天国か地獄


 53

 最悪のタイミングに最悪の状況。
 どうすればいい、どうすれば穏便に切り抜けられる。いや、どう足掻いても切り抜けることは難しい。
 それならば、と決断するよりも先に、縁に肩を叩かれる。顔を上げれば、こちらを見つめてくる縁はふっと柔らかく微笑んだ。
 君は何もしなくていい、そういうかのように。
 その反応に困惑していたとき、俺の反応を待つよりも先に縁は俺の前に出た。

「なんだ、亮太。……お前飽きないな、まだ齋藤君に付き纏ってたのか」

 あろうことか志摩の神経を逆撫でするような縁の言葉にぎょっとする。露骨に志摩の不快感が増すのが目に見えるようだった。

「それはこっちのセリフですけど。……どういう風の吹き回しですか、阿賀松の犬はやめたんです?」
「そうそう、あいつの出す餌に飽きちゃったワン」
「……っ、ふざけんのも大概にしろよ」

 まずい、と思ったときには手遅れだった。
 声を荒げた志摩は縁の胸倉を掴む。気が長くない縁のことだ、殴りかかるんじゃないかとひやりとしたが、縁は終始余裕な態度を崩さない。それどころか。

「そもそも巫山戯てるのはどっちだろうね?……齋藤君、そろそろはっきり教えてあげた方がいいんじゃない?忠犬みたいに健気に待てしてるこいつに」
「っ、ぇ……?」

 話を振られ、困惑する。
 何を言おうとしている、この男は。何を企んでいる、この男は。本当にこの男に任せていていいのか。ぐるぐると思考が回る。けれど、いくら考えても頭の中には『手遅れ』の文字が浮かんでは埋め尽くしていくのだ。

「齋藤君が言えないなら代わりに俺が言ってあげようか」

 縁は答えられない俺を咎めることはしなかった。恐らく縁のシナリオには最初から俺の返答など組み込まれてなどいなかったのだろう。何を、と睨む志摩の手首をやんわりと掴み、そして縁は優しく笑うのだ。

「亮太、お前が何を期待してここにいるのか知らないけど、無駄だよ。齋藤君はお前のことなんかこれっぽっちも思っちゃいない」

「……寧ろこうして押し掛けてきてヒーロー気取ってるのかもしれないが、間に合ってんだよ。つまり、お前はただ一人空回ってる可哀想なやつってわけ」縁の声は優しい、けれどその内容はあまりにも直球で。
 最も志摩が嫌がる言葉だとわかっていた、わざと縁は志摩を怒らせようとしているのだとも。志摩の顔を見ることすら怖かった。違う、そう言いかけたとき、縁はこちらを見た。

「齋藤君、中途半端に情けかけるからこいつも余計付け上がって周りが見えなくなる。こういうのはちゃんと言わないと」
「先輩……っ」
「君が好きなのは誰なの?」
「――……ッ」

 息を飲む。
 有耶無耶にしていたツケが回ってきたのか。否、本来ならばこうしてきっぱりと断るのが最善だったのか。
 今更考えたところでわからないが、それでも、縁の問い掛けに浮かんだ人は少なくとも志摩ではない。

「ぉ、お……れは……っ」

 志摩の反応が怖かった。志摩の無言が怖かった。それでも、俺が一番恐れているのは志摩ではなく。

「っ、ごめ、ん……志摩……」

 絞り出した末、出てきた言葉は謝罪だった。
 志摩には、何度も助けられたのも事実だ。それ以上に、苦しめられた。それでも心の底から嫌いになることはできなかったし、それなのにまだこうして俺を友達だと思ってくれている志摩の存在は良くも悪くも俺にとっては大きかった。
 ――引き際だ。
 そして縁がそれをお膳立てしてくれたのだ。

 想像できていたことだが、志摩がそんな言葉一つで納得できるはずがなかった。

「なに、その……ごめんって。方人さんに言わされてるだけでしょ……そんなの聞いてはいそうですかって納得できると思ってるわけ?」

 強くなる語気。こちらを睨んでくる志摩に、縁は「ああ、お前はすぐに納得するよ」と口にするのだ。
 俺は、志摩の顔を見ることができなかった。

「――っ、な……んだよ、なんだよその顔……ッ!こっち見ろよ、齋藤……っ!」
「いい加減分かれよ、俺だってこれ以上亮太に辛い思いしてほしくなくて言ってんだよ」

「お前、今すごい可哀想なやつだぞ」憐れむような縁の目に、フォローも返せない俺に、志摩の言葉が詰まった。
 嫌なくらい饒舌で、どんな嫌味にも言い返していたような気丈な志摩が、言葉を失った。ああ、と思った。何かが崩れるような音が聞こえる。それがなんなのか、考えたくもなかった。

 志摩は、縁を突き飛ばす。「おっと」と蹌踉めく縁。まさか本気で殴るんじゃないかと身構えたが、志摩はこちらを見ることはなかった。そして、そのまま踵を返して歩き出す。

「……し……」

 志摩、と咄嗟に呼び止めそうになり、縁に制される。
「今止めたら逆効果だよ」そう、優しく咎められる。
 これで、いい。これでよかった。そう自分に言い聞かせようとするが、あんな志摩見たことなかったから、黙って立ち去る志摩なんて見たくなかったから、本当に、本当に嫌われた。

「大丈夫、君の選択は間違っていない。寧ろ、あいつにもいい薬になったはずだよ」
「……っ、縁……先輩……」
「そろそろ部屋に入ろう。また誰かに見つかる前にね」

 鍵、持ってる?と言われ、俺は慌ててキーを取り出した。わからない、何かが間違ってるのか。けど、縁がそう言ってくれるだけでまだ救われた。
 誰も傷つけないなんて、無理なんだ。……そう自分に言い聞かせることでしか乗り切ることはできなかった。



 自分の選んだ道だ、今更悔いても遅い。何度目だろうか、こうして自分に言い聞かせるのは。
 部屋の中は変わらない光景が広がっていた。締め切っていた部屋を換気し、空気を入れ替える。けれど、この最低な気分までも切り替えることはできなかった。

「もしかして亮太のこと、気にしてる?」

 何もない部屋だが、あくまでも縁は客人だ。縁を持て成すために飲み物くらいは出そうとしていたとき、ソファーに腰を下ろしたまま縁は声をかけてきた。
 志摩の名前を出され、息が詰まりそうになった。
 あまり考えないようにしなければ、そう思っても俺の脳の大半を志摩が占めていた。

「…………すみません」
「君は本当に正直だね、そこが齋藤君の美徳でもあるんだろうけど。……というより、君もやるね。嫌がられるかなと思ったのに」

 何を、とは言わずとも理解できた。志摩のことだろう。縁も俺が乗るとは思わなかったらしい、それなのにあんなことを言ったのかと呆れる半面、自分の仕出かしたことを思い出してはどんな顔をすればいいのかわからなくなる。

「それにしても、正直意外だったな。亮太があんなにあっさり引くなんて」
「……え」
「君に思うところがあったのは事実だろうけど、まさかあんなに気にしてたなんてね。……俺、初めて見たよ亮太のあんな顔」

 笑う縁の言葉に、言葉が出なかった。
 志摩の顔が浮かぶ、屈辱と羞恥とショックが混ざったようなあの、縋るような目を。

「どう出るかな、本当に諦めると思う?」
「……」
「……はは、わからない?俺は……そうだね、これは俺の希望なんだけど、裕斗君にトドメ刺してくれたら最高なんだけどなぁ」
「……っ」

 やめてくれ、そんなことを言うのは。
 聞くに耐えなかった。俺が傷つけたとはいえ、そんな人たちを笑うのは、俺は。
 ……わかっている、本当は。縁が悪いのではないのだと、俺が、俺が最終的には自分で手を下したのだと。それでも、これ以上心を荒らされたくなかった。
 俺は持っていたグラスを縁の前に差し出す。なにもなかった、壱畝が買い足したのか見慣れないミネラルウォーターを入れたグラスを。
 そのまま、そそくさと立ち去ろうとしたとき、伸びてきた手に手首を掴まれる。しなやかで、細くて綺麗な指先。けれど見た目以上に指先は硬く、力強い。

「……駄目だよ、逃げたら」

 二つの目は俺を捉えて離さない。
 甘く、優しいその声はゆっくりと鼓膜から内側へと流れ込んでくる猛毒のようだった。

「っ、せん……ぱい……っ」
「大丈夫、何があっても俺が守ってあげるからね。……君たちの邪魔はさせないよ」
「……っ、……」

 また、だ。その言葉に、その優しさに、困惑する。
 俺のことを好きだとかなんだとか囁いてきた縁は、俺に、芳川会長に手を貸してくれる。少なくとも会長は縁のことをよく思っていないはずだ、ただの利害関係で一緒にいるのだと思っていたが、それでも縁の真意がわからなかった。ただ分かるのは、志摩裕斗――あの男が関係してることだけだ。

「……ど、うして……」
「ん?」
「どうして、そこまでしてくれるんですか……」

 こんなこと聞いたところでいつものように甘い言葉で躱されるに決まっている、わかっていても、聞かずにはいられなかった。緊張で舌がじわりと濡れる。
 縁の目がこちらを向いた、柔らかい笑みを浮かべたまま、ゆっくりと細められていく。
 いつもと変わらない笑みだとわかっているのに、何故だろう、細められたその目に見つめられた瞬間ぞわりと背筋が震えた。嫌な汗が全身に滲む。

「……なんでだと思う?」
「……っ、ゆ、うと先輩が……嫌いだから?」

 そう、恐る恐る口にしたときだった。縁の笑みが深くなって、そして、すごい力で引っ張られる。
 逃げる暇もなかった。ソファーの上、座る縁の方へと倒れ込む体を支えることもできなかった。顔を上げればすぐ縁の笑顔がそこにあって、頬を撫でられれば全身が凍り付く。

「っ、先輩……?」
「齋藤君は、あいつのことどう思った?」
「……っ、え……?」
「あいつと寝て、たくさん可愛がってもらえたんじゃないの?……あんなに齋藤君のこと構ってたもんな。それなのに、君はあいつよりも芳川君を選んだんだ。それって、ただ芳川君のことが忘れられなかった……だけじゃないんだろ?」

 心の裏側を覗かれているような不快感に身の毛がよだつ。
 違う、という言葉が出なかった。
 ……俺には、縁が言おうとしてるその意味がわかってしまったから。裕斗は、世間一般で見れば善人なのだろう。それも、真っ直ぐなほど、けれど、俺からしてみればその強引さが、優しさがただひたすらに恐ろしかった。
 何も言えない俺に、縁も察したらしい。ああ、やっぱりね、とでもいうかのようなそんな笑顔だ。

「別に、俺に対してまで誤魔化す必要はないよ。……あの男はここがおかしいんだ」

 トントン、と自分の胸を軽く指先で叩いてみせる縁。
 心、と言いたいのか。軽薄な笑み、けれど、裕斗のことを話す縁はいつもの笑顔とは違う……妙な顔をするのだ。まるで、何かを殺すような不自然な笑顔。

「あいつは大義名分があればなんでもするやつだよ、それはもう、芳川君なんて可愛いくらいだ。俺は、あいつほど傲慢なやつに会ったことがない」

 傲慢、と裕斗を形容する縁にまた違和感は濃くなる。
 けれど、その言葉の意味もわかった。裕斗は、太陽のような男だ。暖かくて、眩しくて――それでいて、苛烈な一面を持っている。それは、俺に対してではなく芳川会長とその周囲に向けられているのは間違えない。阿賀松のように武力行使しないだけましなのかもしれないが、それでも、ただのいい人だとは思えないのも確かだ。だから、何も言えなかった。

「……っ、……」
「その顔……可哀想に、あいつにイジメられたんだね」
「っ、そ……じゃないです……けど……」
「けど?」
「…………」

 それ以上は何も言えなかった。
 裕斗のことを完全に憎むことなどできない、今だって、こんな立場じゃなければと思わずにはいられない。けれど、縁の言葉を否定することもできない。
 何も言えなくなる俺に、縁は「大丈夫だよ」と俺を抱き締めてくれた。

「言いたくないなら無理しなくていい。……ごめんね、君は疲れてるのに無茶させちゃったね」
「っ、え……にし、先輩……」
「少し休みなよ。……俺は君がゆっくり休めるようにここにいるからさ」
「そ、れは……」

 流石に申し訳ない、と断ろうとするが、縁はしっ、と俺の唇に人差し指を押し当て黙らせるのだ。

「……確実にここに裕斗君たちは来るだろうからね、そのときは逃げやすい方がいいだろ?……だから、俺が見張ってるから」

 きっと、俺が断っても残るつもりなのだろう。
 ……それに縁の言うとおりだ、こんなコンディションで単身で逃げれる自信なんかなかった。
 それならば、素直に頼ったほうが良いだろう。
 そう判断した俺は「すみません」と何度めかの謝罪を口にした。



 休んでもいいと言われたが、こんな状況で寝れるはずがなかった。
 目を瞑っても脳裏に浮かぶのは志摩と裕斗のことばかりだ、神経が昂ぶっているせいか眠りは一向にやってこない。……それと、縁方人が同じ部屋にいるからというのもあるのかもしれない。
 心強い反面、縁のことは未だによくわからない。俺のことをよく助けてくれる縁。けれど、やはりまだ何かを隠しているからだろうか。このまま信用しても良いのだろうかという不安の方が強かった。そして、束の間の休息も案外あっさり終わりを告げることになる。

 部屋の扉がノックされる。その音に驚いてベッドから飛び上がったとき、ソファーに腰を下ろしていた縁は俺の方を見た。

「寝ててもいいよ、齋藤君」
「っ、でも……これって……」
「……相当暇なのか、それとも君のことがよっぽど好きみたいだ。……会いたい?」
「……っ」

 誰に、とは言わなかった。
 けれど、俺も縁も同じ人物を思い浮かべているに違いないはずだ。答えに詰まっていると、玄関口でドアノブがガチャガチャと音を立てて捻られる。そしてノック。

『……齋藤、いるんだろ?』

 扉の外から聞こえてきたその声に、ドクンと心臓が大きく脈打った。縁は扉を一瞥し、そしてゆっくりと重い腰を持ち上げた。

「隠れるなら風呂場に行ってていいよ。多分、あいつ鍵持ってるだろうからここへ入ってくるつもりだ」
「……先輩は……?」
「さあどうしようかな、君次第だよ」
「……っ」
「俺は裕斗君のこと嫌いだからあいつを泣かせたい気持ちもある」
「そ、れは……」

 そんな子供みたいなことを、と続けるよりも先に扉の方から音が聞こえてくる。鍵を開けようとする音だとわかったとき、縁は薄く笑った。

「――残念、時間切れみたいだ」

 そう、ベッドの側へとやってきた縁。どうするつもりなのかと顔をあげたとき、伸びてきた手に肩を掴まれる。そして、視界が大きく傾く。縁の肩越しに天井が見えたかと思ったとき、視界が陰る。ふわりといい匂いがし、そして唇に柔らかいものが触れていることに気づいたときには遅かった。

 なにをしてるのだ、この人は。血の気が引いた。けれど、片手で器用にネクタイを引き抜かれ、乱暴に服を脱がされそうになる。
 待って、待ってください、そう止める暇もなかった。
 扉が開く音が聞こえてきた。

「――……何やってんだ、お前」

 息が止まる。熱が顔に集まる。
 ……最悪だ。唇に這わされる舌も、吹きかかる吐息の熱も全部吹き飛ぶほどの、寒気。
 咄嗟に、縁の顔を手で抑えるもなにもかもが遅かった。

「……やだな、今お取り込み中なんだけ……」

 ど、と縁が言い終わるよりも先に、俺から引き剥がすように縁に掴み掛かる裕斗にぎょっとした。
 一瞬、何が起きたのかわからなかった。唇が離れて、体が軽くなったと思えば目の前で縁に掴み掛かる裕斗に血の気が引いた。なんで怒ってるのか、殴るなら縁じゃなくて俺だろう。いや、そんなことは今はいい。それよりも。

「っ、ゆ……うと、先輩……ッ!」

 落ち着いてください、と止める暇もなかった。
 肉と骨がぶつかるような嫌な音が響いた。裕斗が縁を思いっきり殴ったのだ。声を出すこともできなかった。
 あの裕斗が、という気持ちも大きかった。けれどそれ以上に殴られた拍子にどこかを切ったのか、鼻血が溢れる縁に冷たい汗が滲む。

「あーあ……裕斗君、駄目じゃん、暴力は……」
「お前まだ懲りてねえらしいな」

 笑いながら降参のポーズを取る縁。痛くないはずがない、それなのに笑ってる縁の真意に気付いたとき、ゾッとした。笑顔のない裕斗に、冷たい声に、再び殴ろうと固められたその腕に俺は咄嗟にしがみついた。

「っ、裕斗先輩ッ……だめです、裕斗せんぱ……っ!」
「齋藤、離れてろ」

 頭を撫でるように引き剥がされそうになり、嫌だ、と咄嗟に抱き着く腕に力を入れる。「齋藤」と、こちらを見たその目が僅かに揺れた。けれどそれもほんの一瞬のことだった。

「ヒーロー気取りがここにも居たか。……兄弟揃ってお気楽な脳味噌みたいで羨ましいよ」

 鼻血を手の甲で拭い、笑う縁にゾッとした。
 この人は、本気で裕斗を潰す気なのだと。それも、裕斗の方から手を出したという名目で。

「俺と齋藤君が愛し合ってる最中に邪魔してきて、おまけに……なに?痛いなぁ……鼻骨折してたらどーしよ」
「今ので折れるわけねえだろ、折られてえのか?」

 冷え切った空気に、冷え切った裕斗の言葉がただ怖かった。冗談なんかじゃない、どうすればいいのかわからなかった。やめてください、落ち着いてください、そうしがみつこうとするが、力が入らない。

「裕斗君がそんなことできるの?できねえだろ、綺麗事しか言えねえ花畑野郎。そんなんだから好きな子に逃げられるんだろ」

 しがみついていた腕が振り払われたときには遅かった。
 反動で尻餅を付き、慌てて立ち上がろうとしたとき。縁の胸倉を掴んだ裕斗がそのまま馬乗りになるのを見て、頭の中が急激に冷えていく。
 駄目だ、駄目だ。これ以上は。

「――裕斗せんぱ……ッ」

 ……間に合わなかった。
 床に押し倒された縁はそのまま思いっきり殴りつけられる。ただでさえ大きな手のひらと拳だ、殴りつけられた痛みは考えただけで生きた心地がしない。
 止めないと、そう思うのに、見たことのない裕斗に、その気迫に気圧され、足が竦んで立ち上がることができなかった。

「っぁ゛、ハッ!ハハッ!お前、やりやがったな!……ッぐ、ゥ!……ッ、はッ……ハハ!おしまいだよ、お前、やったな、お前……ッ!」

 三発、四発、五発。何度殴ったのかわからない、それでも、縁の笑いは途切れない。けれどその声に濁ったものが絡み始める。真っ青な髪の下、あのきれいな顔が今は見る影もないほどに腫れ上がり、血で濡れたその顔を見た瞬間、俺はそこでようやく事態の異常さを理解する。
 このままでは、いけない。なにが、なんて考えたくもなかった。けれど、俺では止めれない。止められない。無理だ。誰か、誰か、他の人を。

 震える体を引きずるように起こし、俺は、自分の部屋を出た。二人を残して、その場から逃げ出したのだ。


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