天国か地獄


 54

 誰かを、誰か呼ばないと。

 芳川会長は、無理だ。指導室まで距離もある。
 一刻も早く止めないと、大事になる前に。裕斗を止められる人物を思い浮かべる。頭に浮かんだのは志木村だった。
 志木村から逃げ出した現在、本来ならば会いたくない人物だった。けれど、今はそんなことを言っている場合ではない。

 志木村の部屋へと向かう。扉をノックするが、反応がない。鍵もかかってる。
 ……どうしたらいい、このままでは。
 血の匂い、汚れた縁の顔を思い出し、血の気が引いた。この際、誰でもいい、裕斗を止められそうな人を呼んで――。
 そう、踵を返そうとしたときだ。振り返りざま、いつの間にかに背後にいた何者かにぶつかった。反動で蹌踉めきそうになり、すみません、と慌てて謝ろうとしたときだった。

「……おい、何やってんだ?そこで」

 そこにいた人物に、落ちてくるその声に、背筋が凍り付く。陰る視界、顔を上げればそこには会いたくない男がいた。赤い髪に、大量のピアス。そして、頭がくらくらするような香水の甘い匂い。

 ――阿賀松伊織だ。
 あの男は、まるで鬱陶しい物でも見るかのように俺を見下ろしていた。

「……ッ、ぁ……」

 最悪だ、こんな時に。
 治りかけていた舌に痛みが走り、下腹部がじわりと熱くなる。そんな中だ、ふいに俺の頭に一つの思考が過った。
 最悪のタイミングだが、もしかしたら阿賀松なら、或いは。二人の共通の知り合いである阿賀松ならば、裕斗を、あの二人を止められるのではないか。
 震えそうになる手をぐっと握り締め、俺は「あの」と喉奥から声を絞り出した。

「ぁ、あのっ、えに、し先輩と……裕斗、先輩が……っけ、んか、して……血が……俺……止められなくて……っその、……っ」
「……あ?」

 俺は、必死に阿賀松に事情を説明した。
 たどたどしく、支離滅裂な説明だったが阿賀松は二人の名前が出ただけで理解したようだ。

「はぁ、面倒臭えな。あいつら『また』かよ」
「っ、ま、た……?」
「おい、場所はどこだ」
「お、俺の、部屋……に……っ」
「そりゃいい。……ユウキ君、テメェも来い」

 え、と声を上げる暇もなかった。俺の首根っこを掴んだ阿賀松はそのままずかずかと俺の部屋へと向かうのだ。

 そして、自室前。
 扉を開けば、部屋の中は不気味なほど静まり返っていた。
「遅かったみたいだな」と笑う阿賀松はそのまま部屋へと土足で上がっていく。もう今更やつの行動に何をいう気にもなれなかった。それよりも。

「っ、縁先輩ッ!」

 ベッドの横、凭れるように倒れ込んでいた縁を見た瞬間息が停まった。鼻血で濡れ、内出血と腫れで最早原型を留めていない縁の顔。辛うじて開いているその目をゆっくりと動かし、こちらを見た縁。息がある縁に俺はほっとしたが、それも束の間のことだ。

「な……んで……そいつ、いんの……?」

 掠れた、血が絡むようなその声に、胸が酷く痛む。無事、ではない。見てわかるほどの大怪我だ。こうして意識があることだけでもよかった。
 けれど、縁はそうではないらしい。俺の背後、佇むその男を見上げる縁に阿賀松は笑う。

「お前がくたばってるところ見れるかも知んねえって思ってな、こいつに聞いて来た」

「オラ、いつまで寝たフリしてんだ」言うなり、縁を乱暴に引き摺り起こす阿賀松にぎょっとする。せめて、もっと優しくする方法はないのかと。元はといえば縁が煽るような真似をしたとはいえ、この大怪我だ。

「……っは、トドメでも刺す気か?」
「放っといてもくたばりそうなやつに手を出すほど暇じゃねえんだよ、こっちは」
「な…………ぐッ!!」

 瞬間、思いっきり縁の腹を殴る阿賀松に息を飲んだ。縁の体が大きく跳ねたと思えば、次の瞬間糸が切れたようにぐったりする縁に血の気が引く。

「え、縁先輩……っ!」
「ピーピー騒ぐんじゃねえよ、コイツ起きてっとうるせえから眠らせただけだ」

 他にも色々方法はあるはずだ、ただでさえ満身創痍の縁に追い打ちかける阿賀松にゾッとしたが、縁の息があるのを確認してほっと安堵する。けれど、何も解決していないのだ。

「ぁ、の……裕斗先輩は……」
「どーせあの馬鹿のことだ。逃げ出したユウキ君のこと探してるんだろうな。まあ次に来るとしたら、次は俺ンところ」
「……ッ!」

 ――最悪だ。最悪の事態が起きてしまった。
 阿賀松は他人事のように笑っているが、どこまでわかってるのか。少なくとも俺よりも裕斗の性質については知ってるだろうし、さっき『また』とも言っていた。

 以前にも、裕斗と縁が大喧嘩したというのは聞いていた。
 まさか、そのときのことも阿賀松はなにか知ってるのだろうか。

「丁度いい、お前も来い」

 そんなときだ、当たり前のように命令してくる阿賀松に思考停止する。よく考えてみれば、この男は俺にも少なからず恨みはあるはずだ。そんな相手にこうして助けを求めてしまった重大さに今になって冷静になってくる。そして、冷静になったあと覚えるのは強い後悔と、恐怖だ。

「こ、いって……」
「俺の部屋以外にどこがあんだよ」
「……っ!」

 まずい、この展開は。逃げないと、そう思うが、扉の傍には阿賀松がいる。逃げ……れるのか。無理だ。
 いくら縁を担いでるとはいえ、リーチも力も阿賀松の方が上だ。それでも、このままついて行ってしまえばろくな目に遭わないのは俺でもわかった。

「や……っ」

 嫌です、と首を横に振るよりも先に胸ぐらを掴まれる。そして体を乱暴に引き寄せられたかと思った瞬間、腹部に強烈な一発がのめり込む。腹の中に詰まった臓器ごと叩き潰すような衝撃に視界が真っ白に染まる。阿賀松の膝蹴りが入ったのだと理解したときにはなにもかも手遅れだった。

「だーかーら、拒否権はねえって言ってんだろ」

 ホワイトアウトしていく視界の中、阿賀松の声がすぐ耳元で聞こえた。




 乾いた音とともに弾けるような痛みに無理矢理叩き起こされる。飛び起きるように目を覚ませば、そこには見たくない顔があった。

「よお、よく寝てたな」

 ――阿賀松伊織。
 なんでここに、と考えるよりも先に体の痛みに記憶を引き戻される。
 ああそうだ、俺はこの男に眠らされて、それで……。
 見覚えのある部屋は間違いない、阿賀松の部屋だ。まさかと思い、辺りを確認するが壱畝の姿はない。
 けれど、安堵することはできなかった。

「何度叩いても起きねえから死んだのかと思ったじゃねえかよ」

 刺すように痺れ、熱を持ち始める頬。そして動くだけで筋肉全体が突っ張るような痛みに堪らず呻いた。通りでこんなに息苦しいわけだ。
 生きた心地がしなかった。
 それと同時に、自分が気を失う前のことを思い出す。そうだ、確かあそこには縁もいたはずだ。裕斗に殴られて怪我をしていた縁を更に殴って眠らせた阿賀松、俺がここにいるということは、と辺りを見渡すがやはり俺と阿賀松以外の人の影はない。
 乾く喉に固唾を流し込む。

「ぇ、にし……先輩……は……」

 そう、恐る恐る尋ねれば、阿賀松は目を細める。そして口元に緩い笑みを浮かべる。……俺の嫌いな笑顔だ。そして、伸びてきた手に胸倉を掴まれ力づくで引き起こされた。

「お前、自分よりもあいつを心配すんのかよ。変わらねえなぁ、脳天気なところ」

「……他に言うことあるだろ。それとも、王子様が来てくれるって信じてんのか?」纏わりつくような笑みとは裏腹にその声には不快感が滲んでいた。
 上機嫌なはずがないというのはわかっていた、それでも、いざ目の前にすると気圧されそうになる。刺すような緊張感に体が強張った。視線を外すこともできず、そのまま固まる俺に、阿賀松は顎の下を撫でてくる。

「どうやったか知らねえけど、あの単細胞を抱き込むのは悪くねえな。あいつは良くも悪くも曲がらねえやつだからな」

「あの眼鏡猿よかマシだぞ」その言葉に、下品な笑みに、顔が熱くなったのがわかった。裕斗との関係を誂われたのもあるが、それ以上に芳川会長のことを悪く言われたからだ。自分でもよくわからない感情が込み上げ、思わず阿賀松を見た。
 そんなことない、なんてこの男に行ったところで無駄なことだとわかってるのに歯がゆさにも似た感情が引っかかって、言葉に詰まる。
 そのまま押し黙る俺に、阿賀松は「なんだよ、そのツラ」と不快そうにその笑みを歪めるのだ。

「抵抗する気ねえくせに何か言いたそうだな。言えよ、俺はどこかのクソ野郎と違って寛大だからなァ……聞いてやらねえこともねえよ」
「……っ、……」  
「……おい、言えって言ってんのが聞こえねえのか?」

 何も言わない、言えるわけがない俺に苛ついた阿賀松は人の口に指を突っ込むなり「要らねえのか、これ」と舌を掴むのだ。まだ完治していないその舌を、焼かれた部分をわざと掴まれればその痛みに声が漏れそうになる。昨夜の恐怖が蘇り、背筋に冷たいものが走った。

「ふ、ぅ……ッ!」
「……何を企んでんだ?ユウキ君」

 舌を掴むその指に、唾液が滲む。息苦しい。それ以上に、このままでは本当に舌の根ごと引っこ抜かれるのではないかという恐怖心に頭が真っ白になっていく。
 逃げないと、この男から。そう思った瞬間、俺は考えるよりも先に口の中の指に思いっきり歯を立てた。
 阿賀松の舌打ちとともに、目の前の笑みが怒りに歪む。口の中に広がる血の味に、俺は一瞬の隙を狙ってその指を引き抜いた。そして、そのまま阿賀松から逃げようとしたとき。

「……そうだよなぁ、お前見てえな聞き分けの悪い野郎があれだけで足りるわけねーか」
「っ、……ん、ぅ゛……ッ!」

 思いっきり腹を蹴り上げられ、思考が途切れる。体が浮いたかと錯覚するほどの衝撃と、肋が折れたんじゃないかと思うほどの激痛。膝から力が抜け落ち、そのまま膝を付きそうになる。それをぐっと堪え、蹌踉めく体を無理矢理動かすように俺は玄関に向かって駆け出した。

「ハ……ッ、逃げられると思ってんのかよ」

 逃げられるなどと思わない。その場しのぎだということもわかってる。けれど、このままこの男に嬲り殺しにされるくらいならと伸ばした手でドアノブを掴んだ。
 あと一歩、ドアノブを捻って扉を開けばいい。
 痺れたような痛みに、思うように動かない体。悲鳴を上げるのを堪え、思いっきり指先に力を加えたときだ。

「それ、本気か?」

 背後から聞こえてきた、呆れすら滲むその声に心臓が跳ねる。首根っこを物凄い力で引っ張られ、そのまま背後へと引きずり倒されそうになる。崩れるバランス。なけなしの力を振り絞って扉を開いたそのときだった。扉の向こう、差し込む光と、そして。

「っ、え」

 目の前、扉の向こうから伸びてきた手に、伸ばしかけた腕ごと引っ張られる。そこにいるのが誰なのか確認する暇もなかった。けれど、そのまま抱き締められる体、その腕には覚えがあった。

「っ齋藤、大丈夫か?」
「ゆ、うと……先輩……」

 どうして、なんで、という疑問よりも、その顔を見た瞬間条件反射で安堵しそうになる。
 が、すぐに思い出した。
 俺は誰から逃げていたのか、を。そして、背後にいる男のことを。




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