天国か地獄


 04

 自殺しろ。そう、栫井は言うのだ。俺に。
 俺が死んで丸く収まると。そんなの、俺だってそう思う。けれど、それでは。

「っ、い、やめろ……ッ」

 栫井の手を払い除けようとすれば、栫井にナイフの柄で思いっきりこめかみを殴られる。脳味噌を直接揺さぶるような衝撃に目の間に火花が散り、その衝撃に平衡感覚を失った俺は自分が倒れたことすらもわからなかった。
 逃げないと。そう思うのに、ズキズキと痛む頭に視界が霞む。チリチリと焼かれるような首筋の痛みに声が漏れた。
 栫井は無言で俺を見下ろしていたが、やがて興味でも失せたかのように俺から視線を外す。そして、栫井に首根っこを掴まれ、強引に引っ張られた。
 本当にこのまま殺されるのではないか。そう思ったが、それでは本末転倒だ。栫井としては俺を殺したところでメリットは憂さ晴らしくらいにしかならないはずだ。
 流石に、流石にそこまではないだろう。ただの脅しだ。現にまだ俺は生きてる。そう自分に言い聞かせ、込み上げてくる恐怖心を殺そうとするが栫井が向かう先、その扉の向こうを見て息を呑んだ。

 冷たい空気が充満したそこは清潔感溢れる浴室だった。
 使ったあとのない浴室にも関わらず、浴槽の中には満杯の水が入っていた。湯気はない、それが冷水だと理解した瞬間、血の気が引く。

「……な、に……ッ」

 嫌だ、と栫井から逃げようとするが首根っこを掴む力は緩まるどころかキツくなる。襟首に器官ごと締め付けられ、藻掻く暇もなく浴室へと押し込められる。
 そして、まずい、と思った次の瞬間には俺は水の中にいた。
 正確には、栫井に頭を掴まれ、冷水を張られたそこに無理矢理顔を沈めさせられるのだ。

 夏には丁度いい冷たさ、なんてものではない。氷でも入れてたのかと思うほどの冷たい水は触れた皮膚を刺すようなほどの痛みを与えてくるのだ。ごぼ、がば、と口から溢れた酸素は泡となって消えていく。冷たい、苦しい、それ以上に、恐ろしかった。髪に絡み付く栫井の手は俺の顔が水から上がらないように、強い力で押さえつけてくる。酸素を求めようと栫井の腕を引っ張ろうとするが、濡れ、悴んだ指先は上手く栫井を掴めない。

 さらにぐ、と頭を押さえつけられれば、必死に浴槽を掴んで堪えようとするが、まるで力が入らない。頭に血が上り、目が開けない。息ができず、徐々に迫り上がってくる死の恐怖に指先は冷たくなっていくのだ。やばい、これ以上は、本当に。ごぼり、と開いた口の中から、鼻から、耳から水が体内に入ってくるのがわかり、どうすることもできず、目の前の浴槽を叩く。指が痛かろうが、滑ろうが、それしかすることができなかった。死ぬ、と思った次の瞬間。

「っ、ごぼッ」

 頭を引き上げられ、器官に入った水が一気に溢れ出した。顔面が引き攣るほどの激痛に、それ以上に求めていた酸素がようやく取り戻すことができた安堵。そして、顔を上げれば冷めた栫井の目。

「遺書を書く気になったか?」
「……はぁ、……ッ、は……っ!」

 もっと、もっと空気がほしい。ぜえぜえと胸を上下し、肺に酸素を取り入れようとしたときだ。栫井は俺の頭を冷水に押し込んだ。今度は先程よりも長かった。体感なので実際はどうかわからない。けれど、万全ではない状態で追い打ちをかけるように水責めをされ、死を悟ったその直前に水から引き上げられる。
 目に髪が入ろうが関係ない。顔を拭うことすらも許されなかった。冷たい水を吐き出す。それだけで顔中が痛んだ。

「お前が首を縦に振ればやめてやる」
「……っ、はぁっ、は、ぁ゛……」
「遺書を書く気になったか?」

 遺書を書く。そして自殺する。そうすれば、会長は助かる。俺も、こいつから解放されるのか。俺は、首を縦に振ることはできなかった。それを受け入れるということは、即ち自殺を選ぶことになる。
 芳川会長のために、命を捨てられるか。

「――遅い」
「ご、ぼッ!」

 髪を掴まれ、頭は再度水の中へ押し込められる。
 最初のときよりも冷たさは感じない。違う、皮膚があまりの冷たさに感覚麻痺を起こしてるのだ。何度も何度も何度も、栫井は有言実行してみせた。俺が受け入れない限り繰り返すつもりなのか。朦朧とした頭の中、気絶した方がましだとわかってても水の中に押し込められれば嫌でも脳みそは叩き起こされる。
 既に上半身だけではなく水は全身へと回っていた。痺れを切らしたように栫井は俺を浴室のタイルへと投げ捨てる。硬い床、水はない。それだけでも大分ほっとしたのもつかの間、起き上がれず、震える体をどうすることもできない俺に栫井は冷水を思いっきり俺の顔面に被せるのだ。溺れる。タイルの上、藻掻き、咽る俺にやつは「強情なやつ」と吐き捨てた。
 そして、伸びてきた手に浴槽へと投げ込まれる。受け身を取ることもできなかった。滑るように落ちる体に、下着まで濡れる感触、全身の熱を奪われる。水分を吸い込み重くなった服は鉛のようだった。

「っ、俺が、死ねば……本当に済むと……思ってるわけ……」

 寒くて、熱い。油断すれば奥歯はガチガチと震え、まるで自分の体が自分のものではないようだった。ブレる視界の中、俺は栫井を見た。やつは、「ああ」と迷いもなく答えるのだ。
 俺が、死ねば。
 冷たくなっていく。会長、俺は。会長の隣にまた戻れるものだと信じていた。けれど、現実はどうだ。俺が断ったとしてもこの男は何でもするだろう。殺されかけ、身を以て理解する。こいつは俺が死にたくなるようなことを平気でしてくるはずだ。それならば、

「……っ、わかった」

 遺書を書いて、手首を切る。それだけだ。死ぬわけではない。自殺未遂で済ませればいい。ただ血が出るだけだ。上手くいけば、死なずに済む。

「……遺書、書く、書くから……っ」

 だから、もう、やめてくれ。その言葉の先は声にならなかった。
 そうすれば、会長も助けられる。こいつからも、解放される。けれど、下手したらどうなるのか。そんなこと、考えたくはなかった。けれど、今の俺に用意された選択肢ではそれが最善だったのだ。

 手が震える。形だけペンを握ることができても 文字を書くことすら儘ならない。寒さだけのせいではないはずだ。浴室に戻ってきた栫井にペンと紙を渡され、床に座り込んで唯一濡れていない壁を机代わりにする。水浸しの体からはどんどん熱が失せていくのがわかった。
 震える唇を噛み締め、回らない頭で文面を書き出そうとするが書きにくさもあり進まない。
 そんな俺を見下ろしていた栫井は、浴槽の冷水を温めているようだった。少なくとも、俺を暖めるためだけではないのだろう。
 芳川会長は悪くないです。全部、自分のせいです。
 通常遺書がどんなものかはわからないが、今のこの状況で俺ができる限界だった。拙い文面だが、栫井から要求された内容は書いている。逆に、それだけだ。
 最後に自分の名前を書いた。くしゃくしゃになったその紙を栫井に渡そうとすれば、乱暴に取り上げられる。
 文面に目を走らせた栫井は、そのまま俺を見下ろすのだ。

「それじゃあ、腕を出せ」
「え……」
「手首切ってやるよ」

「お前にカッター渡して自分でやらせるわけないだろ」と、無感情な声で続けるのだ。一瞬、思考が停止した。
 俺は、栫井にカッターを借りて、軽くだけ手首を切って、気絶したふりをして栫井を満足させるつもりだった。けれど、栫井にカッターを渡すとなると話は大分変わってくる。

「そ、れは……」
「いいからさっさとしろ」
「……ッ!」

 死にたくない。頭の中にそんな文字が浮かんでは消えた。
 動けなくなる俺を捕まえ、栫井は背後から俺を抱き竦めるように右腕を掴む。そのまま乱暴に袖を肘辺りまで捲り上げられれば、血の気の失せた生白い手首が晒された。前髪からポタポタと落ちる雫。心臓の音だけがやけに大きく響く。適正な位置を探ってるのか、栫井の指が俺の太い血管をなぞるのだ。

「……っ、か、こい……」
「痛いのは最初だけだ」

 そんなことを言われて安心できるわけがない。
 左手で手首を固定するように掴まれれば、びくともしない。右手に握られたカッターナイフ、その刃が押し当てられる。舌を噛まないように肩でも噛んでろと言われても、無理だ。自分の手首に押し当てられる刃に、全身に力が入る。嫌だ。死にたくない。

「……っ、は……」

 汗が滲む。見たくないのに、目を背けることができなかった。つぷり、と自分の手首に埋まるカッターナイフの刃に、溢れ出す赤にその冷たく鋭い痛みに全身の毛が逆立つ。
 ――死にたくない。

「……ッい、やだ……ッ!」

 そう、栫井の手を掴んでナイフを離そうとしたときだった。部屋の玄関口の方から凄まじい音が響いた。勢いよく扉を蹴破るようなそんな音だ。栫井が驚いたように視線を外した瞬間、俺は栫井を突き飛ばして浴室から飛び出した。冷たい、血も通っていない手足を無理矢理動かして逃げる。

「おい、待て……ッ!!」

 そう、伸びてきた栫井の手に髪を掴まれたときだ。目の前の扉が開き、そして、抱き締められた。
 冷え切った体にはあまりにも熱い腕だった。それでも、よかった。その腕は俺が濡れていても構わず、抱き締めてくれるのだ。そして。

「……っ、か、いちょう……」

 栫井の声に、ああ、と全身の緊張が緩む。懐かしい匂い。心地のいい体温。何一つ、変わっていない。俺の知っている会長がそこにいた。

「平佑……誰がこんな真似をしろと言った?」
「そ、それは……」
「相応の覚悟はしているだろうな」

 会長に抱きしめられたまま、栫井がどんな顔をしてるのかすらわからなかった。けれど、その声からして会長がここに来るのを想定していなかったらしい。その声には動揺が滲んでいる。

「平佑、お前が手首を切れ」

「今すぐ、この場でだ」それはあまりにも冷たい声だった。息が止まる。俺は、会長がここに来てくれたことだけでも良かった。それだけで十分だった。それなのに。

「早くしろ。それとも、それでは切れ味が悪いか」
「……ッ」
「なら俺が切ってやる。こんな安物でも動脈を切れば死ねるだろう?」
「っ、か、会長……待って下さい……ッ!お、俺は……大丈夫ですから……ッ!」

 この人、本気だ。本気だ、本気で栫井に言ってるんだ。
 先程まで自分が言われていた言葉。栫井と立場が入れ替わっただけだとしても、それでも、あまりにも笑えない。
 栫井が落としたカッターナイフを拾う芳川会長に、慌てて俺は会長の腕を掴んで止めた。

「別に君のためではない。……俺の矜持の問題だ」
「……ッ、か、いちょ……」
「自分で切るのか、最後まで俺の手を煩わせるか選べ。五秒で決めなければ俺がお前の首を切ってやる」
「……ッ、会長、栫井も、やめ……」

 やめてください、と止めようとしたときだった。会長に放り投げられたカッターを手に取った栫井は、青白い顔のまま俺の目の前で袖を捲りあげる。その下、手首にびっしりと入った蛇腹のようなリストカットの跡に声が漏れた。瞬間、栫井は自分の手首に突き刺したナイフを縦一文字に肘にかけて勢いよく引き裂いた。噴き出す血。
 真っ白な浴室が栫井の返り血で赤く染まった。
 何が起きたのかわからなかった。分かりたくもなかった。
 座り込む栫井は赤く染まる腕を浴槽に漬ける。瞬間、花が開いたみたいに真っ赤に染まる浴槽に、血の匂いに、目眩が起きそうだった。芳川会長はそんな栫井を一瞥し、俺の腕を掴む。「行くぞ」と言うかのように浴室から連れ出されそうになり、「救急車っ」と、咄嗟に声が漏れた。

「救急車……呼ばないと、会長……栫井が……」
「時期に八木が来る。あいつに任せればいい」
「でもっ」
「いいから来い」

 腕を掴む指に力が入り、そのまま引き摺られるように部屋を連れ出された。冷たい体には最早感覚がない。大量の血が流れ出るのを見たせいでこちらまで貧血になったような、そんな感覚だ。目を瞑っても蘇る、一筋の太い傷から溢れる血。自分の腕に刃の先端が刺さったことなんて忘れていた。
 会長の部屋まで連れて来られた俺は、なんだかもう生きた心地がしなかった。
 扉の鍵を締めた会長は、ようやく俺を見た。

「すぐに服を脱げ」
「……っ、ぁ、あの……」
「着替えとタオルとドライヤーを用意してくる。それまでに済ませろ」

 俺の返答をまたずに、会長はそれだけを言ってその場を離れた。他意はないとはわかっていた。
 会長が、助けてくれたことも。それでも、先程の光景が目から離れない。栫井は本当に大丈夫なのか。あのまま浴槽で倒れてる栫井のことを考えるだけで指先が震えた。
 服を脱ぐことすらできずにいると、戻ってきた会長にタオルを頭にかけられた。

「……っ」
「……手を退けろ」

 ごめんなさい、と言う言葉も出なかった。会長は気にした様子もなく、俺の濡れたシャツを脱がしていく。恥ずかしい、というよりも、こんなことしてる場合ではないという気持ちのが強かった。それでも、拒もうとすれば手を握り締められるのだ。熱いほどの体温が流れ込んでくる。

「心配しなくても、人間はあれだけでは死なん。……精々貧血止まりだ」

 そんな俺の気持ちを読み取ったのか、会長はただいつもと変わらない調子で続ける。「そもそも、あいつにそんな勇気はない」と、冷たい目で。俺は、わからなかった。俺に死ねと言った栫井が同じ目に遭って、それで、そこに俺は自分を重ねたのか。
 安心しろと言われても気持ちが、鼓動が落ち着くことはなかった。会長は何も言わない俺を怒るわけでもない、ただ冷たい目で見るのだ。そして、濡れた頭をタオルで拭いてくれる。

「君は、人の心配よりも自分の心配をするべきではないか」
「……お、れは……」
「遺書か。……こんな馬鹿馬鹿しいものを書かされて、本気で死ぬつもりだったのか」

 そう、赤く血で汚れ、ぐしゃぐしゃになった俺の遺書を手にした芳川会長は呆れたように吐き捨てる。
 いつの間に。顔を上げれば、見たことのない顔をした会長と視線がぶつかる。レンズ越し、こちらを見るその目には確かに呆れと怒り、それ以外のものが孕んでいた。唇が、震える。寒さだけではない。馬鹿なことをしたという後悔、そして恥ずかしさだ。首を横に振る。何度も、違う、と声を殺して。

「……し、にたくないです、俺……っ」

 芳川会長は何も言わない。けれど、タオル越し、頭部に回された腕にそのまま抱き寄せられた。会長から流れ込んでくる鼓動が早い。俺よりも。痛みはなかった。優しい、俺を慰めるみたいに撫でるその手に全身の震えが収まるようだった。

「っ、か、いちょ……」

 会長、会長と。その声は言葉にならず、開いた口からは嗚咽が漏れた。
 芳川会長はその遺書を破って捨てた。

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