56
拒んでも、突き放そうとしても、裏切っても、裕斗は俺を信じてくれる。助けてくれる。
「……齋藤」
落ち着いたか、と尋ねるように頭を撫でられ、そのこそばゆさに思わず身じろいだ。裕斗からもらったグラスを手にしたまま、頷く。甘えてばかりでは駄目だと思うのに、裕斗の側にいると落ち着いてくるのだ。あれほど怖かったのに、本当にこの人は俺を助けようとしてくれてるのだと思うと胸の奥が溶けていくようだった。
頭を撫でるように、そのまま抱き寄せられる。すり、と首筋を指の腹で撫でられれば心臓がとくんと跳ねた。
「目が腫れてるな」
「……っ、ん……」
前髪を弄ぶように触れた指先に、瞼から目の縁をゆっくりとなぞられた。こそばゆい、けど、裕斗から触られることに対して以前のように恐怖や緊張はなかった。
触れられたところが痺れるように熱くなっていく。俺の顔をじっと覗き込んでくる裕斗から、逃げようとする意思は俺にはなかった。
「……せん、ぱい……」
「……ん?眠くなってきたのか?なら、寝ててもいいんだぞ。色々遭って疲れてるだろうからな」
「……」
裕斗だってわかってるはずだ、俺達にゆっくりできる暇などないと。それなのに、裕斗は俺の体調を優先させてくれる。……だから、甘えてしまうのだ。
俺は、やんわりと裕斗の手を離し、首を横に振った。
「……志木村先輩に、会います」
「会って、俺からちゃんと話します」もう、俺だけの問題ではない。色んな人を傷付けて、巻き込んでしまった。こうして裕斗に守られてるだけではいけない。
話したところで許されないだろう、恨まれるだろう、平常心でいられる自信もない。それでも、自分がしたことの尻拭いくらいはしなければならない。
俺の言葉に、裕斗は思わず体を起こす。
齋藤、と目を開く裕斗に、俺はその目をじっと見据え返した。ずっと、眩しくて見てられなかった。自分の後ろ暗い部分も全部見透かされてるようで怖かった。けれど、今は、真っ直ぐに俺を信じてくれるこの人のお陰だ。本当に裕斗なら俺のことを守ってくれる。そう思えるだけで、視界が拓けたように思えたのだ。
「齋藤、いいのか?」
「……はい」
裕斗のことを当てにするつもりはないが、それでも後ろに裕斗がいると思えるだけで意識はまるで違う。
頷き返す俺に、裕斗は「わかった」と答えた。そして、取り出した携帯端末を操作する。
「これから志木村がここに来る。……大丈夫だ、俺も一緒にいる」
そう、裕斗は俺の肩を掴み、励ますように強く抱いてくる。熱い手のひら、その嘘偽りのない声が胸の奥に落ちて、酷く胸が苦しくなった。俺は、震える手をぎゅっと握りしめ、頷いた。ありがとうございます、と口にした言葉は裕斗に聞こえてたのかわからない。それでも裕斗は「あいつならわかってくれる」と俺を勇気づけてくれた。
「……お前は一人じゃない、俺を信じろ」
額と額がぶつかるほどの近さで、見詰められる。キラキラして、暖かくて、俺なんかには眩しいほどのその光にどうかなってしまいそうだった。
はい、と絞り出すように答えれば、裕斗は俺の唇に軽くキスをする。不意打ちに驚いたが、すぐに、裕斗は解けたように笑った。そして、俺を抱きしめるなり、ぐしゃぐしゃと頭を撫で回す。
「何かあったら俺が守る。だから、お前は余計なこと心配しなくていい」
とくんとくんと流れ込んでくる心臓の音、熱に、溺れる。俺は、おずおずとその背中に手を回した。
それから、しばらくもしないうちに扉が叩かれる。志木村が来たのだろう。名残惜しそうにしながらも、体を離した裕斗は「お前なら大丈夫だ」と口にし、そしてソファーから立ち上がる。
不思議とあれほど騒がしかった鼓動も落ち着き、心の中は凪いだ海のようだった。裕斗のお陰だろう。
俺はまだ裕斗に抱きしめられたような感覚が残ってる肩をぎゅっと掴んだ。……裕斗は最初から決意をしていた。俺も、覚悟を決めなければ。そう、言い聞かせるように口にした。
扉を開ければ、そこには志木村がいた。
いつもの笑顔はない、困惑、戸惑い、それ以上の、軽蔑の目。悲しんでるようにも、怒っているようにも見えるのは気のせいではないのだろう。
「……貴方達、自分たちが何してるのかわかってるんですか」
志木村の目は裕斗に向けられていた。俺に対するものだけではない、裕斗にもそれは向けられてるのだろう。
裕斗は、それに堪えた様子はない。
「ああ、わかってる」
「わかってないでしょう、わかってたらそんな真似しませんよ。普通。……裕斗さん、貴方がそこまで馬鹿な人とは思いませんでした。よりによって、こんな状況で、この子に騙されたんですよ、貴方は。ハメられたんです。こんなこと、誰かに知られたら……」
「そんときはそんときだ」
「っ、……貴方は……」
掴みかかろうとする志木村だったが、それを寸でのところで堪える。そして、深い溜息。
「貴方は、どうしていつも……勝手なことばかり……もし、裕斗さんがまたいなくなったら、誰があの男を裁けるんですか。また、無法地帯に元通りですよ」
……志木村は、裕斗の身を案じているのだろう。普段は表に出さない志木村の本音を聞いて、酷く胸が苦しくなる。この人を苦しめてるのは、俺だ。俺の。
「勝手に話を進めるな。誰がいなくなるんだって?」
「貴方がしたのは、弱ってる人間の心理を利用した強姦ですよ、いくら合意と本人たちが言っても、他の人間……僕からしてみれば『そう』としか考えられない」
「っ、……ぁ、あの、それは……っ」
それならば、加害者は俺だ。俺が最初に裕斗に手を出した。そう、憤る志木村に告げようとして、裕斗に止められた。黙っていろ、と視線で合図される。
けれどこのままでは志木村は勘違いしたままだ。それでも裕斗は言わないつもりなのか。
「芳川君と同じことをしてるんですよ、貴方は」
「そうだな」
「そうだな、じゃないですよ。本当に……何考えて……」
「先に言っておく。俺は、齋藤のことを助けたいと思ってるのは今も変わらない」
裕斗の言葉に、志木村は何も言わない。けれど、その目が何を言おうとしているのかはわかる。
どの口で。そう、裕斗を見る志木村の目はどこまでも冷たかった。
「お前が俺のこと軽蔑するなら別にそれで構わないし文句を言う権利は俺にはないと思ってる。だから、お前の好きにしろ。芳川を味方にするなり好きにしたらいい」
「……貴方は、いつもそうですね。自分で全部決めて、勝手なことばかり言って……」
「お前には迷惑かけてると思ってるよ。だから、今まで俺についてきてくれたのも感謝してる」
「ありがとう」と、裕斗が続けるのと、そんな裕斗を志木村が殴るのはほぼ同時だった。俺は、止める暇もなかった。見事な平手打ちだ。乾いた音が響き、裕斗が目を見開く。瞬く間に、ぶたれた裕斗の頬が赤くなる。そして、志木村はこちらに向き直った。
「……僕は、君のことを信じたことはありませんでした。それは今もです」
「……はい」
「けど……」
と、言い掛けて、志木村は口を閉じた。殴られる覚悟はとうにできていた。言い淀む志木村だったが、やがて沈黙の末、小さく口を動かした。それがなんと言ったのか、俺にはわかった。「信じたかった」と、そう志木村は言ったのがわかって、俺は何も言えなかった。
失った信用を取り戻すことはできない。わかっていた。
わかっていたはずだ。
「……はい」
自分がどんな顔をしてるのかすらわからなかった。けど、受け入れることしかできなかった。
「……とにかく、状況を説明してください。全部です。……嘘吐かないでください。そうしないと、僕もどう対処すべきか判断できない」
「志木村、お前……」
「元はといえば、僕の監督不行届でもあります。……これ以上最悪なことになる前に、今度こそちゃんと話してください」
裕斗を見限ることもできたはずだ。それでも、志木村はそうしなかった。驚いたような顔をする裕斗。こちらを振り向いた志木村は「これは、お互いのためです」と続けた。
その言葉に芳川会長の顔が浮かび、息が苦しくなる。俺は、何をしてるんだ。裏切れ、こいつらを。利用しろ。あの人もそういっただろう。
そう、頭の奥で声がする。けれど、俺はその声を振り払う。なにが、会長のためなのか。俺は。
「齋藤」
そんな中、裕斗に手を握られる。正面、黙り込む俺を不審に思ったのだろう、裕斗に呼ばれてはっとする。手のひらのぬくもりに、先程の裕斗とのやり取りが思い浮かんだ。
「だ、いじょうぶ……です」
わからない、何が大丈夫なのか。おそらく何一つ大丈夫ではない。脳裏に芳川会長が浮かぶ度に脈が乱れる。けれど、それでもまだ平静を保っていられたのは裕斗がいるからだ。
芳川会長を裏切る?芳川会長を見捨てる?そんなこと、できるわけない、できないはずなのに、それでも、揺らいでる自分に動揺した。選択肢など最初からないはずなのに、もしかしたらこの人となら、と希望を抱いてしまう自分に恥を覚え、そして嫌悪する。期待するな、いけない。そう、わかってても。
……俺は、裕斗の手を恐る恐る握り返していた。
「……全部、話します。本当のこと、だから……ッ」
助けてください、という言葉は飲み込んだ。それでも、裕斗は嬉しそうに笑ったのだ。
「大丈夫だ、俺に任せろ」
そう、あの時と変わらない太陽のような笑顔で俺を照らしてくれるのだ。
【イス取りゲーム 完】
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