天国か地獄


 49

 学生寮、食堂。
 ガランとした食堂内、それでも数人の人影はちらほらと見える。
 朝食の注文を終え、四人用の席で一息ついていたときだ。そこへよく見知った顔が近づいてきた?

「あらやだ、佑ちゃん?……と、志摩裕斗……っ!」

 ――連理だ。
 どうやら連理も朝食を取りに来ていたらしい、俺と、その隣に腰をかける裕斗を見るなり連理は顔をしかめた。そんな連理を知ってか知らずか、裕斗は変わらない人懐っこそうな笑みを浮かべ、手を振った。

「よ、おはようさん。随分と今朝は早いんだな」
「それは最近ランニングしてて……じゃなくて!……アンタ、ナオ君まで閉じ込めてるなんて本当なの?ちゃんと朝ごはんは食べさせてるんでしょうね」
「おいおい、人を誘拐犯か何かみたいに言うのやめろよ。ちゃんと食わせてるよ、勿論。それに、保護してるって言えよ。なあ、齋藤」
「……ぁ、は、はい……」
「ちょっと、佑ちゃんに無理矢理言わせないでよ」

 仲がいい……わけではないだろうが、裕斗にかかれば大抵の相手を軽く受け流すので全く険悪な空気にならず、止めるべきかどうかわからないのだ。けれど、やはり芳川擁護派である連理と裕斗が相容れるはずがない。噛み付く連理に、裕斗は困ったように笑う。

「はは、困ったなこりゃ……俺そんな悪人に見えるのか?」
「そりゃ、アタシからしたらそう見えるわよ。……あんなに仲良かったトモ君と佑ちゃんを強引に引き裂くなんて……」
「それ、本当に仲良かったって思ったのか?」

 ……険悪な空気にはならない、と思っていたが、撤回せざるを得ない。茶化しでもなんでもない、純粋な疑問を口にする裕斗のその一言に、連理が硬直する。
 裕斗は椅子から立ち上がり、連理に向き直るのだ。そして俺を一瞥する。

「悪いが、俺にはそう見えないな。どう見てもコイツが無理してるだろ」
「なんなのよ、アンタ……」
「……っ、ゆ、裕斗先輩……っぁの……」
「前々から気になってたんだが、お前らは大分知憲に甘いな。何か弱味でも握られてるのか?」


 ……俺にはその言葉が皮肉でも何でもない純粋なものだということがわかる。けれど、連理からしてみればどうだろうか。不思議そうにする裕斗すら煽ってるように映ってるかもしれない。それほど、裕斗の切り口は鋭いのだ。
 止めようとするが、二人の空気に圧倒され、割り込めない。
 どうすればいいのかわからず狼狽えているときだった、不意に、テーブル席に近付いてくる影が一つ。

「……っアンタ、本当に……」

 そう、連理が裕斗に掴みかかりそうになったときだった。
 近付いてきたその人物は、そのまま連理の手首を掴み、裕斗から引き離した。

「おい連理、やめろ」
「っ、武蔵ちゃん……」

 ……たまたま朝食を取りに来たところを騒ぎに気付いたらしい。連理と裕斗の間に割って入った五味武蔵に、俺は心底ホッとする。五味は連理を背に、裕斗へと向き直った。

「どうも、志摩先輩……コイツ、ただでさえ気ィ短いんであんま虐めないでやってもらっていいですか」
「……いや、こっちも悪かった。そんなつもりはなかったんだけど、よく弟からも叱られるんだ。無神経だって。気分を悪くさせたなら謝るよ、済まなかったな」

 裕斗の態度は変わらない。それどころか、あっさりと非を認めては連理に謝罪する裕斗に怒り心頭していた連理も戸惑った様子だった。

「な……なんなのよ、この人。調子狂うわね……いいわよ、別にアタシは……。謝るならトモ君に謝ってちょうだい」
「おかしなことを言うな。あいつの場合は事実なんだから俺が謝るのは筋違いだろ」
「……こ、この人……っ」

 よかった、二人とも仲直りしてくれたようだ……と安堵した矢先のことだ。悪びれた様子もなくそう続ける裕斗に、今度は俺も連理も言葉を失った。
 ……真っ直ぐというか、なんというか……俺としてはハッキリと言える裕斗が羨ましくも思えるが、見てるこっちはヒヤヒヤする。そして、同じ気持ちなのだろう。五味は連理の肩を叩き、離れた席を指さした。

「連理、おい、お前もうあっち行っとけ」
「でも、武蔵ちゃん」
「いいから、ほら、さっさと行け」

 このままでは本当に喧嘩になると思ったらしい、五味に嗜められ、連理は渋々俺達から離れた席へと座った。やはり、不満そうだ。
 裕斗は、残った五味を見て笑った。いつもの、邪気のない笑顔だ。

「武蔵ちゃん……って呼ばれてるんだ。俺もそう呼んでいいか?」
「あんま好きじゃないんで勘弁してらっていいっすか、それ」
「そりゃ残念だ」

 そう言う裕斗は本当に残念そうだった。
 そこから、何故か俺と裕斗、そして五味という奇異なメンバーで食卓につくことになるのだが……無論、このメンツでまともに食事ができるわけがなかった。

 このメンツで、賑やかに、穏やかな時間を過ごせる……なんて少しでも思った俺が馬鹿だった。当たり前だが、裕斗は五味たち現生徒会をリコールさせようとしてる男だ。
 そんな男と五味と、その原因である俺が食卓を囲むのだ。
 到底和やかな空気になるわけがない。

「武蔵は知憲と仲良かったよな、お前はあいつのことを庇わないのか」
「……あんま、齋藤の前でこういう話はしたくないんすけど……」

 五味が言いにくそうにこちらを見る。
 俺に気遣ってくれてるのだろう。名前を出され、内心ギクリとした。

「ぁ、お、俺なら……大丈夫、です……あれなら、席を……」

 離れますので、と咄嗟に立ち上がろうとしたとき。
 隣に腰を掛けた裕斗に手を掴まれる。

「いい、お前もここにいろ。……聞きたいだろ、知憲のこと」
「……っ」

 座ったまま、こちらを見上げる裕斗に俺は何も言い返せなかった。正直、気になる。けれど、自分が邪魔であるというのは痛いほどわかった。……この空気は耐え難いものだが、だからといって裕斗の手を振り払って逃げるのも違う気がして、俺は恐る恐る再び席に着いた。
 五味はなにか俺に言いたそうな顔をしたが、話を続ける。

「……俺だって、庇えるなら庇ってやりたいですけど……実際アイツは擁護できる範囲を越えていた。……多少ならともかく、今回ばかりはいくらなんでもやり過ぎだって」
「齋藤が殴られてたことは知らなかったのか?」
「そもそも、一切会わせてもらえなかったっすからね。まだ齋藤と会ったときは、そんな感じはなかったっすけど……」

 五味の目が、こちらを向く。目があって、そして、五味は「悪かった」と頭を下げた。
 いくらなんでも、五味に頭を下げられるのはおかしい。悪いのは、俺なのだ。寧ろお前のせいだと罵られてもおかしくないのに、それなのに頭を上げない五味に慌てて俺は首を横に振る。

「っ、五味先輩は……悪くなんか……」
「いいや、それは違うな」

 それは即答だった。
 迷いのない目で、裕斗は目の前の五味を見据える。

「ここまで長期的な軟禁状態になるまで放置していた役員たちは明らかに問題だ。少なからず、前兆はあったはずだ。そうでなければすぐに異常に気付く。そうならなかったのはお前らがあいつの異常性に慣れていたからだ、『これくらいならいつものことだろう』と甘く見積もっていたから対応に遅れた」

 有無を言わせぬその言葉に、空気に、息が苦しくなる。俺が責められてるわけではないのに、隙きを与えぬ物言いに俺はあの会議でのことを思い出し、嫌な緊張に汗が滲んだ。恐らく、指摘された五味は俺以上の居心地の悪さだろう。

「確かに……正直、こいつに関しては過保護だとは思いましたけど、……それはその……俺たちが首突っ込む問題じゃないかと……」
「だから、好きにさせておいた。恋人同士の問題に突っ込むべきではないと」
「……そっすね」
「……言いたいことは色々あるが、もう会議で何度も言ってるからな。それに、一番悪いのは知憲だ。それでも、全員が全員知憲の異常性を問題視するどころか隠匿しようとした。それが今回の生徒会解散要請として最も挙げられてる内容だ」
「……そりゃ、そうっすよね。俺としても、否定するつもりはないですよ」

 五味の態度はあくまでも変わらない。
 元々、今回の騒動が起きる前から……恐らく十勝の一件があってから五味は芳川会長に対して懐疑の念を抱いていたのは明らかだ。生徒会の役員たちには仲良くいてほしいと思うが、今の五味の話を聞いてるとそれは難しいことのように思えた。

「武蔵は受け入れるのか?処分を」
「……ええ、まあ、身から出た錆っすからね。志摩先輩の言う通り、俺の責任でもありますから」

 ウエイターが持ってきたグラスに口を付ける五味をじっと見据えていた裕斗は、その目を真っ直ぐに覗き込む。

「武蔵、お前知憲のこと好きか?」

 それは突拍子のない問い掛けだった。グラスを手にしていた五味の手がぴくりと反応する。そして、それをテーブルに置いた五味は息を吐くように口にした。

「……嫌いならここまで着いて来てませんよ」

 苦虫を噛み締めるような顔でそう口にするのだ。
 その言葉を聞いて、俺は胸を締め付けていた鎖が一個解消されたような錯覚を覚える。五味は、他の役員たちとは違う形で芳川会長を信用していた。そして、支えていた。
 芳川会長は、そんな五味すらも信用できなかったのだ。その事実が改めて苦しい。そして、今も芳川会長は五味のことを恨んでいるだろう。裕斗たちと一緒に摘発する五味のことを。

「……なら、もしもお前だけ生徒会に残って生徒会長になれるとしたらどうする?残るか?」

 そんな五味のことをどう思っているのか、変わらない調子で質問責をする裕斗。そして、その内容に俺は流石に困惑する。
 どういう意図でそんなことを五味に聞いてるのかがわからなかった。本当に五味だけが生徒会に残れるなんて話、俺は知らない。事実だとしてもその場の例え話だとしても、生徒会のことを思ってる五味に対して試すような質問をする裕斗に肝が冷えた。

 五味はその裕斗の質問に難色を示す。無理もない、あまりにもその質問は残酷で、悪質だった。

「……勘弁して下さいよ。志摩先輩、分かってますよね。俺がそういうの柄じゃないって」
「柄とかじゃないだろ。それ言ったら俺だって生徒会長って柄じゃないし」
「まあ、そうっすけど……」

 言葉を濁す五味に、再度裕斗は「残るつもりはないのか?」と答えを促す。五味は観念したように「ないっすよ」とはっきりとした口調で答えた。

「……あいつがやらないんなら、もう、いる意味もないんで」

 そう答える五味の反応が裕斗の望んでいたものかどうかわからない。ただ、笑うわけでも怒るわけでもなく「そうか」とだけ応えるのだ。

「あー……そうだ、十勝はどうしてます?……あいつ、ちゃんと大人しくしてますか?」

 迷惑かけてないっすか、と聞いてくる五味に、裕斗は「ああ」と頷き返す。

「それは心配しなくてもいい。昨日なんて飯おかわりしてたぞ」

 何かを思い出すようにそこでようやく笑顔を見せた裕斗に五味も安堵したようだ。「はは、すげえ図太いな」と、苦笑を浮かべてみせた。けれど、それも僅かな間のことだ。

「……灘はまだ見つかってないんですか、やっぱ」

 灘の名前が出てきて、内心冷や汗が滲んだ。
 灘は、はっきりと言われたわけではないが十中八九裕斗たちが保護している。それを知ってる俺は、それを言っていいのかどうか躊躇われたのだ。そして、

「……ああ、まだこっちでも探してる最中だ」

 裕斗の口から出た言葉に、心臓が大きく脈打つ。
 ――嘘だ。
 この男は平然な顔をして、心配してる五味に対して嘘を吐いたのだ。そのことに気付いてしまった俺は、途端に隣の男が得体の知れない生き物のように見えて仕方なかった。
 裕斗が嘘を吐くわけがない、そう、信じていたから。裕斗のことを信じていたかったからこそ余計、息が詰まる。

「そっすか、またなんかあったら……」
「ああ、すぐに連絡する。……お前も一応身の回りには気をつけろよ、なんから風紀委員使ってもいいから」
「大丈夫っすよ、俺は。俺よりもつえー親衛隊長様がいるんで」

 そう、笑う五味は離れた席からこっち見ていた連理をちらりと見た。そして、裕斗と五味の視線に気付いたらしい。連理は慌ててメニューブックで顔を隠していた。
 そんな連理を見て、裕斗は「そりゃ頼もしそうだ」と笑うのだ。


 それから、俺達は軽食を取って五味と、それから連理と別れた。先に食堂を出る二人を見送り、「まだ足りねえな」とか言いながら追加注文をする裕斗に付き合って残ることになったのだが……正直、料理の味がまるでしない。
 味の問題ではないのはわかっていた。隣の裕斗の存在があるからだ。
 裕斗の嘘に気付いてしまったせいで、俺は、裕斗のことをどういう目で見ればいいのかわからなかった。気にしなくていいはずなのに、それでも、一気に裕斗という人間がわからなくなってしまうのだ。

「……武蔵、あいつは保身に走りすぎてる」

 五味たちがいなくなって、再び二人きりになる。
「どう思った?あいつの話聞いて」そう、当たり前のように尋ねられ、正直返答に困った。どう答えるのが一番裕斗の五味に対する心証を悪くしないかを考えても上手い答えが見つからなかったからだ。けれど、これだけは間違いない。

「……五味先輩は、いい人です。……俺にも、優しくしてくれました……」

 そう、声を振り絞れば、こちらを見ていた裕斗と視線がぶつかった。あのときの、五味を見ていたときの目だ。心の奥底まで覗き込まれるような迷いのない真っ直ぐな目。
 ……俺は、この目が苦手だった。

「けど、それは自分のためかもしれないぞ、少なくとも生徒会役員たちは会長の恋人と知って表立って冷たくできないだろうからな」

「っ、……だとしても、五味先輩は俺にとっても……いい人で……っ」

 裕斗の言葉は、間違っていないのだろう。けれど、それを肯定すると今まで自分が感じてきた人の優しさもすべてを否定するようで嫌だった。それでも、うまい言葉が見当たらない。俺自身、薄々気づいていた。恐らく、俺が芳川会長の恋人でなければ、相手にすらされなかったのだろうと。そう考えると、ひどく虚しい気持ちになる。
 それから先は言葉にできなかった。
 ……結局は裕斗の言い分は広義的には間違っていないのだ。否定することができないのがその証拠だ。
 言葉を飲み、そのまま押し黙る俺に、裕斗はバツが悪そうに顔をしかめた。

「……っと、あー……悪い、俺また無神経なこと言ってる?」
「……裕斗先輩は、間違ったこと言ってないと思います」
「本当にそう思ってるのか?」

 俺は、はいともいいえとも答えられなかった。
 俯いたまま言葉を失う俺に、裕斗は覗き込むように顔を近付けてくるのだ。すぐ隣、陰る視界に、裕斗の手が入り込む。

「……あいつらを悪く言ったら知憲に怒られるのか?」

 太腿の上の拳に手のひらを重ねられ、体が震えた。すっぽりと覆い被さる手のひらは熱い、周りから見えないとはいえ、大胆な裕斗の行動に驚いたがそれを振り払うことはできなかった。俺は、体の震えを誤魔化すように首を横に振った。

「なら、なんでそんな顔をするんだ。……悲しそうだ」

 ああ、と思った。この人は、人の心が分からない人なのだと。洞察力に優れていても、その心の機微までは、その理由までもはわからないのだと。
 だからこそ、裕斗は人の表情や行動、その言葉で全てを判断する。その心理まで理解できないからだ。そう思うと、酷くやるせない気持ちになる。
 それと同時に納得できるのだ。裕斗は、俺が生徒会で過ごしてきた全ての時間が地獄のようなものだと信じて疑っていないのだ。
 裕斗は、優しい。俺なんかのためにここまでしてくれるいい人だ。けれど、それと同時に胸を痛めずになにかを破壊できる人間なのだ。
 そんな人に、生徒会を壊された。きっかけは俺だ、八つ当たりも甚だしいとわかっててもだ。それでもそう思うと、無性に遣る瀬無い気持ちになるのだ。

「……悪い、泣かせるつもりじゃなかったんだ」

 裕斗の手が離れる。そして、顔に触れられそうになり、俺は自分が泣いてることに気づいた。
 やんわりと伸びてきた手を押し退け、咄嗟に顔を覆う。恥ずかしくて、情けない。泣くことしか感情を顕にすることしかできないのだと思い知らされるようで。

「っ、すみませ、おれ……っ」
「いや、今のは俺のせいだろ?……齋藤は、生徒会のやつらのこと、好きだったんだな」
「……っ、……」

 例え、それが裕斗のいう表面上のものだとしても、俺にとっては安息だった。他の役員たちにとって邪魔でしかない存在だとしてもだ、俺には、数少ない居場所だったのだ。
 込み上げてくる感情を抑え込むことができなかった。数回頷き返したとき、伸びてきた手に覆っていた腕を掴まれ、剥がされる。不可抗力に顔をあげれば、すぐ目の前には裕斗の顔があった。

「……芳川のこともか?」

 あの、目だ。底見えぬ二つの目が、俺を捉えて離さない。

「泣くほど好きなのか?」

 揺れる。視界が、歪む。それでも、裕斗の手も、視線も外れない。焼け付くように喉が熱くなり、舌がビリビリと痺れる。この感情がなんかのか、俺には分からない。
 まるで首に見えないナイフを突き付けられるような圧に、汗が滲む。息が浅くなる。怖い、とは違う。なんだ、これは。

「……好きなのか、齋藤」

 変わらないはずなのに、ただ聞かれてるだけなのに、手足から熱が抜け落ちるようだった。
 追い詰められる思考の中、俺は、痺れる舌で答えるしかなかった。

「……っ、……は、い……」

 口から出た言葉は、あまりにも他人の声のように響いた。


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