天国か地獄


 02

 スピーカーから流れるチャイムを合図に、今日の分の授業が全て終わる。

「志摩……」
「おい亮太、ちょっと職員室まで来い」

「一緒に寮まで戻ろう」そう俺が続けるよりも早く、教室を出ていこうとしていた担任が志摩を呼ぶ。

「悪い。齋籐、先行っててよ」
「……わかった」

 志摩は申し訳なさそうに俺に言って、担任の後を追うようにして教室を後にした。
 少し心細かったが、志摩にだって用事の一つや二つあるのだから仕方がない。
 一人残された俺は黙々と帰り支度を済ませ、段々人のいなくなる教室を出ていこうとした。

「齋籐佑樹」

 廊下に出たとき、何者かに名前を呼ばれる。
 聞き覚えのある声。身を強張らせ振り向くと、そこには安久が立っていた。

「伊織さんがなんとしてもアンタを連れてこいだって。生徒会の奴らと馴れ合うようなバカな真似をするから、伊織さんはご立腹だ」
「……」

 まさか、昨日のことを言っているのだろうか。
 ご立腹もなにも、俺の勝手だろう。そう言い返そうとするが、それよりもここを立ち去るのが賢明だと思った俺は安久が近付くよりも早く廊下を駆け出した。
 鞄を落とさないように抱え、俺は廊下を歩いている生徒を掻き分けるようにして安久から逃げる。

「クソ……ッ、待ちやがれ!」

 背後から、苛立ったような安久の怒鳴り声が聞こえる。
 いつものすかしたような態度からは想像できないような荒々しい口調に、俺は冷や汗を滲ませた。
 やばい、怒らせた。それでも俺は、足を止めるどころか加速させる。
 足の速さに自信はないが、ここで安久に捕まるくらいなら少しでも逃げる努力はしたい。

「なんで逃げんだよ!止まれっていってんだろうが!」

 安久の声に、廊下を歩いている生徒たちは驚いたようにこちらに目を向ける。
 恐らく、俺のすぐ後ろには安久が走って来ているはずだ。いまの俺には走ることに集中するだけでいっぱいで、振り向くことすらできない。
 バタバタと派手な足音を立てながら、俺は階段の手摺を掴みながら段差を一段飛ばしで降りていく。
 どこになにがあるのかわからないが、とにかく俺は安久を撒くことだけを考え、L字になった廊下の突き当たりの部分に身を隠した。ちょうどそこに扉があり、部屋の中へ入ろうとしたが視界に安久の背中が映り込み、伸ばしかけた手を引っ込める。

「……」

 安久はキョロキョロと辺りを見渡す。急な運動をしたせいか、バクバクと胸が騒がしい。肩で息をし、物陰から安久を眺める。

「……っ」

 その瞬間、ぬっと背後から現れた人影に口許を塞がれる。
 安久にばかり気を取られていたせいか、突き当たりの扉から人が出てきたのに気がつかなかった。
 なんなんだよ、次から次へと。俺は目を見開き、俺の口許を覆う腕を強く掴む。

「痛い、痛い痛い痛いっ」

 抵抗するように男の手首に爪を食い込ませると、背後からはなんとも気弱そうな声が聞こえる。
 てっきり阿賀松かと思っていた俺は、目を丸くして背後の人影に目をやった。

「何にもしないから、引っ掻くのはやめてくれよ。まじで」

 日に焼けた健康的な肌に、派手な金髪。どこか見覚えがあるこの男は確か、いつの日か安久と一緒にいた──仁科だ。
 泣きそうな声で耳元で囁く仁科は、必死に俺の腕を離そうとする。あまりにも情けない表情をする仁科に、思わず俺は手を離した。
 なにか気配を感じたのだろう。安久はちらりとこちらに目をやり、すぐに突き当たりとは正反対の廊下へと走っていった。

「……行った?」

 背後で俺の口を塞いだまま問い掛けてくる仁科に、俺は数回頷いてみせた。
 すると、仁科は安堵の溜め息をつき慌てて俺の口から手を離す。

「わ、悪い!」

 解放された俺は小さく咳き込み、恐る恐る背後に立つ仁科から離れる。
 仁科は眉を八の字にし、申し訳なさそうな顔をした。安久から俺を逃がすような真似をして、この男は一体どういうつもりなのだろうか。俺は訝しげに目の前の仁科を見上げる。

「……ありがとうございました」

 取り敢えず、安久に見つからずには済んだ。俺は半信半疑のまま、仁科に向かって礼を口にする。
 仁科は少しだけ頬を弛ませるが、すぐに顔を引き締め俺の両肩を掴んだ。

「阿賀松と関わりたくないんだったら、生徒会とつるむのをやめろ。今ならまだ、間に合うから」

 なにが間に合うのだろうか。
 仁科は俺の肩を揺らし、そう懇願するように呟いた。その目には僅かに焦燥感が滲んでおり、いきなりの言葉に困惑する俺は黙り込む。

「……そんなこと言われても」
「阿賀松に逆らわない方がいい。なに言われても『はい』って言うんだ、いいなっ?」
「あのっ、意味がわかりませんから」

 そう何度も確かめてくる仁科に不信感を抱いた俺は、青い顔をして仁科の顔を見る。仁科は俺の腕を強く掴んだ。
 まさか、このまま阿賀松の元へ連れて行くつもりなのだろうか。慌てて俺が仁科の腕を離そうとしたとき、近くにあった男子便所から一人の生徒が出てくる。

「五味先輩……っ」

 俺は、咄嗟にその生徒の名前を呼んだ。
 なにも見なかったことにしてそのまま通り過ぎようとしていた五味は、びくりと体を強張らせ俺の方を見る。

「……齋籐、奇遇だな」

『また面倒なやつに絡まれた』そう言いたげな顔をした五味は、俺の横にいる仁科と俺に交互に目をやる。

「……仁科、お前、齋籐が嫌がっているだろ。手を離せ」

 五味は、仁科に目をやりながら低く呟いた。
 仁科は気まずそうに五味から顔を逸らすが、俺の腕を掴む指先には一層力が入る。

「こいつは、俺が阿賀松の元まで連れていくんだ」
「悪いけど、それは困る。齋籐が嫌がっているからな」

 五味は俺の顔をちらりと見て、俺の腕を強く掴んだ。呆気なく仁科の腕が外れる。
「ほら、行くぞ」五味はそう目を配らせると、俺の背中を軽く叩きそのまま仁科から離そうとした。

「それじゃあ、俺が困るんだよっ」

 仁科は声を荒げ、俺の鞄を掴んだ。
「あっ」思わず俺は間抜けな声を上げる。
 予想外の仁科の行動に構えていなかった俺は、奪われた鞄に目をやろうと振り向いたとき、五味に強く腕を引かれた。

「おい、走るぞ」
「せっ先輩、鞄が……っ」
「いいから、走れ!」

 鞄を取られ動揺する俺をよそに、五味は俺の腕を強く掴み走り出した。
 物凄い力に引っ張られ、足を縺れそうになりながらも俺は慌てて五味についていく。
 どうしよう、鞄。後ろで仁科がなにか叫んでいたが、よく聞こえない。
 仁科から逃げながら俺は、鞄のことが気掛かりで仕方がなかった。

 ◆ ◆ ◆

 どれだけ走ったのだろう。
 校舎の最上部まで五味に連れられてきた俺は、軽く呼吸困難に陥った。

「おいおい、大丈夫かよ」

 五味はゼエゼエと息を荒くする俺を見て、心配そうな顔をする。
 体力は並みについているつもりだったが、どうやらそれは思い違いだったようだ。何段もの階段を駆け上がり、自負していたはずの体力はとっくに消耗してしまった。

「だ、大丈夫です……」

 俺は額に滲む脂汗を袖で拭い、小さく頷いた。
 正直かなりキツい。このときばかりはだだっ広いこの校舎を恨んだ。

「取り敢えず、入れよ。ここなら大丈夫だろうから」

 そういいながら五味は、目の前の大きな扉を顎で指す。
『生徒会室』扉の側に掛けてあったプレートにはそう彫られていた。

「でも、ここって」
「今更渋るんじゃねえ。ほら、さっさと入れ」

 五味は扉を開き、躊躇する俺の背中を押し強引に生徒会室へ押し込んだ。
 生徒会室には芳川会長、栫井、会計らしき生徒がいて、いきなりやってきた部外者の俺に目を向ける。

「齋籐君?どうしたんだ二人とも」
「ん、まあ……仁科のやつに絡まれていたんで連れてきた」

 広い部屋の中、ソファに腰をかけていた芳川会長は五味に連れられた俺を見て驚いたような顔をした。五味は苦笑を浮かべながら俺の方を横目にそう言う。

「仁科に?」

 芳川会長は眉を寄せ、訝しげに五味を見た。
 気まずそうに頷く五味に、「そんなバカな」と芳川会長はため息をつく。

「また阿賀松が騒いでるのか」
「俺らじゃなくて、こいつ目的らしいんだけどな」

 五味はそう言って、棒立ちになっていた俺の肩を叩く。
 芳川会長は呆れたような顔をして、小さく溜め息をついた。

「だったら、そいつ阿賀松に渡したら良いじゃないっすか」

 芳川会長の向かい側のソファに腰を下ろしていた栫井が、面倒臭そうなにそう呟いた。
 栫井の言葉に、思わず俺はピクリと肩を揺らす。

「あーそれと五味さん、ここ、一般生徒立ち入り禁止なんですけど」

 栫井は俺を横目にそう言った。俺は隣に立つ五味に目をやると、五味は目を逸らす。
 どうやら栫井の言っていることは事実らしい。そうなると、俺はどうすればいいのかわからなくなって、固く口を紡いだ。

「栫井、阿賀松の性格を知っているだろ」
「ええ、まあ。……散々な目に遭わされたので」
「なら尚更、齋籐君を阿賀松に会わせる訳にはいかないってわかっているだろう」

 無表情のまま淡々と話す栫井に、芳川会長は語気を強くする。
 冷や汗を滲ませた五味は「適当に座っとけ」と俺に小声で囁き、生徒会室の奥へと向かった。
 妙にピリピリとした空気の中、当たり前のようにソファに座れるほど俺は図太くない。

「大丈夫っすよ。だってそいつ、阿賀松と付き合ってるんでしょ?」

 どうすることも出来ずに挙動不審になっていた俺を人差し指で指し、栫井はしれっとした顔でそんなことを言い出した。
 一瞬、生徒会室の空気が凍ったような気がした。
 離れたところにいた五味が、わざとらしく咳払いをする。

「だからそれは阿賀松が勝手に言っているだけだと言っているだろう」
「本当にそうなんですか?」
「……齋籐君を疑うつもりか?」
「疑うもなにも、俺はこいつを信じた覚えはないっすから」

 確かに、栫井が俺を疑うのは無理もない。俺からしてみれば、こんなに自分を庇ってくれる芳川会長が不思議で堪らないのだから。
 わかってはいるが、こう正論を言われると傷付くものがある。俺はなんとなく恥ずかしくなって、顔を俯かせた。

「栫井、言い過ぎだ」

 五味は呆れたように溜め息をつき、栫井の頭を軽く叩いた。栫井は後頭部を擦りながら、背後に立つ五味を見上げる。

「齋籐を連れてきたのは俺だ。文句なら俺に言え」
「……そうっすね」

 観念したのか、栫井はだるそうに呟き頭を掻く。
 どうやら、栫井は生徒会役員と仲が悪いのではなく単に俺が気に入らないようだ。

「おい、齋籐。いつまで突っ立ってんだ。さっさと座れ」
「すっすみません……」

 栫井の隣に腰を下ろした五味が、扉の前に棒立ちになっている俺に声をかける。
 じっと見てくる栫井に、俺は内心冷や汗を滲ませながらそそくさと会計らしき生徒の隣に腰を下ろした。

「へえ、意外と図々しいな。お前」
「……ごめん」

 向かい側のソファに座る栫井は、眠たそうな目を細めぼそりと呟く。
 多少腹が立ったが、この場合非があるのは俺の方だ。俺はぐっと堪える。
「栫井」会計の隣に座っていた芳川会長は、叱るように栫井の名前を呼んだ。栫井はつんと顔を逸らす。

「……それで、齋籐君はどうするんだ。このまま寮に戻るか?」
「俺は、その……」

 正直、なにも考えてなかった。
 成り行きで生徒会室までやってきたが、その目的は仁科から逃げるためだけだと思っていた。
 それからのことなんて、思ってすらいない。俺が口ごもると、芳川会長は困ったように溜め息をつく。

「相手は阿賀松だもんなぁ、俺たちにはどうしようもない」

 五味はソファの背凭れに体を預け、唸るように言った。
 そんなに、阿賀松は面倒なやつなのだろうか。
 俺からしてみれば本当関わりたくないタイプだが、やはりそれは生徒会からしてみれば同じなのだろう。五味を眺めながら考えていると、視線に気付いた五味が眉を寄せた。

「ああ、そうだ。お前、確か転入生だったよな。じゃあ知らないのか」
「……なんの事ですか?」

 勿体振る五味の言葉に、俺は食いついた。
 確かに、俺はこの学校に来て間もないし知らないことが多すぎる。
 恐る恐る問い掛けると、五味の隣の栫井が俺の顔を見た。

「阿賀松が理事長の孫だって事」

 栫井の一言に、思わず俺は目を見張る。

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