天国か地獄


 55

 現れた裕斗を見て、阿賀松は驚いたように目を開き、そして破顔した。楽しそうに、愉快そうに、裕斗を見て笑うのだ。

「まじで来やがった。お前、相当これのこと気に入ってんのか」

「良い趣味してんな」と笑うその声には喜びにも似たようなものがあった。純粋に阿賀松が喜んでるようには思えない。言うなれば興味、好奇心に近いもののように思える。どちらにせよ、この冷え切った空気の中、弾むような阿賀松の声は場違いだと思えるほどだった。
 裕斗が何故ここにいるのか、それを意味することは唯一つ、俺が最も恐れていたことが今起きようとしていた。

「伊織、お前こいつに何をした」

 裕斗は、俺を阿賀松から引き離すように自分の背へと庇ってくれる。裕斗の肩越しに見る阿賀松はいつも以上に不気味で、目があった瞬間、阿賀松はいつもの笑みに戻る。ニヤついた口元、他人を見下すような眼差し。

「何もしてねえよ、いつも通り可愛がってやっただけだ。……ああ、でも言うこと聞かねえときはちゃんと躾てやんねえといけねーからな。それを教えてやろうとしてたところだ」

 この男は自分の置かれた立場をわかっているのか、わかってなければこんな裕斗を煽るようなことを言うはずがないか。含んだその物言いに、「お前……」と何かを言いかけた裕斗が拳を固く握りしめるのを見て、血の気が引いた。咄嗟に裕斗を抑えようと腕に触れれば、裕斗がこちらを見る。なにか言いたげな視線。けれど、裕斗が口にするよりも先に阿賀松が口を開いた。

「裕斗、お前はわかってねえみてーだから教えといてやる。コイツは元々俺のもんだ」

「テメェにくれてやるつもりは毛頭もねえよ」そこを退いて今すぐ帰れ、そう、阿賀松が暗に言っていることはわかった。いつもの不遜な阿賀松の言葉だが、状況が状況なだけに笑えない。この男は俺を駒としか見ていない、けれど、裕斗にしてみればその言葉すら別の意味に捉えられ兼ねない。現に、裕斗は。

「……じゃあなんで知憲に渡した」
「あ?」
「お前なんだろ?こいつに命令して知憲に近付けさせたのも。なんでそんなことする必要があった、お前のものなら最初からずっと手元に置いておけばよかっただろ」

 裕斗は、何も知らない。休学中、阿賀松と芳川会長の関係が悪化していることを。と、不意に気付いた。阿賀松が芳川会長に不信感を抱くきっかけになったことを。
 険悪化した原因を。
 裕斗が怪我をしたから、裕斗を助けなかった芳川会長を怪しんだ。疑って、嫌った。……裕斗のためだったのではないか、そう理解した瞬間、血の気が引いた。
 阿賀松のことを擁護するつもりは毛頭ない、けれど、裕斗に責められた阿賀松がほんの一瞬不愉快そうに目を細めたのを見て、息が詰まりそうになった。

「お前は本当甘いな、裕斗」
「……なんだと?」
「決まってんだろ、こいつを使って芳川知憲を失脚させるつもりだった。そのために近付けさせたんだよ」

「ヘマはするわ余計なことばっかしてくれたが、現状これだ。こいつにしてはよくやったよ」そう、喉を鳴らして嗤う阿賀松に背筋が凍る。
 先ほどとは違う、冷ややかな笑みだった。

「伊織、お前……それじゃあ、知憲の言う通りってことかよ」
「ああ『俺から助けるために保護した』ってやつか?そうだな、当たらずも遠からずってところか。……正確には、保護なんて可愛らしいもんじゃなかった。そうだろ?ユウキ君」
「……ッ!」
「伊織、お前……ッ」
「そうムキになるな。……ああ、そうか。裕斗お前、ユウキ君に振られたのか」

 まるで旧友にでもあったかのような、親しげな言葉すらも今は裕斗を煽る種だ。
 俺は、阿賀松が何を考えてるのかわからなかった。何が言いたい、なんで認めた。相手が裕斗だからか?理解できない、わからない、けれど開き直った人間ほど厄介な相手はいない。それも、相手は阿賀松だ。阿賀松がここまで認めるということは、自信があるからだ。俺たちが声を上げようが何をしたところでこの男には痛くも痒くもないから。

「お前は騙されてんだよ、裕斗。……お前、コイツのこと何も知らねえだろ。ユウキ君は物覚えは悪いが叩き込めば何でもやる。ああ、頼んでもねえことまでしてくれる。あの芳川をここまで入れ込ませたんだ、本当……恐ろしいやつだよな」

 瞬間だった、乾いた音が響いた。一瞬のことだった。裕斗が阿賀松を殴りかかったのだと気づいたときには足が竦んでいた。けれど、間一髪阿賀松は裕斗の拳を手のひらで受け止めたようだ。怒るわけでもなく、目の前の友人をただ見ていた。

「……お前、最低なやつだな」
「ハッ、随分と今更だな」
「齋藤の気持ち考えたことあるのかよ、コイツは本気で知憲のことを……っ」

 堪らず、俺は「裕斗先輩」とやつの腕を引っ張った。やめろ、やめてくれ。阿賀松……この男には知られたくなかった。どれだけ嬲られようが、殺されかけようが、心にだけはこれ以上踏み込まれたくなかった、弄ばれたくなかった。懇願する俺に、裕斗は言葉を呑んだ。
 ……けれど、遅かった。裕斗の言葉を聞いて、阿賀松は笑い出す。おかしそうに、呆れたように、腹を抱えて笑うのだ。そして、

「こいつがあの野郎に本気になるだって?……馬鹿も休み休み言え。こいつが人を好きになるわけねえだろ。全部錯覚だ、裕斗、お前みてえなお花畑にはわかんねーんだろうがな人間苦しくなると錯覚起こすんだよ。苦手な相手を好きだと思い込もうとして心的負担を軽減させようとするを自己防衛みてーなもんだ、ユウキ君はその状態だ」

「っ、ちが……」
「違わねえよ」

 伸びてきた手に手首を掴まれ、裕斗の背後から引きずり出される体。蹌踉めく視界。頭の奥がズキズキと痛む。ちがう、違う、そんなことはない。さっき芳川会長に会って確信したのだ、俺は芳川会長の力になりたいって。どんなことされたって、別に構わないって。必要とされるなら、それで……それで。

「お前は今自分のことをあいつの犬だと思ってんだろ。本当は誰のもんだって思い出させてやるよ」

 伸びてきた手が顎に触れそうになり、裕斗の手が阿賀松の手を止めた。邪魔に入る裕斗に、阿賀松の目が細められる。

「おい退け、裕斗。俺が用あるのはそいつだけだ、そうすりゃ今回のお前の悪ふざけも見逃してやってもいい。そいつに弄ばれたただ可哀想な野郎だってな」
「それはこっちのセリフだ。俺は齋藤に弄ばれようが利用されてようがそんなのはどうでもいいんだよ。……伊織、お前はおかしい。変わったよ。……齋藤は、こいつは物じゃねえ、少なくともお前がそう仕向けたんだろ。お前がやってることは犯罪だ」
「だったら警察でも呼ぶか、茶くらいは出してくれるかもな」

「けど、そのときはお前も一緒だ」呼吸することもできなかった。裕斗と阿賀松の視線が交わる。自分のことを言われてるとわかってても、まるで悪い夢を見てるようだった。阿賀松がまだ冷静でいるからか、裕斗と争いたくないと思っているのは本心なのだろう。それでも、裕斗は折れる気はないらしい。そんな裕斗に、阿賀松は呆れたように肩を竦める。

「はぁ……埒が明かねえ、だからやなんだよお前と話すのは」

 そして、痺れを切らしたように阿賀松は息を吐く。
 次の瞬間、阿賀松の表情から笑みは抜け落ちていた。うんざりしたような、鬱陶しそうな目。

「そんなにこいつのことが気に入ったってんなら貸してやる」

 飽きた、とでもいうかのような態度だった。俺は、驚いた。本当に何を考えてるのだ、この男は。けれど、裕斗を許したようには見えない。寧ろ。

「……けど、親友として忠告しといてやるよ。そいつはお前の手に負えねえ、断言してやる」
「余計なお世話だ」
「そうかよ。そりゃいい。じゃあもう勝手にしろ」

 殴り合いにならずに済んだが、阿賀松の態度が引っかかった。いつもの阿賀松ならこんなにあっさり引かないはずだ、相手が裕斗だからか。わからないが、阿賀松の心変わりに対して嫌な予感しかしなかった。けれど、裕斗は気にしてないらしい。

「行くぞ、齋藤」
「っ、ぁ、の……」
「いいから来い、話はあとで聞く」

 断れるような雰囲気ではなかった。
 穏便に済んだことを喜ぶべきか。その代わりに、間違いなく別の大切なものを失った。そんな喪失感が存在していた。俺は、とんでもないことをしてしまったのではないか。阿賀松が裕斗を見限った。そうすれば、どうなる。
 ……そんなこと、考えたくもなかった。

 どんな顔をすればいいのか、なんて言えばいいのか、何も考えられない。助けてもらえたことに感謝すべきなのか、それとも。

 裕斗に引っ張られるがまま連れてこられたのは裕斗の部屋だった。「入れよ」と促され、開けられた扉の中へと足を踏み入れる。その背後、続いて入ってくる裕斗によって閉じられる扉。その閉まる音に、気が遠くなるのがわかった。

 暗かった部屋に明かりが灯される。志木村の姿はない、ただそこには静かな空間が広がっていた。今朝ここで目を覚ましたばかりだというのに、酷く久しぶりに戻って気がする。
 動けなくなる俺に、裕斗は背中を優しく触れた。

「どうした。……座らないのか?」

 座れ、ということなのか。尋ねられ、心臓が跳ねる。怖かった、裕斗の顔を見るのが。座れるわけがなかった。
 自分のしたことを考えれば、本来ならば饗されるような人間でもないはずだ。これ以上踏み入ることができず、首を横に振ったとき、裕斗に腕を引っ張られる。

「っ、ぁ……ッ」

 待ってください、と言う暇もなかった。先程と同じ、ここまで連れてこられたときのように強い力で引っ張られ、ベッドへと押し倒される。
 柔らかいクッションに受け止められる体。
 怖くて、それでも歯向かう気力など残っていなかった。ただ、裕斗から視線を逸らそうとしたとき、視界が陰に覆われる。そして、伸びてきた手に頬を撫でられた。

「っ、ゅ……と……先輩……」
「……駄目だな、お前にそんな風に怖がられるとどうしていいのかわからなくなってしまう」

 殴られるだろうか、怒られるだろう、嫌われたって無理もない。文句だって言う資格はない、俺はそれほどのことをこの男にしてる。それなのに、裕斗は何かを堪えてるようだった。俺の頬を撫で、キスできそうなほど近付く裕斗の顔に、覗き込まれるその目から逃れることはできなかった。そっと触れられれば、こそばゆさに体が震える。息ができなかった。

「ぁ……っ」

 ごめんなさい、と言おうとして、息を呑んだ。俺はもっと裕斗に酷いことをしようとしてるのだ、謝ることなんてできない。必死に目を逸らそうとするのに、逸らせない。見透かされるのが怖いのに、裕斗から目を離せなかった。

「……齋藤、教えてくれ。お前は、最初から俺を利用するつもりだったのか?」

 あくまでいつもと変わらない口調だった。けれど、わずかに落ちたトーンと消えた笑顔に、息が詰まりそうになる。
 これ以上は誤魔化せない。……俺自身が、誤魔化すことができなかった。
 喉から声は出なかった。徐々に冷たくなる指先。ゆっくりと首を縦に振れば、裕斗は深く息を吐いた。まるで、何かを押し殺すように、堪えるように溜息を吐いたのだ。

「……そうか」

 そして、ゆっくりと俺の上から退いた裕斗はそのままソファーへと腰を落とした。
 軋むスプリングに、荒い動作に内心ぎくりとした。顔を抑えたまま、裕斗は何かを考え込んでるようだった。恐る恐るベッドから起き上がり、「先輩」と呼びかけようとしたときだった。

「来るな」

 ピシャリと吐き捨てられるその声に、全身が凍り付いた。聞いたことのないほどの、否、聞いたことはある。けれど、俺に向けられることはなかったその冷たい声。

「……大きな声を出して悪かった。けど、頼む、近付かないでくれ」

「……それ以上来られると、お前に酷いことしそうで怖いんだ」その言葉の意味は、嫌でもわかった。俺は何されても文句は言えないと思っていたけれど、それでもこんな俺のことをまだ人として扱ってくれる裕斗の気遣いがひたすら息苦しかった。それなのに、部屋から帰すつもりもないというのだろう。俺を縁や阿賀松たちから守るためなのか。そのために、憎たらしくて仕方ないであろう俺を手元に置くのか。

 ……裕斗のことが理解できない。一生、わかり合うこともないだろう。それでも、その温かみに何度も救われてきたのも事実だった。
 恐る恐る、ベッドを降りる。俺は、裕斗の座るソファーへと歩み寄った。

「人の話聞いてたか、齋藤」
「……っ、はい……」
「なら……」
「……俺、出ていきます。……ここにいて、裕斗先輩に守ってもらう資格なんて、ないので」

「……今までありがとうございました、助けてもらったことは本当に……嬉しかったです」背中を向けたままの裕斗には見えないと分かってても、頭を下げた。これだけは、確かに本心だった。
 こうして裕斗に庇われることも助けてもらえることもないだろう、俺がそう仕向けたのだ。ならば、ぬくぬくと裕斗の側にいる資格なんてない。
 失礼します、とそのまま部屋を後にしようとしたとき。
 背後から伸びてきた手に肩を掴まれる。そのまま壁に体を押し付けられそうになった瞬間、視界が覆われた。目の前の裕斗に、その見たことのない表情に息を飲むのも束の間、唇を塞がれた。
 性急な口付けをされたことは何度もあった。それでも、噛み付くような、骨の髄までしゃぶり尽くされるような獰猛な口付けは初めてだった。

「ん……ッ、ぅ、ん……ッ!」

 壁と裕斗に挟まれ、唇を貪られる。恐怖よりも、無性に泣きたくなった。離さない、そう言われてるみたいで、ぶつけられる熱に、ぐちゃぐちゃに混ざり合う感情に、何も考えられなくなるのだ。

「……っ、駄目だ」

 熱を持ち始める唇、そこから口を離した裕斗は息を吐き出すように吐き捨てた。

「……駄目だ、齋藤」
「っ、せんぱ……」

 先輩、という言葉は唇に塞がれ、掻き消される。抱き締められ、顔を掴まれ、口の中を唾液ごと舐め取られれば頭の奥がじんじんと痺れ、つい力が抜けそうになる。けれど、寸でのところでそれを堪えた。だめです、とその胸を押し返して引き離そうとするが、更に深く口づけされるのだ。

「っ、ふ……ッんん……ッ!」

 このままでは、駄目だ。何がなんてこの頭では考えられない、けれどこのままでは裕斗は。そう、漠然とした嫌なものを感じ、必死に裕斗を押し退けようとした。けれど俺の腕力では裕斗には敵わない。

 胸に這わされた手に、衣類越しに先程の会長との名残がまだ残った体を弄られればそれだけで声が漏れそうになった。これ以上は、いけない。本当に。駄目になる。俺も、裕斗もだ。それがわかったから、わかってしまったから、それでも必死に抵抗した。
 芳川会長の二の舞になる。それを企んでいたのは俺だし、行動に移したのも俺だ。それでも、いざ裕斗を前にしてみればどうだ。怖気づきそうになる自分の決心の甘さが嫌になる。それ以上に、裕斗を汚してしまう。その恐怖に。

「……俺じゃ、駄目なのか」
「っ、……」

 熱に濡れたその目で見詰められ、齋藤、と名前を呼ばれれば頭の中が真っ白になった。駄目に、決まってる。駄目だ、それこそ、駄目なのだ。
 本気になるわけない、俺なんかと正反対で人望もあってしっかりしてる人が、俺なんかに。俺なんかのせいで、駄目になってはいけない。そう思った瞬間、自分がしてきたことの恐ろしさに背筋が凍った。
 会長のためだけを考えて、全部から目を逸してきた。裕斗の優しさからも、全部に。
 ただ裕斗を失脚させるためのポーズだった。だからなんでもできたのに、なんでもするつもりだったのに。

「ご、めんなさい」

 体が震えた、声も、指先も。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。何度口にしても許されるわけないとわかっていた、それでも、溢れ出す罪悪感は止めらなかったのだ。

「っ……ごめ、んなさ……」
「もういい、謝るな」
「……っ、ゅ、うとせんぱ……」
「お前は何も悪くない。……俺が、勝手にした事だ」

「これも、全部、そうだ」そう、裕斗は笑った。無理矢理作ったような歪な笑顔だった。そんな笑顔、見たくなかった。させたくなかった。……俺のせいだ、全部。
 怒ってるのか、悲しんでるのか、わからない。きっと両方だ。呑まれる、裕斗の熱量に、塗り潰される。
 駄目だとわかってるのに、裕斗のためだと思うのに――それに気付いたところで、なにもかも手遅れだった。

 ――俺と裕斗の関係は、ちょっとの傾きで破綻するほどもうじゃく脆弱な関係だとわかっていた。

 息継ぐ暇すらなかった。
 何度も裕斗と体を重ねたこともあったし、性急な行為も何度もあった。それでも、こんな風にただ虚しいだけの行為は初めてだった。
 裕斗から逃げようとすることが精一杯で、なにも考えることができなかった。

「っ、や、め……っ」

 シャツを脱がされそうになり、必死に裕斗の腕を引き離そうとする。爪が引っかかってしまい、裕斗の腕に赤い線が走った。滲む血、それでも、裕斗は気にも止めた様子もなくただ俺を見据えるのだ。辛そうに、悲しそうに。

「……どうして逃げるんだよ」
「……っ、先輩……俺は、先輩を裏切って……」
「だからなんだ」
「……っ、え」

 一瞬、耳を疑った。
 顔をあげれば、まるで不可解なものを見るかのように俺を見据える裕斗がいて。

「そんなこと、最初から知ってた。……あんな下手な誘い方して真に受けるやつがいると思ってんのか」

 裕斗の言葉に、顔に熱が集まるのがわかった。
 最初から、俺が裕斗を利用しようとしてたことを気付いていたというのか。ならば、どうして。

「俺のこと尾行してたことも聞いた。俺から色々聞き出そうとしてたのもな」
「っ、なら、どうして……俺のこと……」
「だからだよ」

「尚更放っておけるわけねえだろ」顔が、目の奥が、焼けるように熱くなる。なんでだ、理解できない。この人はおかしい。自分に不利になるような人間に対して普通ここまでできるわけがないだろう。

「っ、そんなこと、俺は……頼んでなんか……」

 ないです、と言いかけた口を塞がれ、抱き締められる。息苦しさすら感じるほどの抱擁に、息が停まりそうになる。流れ込んでくる裕斗の熱に、心臓の音に、混乱していた頭が次第に静かになっていくのがわかった。

「確かにお前は口にしなかった。一度だって俺に助けてくれって言わなかったな」
「……っ、なら……」
「言わなくてもわかるよ、お前の目見てたら。いつも何かに怯えてるみてーな面してるやつを放っておけるかよ」

 ああ、やめろ、やめてくれ。これ以上踏み込みないでくれ、頼むから放っておいてくれ。声をあげたいのに、焼け付く喉の奥からは嗚咽しか漏れなかった。
 もうだめだ、もう手遅れなんだ、全部、今更。

「本当のことを、本心を話してくれ。ちゃんと、何があったのか。……お前がどう思ってるのか。俺は、齋藤を助けたい」

 約束しただろう。そう耳元で囁かれた瞬間。必死に堰き止めていたものが決壊する。
 志摩裕斗はおかしい。俺のことをまだ助けようとする。嘘吐きな俺のことをまだ信じようとする。おかしい。この人は、普通じゃない。そんなことしたら裕斗だってただじゃ済まないのに、それでもいいと言うのだ。
「齋藤」と、背中を撫でられ、俺は首を横に振った。

「っ、……考えさせて、ください」

 全部、俺のせいだ。裕斗が縁を殴ったのも、阿賀松を敵に回したかもしれないのも、全部俺のせいだ。

「……わかった、お前が俺のこと信用できると思ったら――ちゃんと話してくれ。全部」

 そう真剣な顔をした裕斗だったが、すぐに笑顔を浮かべ、俺を抱き締めた。なにか言いたいのを堪えるように息を吐き、そして俺の頭をぐしゃぐしゃに撫でるのだ。俺は、抵抗する気力もなく裕斗にもたれ掛かる。

「……悪かった、乱暴な真似をして怖がらせて」

 申し訳なさそうな声。そして、何度も優しく俺を抱き締めてくれた。まるで泣く子供を宥めるように、何度も、俺が泣き止むまで抱き締めてくれた。


 どれほど経ったのかもわからない。会話がなくても、静かでも、気まずさや緊張もなかった。それは相手が裕斗だからだろうか。おずおずと顔を上げれば、俺の背中を撫でていた裕斗は「お」と微笑んだ。

「……あんだけ泣いたんだ、水分足りなくなったんじゃないか?ジュース、持ってこようか」

 からかうような言葉だが、不快感は感じない。俺は頷き返せば、裕斗は「待ってろ」と俺の肩をそっと叩いて、それから立ち上がった。

「齋藤はブドウとオレンジどっちが好きなんだ?」
「……オレンジ、が……好きです」
「俺と一緒だな。……ほら、キンキンに冷えてるから気をつけろよ」

 そう、なみなみとオレンジジュースが注がれたグラスを渡してくる裕斗。確かに冷えている。いつもと変わらない笑顔に、声。裕斗は俺がジュースに口をつけるのをじっと見てくるのでどうしたとかと思えば、「うまいか?」と聞いてくるのだ。
 小さく頷き返せば、「そうか、また買っておくからな」なんて笑う。……本当に変な人だ。調子が狂う。自分が自分じゃないみたいに、あれだけ苦しかった胸が軽くなっていく。……変だ。こんなの。
 不意に、裕斗の携帯が鳴った。

「志木村からだ」

 携帯を取り出した裕斗はそう言うなり、ごく自然な動作で電話に出る。

「ああ、俺だ。……うん、齋藤なら見つけた。今一緒にいる。俺の部屋だ。――詳しい話はまた後でする、それじゃ」

 恐らく、電話越しの志木村は何か言おうとしたのだろう。裕斗は容赦なく通話を切り、携帯をテーブルの上に置いた。

「……これから志木村が来るだろうな。あいつはお前がいなくなってすげー心配してたよ」
「……っ、そう、ですよね」
「会いたくないか?」
「…………」

 いいえ、と即答することはできなかった。
 志木村はまだ俺の中で得体の知れない人物だ。
 それに、きっと心象も最悪だろう。志木村と対面したときのことを考えると酷く億劫な気分になる。……自業自得とはいえどだ。

「なら会わなくていい」
「……っ、え、……」
「齋藤がここにいるってことは知ってるんだ。それに、俺とお前が寝たってことも知ってる。現時点で他に言うことなんてないだろ」
「っ、でも、志木村先輩が……」
「じゃあ会うのか?」
「……っ」

 会うべきだ、会って、謝罪しなければならない。わかっていても、躊躇ってしまう。怖気づいてしまう。
 裕斗はきっと、そんな俺に気付いてるのだろう。

「無理して会う必要はない。あいつには俺から説明しておく。……まあ俺が言ったところで信用されるかどうか怪しいがな」
「……先輩」
「あいつには俺も怒られたよ。……つーか、まじでブチ切れられたし。久しぶりだったな、あんなに怒った志木村見たの」

 懐かしむように目を細める裕斗。その原因が俺だと思うとあのあとの場を想像しただけで生きた心地がしなかったが、裕斗は然程気にしていない様子だった。

「……ああ、言っとくけど、別にお前のことを責めてるわけじゃないからな」

 全部、覚悟の上だと裕斗は言った。こうなることも全部踏まえて、俺を受け入れてくれた。それがどれほどのことなのかわかっていた、だからこそ裕斗のメリットがなさすぎてその行動が理解できなかった。……違う、この男はこうなのだろう。メリットデメリットが行動原理ではないのだと。考えなしの馬鹿というわけではないはずなのに、それでもその行動はあまりにも非合理的で……どこまでも素直な人なのだろうと思った。

「……っぁ……」
「ん?」
「……ありがとう、ございます」

 この人に甘えたままではいけないとわかっていても、その優しさが今はありがたかった。裕斗はただ笑った。

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