天国か地獄


 03

「齋藤、動けるか?」
「……はい」
「……悪い、無理させたな」

 ただでさえ体力がないのに風呂場での行為にすっかり逆上せてしまった。風呂から上がったのに熱が下がらない。裕斗はと言うと反省してるらしい、先程から頻りに「水、飲みたくないか?」とか「アイス買ってくるか?」とか聞いてくるがそれが余計申し訳なさと同時に恥ずかしくなってくるのだ。

「本当、大丈夫なので……気にしないでください」
「とは言ってもな……。飯は?食欲はあるか?」
「……あまりないです」
「そうか……それはよくないな」
「裕斗先輩……?」
「俺が何か用意しよう。何が食いたい?」
「え?先輩が、ですか……?」
「ああ、お粥くらいなら作れるぞ」

 なんて、裕斗はなんでもないように笑ってみせる。裕斗の手料理、前にもジュースを貰ったりりんご切ってもらったりしたが、流石にそこまで世話になるのは申し訳ない。
 食べたいが、これ以上甘えてはいけないという気持ちが強かった。裕斗に対してではなく、俺がだ。
 線引きを誤ってはいけない。

「……あの、気持ちはありがたいんですけど、本当ただ逆上せてるだけなので……きっとすぐに戻ると思います」
「そうか?遠慮しなくていいんだぞ?」
「遠慮とかでは……いえ、ありがとうございます。でも、本当に大丈夫なので……」
「……」

 これ以上優しくされたら本当に駄目な気がする。
 既に俺は裕斗の好意を踏み躙ってる立場だ、今更だとしてもこれ以上は……。そう、頑なに断れば、裕斗も流石に違和感を感じたのか。じっとこちらを見てくるその目に内心冷や汗が滲む。

「齋藤、お前……」
「……っ」

 流石に、露骨すぎたか。そう思ったが、今更訂正するのもおかしな話だ。すみません、と口の中で呟いたときだ。

「お前、俺が料理下手だと思ってるだろ?」
「……へ?」
「よく言われるんだ、お前は不器用そうだって。確かに器用ではないだろうけど、齋藤にまずい飯を食わせるつもりはないぞ」

 ……何を勘違いしてるのか、変なところでむっとする裕斗に俺はなんだか出鼻を挫かれる。確かに、料理上手というイメージもなかったが……俺がそんなことで拒んでると思っているのか。

「ぁ、あの……」
「今日のところは君も本調子じゃないだろうしな、無理強いはしないが……今度元気なときにとびっきり美味い飯を作ってやるからな」

「楽しみにしてろよ」と、裕斗はポンポンと俺の頭を撫でてくれる。負担にならないように触れるか触れないかくらいの優しい手。怒ってると思いきや、今度はニコニコしてるし……。本当にわかりにくいというか、表情がコロコロ変わる人だ。そんな裕斗にほっとしている自分がいることも確かだった。罪悪感が胸の奥で燻るのを感じながら、俺は「はい」とだけ頷き返した。

 ◆ ◆ ◆

 部屋の扉がノックされたのは暫くしてのことだった。
 反射的に立ち上がる裕斗だが、ここが自室だと言うことを思い出した俺は「俺が出ます」と裕斗を止めた。
 ……正直、俺の部屋への訪問者なんてあまり良い予感はしない。けれど、無視することもできなかった。裕斗がいるから勇気が出たのかもしれない。
 玄関口、そっと扉を開いた俺はそこに立っていた人物を見て息を飲む。

「八木先輩……?」
「よお、朝から悪いな」

 そう、全く悪びれた様子もなく口にするその男に俺はドアノブを握り締めた。八木の背後には数人の生徒も控えてる。――風紀委員。なんでここに、と思ったが、心当たりがありすぎた。

「あの……何か……」
「志摩裕斗」
「……え?」
「居るんだろ、一緒に。出せよ」

 不遜な態度で続ける八木に、一瞬俺は部屋の奥に視線を向けた。それがまずかったらしい。「失礼します」と俺の横をすり抜けて部屋に入ろうとする風紀委員に、慌てて俺は止める。

「っ、あの、いきなりなんですか……用は……」
「言わなくても分かるんじゃねえのか、お前は」
「――ッ」
「少なくとも、本人のがよく理解してるだろうがな」

 そう、吐き捨てるように口にする八木は俺から視線を外し、背後へと目を向ける。

「なあ、元会長さん」
「随分と遅かったな。もう昼前だぞ」
「……っ、裕斗先輩……」

 どうして出てきたんだ。血の気が引いた。八木や風紀委員の態度からして、恐らく俺と裕斗のことか、それとも縁とのことか何かしら流出したのだろう。逃げ場などない。それなのに、裕斗はいつもと変わらない様子で続けるのだ。

「俺に用だと言ったな。……悪いが腹が減ってんだ。話は食堂でもいいか?」
「無理だな。風紀室まで来い。茶くらいは出してやる」
「そうか、じゃあ齋藤。お前も来いよ。菓子もついてくるかもしれんぞ」

 わかってるのか、わかってないのか。あまりにも脳天気な裕斗に思わず息を飲む。けれど、八木がそれを許すはずがなかった。俺に伸ばした手を、八木は振り払った。

「……悪いが、こいつは別件で用がある」

 来い、と目で合図され、俺は何も言えなくなる。
 裕斗が僅かに反応するが、それも束の間。「強引なこった」と小さく笑った。八木に連れて行かれる直前、裕斗の指が手の甲に触れる。顔を上げれば、裕斗は『大丈夫だ』と口を動かし、笑った。本当に、本当に大丈夫なのか。俺はそれを信じることはできない、裕斗の立場をよく知ってるからこそ、何一つ大丈夫ではないとわかっていた。
 それでも俺はその言葉に頷くことしかできなかったのだ。
 八木に連れられてやってきたのは風紀室だった。風紀室には八木以外にも数人の生徒がいる。そして、その風紀室の中央、ソファーにはよく見知った人物がいた。青い髪、そして、包帯とガーゼで顔を覆い画したその人は。

「え、にし先輩」
「やあ、齋藤君。良かった、君は元気そうだね」

 俺は縁の顔を直視することはできなかった。裕斗に殴られた傷が腫れ上がり、整った顔も見る影もない。包帯で固定された顔の下がどうなってるか想像もできないが、随分と喋りにくそうだ。唯一覗く目元すらも青黒く変色している。

「……っ、怪我……」
「ああ、これ。皆から言われるんだよね、ミイラみたいだって。本当はこんなところ君には見せたくなかったんだけどね、八木が煩いから」
「齋藤、お前、方人さんが殴られたときも一緒にいたんだろ、見たんだよな」

 ああ、とすぐに理解した。縁はただじっと俺を見て笑っている。八木や、他の風紀委員たちの視線が俺を向いたまま外れない。
 本気で、本気で裕斗を失脚させるつもりなのだとわかった。
 実際、縁は最初からそのつもりだったのだろう。だからあのとき俺を裕斗の前で襲うように見せかけた。
 被害者と加害者、そして目撃者があればそれはもう現行犯だ。実際、裕斗は暴力を奮ったのだからその事実からは逃げようがない。けれど、これは。

「……っ、ぁ、お、俺……は……っ」
「ちょっとちょっと、八木。顔が怖いんだよ、齋藤君はただでさえ繊細なんだからもっと優しく扱ってくれないと」
「……すみません、けど、この面は産まれ付きなんで」
「齋藤君、君も怖かったんだろ?仕方ないよ。今無理に聞き出さなくても大丈夫だよ。それに、あいつには余罪がボロボロ出てくるだろうし」

 ね、齋藤君。と、縁はにっこりと笑う。
 包み込むような優しい声。けれど、その声、笑顔には俺に有無を言わせない圧があった。

「それで?裕斗君は?」
「今別室で取調べ中です」
「へえ、随分と素直についてきたんだね」
「こいつの前だからか知りませんけど、抵抗はしなかったですよ。こちらとしては抵抗されても良いように人数掻き集めてたんで余計な手間でしたけど」
「……ふーん」

 縁は立ち上がる。ソファーに持たれかけさせていた松葉杖を手にした縁はそのまま俺の側までやってくるのだ。

「あともう少しの辛抱だよ」

 そして一言。すれ違いざまそう口にした。そして、そのまま歩き辛そうに進んでいく縁を風紀委員たちが支えようとついていく。何がもう少しなのか、言わずとも俺はわかっていた。
 裕斗を処分を受けさせる。恐らく、それが一番手っ取り早いのだろう。わかっているし、俺だって考えていた。けれど、このままでは本質は何も変わらない。
 風紀室から出ていく縁を見送る八木は、扉を閉める。立ったまま動けないでいた俺に、「座れよ」と促してくるのだ。……逃げるのもおかしな話だった。俺は、促されるままソファーに腰を下ろす。
 そしてその向かい側に八木は座った。風紀室にいた風紀委員たちは縁についていったようだ、気付けば部屋の中は俺たち二人きりだった。

「齋藤、ここでは俺とお前しかいない。……誰かを気にする必要も、誤魔化す必要もない」
「っ、先輩……」
「正味、俺からしてみれば誰が本当のこと言ってるかわかんねえ。……裕斗さんは、確かに強引な人だけど理由なく乱暴する人じゃねえって思ってる」

「お前はどう思う、齋藤」と、八木は静かに続けた。
 八木も立場上、誰を味方すべきか決め倦ねてるのだろう。阿賀松を裏切って芳川会長についた縁と、阿賀松と対立した裕斗。二人共、元はといえば阿賀松と縁が深い人間だ。そして、生徒会役員でもある八木の立場を考えると公平性が求められる。

「お、れは……」

 俺は、何を言おうとしてるのか。八木は、阿賀松側の人間だ。わかっているが、このままでは裕斗は処分されるだろう。学園から裕斗がいなくなったときのことを考えれば、まだその時ではない。そんな焦りが生まれるのだ。
 縁を売るか、裕斗を見捨てるか。
 縁は裕斗をなんとしてでも陥れたいのだろう。だから、縁は芳川会長に協力してる。そんな裕斗がいなくなったら縁はどうする?芳川会長自体に心酔してるわけではない縁は必ず芳川会長を見限るだろう。それだけはわかった。
 ならば。

「……っ、裕斗先輩は、俺を助けてくれたんです。縁先輩を止めようとして……それで……っ」

 八木の表情から血の気が失せていくのが目に見えるようだった。
 ――縁には悪いが、今ここで裕斗を失うのは困るのだ。
 後々のことを考えると、不確定要素はなるべく無くしたかった。

「……方人さんに脅されたのか、口裏合わせろって」
「違います、芳川会長を助けてくれるために……協力してくれるって言って……」

 それで、あんなことになるとは思わなかった。それは嘘ではない。縁があんな手段を選ぶと分かっていたら止めたはずだ。……嘘ではない、はずだ。
「やっぱそういうことか」と、八木は溜息混じり吐き捨てる。うんざり、というよりも、判断に困っているようにも見える。立場は違えど、八木もまた生徒会とアンチに挟まれているようなものだ。

「けど、俺にそれ言っていいのかよ。……お前、芳川のこと助けたかったんだろ」
「……俺は、芳川会長のこと信じてます。けど、縁先輩のやり方は……賛同できないです」

 声が無意識に震えた。何一つ嘘ではない。会長のことを信じている。疚しいことなど俺たちにはない。
 なにやら考えていた八木はの目がこちらを向いた。じっと瞳の奥を覗くような鋭い視線にぎくりとする。

「この話をしたのは俺だけか?」

 どうやら、疑われているというわけではないようだ。恐る恐る頷き返す。

「裕斗先輩は、大丈夫だから心配するなって……」
「わかった。あいつには俺から事実確認しておく」
「っ、あの、八木先輩……」

「あ?」と、八木の片眉が釣り上がる。八木なら、もしかしたら。そんな期待を胸に、恐る恐る俺は「芳川会長は」と口にすればやつも俺が何を言わんとしているのか気付いたようだ。仕方ないものを見るかのような目でこちらを一瞥し、八木は深いため息を吐く。


「……今は自室に帰ってる。別の問題が起きて手一杯だからな」


「言っておくが、見張りはつけさせてるぞ」と、渋々ながらも八木は教えてくれる。八木は、芳川会長のことをどう思っているのだろうか。
 少なくとも今は裕斗と縁のことで手一杯なのは間違えなさそうだが、それでももしかしたらと淡い期待を抱いて尋ねた俺は答えてくれる八木に素直に嬉しかった。
 ……悪い人ではないのだろう。

「……っ、ありがとうございます」
「俺は何も言ってねえぞ」
「はい」
「俺はこれから裕斗さんのところに行く、それが済み次第迎えに行く」

 それまでが自由時間だ、と言ってるのだろう。八木はそれだけを言えばそのまま風紀室から出ていった。「わかりました」という俺の声が届いたのかわからないが、思っていたよりも八木が話の分かる人で嬉しかった。 

 芳川会長に会いに行こう。
 会いに行ってどうするかなんて、何を話すかなんて決めていない。考えてもいない。会長に会うのが怖くないわけでもない。緊張だってするし、震えも止まらない。けれど、まだ期待している。裕斗のこと、もうすぐ会長を助けられるかとしれないと話せればまた褒めてもらえるのではないかと。よくやったと笑ってくれるのではないかと。
 芳川会長のところには見張りがいるという話は聞いていた。けれど、そこにいたのは予想してなかった人物だった。

「……っ、か、こい……」

 生徒会副会長、栫井平佑は誰かを待つように扉に凭れかかっていた。栫井の周囲の空気だけ時間が停まったかのように酷く重く、静かだった。ゆっくりと向けられる視線に俺は思わず息を飲む。

「……何しに来たんだよ」

 栫井とこうして二人きりで顔を合わせたのは久し振りだった。恐らく、前回の生徒会会議以来だ。ただでさえ俺のことを快く思っていなかった栫井だ、生徒会を壊滅寸前まで追い込んだ俺のことをどう思ってるのかなんて一目瞭然だ。

「っ、俺は……その……」

 会長に会いに来た、なんてどの面下げて言えばいいというのか。言い淀む。俺が何を言ったところで正解などないとわかってても、言葉を探してしまう。
 そして。

「会長ならここにはいない」
「っ……え」
「会長に会いに来たんだろ」

 図星だった。芳川会長の部屋に来ているのだ、言い逃れはできない。絶対に何か言われる。その覚悟で恐る恐る頷いたときだ。
「こっちだ」と、栫井は顎をしゃくった。

「……ぇ……」
「……会わせてやるよ、会長に」

 一瞬、耳を疑った。けれど、聞き間違いではない。
 俺をじっと見下ろすその目を思わず見上げた。

「い、いの……?」
「別にお前のためじゃない。……会長があんたに会いたがっていたから」

 相変わらずつっけんどんな物言いだが、それよりも俺はその言葉の内容に頭の中が真っ白になる。会長が、俺に。どくどくと、先程とは別の緊張が込み上げてくるのだ。
 ……会長が……。少しでも、俺に会いたいと思ってくれている。その言葉だけで、胸が苦しくなるのだ。

「ぁ、あ……ありがとう……っ!」
「声でけえし……」
「ご、ごめ……」
「……こっち、ついて来いよ」

 それだけを言って、栫井は歩き出した。俺の頭の中ではずっと先程の栫井の言葉が反芻されていた。会長が俺に会いたがっている。……その事実だけでどうしようもなく嬉しくて、それ以上に、ちゃんとしなきゃと自然と背筋までもが伸びるのだ。
 それから、栫井に連れて行かれたのは人気のない通路だ。ここのあたりは確か使われてない部屋しかないはずだが、芳川会長はここに身を隠しているということだろうか。

「入れよ」

 鍵を開けた栫井に促され、俺はその部屋に足を踏み入れる。瞬間、ひやりと冷たい空気が全身を包み込んだ。
 しんと静まり返ったその部屋は使われていないようだ、備え付けの家具以外なにも置かれていない。

「……会長?」

 恐る恐る会長を呼ぶ。会長、と、もう一度呼ぼうとしたときだった。背後でガチャリと鍵が閉まる音が響いた。
 振り返れば、扉の前、その扉を塞ぐように佇む栫井になんとなく嫌な予感が過る。

「か、こい……会長は……」
「……俺が本気でお前を会長に会わせると思ってんだとしたら、相当おめでたい頭だな」

 どこにいるの、と言いかけた俺は栫井の言葉に絶句する。
 そして、瞬時に理解した。罠だ、と。
 それは脊髄反射だった。栫井を突き飛ばすように逃げようとするが、遅かった。思いっきり腹を殴られ、その場に蹲る俺の前、栫井は視線を合わせるようにしゃがみ込むのだ。

「……最初からこうしとけばよかったな」
「っ、栫井……こんな、真似……」
「『こんなことしたら生徒会リコール免れなくなる』とでもいうつもりか?……勘違いするなよ、俺はあそこがどうなろうとどうでもいい。会長さえ無事なら……」

 伸びてきた白い指先に前髪を掴まれ、力づくで顔を上げさせられる。そして、首筋にヒヤリとした痛みが走った。
 カチカチカチと無機質な音が響く。何を突き付けられているのか確かめることすら恐怖だった。

「遺書を書いて手首を切れよ。……お前は自殺するんだよ、ここで。自分が会長を陥れたと認めろ。そうすれば、全部丸く収まる」

 突き付けられたカッターナイフに汗が滲んだ。首の皮一枚越しに感じるそれはただの脅しではないと肌で理解する。
 こいつは本気だ。本気で俺に遺書を書かせるつもりなのだ。少しでも動けば切れてしまいそうなほどの距離に、据わった目に、俺は身動きすら取ることが出来なかった。

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