天国か地獄


 52※

 どうして、会長。なんで、こんなこと。

「出来ないのか?」
「……っ」

 やらないと、怒られる。呆れられる。……叩かれる。
 それだけは、嫌だった。会長に失望されたくない、その一心で指先の震えを堪えて俺は自分の制服に手を掛けた。
 恥ずかしくない、こんなの、平気だ。会長の前で裸になるのは初めてではない。そう思うのに、裕斗との行為の痕がまだ色濃く残った体を会長に晒すとなると酷く居た堪れなくなる。
 消え入りたい、けれど会長はそれを許さないだろう。
 乾いていく口の中、唾液を飲み込み無理矢理潤そうとする。指が縺れて上手くボタンを外せない。
 会長の冷たい視線を感じる都度息が上がり、悪い夢でも見てるような気分になった。
 シャツの前をすべて外し、恐る恐る袖から腕を抜いた。前を隠すように畳み、それを床に置いた。
 恥ずかしい、恥ずかしい、嫌だ、見られたくない。
 ……会長に失望される。

「何をしている。全てだ。……早くしろ」
「っ、は、い……」

 キスマークの残った胸を隠すことも許されない。
 濡れた下着に恐る恐る手を掛ける。静まり返った部屋に、濡れた音が響いた。それをゆっくりと下ろしていけば、自然と前かがみになる上半身。俺は下着を足首から外し、スラックスごと足元に置く。全裸だ。今このタイミングで誰か来たらと思うと気が気でない。
 座り込んだまま、俺は下半身を腿と手で隠したまま動けなくなる。

「っ、ぬ……脱ぎました」
「立て。立って扉に手を付けて腰を突き出すんだ」
「っ、え……」
「さっさとしろ」
「……ッ」

 会長の指示通りにしたときのことを想像し、顔が熱くなる。見られたくない。どうしてもその気持ちまで殺せない。けれど。
 体が、勝手に動く。もう、正常ではない。わかっていた。いまさらこの体に守らなければならないようなものも、なにもない。
 汗が滲む。唇を噛み締め、羞恥を殺す。これは、罰だ。
 俺が、俺が会長を裏切ったから。会長の顔に泥を塗ったから。裕斗と会長を、少しでも比べたりしたから。

 会長に背中を向け、扉に手を付く。
 絡みつく視線がはずれない。これでいいのか、わからない。けれど、怖くて背後を振り返ることはできなくて。
 そんな中、腰を掴まれ息が止まりそうになる。
「足を開け」そう、すぐ頭の後ろで会長の声が聞こえた。背後に会長がいる。それだけで息が詰まりそうになる。
 俺は、言われるがままおずおずと足を開いた。そのとき、柔らかくなった肛門に指を挿入され、堪らず息を飲んだ。

「ん、ひ……ッ」

 濡れた二本の指先は俺の意思なんて関係なく根本まで深く挿入される。まだ異物感の残ってるそこを刺激され、恥ずかしさと罪悪感に心臓が大きく反応するのだ。
 慣らされたそこに会長は気付いたのだろう。胸に伸ばされた手に逃れようとしていた上半身を抱きかかえられ、耳朶に唇が押し付けられる。

「……随分と可愛がられていたようだな」
「っ、ぅ、……っひ、ぐ……ッ」
「そのままあの男に可愛がってもらっておけばよかったんじゃないか?」

 あっという間に再度熱を持ち出す粘膜は会長の指に反応する。
 会長の心無い言葉に胸が苦しくなる。そんなの、俺が嫌だと言うと分かっててわざと聞いてるのか。それとも本心なのか。わからないが、無性に悲しくなる。

「っそ、んな……こと……っ、いちょ……かいちょ、じゃなきゃ……おれ……」
「そうやってあの男を誘惑したのか」
「……っ、ん、ぅ……!っ、ち、が……っ」

 違う。そう言いたいのに、複数の指に体内を掻き回され、残っていた痕跡も感触も全部塗り替えるように内壁を嬲られれば声は吐息に変わる。内腿が震え、ズルズルと落ちそうになる体を無理矢理掴まれ、壁に押し付けるように一気に奥まで指を挿入されればそれだけで瞼裏が点滅し、声が漏れた。

「恐ろしいな、君は。……危うく俺まで騙されてしまいそうだ」
「っ、ひ、ぅ゛ッ、ぢ、ちが、ァっ、ん、ぅ゛……っ待、ぁ……っ!か、いちょ……っ、待っ、ぅひ、ィ」

 喋ろうとすればするほど駄目だった。ストローク加えて中を摩擦され、浅い位置を指先で刺激される。それを緩急付けてされるだけで腰が抜けそうになり、声が震えた。足が竦んだ。剥き出しになった下腹部、そこにはいつの間にかに血液が集まり、間抜けに勃起してるのを見て余計恥ずかしくなった。手を付いたままでは隠すこともできない。

「ぁ、っ、ひ……ッ!んぅ……ッ!ぅ、お、俺、ちが、あっ、んぅ……ッ!っ、ぁ、か、いちょ、ッ……会長……ッ!」

 まってください、も、やめてください、も言葉にならない。頭が真っ白になって、会長の手により呆気なく追い詰められた快感に思考は渋滞。ガクガクと震える下半身の熱は全身へと回る。
 ガタガタと扉にぶつかる体。追い込まれ、会長の指から逃れようとする体ごと会長に捕らえられ、そして扉から引き剥がすように口を塞がれた。

「ふ、っ、ん、ぅ、う゛んんぅ……ッ!!」

 大きな手のひら。照明の下照らされる体は大きく跳ね、そして会長の指によって呆気なく果てた。
 ポタポタと落ちる精液に全身から力が抜けそうになる。
 こんなこと、見られたらだめなのに。会長だって危ないのに、それでも会長に触ってもらえた。そのことによる悦びの方が俺の思考を支配していた。
 朦朧とする頭の中、射精の余韻に浸っている暇もなかった。

「随分と早かったな」
「っ、ふ……ぅ……っ」
「泣くほど、これが好きか」

 目元を拭う会長の指に体が震えた。そして、そこで俺は自分が泣いてることを知った。なんの涙なのか俺にはもう判断つかない。近付く会長の顔に、その視線に、なんにも考えられなくなった。
 どうやったのか、どうしてこんなことになってるのかもわからない。キスをされ、髪を掴まれ、萎えることを知らない下腹部に力が入る。胸が苦しい。
 もう何でもよかった。会長が触れてくれて、会長が俺のことを見てくれるのなら、だらしないやつだろうが、淫乱だと笑われようがなんだって。
 会長にもっと触ってもらいたい。会長に気持ちよくなってほしい。会長の役に立ちたい。

「っ、すき、れす……」

 だから、と、会長に背中を向け、俺は恐る恐る自分の腰に手を回す。そして、震える指先で肛門を左右に押し広げる。

「っ、か……いちょう……」

 その先は、言葉にならなかった。好きにしてください。使ってください。何でも良かった、それでも、舌打ちとともに扉に側頭部を押し付けられたかと思ったとき、収縮していたそこに突如押し当てられる熱に息を飲む。

「……虫唾が走るな、その面」

 そして、吐き掛けられるその冷たい声が聞こえてきたのを最後に、思考は途絶えた。

 声の出し方すら忘れていた。開いた口からは呼吸しか漏れなくて、物理的に押し上げられる器官ごと潰され、突き上げられ、文字通り抱き潰される。
 裕斗との行為に慣れ、忘れていた。脳を支配する恐怖と苦痛を。それ以上に、全身に回る猛毒のような熱を。
 指一つすら己の思い通りに動かせない、掴まれ、押さえ付けられ、意識を遮断されれば会長を受け入れるためだけの肉塊へと成り果てる。
 こうしている間だけ俺は余計なことを考えなくて済むのだ。ただ、会長の熱を感じる。それだけで十分だった。


 気付けば、床の上で気絶していた。
 指先一本すら動くこともできなくて、未だ異物感の残る下腹部は自分で閉じることすらできなくて。ぴくぴくと痙攣する下半身、意識はあるはずなのに体が動かない。

「いつまでそうしているつもりだ」

 声が聞こえる。会長の声だ。乱れたシャツも着直され、ベルトも締め直した会長は俺を見下ろすのだ。起きなければ、そう思うのに、鉛のように重い体を起こそうとすれば全身が悲鳴を上げ、股の間からどろりとした感触が垂れる。

「……っ」

 汚してしまった。指導室を。
 そう思うと酷く申し訳なくなり、居た堪れなくなる。会長は何も言わずにそれを見ていた。
 昔の会長だったら、きっと丁寧に一つ一つ俺を着替えさせてくれていただろう。『よく頑張ったな』と優しく抱き締めてくれたかもしれない。ありもしない妄想だとわかってても、だからこそ余計虚しくなって涙が溢れそうになり、ぐっと飲み込んだ。
 ……着替えよう。こんな姿見られたら、会長に迷惑がかかる。
 もたもたと服を拾い、汚れた下腹部を拭うこともできないまま下着を履いた。中から溢れる生暖かい感触が余計生々しくて、恥ずかしくなった。
 優しくされたいなんて思うのが烏滸がましい。俺は、会長を怒らせたのだ。……俺のせいだ。俺の。

「ただいまー、帰ってきたよ」

 不意に、扉が開く。そこから現れたのは縁だった。慌ててシャツを羽織った俺に気づいたらしい、縁は「お」と目を丸くし、そして笑った。

「もしかしてお取り込み中だった?」
「用は済んだ」
「ふーん、用ねえ」

 側まで歩み寄ってきた縁に顔を覗き込まれ、ぎょっとする。慌てて目を拭おうとしたとき、伸びてきた手にボタンを閉められる。

「いいよ、俺が着替えさせてあげるから。齋藤君はそのままじっとしてて」

 そう言って、縁は俺の前を留めてくれる。恥ずかしかったが、もたついてしまう今縁の気遣いはありがたかった。甘えてしまいそうになる俺に、芳川会長は無言でこちらを見ていた。ネクタイまで締めてくれる縁に、流石にそれはと断ろうとしたが、結局されるがままになってしまう。

「本当は俺が痕つけてあげたかったんだけど、芳川君に先越されちゃったね」
「……っ、……」
「気持ちよかった?……芳川君は荒そうだからねえ、大変だったろ?」
「ごちゃごちゃ喋ってないでさっさと済ませろ」
「おお、怖いなあ」

「ほら、完璧だ」とネクタイをそっと撫でる縁は俺から手を離す。恥ずかしいというよりも、惨めな気持ちの方が強かった。二人とも、関係を持っていることはお互いに知ってるはずだ。だからだろうか、こうしていること自体が異質な気がしてならない。

「芳川君、今度は君の番だよ。ほら、そこの椅子に座って」

「齋藤君、鍵、掛けてあげなよ」と、笑う縁に促され、俺は先程縁から受け取った手錠の鍵を取り出した。そして、机の上に置かれた手錠を手に取る。ずっしりとした重みに喉が乾く。手錠。会長に手錠を掛けられていた俺が、今度は会長の腕に手錠掛ける。おかしな話だと思った。
 それでも、椅子に腰を下ろした芳川会長は抵抗するわけではない。俺は、椅子と会長の腕を繋ぐ。
 ガシャンと小さな音を立て、会長は拘束された。
 恐る恐る会長を見上げる。会長は俺を見ようともしない。
 今度この鍵で外されるまで会長は身動き取れない。そう思うと酷く胸が痛くなると同時に、妙な感覚を覚えた。それもほんの一瞬のことだった。

「そろそろ八木君たちが来るかもしれないから気を付けなよ」
「あいつらの様子はどうだった」
「さあ、どうだろうね。そんなこと気にしなくてもきっとすぐに会えるよ。どうやら裕斗君は思った以上に齋藤君のことを気に入ってるみたいだったから」

 ――裕斗。
 正直、会うのが怖い。会いたくない。その原因を作ったのは俺だ。わかっていたことだが、きっと裕斗は俺のことを探してくれているのかもしれない。
 そう思うと酷く胸が苦しい。考えるな、そう言い聞かせ、感情を殺す。

「……っと、そろそろ俺たちは出ようか。こんなところ見つかったら怒られるだろうしね。それじゃあ、またね芳川君。齋藤君とのお別れのキスはいらない?」
「いいからさっさと出ていけ」
「そ?ならお構いなく」

「行こっか齋藤君」と縁に肩を抱かれそうになり、体が震える。一人で歩けます、とその手を払い除けようとするが、まだ感覚を取り戻していない体はすぐにバランスを崩しそうになる。
 縁にそれを支えられ、「無理しないで」と笑いかけられれば恥ずかしくて何も言えなくなる。

 ……芳川会長。俺がいたところで会長をイライラさせるだけだと分かっていたが、それでも心の奥底でもっと引き止めてもらいたいと後ろ髪を引かれるのだ。
 どんどん自分が欲深くなっていく。それを直視したくなくて、本心から目を背けるように俺は縁とともに指導室を後にした。
 指導室の前には例の風紀委員がいた。縁はその風紀委員に「それじゃ、見張り頑張ってね」と鍵を渡せば、そのまま指導室から離れていく。

「これからどこへ連れて行かれるんだろうって顔だね、齋藤君」

 縁はいつもと変わらない。寧ろ、いつもよりも上機嫌のようにすら思える。何も言わない、けれど顔を上げる俺に、縁はにっこりと微笑んだ。

「これから齋藤君の部屋にお邪魔させてもらうよ。生憎齋藤君の同室者の彼も伊織のところにいるみたいだし丁度いいだろ?……俺の部屋に連れて行こうかとも思ったんだけど、邪魔なのがいてね」
「……邪魔……?」
「伊織のやつからの連絡全部無視してるから伊織怒ってるんだよ。ま、そろそろ諦めてくれるといいんだけど」
「……」

 縁も縁だ。あの阿賀松を相手に逆らおうなんて……。
 けれど、今俺がこうしてることも阿賀松にとっては裏切りも同然なのだろうか。ぼんやりとした思考の中、俺はただ自分の心臓の音を聞いていた。

 学生寮三階。
 誰かに見つかると面倒だから人目につかない場所を通ろうという縁に連れられ、わざわざ遠回りして戻ってきた学生寮。肩を抱く縁の手は離れない。
 縁も、部屋に来るのだろうか。俺の部屋に。
 ……壱畝は、まだ阿賀松のところにいるのか。俺の代わりに殴られてるのだろうか、そう思いながら部屋の前までやってきたとき。

 部屋の前に人影があることに気付いた。そして扉の前、凭れるように待ち伏せしていたそいつは俺たちに気が付くと「齋藤」と俺を呼んだ。

「……なに、あのクソ兄貴の次は方人さん?」

「本当に忙しそうだね、齋藤」隠すつもりもないらしい嫌悪感、そして毒気に俺は、ああ、と思った。少しは予感していなかったといえば嘘になる。いなければいいのにとも思った。

「……志摩」

 何故ここで待ってるんだ。俺のことを。いつ戻ってくるかもわからないのに。裕斗のことを知ったのか。それとも裕斗から何か言われたのか。なんでもよかった。
 今は、志摩と会いたくなかった。待っていてほしくなかった。
 こんな姿、こんな顔、見られたくなかった。 
 ……笑えることにどうやら、今後に及んでまだ俺は体裁を気にしているらしい。



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