裕斗の体温にぎょっとした。全身汗ばじんでいる。原因は、推測だが想像ついた。

「……っ」

 傷のせいだ。俺は、裕斗の腕から抜けようと体を捻ろうとするが、それが返って裕斗の眠りを妨げてしまったようだ。
 裕斗は目を開いた。

「……齋藤、行くな」

 そして、抱き締められる。
 寝起きだからか、わからない。けれどその声は初めて聞く声音だった。不安そうな裕斗の声に、心臓が苦しくなる。
 傷口が熱を持ってるのだろう。止血と消毒はしたものの、すべて知識もない素人の手によるものだ。もし、バイキンが入ってしまって怪我が悪化したら。そんなことばかりを考えては、自分の選択が間違った気がしてならないのだ。それでも、この人を一人にさせることはできなかった。

「……行きません、どこにも。……俺は、ここにいます」

 伸ばされた腕をそっと握り返す。熱い手のひらに触れられた箇所が溶けるようだった。そうすれば、裕斗は再び安心したように寝息を立て始める。
 ……弱気な裕斗なんて、見たことがなかった。
 怖いものなんてなにもないのだと思っていた。俺よりも強くて、俺の正反対に位置する人。けれど、それ以前に俺は大事なことを忘れていたのだ。
 裕斗も、俺も、人間だ。生きている。
 死ぬことが怖い。失うことを恐れている。それは、俺と裕斗は対象は違えど、同じだ。それを理解した瞬間、俺は自分のしたことに後悔した。
 いたずらに裕斗の不安を煽るような真似をした、結果がこれだ。俺は、この人を傷付けた。
 会長のためならなんでもする。そう思っていたのに。

「っ、ごめん、なさい……」

 ごめんなさい、ごめんなさい。何度口にしても、足りなかった。眠る裕斗を抱き締める。握り返される手が暖かった。俺は、このまま裕斗が死んでしまったらと思うと気が気でない。裕斗は、同じように俺を思ってくれていたのだ。だから、身を呈して止めてくれた。下手したら自分が死ぬかもしれないのにだ。

「っ、ごめんなさい……先輩」

 どっちつかずで宙ぶらりん。人のために命を捨てることもできなければ、他人に迷惑しかかけられない。生きている理由が見つからない。俺が死ねば良かったのに。それでも、俺が死ねばこの人は悲しんでくれるのだろう。胸を痛め、自分のせいだと悔やむはずだろう。そのことが余計苦しくて、心も、体も、雁字搦めになっていく。
 後悔するには何もかもが手遅れだった。俺は、せめて今だけはゆっくり裕斗が休めるようにその頭に腕を回し、抱き締めた。
 俺のことなんて、見捨ててくれ。
 俺なんかのために、こんな真似をしないでくれ。
 どうか俺のことを、嫌いになってくれ。
 裕斗の存在がなによりも苦しいのに、そんな裕斗に救われている自分も居た。何もかもが噛み合わない。

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