05
冷えてる体を温めた方がいいと、会長の用意した風呂に入れられる。最初水が怖くて躊躇ったが、芳川会長に指先から腕へと徐々にその熱さに慣らされる。
俺が肩まで浸かるのを確認し、会長は立ち上がる。そのまま何も言わずに浴室を出ていこうとした芳川会長に、咄嗟に俺は立ち上がってその腕を掴んだ。
「……っ」
待ってください、とか、あの、とか。何かを言って呼び止めようとしたのに声にならなかった。濡れた手で、会長の服を濡らしてしまったことに対する後悔と、それでも行ってほしくない、まだ居てほしいという気持ちがせめぎ合い、俺はそのまま動くことができなかった。
会長はそんな俺を一瞥し、ため息を吐いた。
「……ちゃんと肩まで浸かれ。温まるものも温まらないぞ」
そう、俺の手を取った会長はそのまま俺を浴槽へと座らせらせる。恥ずかしかったが、それ以上に、なんだかいつもよりも芳川会長が優しく感じるのは先程までの恐怖があったからだろうか。……会長が離れるのは、怖い。それは俺の側にいてほしいというのもあるが、それだけではないことを俺は知っていた。
どうしても、目を瞑れば栫井の赤が浮かぶのだ。もし、栫井が死んでしまったら。芳川会長が人殺しだと言われたら。そんな恐怖と不安で、どうしようとなかった。目を離したらこのままお別れになってしまわないだろうか。今の会長からは、そんな危うさを感じたのだ。
「……会長」
芳川会長の手が、耳に、頬に触れる。熱を確かめるように、俺よりも熱いその手のひら、指先の熱に思わず体が震えた。
「お前は、まだ俺を会長だと呼ぶのか」
その言葉に、目を開く。視線を上げれば、会長と視線がぶつかった。どういう意味なのかは、わかっていた。けれど、その真意を知りたくなかった。
会長は、芳川会長は、会長だ。……会長が生徒会長じゃなくなる日なんて、来てたまるか。だからこそ、ここまでやってきたのだ。
なのに、会長と呼べば、芳川会長は何か言いたそうな顔をするのだ。
「だめ、ですか」
「俺が生徒会長ではなくなったらどうするつもりだ?」
「……そんなの……っ」
有り得ません、という言葉は、言えなかった。弱気になっている会長など見たくない。聞きたくない。
「俺がなんとかします」
「あいつの二番煎じをするつもりか」
夥しい量の血で染まったバスタブが浮かぶ。掌の震えは芳川会長まで伝わってしまったかもしれない。
「止めておけ。お前には無理だ」
「……っ、会長……」
離れる手に、咄嗟に俺は手を伸ばす。けれど、今度は手応えはなかった。立ち上がった会長は、俺を見下ろしていた。
「百を数えるまで浸かっていろ」
そう一言、それだけを言い残し、会長は浴室を後にした。指先に熱が戻り、次第に感覚が戻ってきた体。それでも、俺は今度は会長を追いかけることができなかった。
ほんの、ほんの少しだけ……会長を側に感じた気がしていた。けれど、それは気のせいなのかもしれない。
会長は、諦めているのだろうか。そんなはずない、あんなに固執していたのに、なんで。百を数える余裕もなかった。逆上せそうな頭の中、頭の中では会長のあの目が離れなかった。俺を可哀想に思ってるのか。馬鹿なやつだと。命まで擲とうとしては結局躊躇ってなにもできなかった俺を。
……栫井は、芳川会長のためなら手首を切れた。けれど、俺は会長のために命を投げ捨てれるのか。
『お前の知憲に対する感情は恋愛ではなく恐怖心から来るものだ』と、裕斗の声が頭の中で木霊する。風呂に入ったお陰で固まっていた血が溶け出したようだ、いつの間にか再び赤い血が手首に滲んでるのを見て、慌てて俺はお湯で洗い流した。痛む。……これだけで、俺は躊躇うのに。
会長のためならなんでもできると思っていた。
そう思い込んでいた。だから、どれだけ恥ずかしいことでもできると思っていた。けれど、実際はどうだ。
目の前が真っ暗になっていった。
体温は十二分に取り戻した俺は、逆上せた体を動かし、風呂を上がる。脱衣場には着替えが用意されていた。丁寧に畳まれたそれを手にする。芳川会長は、何も変わっていない。あの頃からずっと、怒ると人は変わったが、それでもちゃんと俺の面倒を見てくれた。俺のことを心配してくれた。
ずっと、元に戻りたいと思っていた。あの頃の会長に戻ってほしいと思っていた。けどそうじゃないのだ。
変わったのは、俺だ。俺が会長に逆らった。自分に任せておけという会長の言葉を信じ切れず、勝手な真似をしてしまったのだ。会長のことが、好きだったから。好きになってしまったから、少しでも負担を軽くしたいなんて柄にもないことを言って。
傷口が痛む。胸の奥も、握り潰されるように苦しい。
会長の用意してくれた服に着替える。血で汚れないように注意をしながら。
部屋へと戻れば……会長はいた。ソファーの上、なにやら考え事をしていたようだ。会長は視線だけこちらへと向け、そして目を伏せる。
「髪、ちゃんと乾かせ。風邪を引くぞ」
タオルで拭いたつもりだったが、髪の毛の先からはポタポタと雫が落ちる。俺のことなんて、捨て置けばいいのに。
お前のことなんて最初からどうとでも思ってなかったといっそのこと言ってくれた方がましだった。鉛のように足が動かない。その場から動けなくなる俺に、芳川会長はゆっくりと近付いてくる。
頭から被ったタオルを掴まれ、会長は頬を濡らす雫を拭う。ごし、と肌を拭うその手は少し痛い。けど、それ以上に心臓がはち切れそうだった。
「好き……です」
音が遠くなる。自分の心臓の音すらも。
ゆっくりと開かれる会長の瞳に酷い自分の顔が映った。
「好きになって、ごめんなさい」
死ぬ勇気もないくせに、全部を投げ出す覚悟もないくせに、俺は生半可な気持ちで会長を踏み躙った。俺を守ろうとしてくれた会長を裏切った。俺は、会長になにか恩返ししたことなんてあったのか。答えは否だ。それどころか、俺は。
「ごめ、んなさい……」
出血が止まらない。
心の奥底、溜まりに溜まったおどろおどろしいものが止めどなく溢れ出す。何一つ、俺はこの人の役に立っていないと。この人を助けることも、優しかった会長に戻すこともできないのだと、もう手遅れなのだと理解した瞬間襲いかかってくる遣る瀬無さ。自惚れていた。甘えていた。自業自得だ。会長は、ごめんなさいとろくに謝罪することすらも儘ならない俺をただじっと見ていた。そして。手が離れる。見限られた。今度こそ嫌われただろう。今更謝っても遅いと。
顔を上げようとしたとき、タオルを剥ぎ取られる。そして、耳を撫でるように頬を掴まれた。
目の前には、不快感を顕にした会長がいて。
「理解できんな」
「……っ」
冷たい声にピシャリと跳ね除けられる。
怒られる。ごめんなさい、と咄嗟に謝ろうとして、抱き締められる。抱き締めるというには頭にも乱暴で、ぎこちない。けれど、背中に、肩に回された手の熱さに頭の中が真っ白になった。
冷えた体を抱き締めてくれたときとはまた違う、心地の良い体温。温もり。
「……本当に、理解し難い」
心臓の音が混ざる。なんで、どうして、なんて、考える頭もなかった。息が詰まりそうなほど苦しい。恐怖とも、違う。会長に触れられることがあれほど怖かったのに、今だけは何も考えずにいられた。昂ぶっていた感情の波が次第に穏やかになっていくのが自分でもわかる。
「お前は、俺のことを見限ったんじゃないのか」
会長の低い声が静かに響く。見限る。それは、どういう感情なのだろうか。会長のことを見捨てる、会長を裏切る。何度か裕斗の言葉に揺らいだことがあった、けれど、会長を嫌いになることはできなかった。
会長の素性を知っても、どんな育ちだろうと、それでも、俺にとっては会長は芳川会長だけなのだ。
首を横に振るのが精一杯な俺に、会長は何も言わなかった。手が、会長が離れる。
「…………」
「か、いちょ……」
「……少し休んだらどうだ。俺のベッドを使え」
会長は、どこに。そう声をかけようとするが、それよりも先に会長は部屋から出ていってしまう。外から施錠する会長に、俺は、タオルを被り直す。まだ、体には会長のぬくもりが残っていた。もっと、抱き締めてほしかった。そんなことを言ったらきっと会長には嫌がられるだろう。
それでも、殴られなかった。怒られなかった。……呆れられたが、抱きしめてくれた。それだけで、それだけで呆れるほど心が穏やかになっていた。
きっと俺はどこかおかしくなってしまったのだろう。どこから、いつからなんてわからない。それでも、会長の一挙手一投足で心がこんだけ浮き沈みするのだ。
……今までずっと、ただ苦しかっただけだった。それでも、会長に抱きしめてもらえるだけで、優しくしてもらえるだけで、安堵する。
まだ、俺はここにいていいのか。
会長の匂いの残ったベッドの上、そっと丸くなれば一瞬で眠りに落ちる。心身の疲弊のお陰だろう。
次に目を覚ましたときは、夜も明けていない真夜中のことだった。
俺は大分眠りこけていたようだ。
体を起こせば、そこには会長の背中があった。眠ってる、のか。規則正しい寝息が聞こえてくる。
会長。会長。……会長。と。その背中に抱き着こうとして、手を止めた。けれど……少し、少しだけその体温を感じることくらいは。
会長の背中にくっついて眠ることだけは、許してほしい。まだ、都合のいい夢を見ているのだと。
こんなに近いのに、俺には会長が見えない。それでも、いい。会長が側に居てくれるのを許してくれるだけで俺には十分だった。
◆ ◆ ◆
幸せだと不安になる。
どこかの誰かが言っていた。この世界はすべて最終的には相殺されるようになってるのと。いい事があれば同じように悪いことがあり、他人をしたことは全部自分に帰ってくると。因果応報。全ては最初からゼロになるように仕組まれているのだと。
会長の部屋に教師がやってきたのは朝方だった。
栫井平佑が自室で手首を切っていた。自殺未遂で近くの病院に搬送されたという。心当たりはないかと、そういうことなのだろう。俺はそのやり取りを隣の部屋でただ聞いていた。
「あいつは昔から自傷することはありました。ここ最近色々あってあいつも不安だったんでしょう」
芳川会長は、あくまで自分はなにも関わっていないとシラを切った。教師もそれ以上追求することはなかった。
栫井の自傷癖。何故それを会長が知っていたのか、考えたくはなかった。
教師たちが帰ってからしばらく。次に部屋にやってきたのは――。
「お久し振りです、会長」
三回のノックの後、開いた扉の向こう側には灘がいた。
芳川会長に促されることもなく扉を閉め、施錠した灘は会長の側に立つ。俺が隠れる暇もなかった。芳川会長は座ったまま視線だけ向けるのだ。
「随分と早かったな」
「風紀委員長がまだ病院から戻ってきていないようで、風紀の人手も足りていないようです。縁方人に志摩裕斗、そして栫井の件で手一杯だからとにかく今日は一日自室で謹慎してろ、と」
「良かったのか、久し振りに自分の部屋に戻れるというのに大人しくしてないで」
「構いません。それよりも、俺は貴方に話があって来ました」
空気が冷たく感じるのは気温だけの問題ではないはずだ。灘の声も、視線も、どこか冷たく感じる。それは、今に始まったことではない。けれど、そう感じていたのは俺に向けられるものだけだと思っていたから。
「なんだ」
「栫井君のことです」
「それがどうした」
「今回の件、貴方も関与しているのですか」
鷹揚のない、淡々とした声。けれど、何故だろうか。体の奥から冷たくなっていくような。張り詰めた空気。会長の目が細められる。そして。
「だったらなんだ」
その一言に、部屋の温度が下がるのを感じた。普段となんら変わらない。表情の乏しい二人の会話だ。なのに、何故だ。何故こんなに息苦しいのか。理由はすぐにわかった。
「あいつは自分で命を捨てることを選んだ。そしてそこに俺が居合わせた。それだけだ」
「……」
「何を吹き込まれたのか知らんが、お前が気に留めることではない」
灘はそうですか、と静かに答えた。熱が失せていく。
灘が芳川会長に疑問を抱いたことがあっただろうか。あったのかもしれないが、少なくとも俺は灘という男が会長に楯突くのを見たことがない。だから、違和感を覚えた。恐怖にも似た、違和感を。
「それでは自分はこれで失礼します」
「もう戻るのか」
「一度、病院に行きます。会長はどうされますか」
「……行く必要はない。どうせ暫くすれば戻ってくるのだろう」
「わかりました」と、灘は頭を下げ、そのまま芳川会長の部屋を出た。閉まる扉。詰まるような空気の中、俺はどうすることもできずただ会長の横顔を盗み見る。
あんな言い方して、本当に良かったのだろうか。灘は、否定してもらいたかったのではないだろうか。一緒に見舞いに来てほしかったのではないだろうか。会長のことを信じたいと思っていたのではないだろうか。
そんな考え方ばかりが脳裏を過っては、最悪の結果ばかりが目に浮かぶ。会長はわざと孤独になろうとしているように見えて仕方ないのだ。状況が状況だ、もし灘が口外したらと思うと気が気ではないが……灘だ。灘に限ってそんなことはないだろう、と思いたい。
俺にはもう、会長以外の全員が会長の敵に思えて仕方ないのだ。
会長はまるで自分から進んで一人になろうとしているようだった。状況が状況だとしてもだ、それでも灘にあんな言い方をしても良かったのか。会長にとって栫井のことは本当に些細なことだったのか。考えれば考えるほど会長という人間が見えなくなる。それでも、離れられなかった。怖いとか、怖くないとかではない。この人を一人にしたらいけないような気がしてならないのだ。
「……」
会長、と声をかけることも烏滸がましく思える。俺は、声をかける代わりに恐る恐る立ち上がる。会長の座るソファー、その空いているところに離れて腰を下ろす。会長の目が俺の方を向いた。俺は、視線を合わせることができなかった。
「す、すみません、水……いただきます」
会長から予め手渡されていた水の入ったボトルを握り締める。すっかり部屋の温度に当てられ、ぬるくなった水。飲み物なんてどこで飲んでも同じだとわかっていた。それでも、会長の隣に座る理由がそれしかないのだ。会長の視線が痛い。変なやつだと思われただろう。それでも、よかった。俺にはこれしかないから。側にいる理由なんて。それもあまりにも露骨だが。
「好きにしろ」と、会長は冷たく言い放す。会長は、やっぱり変わらない。会長のままだ。とくとくと脈打つ心臓を必死に宥めながら、俺は「はい」と頷き返した。
平和な時間が永遠に続くわけがない。わかっていたことだ。どれほどの時間が経過しただろうか。気付けばもうすでに昼前だ。
会長と一緒にいたいと思っても、ずっとここにいるわけにも行かない。また誰かがやってくる前に戻らなければ 、そう、俺はソファーから立ち上がる。
「……あの、俺……そろそろ戻ります。邪魔してすみませんでした」
そう、書物に目を通していた芳川会長に声をかける。
会長は何も言わない。目も向けない。無視されてる。別にそれでもいい。会長は追い出さずに俺を置いてくれていた。それだけで俺は十分だったから。
そのまま、部屋を出ようと玄関口へと向かったとき。背後で足音がした。そして、扉に伸ばしかけた手を取られる。
「会長……?」
「……」
あれほど熱かった指先は、今はひんやりとした冷たい。
振り返れば会長と目があった。何を考えているのか、わからない。それでも、もしかして引き止めてくれているのか。そんな都合のいい解釈をしてしまいそうになる自分を恥じる。
「……ぁ、あの……お邪魔しました」
「……」
「お……俺、部屋に戻ります」
「……」
会長は、じっとこちらを見たまま眉一つ動かさない。それでも、手首を掴む指は離れない。何か、伝えたいことがあるのだろうか。ひやりと冷たい風が俺達の間をすり抜ける。
「会長?」と、恐る恐る声をかけたとき、会長はゆっくりと口を開いた。
「怪我は」
怪我、と言われて、手首に巻かれた包帯のことを思い出した。あれほど痛かった手首の傷は会長といると頭から抜け落ちていた。這う指に撫でられ、ぞくりと背筋が震えた。喉が震える。「あの」と絞り出した声はみっともなく裏返ってしまった。
「っ、ぁ……あの、大丈夫です、薬もいただいたので痛みもなくて……その、ありがとうございました」
「……」
上手く、言葉を紡ぐことはできてるのだろうか。自分でもわからなかった。目の前に立つ会長に見据えられるだけで、頭の中が真っ白になり、自分が何を話しているのかわからなくなるのだ。会長の表情は変わらない。指も離れない。まだなにか、あるのだろうか。もしかして俺は知らずの内にまた会長に不快な思いをさせていたのだろうか。不安になって、「会長?」ともう一度呼びかけたとき。手首から芳川会長の手が離れた。
「……君は、俺のことが好きだと言ったな」
気付けば、壁際に追い込まれていた。逃げ場などない。真正面から問い掛けられ、顔にじわりと熱が集まる。喉がひりつくように乾いた。会長の目には先程までなかった色が浮かんでいた。怒りだ。
「そ、れは……」
こくり、と頷く。否定するのも今更だ。会長には本心もすべてなにも知られている。それでも、平然としていられない。
「なら、何故……何も言わない。俺に言いたいことがあるんじゃないのか」
「か、いちょう……」
「何を考えてるんだ、俺には理解できない」
扉へと乱暴に叩き付けられる拳。扉越しに伝わってくるその音に、振動に、萎縮する。俺は、何も言葉が出なかった。会長の言葉に、その目に嘘はない。
理解してほしい。そう思っていたときもあった。この好意が、感謝が、伝わればいいと思っていた。でも、現実はどうだ。
「……君のせいだ」
「……っ」
「君のせいで、全部が台無しだ。全部。――積み上げてきたなにもかもが、どうでも良くなる」
君といると、だ。紡がれる言葉はどんな鋭利なナイフよりも俺の心臓を貫くのだ。真っ直ぐに、迷いなく突き刺さる。
頭で理解していた。それでも、少しでも伝わればいいと。少しでも会長の気分が楽になればと、そんな自惚れた思考を少なからず持っていた自分の烏滸がましさにも吐き気がしたし、なによりも俺は会長の口から聞いてしまったその言葉に何も考えられなかった。伸びてきた大きな手のひらが、首を締める。覆い被さる硬い指が、器官を締め上げるのだ。
「っ、か……いちょ……ッ」
「これ以上、俺の頭を掻き乱すな」
締め上げられる。視界が白ばむ。苦しい。首だけではない。心が、心の臓が。焼けるように熱い。
「……二度と俺を好きだと抜かさないと約束しろ」
覆い被さる影に、食い込む指先に、囁かれる呪詛に、視界が眩む。息が詰まる。指先から熱が落ちていく。痺れる。震える四肢では立つこともできなかった。それでも、俺はこの手を振り払うことができなかった。死ぬのは怖い。けど、会長は俺を殺す気はないのだとわかったから。微かに開いた呼吸器官からひゅ、と息が漏れる。何度も首を縦に振る。会長に、こんな顔をさせたくない。こんなことを言わせたくない。悪いのは、俺だから。
「……わ、かり……ました」
間違っていたのだ。何もかも。最初から。
熱が失せる。首を締める指が離れ、俺は咳き込んだ。そして、俺は会長から逃げるように部屋を出た。まだ指の感触が残った首を抑えた。指先には感覚が戻り、頭にも酸素が戻っていく。クリアになっていく思考の中、虚しさだけがより浮き彫りになっていくのだ。
わかっていた。わかっていたはずなのに。
なにをこんなに傷つくことがあるのだろうか。自惚れるな。自惚れるな。自惚れるな。繰り返す。吐き気が止まらない。濡れた顔を拭う。涙なのか汗なのかもわからない。こんなところ、誰かに見られた。そう思うと気が気でなかった。顔を拭う。
とにかく、戻ろう。……どこへ。これから、どうする。なんて考える頭もなかった。痛い。体よりも、もっと奥。砕かれたように痛い。呼吸することすら儘ならず、歩く力も出なくてその場に蹲る。涙が止まらない。何に対する涙なのかもわからない。会長に対する懺悔か、何もかも手遅れだというのに、泣いたところで何もならないとわかってるのに、止まらない。とにかく、顔を洗いたかった。水を被って頭を冷やしたかった。部屋に戻ろう。そう、鉛のように重い体を起こしたとき。
「――齋藤?」
……幻聴かと思った。背後から聞こえてきた声に、体が震える。今だけは、会いたくなかった。聞こえないふりをして、足早に逃げようとするが、駄目だった。「おい、齋藤」と、肩を掴まれ、振り向かされる。視線が、ぶつかった。
「ゆ、うと……先輩……」
見開かれる目に映る自分はさぞかし酷い顔をしてるに違いない。笑わないと。この人を不安にさせてはいけない。頭で理解してるのに、まるで凍りついたみたいに表情が動かない。一日ぶりに見た裕斗の顔から笑顔が消え失せていく。そして、その眉間に皺が刻まれた。
「っ、お前……その顔……どうしたんだ?」
「……なんでもないです、なんでも、本当に……」
どうして、こんなときばかり。こんなときばかり、この人は現れるんだ。俺が、会いたくないときに限って。
逃げるように立ち去ろうとしても、裕斗は俺から手を離さない。それどころか。
「話は後だ。俺の部屋に連れて行く、いいな」
「っ裕斗先輩……俺は、っ、こんなところ、見られたらまた……」
「今更なんだってんだ。ほら、行くぞ」
抱かれる肩。半ば強引に背中を押され、俺は裕斗の部屋まで連れて行かれる。強い力は俺に抵抗する隙すら与えない。本当に、最悪だ。
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