天国か地獄


 51

 校舎内、俺は芳川がいるという指導室の前までやってきていた。
 見張りらしき風紀委員の生徒はやってくる俺と縁を見るなりぎょっとする。
 そんな風紀委員に歩み寄った縁は、何かを取り出そうとするその手をわざとらしく握り締めるのだ。

「やあ見張りご苦労様、ちょっと休憩してきなよ。その間俺が見てきてあげるから」
「えっ、ぁ、でも……」
「聞こえなかった?……休憩は大事だよね?うっかり倒れちゃったりでもしたら大変だろ?」

「行ってきなよ」と、優しい顔して脅迫するのだ。
 青褪めた風紀委員は、すごすごとその場を立ち去る。呆気取られる俺を一瞥し、「こっちだよ」と縁は扉を開いた。
 そして、そこには――いた。ずっと会いたかった人が、そこにいた。

「…………何故、彼がここにいる」

 椅子に深く腰を掛け、持て余すように足を組んだ芳川会長は縁に背中を押されるように入ってくる俺を見て顔色を変えるわけでもなくそう口にする。
 踏み込んだ瞬間、この部屋の空気だけが異質なことに気付いた。机と椅子しかない簡素な部屋は警察ドラマで見るような取調室を連想させる。芳川会長は、確かにいた。冷え切った空気を身に纏い、感情すらも覆い隠すほどの分厚い見えない壁を感じた。
 ……それでも、良かった。会長の声を聞いた瞬間、あれ程冷え切っていた心が苦しくなる。

「齋藤君、裕斗君たちから逃げて君の部屋に行くほど君に会いたかったんだってさ。だから、連れてきたんだ」
「勝手な真似を……」
「そこは粋って言ってほしいんだけどなー?……まあいいや、暫く外は俺が見張っててあげるから好きなだけいちゃつきなよ」

 縁は芳川会長が答えるよりも先に、指導室を後にした。
 ピシャリと閉め切られた扉、再び指導室に静けさが取り戻す。俺は、暫くその場から動けなかった。無言で立ちすくむ俺に会長は溜息混じり、俺に視線を投げかけた。

「……いつまでそこで突っ立っているつもりだ」
「……っ、……」

 こっちへ来い、と言われてるような気がした。見えないリードを強く引かれるように、体は動いていた。芳川会長の傍へと一歩、また一歩と歩み寄り、そして気付いた。椅子の上、後ろ手に拘束された両手首は椅子から離れないように手錠で繋がれていることに。

「っ、か、いちょ……」

 なんで、こんなもの。慌てて会長の手錠を外そうとするが、鍵が必要らしい。「無駄だ」と芳川会長は吐き捨てる、余計なことをするなと視線で続ける会長に、俺はどうすることもできず、ただその場に蹲ることしかできなくて。

「……何故、ここに来た」
「……っ、……」
「あの男が許可したわけではないのだろう。……君の独断か」

 怒られてるのか、冷たいその声に全身が緊張する。トクトクと脈打つ心臓に、指先から体温が失せていくのを感じた。あの男と言うのは裕斗のことなのだろう。

「っ、……おれ、は……」

 俺は、どうしてここに来たのだろうか。ずっと考えていたのに、いざ会長を前にすると何も考えられなかった。
 頭の中が真っ白になって、ただ、その声を聞くだけで酷く泣きそうになる。悲しいのか怖いのかもわからない。けれど、会長がいる。会長が俺に話しかけてくれてる。それだけが嬉しくて、安心する。自分が正常ではないというのはわかっていた。けれど、どうすることもできなくて、俺は、気付けば椅子に座ったら会長の膝に縋り付いていた。冷ややかな目が俺を見下ろす。それでも、よかった。

「っ、ぉ、おれ……っ」
「……」
「っ、おれ、会長が他の人たちに悪く言われるのが……嫌です、嫌なんです、何も知らない人たちに、悪く言われるのが……耐えられなくて……っ……お、おれ……っ」

 感極まって、言葉が突っかかる。震えようがみっともなく裏返ろうが止まらなかった。堰き止め続けていた感情は溢れ出し、自分でも抑えることができなくて、溢れ出す熱に頬が濡れる。なんで自分が泣いてるのかもわからなかった。
 裕斗のせいだ、あの男のせいで、自分が自分じゃなくなる。会長のことを嫌いになりたくなかった。おかしいと思いたくなかった。思い出を消されたくなかった。
 言葉にならず、俺はそのまま会長にしがみついたまま何も言えなかった。会長は、慰めることも振り払うこともしなかった。わかっていた、だから、俺は会長に何も求めていなかった。
 それでも、今の俺にとっては会長に拒絶されないことだけが救いだったのだ。

「……いつまでそうしてるつもりだ」

 その言葉にハッとした。何も言わない会長に甘えていた。声を掛けられ、そこで自分のしてることに、その醜態に気付く。慌てて会長から飛び退いた。

「……っ、ご、めんなさ……ぉ、お……おれ……っ」

 恥ずかしい、とか、怒られたらどうしようとか。不安が込み上げてきてはまともに会長の顔を見ることはできなかった。濡れた顔を拭う。そのまま顔を上げられなくて、それでも、部屋から出ていくこともできなかった。
 石になったように動けなくなる俺に、芳川会長は「齋藤君」と俺を呼ぶのだ。
 それだけで、胸の奥、心臓が跳ねる。胸が苦しくなる。目の前が徐々に赤く染まっていく。

「……顔を上げろ」

 その言葉が何を意味するのかわかっていた。分かっていたからこそ、逆らうこともしなかった。まだ乾いていない顔を上げればすぐ目の前にはこちらを見下ろす会長がいた。
 鼓動が加速する。掌に滲む汗を拭い、俺は顔を寄せた。
 落ちた陰は濃くなる。
 黒い前髪の下、向けられた視線は最後まで俺から外れることはなかった。

 涙はいつの間にかに乾いていた。唇の熱だけがやけに残っていて、じんと痺れるような感触に暫く何も考えることができなかった。

「……縁方人を呼べ」

 放心する俺を他所に、会長はそうただ静かに告げた。
 何故、とは聞き返せなかった。はい、と答えた声は震えてしまい、ちゃんと会長にまで届いたかすら俺にはわからなかった。
 指導室の外には縁がいた。壁を背にするように凭れていた縁は現れた俺を見るなり、「あれ?もういいの?」と不思議そうな顔をする。

「ぁ、あの……会長が……縁先輩を呼べって……」
「あー、そういうこと。わかったよ」

 縁はにこりと笑って、それからすぐに指導室へと入っていく。ちゃんと自分がまともな顔をしていられたのか自分でもわからなかったが、それを知る由もない。
 指導室へと戻れば、縁が会長の手錠を外していたところだった。自由になった手首を擦る芳川会長は俺に目を向ける。先ほどと変わらない、冷たい視線。それでも、俺には十分だった。

「扉に鍵を掛けろ」

 言われて、慌てて扉を閉める。震える手で内鍵を掛ければ、縁は適当な椅子を一脚引っ張り出し、「どうぞ」と俺の前に置いてくれるのだ。
 躊躇っていると、隣の椅子に腰を掛ける縁は「どうしたの?」と不思議そうにする。

 今から何があるのか俺にはわからなかったけど、このまま立ったままでいるのもおかしい気がして、俺は慌てて椅子に腰を降ろす。
 正面には芳川会長と、隣には縁。
 ――まだ、夢を見てるようだった。目の前には会長がいる。

「齋藤君も思い切ったことするね。……それより、再会のハグはしなくていいの?俺、なんならもう一回席外しとくけど」
「余計なことを言う暇があるなら状況を説明しろ」
「冷たいな。……嫌わないであげてね、齋藤君。芳川君ここ最近ずっと部屋閉じ込められっぱなしだったからイライラしてるんだよ。ま、君に同じことしてたわけだけどね」
「無駄口を叩くなと言ったはずだが」
「そうピリピリしないで。ほら、齋藤君も怖がってるじゃん」

 芳川会長は何も答えなかった。無言で縁を睨む会長に、縁は「わかったよ」と肩を竦めて笑う。いつもと変わらない人良さそうな笑顔。

「……とはいえ、俺も状況よく飲み込めてないんだよね。裕斗君に君がえらく気に入られてるのは見たんだけど、そんな齋藤君がどうしてここにいるのかな。もしかして本当に芳川君に会いにきたの?」
「……っ、そ……れは……」

 言えるようなものではない、それも、会長の前で。
 口籠る俺に、縁は「ん?」と小首を傾げる。

「ぉ……お、れ………俺は……っ」
「……ゆっくりでいいよ、大丈夫だから」

 深呼吸してご覧、とそっと背中を撫でられ、心臓に突っ掛かったシコリのようなものが大分薄れていくのがわかった。怖いのに、それでも縁の優しい声はそんな隙間から入り込んでくるようにすっと溶けいるのだ。
 浅くなる呼吸を落ち着かせるように大きく息を吸い、それを吐き出す。そうすれば、縁は「よくできたね」と肩を撫で、そして手を離した。

「お、俺……ゆ、裕斗先輩……を……うっ、裏切って……しまって……それで、怒った志木村先輩に、部屋にいろって言われたんですけど……勝手に……出て……」
「裏切った?」
「…………っ、…………」

 言えるわけ、ない。額にじんわりと汗が滲む。
 芳川会長はそんな俺をただじっと見るだけだった。何をされるわけでもない、それなのに、圧に押し潰されそうになる。

「齋藤君、大丈夫だよ。そんなに怖がらなくても。少なくとも俺は、君の勇気ある行動について嬉しく思ってるんだから。ま、芳川君は知らないけど」
「……端的でいい、説明しろ」
「また芳川君はそういう言い方するんだから。可哀想に、震えてるじゃん」
「今更君が何したところでなんとも思わない。……言う気がないのなら俺が当ててやろうか」

「志摩裕斗と寝たな、齋藤君」呼吸が、停まる。
 ごく当たり前のように口にする芳川会長に全身から血の気が引いた。熱が失せていくのがわかった。自分がどんな顔をしてるのかすらわからない。向けられたその目は確かに俺の隠そうとしていたことを暴いた。否定しない俺に、縁は「やるねえ、齋藤君」と笑う。

「っ、ど、して……」
「君の性格を考えれば簡単なことだ。既成事実を作ってしまうことが一番貶すのに容易いからな」
「……っ、……ご、めんなさ……」
「今更だと言っただろう」
「…………っ」
「そうかぁ、齋藤君裕斗君とセックスしたんだ?どうだった?映像は残してないの?写真とかは?」
「……っ、そ、んなもの……」
「じゃあ志木村君に見られたってこと?」

 顔が熱くなる。
 どうにも思わないと言われたこともショックだが、それ以上に会長に暴かれることが何よりも恥ずかしくて、俺は恐る恐る首を横に振る。

「君からバラしそうにないし……じゃあ気付かれたんだ。志木村君、勘が鋭いからなぁ」
「……弱いな」
「うん、そうだね。証拠にしては弱すぎる。けど、芳川君と同じってわけだ」


 椅子から立ち上がる縁。そのまま俺の背後に立つ縁にぎょっとして立ち上がろうとしたとき、背後から回された手に思いっきり服の裾を掴まれる。

「っ、な、に……っ」

 するんですか、という声は言葉にならなかった。
 無理やり脱がされそうになり、たくし上げられた服の下、露出される体を二人に見られて全身に一気に血液が巡る。

「へえ、結構いっぱい痕つけられちゃったねー。案外激しく抱かれたんだ。うわ、歯型付いてるし」
「……っ、ゃ、め……っ」
「……あ、ねえ、待って齋藤。もしかして君、初めて抱かれたってわけじゃないの?」
「……っ!」
「キスマーク、濃さが違うのちらほらあるからもしかしたらって思ったけど……へえ、随分と可愛がってもらってたんだ」

 脇腹から胸元を中心に残ったその痕をなぞるように這う指先に、喉が震えた。やめてくれ、と懇願するが、縁はやめない。丸まって隠そうとする胸を無理矢理逸らされ、背もたれに縫い付けられるように照明のもと大きく晒される。

「このお腹のアザも裕斗君……なわけないか。そういや、昨日伊織のところ行ったんだってね?じゃあ、伊織にやられたのかな?」

 図星を指され、俺は答える代わりに縁を見た。いつもと変わらない人好きしそうな笑顔。

「なんで知ってるんだって顔だ。君のことは見ていたからね、芳川君が気になって仕方ないみたいだったから」
「…………」

 会長が?想像できず、思わず視線を向ければ否定も肯定もしない、そんな芳川会長はただ小さく息を吐いた。少なくとも機嫌が良さそうには見えなかった。

「もういい。……彼から手を離せ」

 芳川会長の言葉に、縁は「はーい」とやけに素直に手を離してくれた。慌てて肌を隠すようにシャツを戻せば、芳川会長は足を組み直す。

「ともかく、志木村が動くのも時間の問題だろう。君が逃げ出したとはいえ……俺のところにいるのは怪しまれる」
「かと言って志木村君たちのところに戻っても絶対有耶無耶にされるんじゃない?せっかく齋藤君が用意してくれたネタなんだから新鮮な内に使わないと」

「それに、目には目をって言うしね」固まる俺の肩を抱き、にっこりと微笑みかけてくる縁に血の気が引いた。
 会長は何も言わない。縁と同じことを考えてるということなのだろうか。会長が助かるのならそれでもいい。何でも良かった。けれど、胸の奥がざわざわする。まるでここにいるのが、こうして座ってるのが自分ではないような非現実感が俺をただ支配していた。




「俺、ちょっと志木村君たちの様子見てくるよ」

 そう言い出したのは縁だった。
 どうして、なんて聞くのも野暮だった。俺がいなくなった裕斗たちの反応を楽しむつもりなのかもしれない。
 縁が外へ出るとなると必然的に俺と芳川会長の二人きりになるわけだ。……裕斗との関係を知られた上で。そう思うと、生きた心地がしないというのが本音だ。
 良くも悪くも縁がいるだけで空気が変わる、安心感とは違うが、今の俺と芳川会長にとっては緩衝材的役割を果たしていた。

「……せ、んぱい……」
「ああ、もちろん暫く外からは誰も入ってこないように足止めさせてるから暫くは大丈夫だよ。それとも、芳川君もここから出る?」
「後が面倒だ。……俺はまだここで構わない」
「言うと思った」

「それじゃ、齋藤君。これ」微笑んだ縁はそういうなり俺の手に何かを握り込ませた。小さく硬い金属の感触。視線を向ければそこには小さな鍵が握らされている。

「芳川君の手錠の鍵だよ。ここから出るときは掛けてあげてね。じゃないと俺が怒られちゃうから」
「ぁ、あの……」

 どうして俺に、と言い掛けて、口を噤んだ。ちらりと会長の方を見れば、会長は目を伏せたまま視線を合わせない。勝手にしろ、そう暗に言ってるようにすら感じるのは俺の願望が入ってるからだろうか。
 手のひらの中の鍵を握り締めれば、縁は俺の頭を優しく撫で、そしてすぐに手を離した。 

「それじゃ、またね」

 そうニコリと手を振り、縁は指導室をあとにする。
 閉まる扉。外からはガチャガチャと施錠される音が聞こえてぎょっとする。咄嗟に扉を開けようとすれば、「無駄だ」と会長が口を開いた。

「外から解錠しない限りここから外へは出られない」
「……っ」
「あの男が戻ってくるのが先か、遅くても見張りの風紀委員が次に飯を運んでくるときまで限りこのままだ」

 背後で椅子を引く音が聞こえ、体が強張る。
 近付いてくる硬質な靴音に無意識に呼吸が浅くなり、鼓動は加速していく。背後で足音は止まり、目の前の扉に影が重なる。
 振り返ればすぐそばにいるというのはわかった、けれど、わかったからこそ振り返ることができなくて。
 何か言わなければ。沈黙に耐えられず、声を振り絞る。

「っご……ごめん、なさ……」
「何に対しての謝罪だ」
「……っ、そ、れは……」
「志摩裕斗と寝たことか?……それについてならばさっきも言ったはずだが。……元より、君の性質は承知していたつもりだ」

 嫌というほどな。そう、口にした芳川会長は俺の肩を掴む。無理矢理正面を向かされれば、すぐ目の前には芳川会長がいた。食い込む指先、こちらを見下ろす視線に、全身に冷たい汗が滲んだ。

「……っ、……き、きらいに……ならないで、くださ……」

 声が震える。その目に見つめられるだけで不安になって、会長の次の言葉が怖くて仕方なくて。
 そんな俺に、会長は息を吐く。そして、伸びてきた手に顎を掴まれた。それだけでも驚いたのに、その指が唇を抉じ開けるように伸び、徐に口を開けさせられる。

「ぅ、あ……っ」

 いつの日かの会長とのキスを思い出し、体が凍り付いた。時限爆弾みたいに激しく脈打つ鼓動、そして、体温を感じさせない芳川会長の指は俺の舌を捕まえ、そして、唇の外へと引きずり出した。驚いたが、抵抗する気もない。
 乾いた指先に舌の表面を撫でられれば、舌先に唾液が滲むような感覚を覚えた。

「……痛むのか?」

 いつ気付いたのか、舌の火傷のことに。びりっとした痛みに体が強張る。痛くないといえば嘘になるが、会長には気取られたくなかった。とどのつまり虚勢だ。数回、首を横に振る。

「へ、ぃひ、れす……」

 褒められるとは思わない。それでも、会長にこれ以上がっかりされたくなかった。舌を引っ張り出されたまま、そう答えれば会長の目がすっと細められる。そして、

「――……やはり、君を外に出すべきではなかった」
「っ、……」

 舌から指が離れたとき、鼻先に迫る会長に息を飲んだ。視線がぶつかり、顔面に熱が集まる。
 キス、される。そう直感した俺は、咄嗟にきつく目を瞑った。

「……ッん、ぅ……」

 心臓が、苦しい。
 愛想つかされてんじゃないのかと怖くて仕方なかったのに、会長らこうして俺にキスしてくれて、そして触れてくれる。それだけで、よかった。
 突き飛ばされて、叩かれて、無視されたっておかしくないのに。それでも、会長は俺を受け入れてくれる。こうして、触れてくれる。それだけで俺にとっては十分だった。

「っ、ふ……ッ」

 ……会長。会長。会長、会長。
 頭の中が塗替えされる。元の色に、黒く、何も考えられなくなるように塗り潰され、俺の中を満たしていく。舌の痛みすらも甘く感じた。
 許してくれるのか、こんな不甲斐ない俺を、会長は。まだ傍に置いてくれるのか。

「っ、は……ッ」

 酸素が薄くなり、多幸感に酔いそうになる。そして無意識に会長の背中に手を回そうとしたとき、芳川会長は俺から唇を離した。離れるその熱が名残惜しくて追いかけそうになり、顎の下を指で撫でられる。そして、持ち上げるように顔を上げさせられた。

「その顔、あの男の前でもしたのか?」
「っ、……そ、んなこと……っ」

 口籠る俺に、「答えろ」と会長は冷たく促す。跳ね除けるような強い語気に怒られてるような錯覚を覚え、体が震えた。
 恐る恐る首を横に振れば、会長は納得するわけでもなく、更に詰め寄ってくるのだ。

「……ならば、あの男をどうやって籠絡にした?あの男のことだ、自ら君に手を出したわけではないんだろう」
「……っ、……」

 指摘され、恥ずかしさでどうにかなりそうだった。
 急激に冷えていく指先。会長と裕斗は俺よりも長い間一緒にいた。会長の方が裕斗のことは知ってて当然だ。
 会長に隠し事などできるはずがない、そんなこと俺が一番よく知ってるはずなのに。

「……俺にはできないのか」

 その声に囁かれると、その目に見詰められると、見えない鎖で雁字搦めにされているような錯覚に陥る。
 逆らえない、会長に逆らいたくない。この人に失望されたくない。怒られたくない。――捨てられたくない。
 恐る恐る、会長の肩に触れる。背伸びするように、俺は会長の唇に自分の唇を押し付けた。

「……っ、ん……ぅ……」

 羞恥心が完全になくなったわけではない。
 今だってこんなに心臓が鳴っている。それでも、会長に見詰められれば逃れることもできなかった。
 一文字に結ばれた唇を柔らかく唇で挟み、ちろりと出した舌で舐めた。何も考えられなかった。顔が焼けるように熱くなって、すぐ間近で俺を見る会長の目から視線を逸らせなくて、息が乱れる。
 会長の頬を両手で掴んで、何度もキスをした。
 最後にあったときよりもまた痩せたような気がする。より鋭くなった視線に、ぞくぞくと腹の中側が煮え滾りだす。

「っ、は……ぁ、……んん……ッ」

 どこまでしたらいいのかわからない。けれど、会長は止めない。俺は恐る恐る会長の首元に手を伸ばした。そして、ぷち、と芳川のボタンを外そうとして、伸びてきた会長の手に手首を掴まれた。
 強い力で掴まれ、背筋が凍る。怒られる。そう身構えたが、会長の反応は予想してなかったものだった。

「……なるほどな」

「あの男なら引っ掛かりそうな手だ」そう、会長は薄い唇、その両端を吊り上げるように笑った。そして、その腕ごと背後の扉に押し付けられる。

「っ、……は……ッ、か、いちょ……」
「何回抱かれた」
「わ、かんな……っ、ぃ、で、す……ご、めんなさ……っ」
「……数えられない程か」
「っ、ぁ、……っ」

 腹部、今朝方中に出されたばかりのそこを衣服の上からなぞられ、堪らず息を飲んだ。まだ裕斗の感覚が残ったそこは会長に触れられただけで熱を呼び起こすのだ。ずく、と疼き出す下腹部。声が漏れ、うつむく俺に、会長は笑みを消した。

「脱げ。……下着も全部だ」

 ここで脱いでみせろ。そう、吐き捨てるように口にする会長。その目は冷たく、冗談を言っているようには見えなかった。だからこそ余計俺は耳を疑った。


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