天国か地獄


 50

 俺は、裕斗とともに食堂を出る。
 裕斗は怒ってるのだろうか、それとも呆れてるのだろうか。それでも、俺が食べ終わるのを待ってくれた。

 食堂を出ると志木村が待っていた。
 俺と裕斗が出てるくるなり、待ってましたと言わんばかりの笑顔で迎えてくれる。

「おはようございます、齋藤君」
「……しき、むら……先輩」
「裕斗さんも。……随分と機嫌悪そうですね」
「別に?悪くねーよ。ただ考え事してるだけだっての」
「……ふうん、そうなんですか。珍しい」

「お前なぁ」と、ムッとする裕斗の横をするりと抜けて俺の前までやってきた志木村に内心ギクリとする。
 昨夜のことを思い出すと、どうしても志木村の真意が読めなくて怖かった。
 俺の顔をじっと覗き込んでくる志木村に、「あの」なんですか、と恐る恐る声を振り絞れば、やつは俺の頬に触れるのだ。

「……齋藤君、随分と喋りにくそうですね」
「……っ、……」
「……あの後、大丈夫でしたか?すみません、君だけを残して行くことになってしまって」

「まさかあそこまで伊織さんが君を気に入ってるとは思ってもいませんでしたので」と続ける志木村は本当に申し訳なさそうだった。
 大丈夫です、と慌てて離れようとしたとき、志木村の手が離れた。否、それが裕斗によって引き離されたものだと気付いたのは隣に現れた影があったからだ。

「大丈夫なわけあるか。お前、知ってたんだろ」
「なんのことですか?」
「こいつと、伊織のことだよ」

 裕斗が怒ってるのは肌でわかった。
 空気越しに伝わってくる緊張感に、息を飲む。なんで裕斗が怒るのか。理由はわかっていた。それでも、やめてくれという気持ちの方が強かった。

 裕斗先輩、と咄嗟に裕斗の腕を掴む。裕斗と志木村が揉めるところは見たくなかった。
 こちらを見た裕斗は、「別に、喧嘩してるわけじゃない」と宥めるように俺の頭を撫でてくれる。それを見ていた志木村の目が、僅かに細められるのを俺は見てしまった。

「裕斗さん、貴方……」
「質問に答えろ。志木村。知ってたのかって聞いてるんだよ」

 肌に纏わりつくような嫌な空気に呼吸器官が締め付けられるようだった。やがて、観念したようだ。仕方ないと言うかのように志木村は小さく息を吐いた。

「……裕斗さんは休学中でしたから知らないのでしょうが、有名な話でしたよ。彼が、最初は伊織さんの恋人だったというのは。僕の耳まで届くくらいでしたからそれはもう相当」
「知ってて俺に黙ってたのか?」
「裕斗さんが復学したときには既に恋人は芳川君になった後でしたから。もうすでに終わったものかと僕も思ってたんですよ」
「そんな相手のところに齋藤を連れて行った理由はなんだ?アイツになにか言われたのか?」

 志木村の視線がちらりとこちらを向いた。
 部屋を抜け出し、裕斗の後を着けていたことを言われてしまう。そう思うと胃が痛む。けれど、自業自得だ。元はと言えば俺が悪いのだから。
 俯いた時、志木村の視線が外れる。そして。

「……まあ、そんなところですよ。伊織さんに頼まれていたんです、貴方の目を盗んで彼に会わせてほしいと」

 息を飲み、志木村を見る。いつもと変わらない穏やかな表情。目が合えば、志木村は微笑んだ。
 なんで、そんなことを言うのか分からなかった。本当なのか。けれど、あのときの阿賀松はそういう態度ではなかった。まるで予測してなかったような反応だった。
 庇って……くれてるつもりなのか、俺の尾行のことを黙っているということか。わからない、わからないからこそ余計不気味だった。

「それで、会わせたのか」
「ええ。それ以外に理由がありますか?」
「お前はもう少し賢いやつだと思ってたけどな」
「裕斗さんの親友ですからね、頼まれたら断れないんですよ」
「嘘だな」

「お前、嘘吐くとき毎回腕に触るの自分で気付いてるか」有無を言わせない強い口調だった。あの時と同じだ。迷いのない、決め付けるような語気。心強くもあり、それ以上に恐ろしく感じるその言葉に志木村の表情から笑顔が消える。
 ひやりとした空気に裕斗は気付いているのだろうか。

「誰を庇ってんだ?伊織か?……違うな」
「……」
「齋藤か?」

 音が止んだ。そう感じるほど、裕斗の声が大きく聞こえた。

「……それ、聞いてどうするんですか?」
「今更どうもしねえよ。ただ、お前がそんなしょうもない嘘吐くやつだと思わなかっただけだ。……隠し事すんなとは言わねえけど、ましな嘘を吐けよ」
「裕斗さん、どちらに」
「急用ができた。志木村、齋藤俺の部屋に連れて行ってくれないか」
「それはいいですけど……」

 そう、裕斗が立ち去りそうになったとき。咄嗟に俺は裕斗の腕を掴んでいた。驚いた顔をした裕斗がこちらを振り返るのを見て、冷たい汗が流れた。志木村も、何事かと俺を見ていた。

「……っ、す、みま……せん、俺……」

 何をしてるんだ、俺は。
 動揺のあまり言葉が喉に引っかかる。本当に、何をしてるんだ。慌てて裕斗から手を離そうとしたとき、今度は裕斗の手に手首を掴まれた。強い力で手を握り締められ、先程とは別の動揺が胸に広がる。

「……ッゆ……うと、先輩……」
「……わかったから、そんな顔するな」

 何を、という言葉は口からは出なかった。
 固まる志木村の目が痛い。けれど、裕斗は志木村の視線なんて気にも留めぬ様子で俺の手を掴んだまま志木村に向き直るのだ。

「やっぱいいわ、自分で連れて行く」
「……急用じゃなかったんですか?」
「もっと大事な用事が出来たからな」
「……別にそれは構いませんけど、手、離してあげたらどうです?……彼、困ってるようですけど」
「そうなのか?」

 二人の視線がこちらを向き、緊張する。慌てて首を横に振れば裕斗はようやく笑ってくれた。
 なら良かったと言わんばかりの安堵したような笑顔に、先程まであれほど苦しかった心臓の痛みが和らぐようだった。掻き乱される。いけないとわかってても、今までの自分がどうやって平静を保ってきたのかわからなくなるほど俺はこの男に引っ張られそうになるのだ。
 相手が裕斗だからか、それとも――……。

「……俺、は……だいじょうぶ、です」

 裕斗はニッと笑う。いたずらっ子のような笑顔が眩しくて、直視することはできなかった。けれど、手首を掴むその手のひらがやけに熱かったことだけは今でもやけにハッキリと残っていた。


 ◆ ◆ ◆


「ゆ、うと先輩……っ」

 扉を閉めると同時に抱き締められ、息が止まりそうになる。
 驚いて、それ以上に、裕斗の体温に、流れ込んでくるその心音に次第に緊張していた体が落ち着いていくのがわかった。裕斗先輩、ともう一度その名前を呼んだ時、俺の肩口に顔を埋めていた裕斗が顔を上げる。

「……ゆ……」

 そして、名前を呼ぶ前に唇を重ねられた。性急な裕斗の性格にもそろそろ慣れるだろうかと思ったが、やはり、そんなに簡単に慣れるほど俺の順応性は高くなかった。
 ちゅ、と音を立てて唇を吸われ、思わず身じろいだとき、裕斗の唇が離れた。瞼を持ち上げれば、目の前には真剣な顔をした裕斗がいた。

「……先輩」
「……駄目だな」
「っ、へ……」
「暫くは我慢しないとって思ったのに……齋藤見てると全然上手く行かねえ」

 なんでだろうな、と聞かれ、言葉に詰まる。顔に熱が集まるのがわかった。キスをされて、そんな風に言われて、少しでも安心してしまう自分にゾッとする。
 なんて答えればいいのかわからなくて、視線を落とせば、前髪を掻き上げるように露出した額に唇を押し付けられた。そして、そのまま抱き締められれば、とくんとくんと心臓の音が鳴り響く。

「先輩……用事は……」
「……んー、どうしようかな」
「……裕斗先輩……っ」
「わかってる、こんなのいけないってな。でも、そんな顔したお前一人残していけねーだろ。普通」

 戯れに唇を重ねられ、口にし掛けた言葉ごと呑まれる。
 ……よくない流れだとわかっていた。そして、裕斗も自覚はしてるのだろう。そのまま深く唇を重ねられ、壁と裕斗に挟まれた体に全身の熱が上昇するのがわかった。
 やんわりと押し返しかけた手首を取られ、そのまま手を握り締められれば抵抗できなくて、そのまま壁に押し付けられるように唇を貪られる。失いかける酸素に頭の中がぼーっとして、熱に溺れる。

 わかっていたはずだ、予測していたはずだ。裕斗にキスしたあの瞬間から、俺はこの人を陥れることになると。
 泥濘んだ足元ごと取られるように、動けなくなった体を這う指の感触に背筋が震えた。
 わかっていたはずなのに、罪悪感を殺しきれない。

 ――後悔してるのか、俺は。
 裕斗の優しさに触れたせいで、感化されていくのが怖かった。期待してはいけない、その先になにもないとわかっていても尚裕斗になにかを求めようとしてる自分が怖くて、その思考を振り払うように俺は裕斗の背中に腕を回した。ああ、もうどうでもいい。どうにでもなれ。
 考えるな、期待をするな、甘えるな、俺はこの男を殺そうとしているのだ。そんな相手に縋るなんて荒唐無稽もいいところだ。

「……っ、ハ……齋藤」

 優しい声で名前を呼ばないでくれ。慰めるように抱き締めないでくれ。そうやって俺を見つめないでくれ。恋人にするみたいな優しいキスをしないでくれ。
 俺を、人として扱わないでくれ。
 心地よく感じる都度罪悪感に絞め殺される。
 裕斗は俺の痛がるようなことはしない。寧ろ、俺を痛がらせないように気遣うような男だ。それが余計惨めになって、息苦しくて、辛いほど気持ちよくて、怖かった。

 裕斗と体を重ねたのは何度だろうか。毎日触れ合っている気がする。俺が拒絶すれば裕斗は無理強いしないだろう、それでも俺は裕斗を拒まなかった。裕斗も俺を拒まなかった。――不毛だと思った。
 裕斗は順調に踏み外してる。このことを志木村が知ればどう思うだろうか。裕斗を怒るだろうか、それとも俺を軽蔑するだろうか。あの優しい目が冷たくなるのを想像すれば恐ろしくなる。

 けれど、会長が少しでも白に近くなるのならば……我慢できた。耐えられた。……そう、耐えられるのだ。手の震えを誤魔化すように裕斗の背中に爪を立てる。
 会長の顔を思い浮かべる。会長の声を思い出す。そうすれば、目の前に居るのが誰であろうと耐えられたはずなのに。

「……齋藤、俺の名前、呼べよ」

 強請るような声。甘えるように鼻先を押し付けられ、息を飲んだ。

「っ、ゆ、うと……先輩……」
「……っ、齋藤……っ」

 満足そうに笑い、噛み付くように唇を重ねられる。
 裕斗の匂い、体温、声、愛撫に塗り替えられる。会長のことを思い出そうとするのに、手を握り締められれば掻き消される。他のことなんて考えられないくらい裕斗で満たされて、俺は、もうわけがわからなかった。
 なんでこの人に大切にされてるのか、なんで俺はこの人に名前を呼ばれてるのか、どうしてこんなところにいるのか。

 ――会長。……芳川会長。
 裕斗に抱かれてる間、ずっと頭の中で会長の名前を繰り返していた。そうしないと、自分すらも見失いそうで怖かった。俺は、会長のためにここにいるのだと。
 そう思わないと、耐えられなかったのだ。


 結局、最後までしてしまった。
 裕斗がシャワーを浴びる音を聞きながら、俺は暫く寝かされたベッドの上から動けなかった。裕斗は一緒に風呂に入ろうと言われたが、ただ洗い流すだけでは終わらなさそうな気がして流石に断っておいた。

 ……それにしても朝から、こんな日の高い内から何をやってるのだろうか、俺は。
 先程朝食食べたばかりだと思ったはずなのに、気付けば既に昼食の時間になっていた。

 服を着替える体力も残っていなかった。そんな中、不意に扉がノックされ飛び上がりそうになる。

 誰か来た。
 シャワールームには裕斗がいる。このまま居留守を使おうかと思ったが、もし志木村だったら俺まで出てこないのはおかしいと怪しまれるのではないだろうか。
 今朝のことを思い出し、なんとなく胸の奥がざわついた。俺は咄嗟に自分の服を手繰り寄せ、慌ててそれに着替えた。ベッドから立ち上がろうとすれば、股間の違和感と鈍痛に思わず声が漏れそうだった。

 やっぱり、居留守を使うべきじゃないか。
 そう思ったが、それでも急かすように鳴るノックの音に思考は乱され、混乱する。テンパった挙げ句、俺は一刻も早くそのノックを止まらせたくて、扉を開いた。そして、息を飲む。

「――……っ、し、きむら先輩」

 予想通り、そこにはあまり見たくない顔があった。制服に着替えていた志木村は、現れた俺を見るなり微笑んだ。

「ああ、良かった。やっぱり居たんですね。……裕斗さんはいますか?ずっと電話掛けてたんですけどあの人全然でなくて……」
「ゆ、うと先輩は……その……」

 います、と言うべきか迷っていたとき。志木村は部屋の奥から聞こえてくるシャワーの音に気付いたらしい。その目が僅かに開かれる。

「あ、もしかして風呂入ってるんですか?あの人」
「……はい」
「こんな時間に入るなんて妙ですね」

 志木村の一言に、痛いほど心臓が締め付けられる。じっとりと汗が滲み、息が浅くなる。俺は、何も言えなかった。志木村の顔を見ることもできなくて、俯いたまま押し黙る俺は痛いほどの志木村の視線を感じたのだ。あのときと同じ、冷たい目。そして。

「……齋藤君、君、もしかして裕斗さんと寝ました?」

 遅かれ早かれ、こうなることはわかっていたはずだ。想定内だ。それでも、何度も頭の中でしていたシミュレーションもなにもかも役に立たなかった。真っ白になった頭の中、俺は、志木村を見上げる。細められた目は、笑っていない。

「……裕斗さんと何やってたんですか?こんな昼間っぱらから」

 普段の表情から笑ってるような人の無表情ほど恐ろしいものはないだろう。流れる汗を拭うこともできなかった。遠くから聞こえてくるシャワーの音、それに混じって聞こえてくる裕斗の鼻歌。凍り付いた部屋の中に、その声は余計大きく聞こえた。
 声も、出なかった。否定しないと。何か言わないと。そう思うのに頭は真っ白になって、それと同時に、収まりかけていた全身の熱が上昇するのが分かった。
 わかってた、はずだった。自分のしてることがどれほど愚かなことくらい。

「……っ」

 咄嗟に、俺は逃げ出そうとした。逃げられるわけがないとわかってたのに、この目に耐えられなくて俺は部屋から出ていこうとして――呆気なく志木村に引き止められる。

「それは、肯定と受け取ってもいいんでしょうか?」
「っ……ご、めんなさ……」
「なんの謝罪ですか、それは」

 細い指から想像できないほど、その力は強い。
 部屋の中へと再び引き摺り込まれ、志木村は内鍵を施錠する。汗が流れる。まともにその顔を見ることもできなかった。

「……っ、あの人に無理強いされたんですか?」

 志木村は、心配してくれてるのだろう。けれど、責められるよりもその言葉は俺の心臓に刺さるのだ。
 俺が首を縦に振れば、きっと、志木村は裕斗を見限るのだろう。わからないが、それでも、裕斗の信用を落とすことができる。
 裕斗が会長と同じことをしたと思わせれば、裕斗だって処分を受けることになるだろう。そのために、俺は裕斗と。

「……っ、……」

 はい、と頷けばいい。それだけなのに、裕斗の笑顔が過ると途端に目の前が真っ暗になるのだ。今更情なんてと思うのに、会長のためだと思うのに、俺は……。

 俺は、何を躊躇ってるんだ。なんのためにここにいるんだ。
 悪いのは、裕斗だ。裕斗たちが、会長を陥れようとしてる。でも、裕斗は俺に優しくしてくれる。俺を抱き締めてくれる。こんがらがった頭の中、「齋藤君」と無理やり顔を上げさせられた。その目を見た瞬間、頭の中のぐちゃぐちゃしたものも全部吹き飛んだのだ。 

「……っ、はい」

 その言葉は思いの外すんなりと出てきた。志木村の目がゆっくりと見開かれる。恐ろしいことに、言葉にした瞬間あれだけ波打っていた心に静けさが戻った。
 俺は自分の手で退路を立った。裕斗を売った。会長を選んだ。許されざることだとわかっていてもそれでも、天秤に掛けたらその結果は明らかだった。
 ごめんなさい、という言葉も出なかった。それを、俺には言う資格はない。
 冷え切った空気、絶句する志木村。シャワーの音はいつの間にかに止み、扉が開く音がした。そして。

「あ?なんだ、志木村来てたのか」

 タオルをかぶったまま、まだ濡れたままの風呂上がりの裕斗がやってきた。何も知らない顔をして、この空気にも気付かずに「何か用か?」と声をかける裕斗。俺が反応する暇もなかった。志木村は、裕斗の胸倉を掴む。

「っ、アンタ、本当何やってんですか……」
「は?おい、いきなり何……」
「自分の立場分かってるんですか……ッ!!」

 聞いたことのない志木村の怒声に、心臓が早鐘打つ。汗が滲む。その剣幕に、言葉に、理解したのだろう。裕斗は俺を見た。

「……お前、何言ったんだ?」

 怒り、じゃない、驚きでもない。ただ純粋な問いかけに対し俺は何も言えなかった。何も答えられなかった。その目を真正面から見ることもできなかった。

「っ、……」
「齋藤」

 伸びてきた手に掴まれそうになり、咄嗟に俺はその手を振り払った。乾いた音が響く。驚いたように見開かれる裕斗の目に、俺は感情を殺す。

「…………ッさ、触らないで……ください……」

 音が消える。温度が失せる。不思議と頭は冷静だった。
 あれ程感じていた得体の知れない恐怖もなかった。ただ、裕斗の顔から笑顔が消え失せるのを見て俺は終わったのだと理解した。俺が、この手で終わらせたのだ。

 それからは、よく覚えてない。
 志木村は俺を裕斗から引き離すように部屋から連れ出した。それから、暫くここにいてくださいねと言われて連れてこられた志木村の部屋の中。志木村は裕斗のところへ戻ったのだろう、一人残された俺は、志木村の部屋を抜け出したのだ。

 何をしてるのかなんて、俺にもわからない。俺は優しい人を裏切った。それでも、罪悪感がないと言えば嘘になる。今でも纏わり付いてくるあの裕斗の目が、声が、それでも、俺は立ち止まることはできなかった。

 俺は、芳川会長の部屋まで戻ってきていた。
 会長がどこにいるのかわからない今、俺にはここしか心当たりがなくて、恐る恐るその扉をノックしようとしたとき、横から伸びてきた手に手首を掴まれた。
 ぎょっと顔を上げれば、そこには。

「……捕まえた」

 重ねられる手のひら。青みがかった前髪の下、柔らかく笑みを浮かべるその男に俺は言葉を失った。

「君が、あいつの部屋から連れ出されてどこに行くと思ったら……やっぱりここに戻ってきたんだね、齋藤君」
「え、にし……先輩……っ、か、会長は……」
「この部屋は空き部屋だよ。そんなに芳川君に会いたいんだ?」

 冷たい汗が滲む。いつも以上に優しいその声にゾッとする。でも、芳川会長に会えるのなら。

「……会いたい、です、会わせて下さい……っ」

 怖くないわけじゃない。今だって震えてる。それでも、会長に会いたかった。会って確かめたかった。
 何を確かめるのかもわからないけど、会わないと駄目だった。自分のしてきたことが間違っていないと確かめたかった。自己欺瞞でもいい、なんでもいい。会長の声が聞きたかった。会長の顔が見たかった。『よくやった』と褒めてもらいたかった。
 縁がなんでここにいるのか、どうして俺の後を着けていたのか、いつからいたのかなんて、どうでもよかった。
 震える手のひらを握り締める。縁はそんな俺に嬉しそうに笑い、そして「いいよ」と俺の手を握り締めてくるのだ。
 裕斗の手とは違う、しなやかであり、硬い指先の皮膚の感触。

「芳川君も、君に会いたがって見てられなかったからね。……会わせてあげる」

 細められた瞳。俺は、自分が道を踏み外していくのを感じた。……もういまさら手遅れだ。なにもかも。
 とっくのとうに足は汚泥に取られている。


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