天国か地獄


 47

 脈打つ心臓。汗が止まらない。
 阿賀松の目に、引きつった壱畝の表情に、呼吸が浅くなる。首を締められたとき以上の圧迫感、そして威圧感に言葉を無くした。

「ッ、こ、れは……」

 壱畝の声が遠く聞こえる。
 ざまあみろって、そう笑えばいいはずなのに、全く笑えない。青褪める壱畝を見て、怯えるやつを見て、俺は何故だか自分と重ねて見てしまった。
 阿賀松の性格は知ってる。やつが自分の思い通りに動かなければ許せない性格の持ち主だと言うことを。
 壱畝が無事でいるはずがないというのはわかっていた、それは壱畝の傷を見ても明らかで。

「これは、その」

 阿賀松が一歩踏み出す。その軋む足音に、脈打つ心音は一層大きく響いた。阿賀松が俺たちの前――壱畝の目の前で立ち止まったとき、俺は、咄嗟にその腕を掴んだ。
 わからない。なんで、俺は阿賀松を止めるのか。俺も、壱畝も驚いていた。そして次の瞬間、伸びてきた手に前髪を思いっきり引っ張られ、無理矢理立たされる。

「……俺の前でよく他の野郎庇えんな」

 庇ったのか、俺は。壱畝を。何故、なんて考える頭もなかった。温度の失せた阿賀松の目に、ブチブチと髪が抜けるような音。頭皮を引っ張られる痛みに全身が引きつり、声も出なかった。
 それでも、ぐっと近づく阿賀松の顔から目を逸らすことができなかった。痛みに赤く染まる視界の中、阿賀松の目が細められた。

「なんだよその目」

 まずい、と思ったときには遅い。殴られそうになり、咄嗟に俺は自分の顔を腕で覆った。けれど、予想していた痛みも衝撃もいつまで経ってもやってこなかった。

 え、と思ったとき、玄関口からなにやら音がすることに気づいた。阿賀松は扉の方を一瞥すると俺の頭を掴み、「また後でな」とだけ残して部屋に戻る。
 志摩裕斗がきたのか、わからないが、助かった……のか。無事ではない。それでも、ズキズキと痛む頭部と舌、そして心臓に俺は暫くその場から動くことができなかった。
 そんな中、視界に爪先が入る。ゆっくりと顔を上げれば、そこには。

「……誰も、助けろなんて頼んでないんだけど」

 壱畝遥香がいた。色の抜け落ちた顔、声も震えてるくせして、こいつはまだ俺に噛み付く元気はあるらしい。
 ……正直、それは俺が一番言いたいことだった。
 こう言われるとわかってたはずなのに、こいつはそれを望んでいないとわかってたはずなのに、何故止めたのだと。
 一時の血の迷いだ、ただ、相手が誰であろうと目の前で暴力行為が行われるのは見たくなかった。そんなところだろう。けれど、答える気力もなかった。

「どうして、あんな真似したんだよ……ッ」
「……」
「ッ、頭おかしいんじゃないか?そんなの……ッ、それで、俺に恩でも売ったつもりなのか?恩着せがましいんだよ!全部……っ、全部、お前のせいだ!お前が……ッ余計なことばかりするから……ッ」

 答えない俺が頭に来たのか、助けられた自分が歯がゆいのか。だとしても俺が何を言ったとしてもこの男の気分を良くすることはないだろう。
 全部、跳ね返ってくる。わかってたはずなのに、コイツに何も期待しないと。それほど無駄なことはないのだと。身を持ってわかってたはずなのに何故だろうか、あんなに怖かった壱畝が、嫌いだった壱畝が、自分と同じ人間に見えたのだ。

「ッ……クソ!」

 掴まれた胸倉、押し付けられた拳が僅かに震えていた。
 俺は何も答えられなかった。俺自身、何を考えてるのかわからないのだ。
 無抵抗でいると、壱畝は苛ついたように俺を突き飛ばし、そして、部屋を出て阿賀松を追いかけた。
 一人残された俺は、遠くから志摩裕斗の声が聞こえてくるのを聞きながら目を閉じる。

 裕斗に顔を見られたくなかった。こんな状況、こんな姿を見られたくなかった。余計心配かけるだろうし、けれど、このままここにいたら本当に俺は殺されるのではないだろうか、そんな風に思わずにはいられなかった。

 震える肩を抱き込み、必死に体の震えを治めようとした。
 そんなこと気にせず、助けてくれと一言言えば裕斗は助けてくれるだろう。だからこそ、怖かった。
 もし、裕斗の身に何かあればと。今更だとわかってても、阿賀松の逆鱗に触れることになるといくら仲のいい裕斗でもどうなるかなんて分からない。

「……っ、……」

 壁に耳を押し当てれば、向こう側から声が聞こえてくる。何を話してるかまではわからないが、時折裕斗の笑い声が聞こえてくることからして裕斗にまでは当たり散らすつもりはないらしい。それだけで一まずほっとしたときだった、いきなり部屋の扉が開いた。
 そして、

「おー、齋藤ここにいたのか」

 薄暗い部屋の中に射し込む明るい照明の眩しさに思わず顔を伏せた。恐る恐る視線を向ければ、そこには裕斗が立っていたのだ。

「なんだこの部屋、電気くらいつければいいのに。……齋藤?」

「眠いのか?」なんて、言いながら近付いてくる裕斗は蹲る俺に視線を合わせるように座り込むのだ。
 大丈夫です、と言いたいのに、舌が引き攣ったように強張って思うように口が動かせないのだ。まるで咥内に異物が存在してるような違和感。そして、痛み。
 こんなの、絶対裕斗にもおかしいって思われる。わかってても、顔をあげられなくて。

「ユウキ君はおネムらしいからなぁ?……今夜は俺のところで寝かせてやってもいいぜ」

 そんな中、聞こえてきたその声に背筋が凍り付いた。扉の前、俺の方を冷たい目で見る阿賀松は形だけの笑みを浮かべるのだ。その言葉に、裕斗は阿賀松の方を見た。

「流石にそれは悪いわ。それに、お前あんまり他人を寝室に上げんの好きじゃないだろ」

 そう笑って裕斗は俺の腕を引き上げる。食い込む指先は離れない。強い力だった。立たされ、明るい部屋へと連れ出されそうになり、思わず俺は踏みとどまる。

「……齋藤?」
「…………」

 この部屋から外に出てしまえば、顔の怪我にも気付かれてしまう。それが恐ろしくて思わず立ち止まる俺に、裕斗は振り返った。そして、その目がこちらを向いたとき。
 視界が遮られる。
 一瞬、なんなのかわからなかった。けれど、頭に被せられたそれが濡れたタオルだとわかったとき。俺は咄嗟に自分の顔を、口元を覆い隠した。殴られたと気付かれないように。

「……忘れ物だよ」

 誰がなんて、考えるよりも先に、そう、ほんの一瞬、聞こえてきた声に振り返ることができなかった。
 俺は、抵抗をやめた。そのまま裕斗に引っ張られるがままついていく。阿賀松は俺たちを止めなかった。どういう意図があるのかわからない。けれど、ただそれが、背後からこびり付くようなその目が恐ろしくて仕方なかったのだけは覚えていた。

「それじゃ、またな。伊織」

 阿賀松の部屋の扉が閉められる。
 逃げられた、のか。そう考える暇なんてなかった、今はただ、この部屋から逃げ出したかった。
 そして、俺の手を取るこの男からもだ。熱い。殴られた顔も、掴まれた腕も、締められた首も。
 部屋を出て、裕斗がこちらを見た。

「齋藤、さっきから黙ってるけど……本当に大丈夫か?あいつから何か言われたのか?」

 ……恐らく、本当に心配してくれてるのだろう。けれど、顔を隠したまま俺は首を横に振る。

「……まじでどうしたんだよ。具合が悪いのか?」

 伸びてきた手にタオルを取られそうになり、慌てて首を縦に振る。
「すみません」と、聞こえてるのかわからないくらいの声量で伝えれば、ぎりぎりのところで裕斗の手が動きを止める。そして、心配そうに目を細めるのだ。

「……歩けるのか?病院は?行かなくて大丈夫か?」

 優しいその声に、次第にあれだけ脈打っていた鼓動も落ち着き始める。頷き返す。「わかった」と口にした裕斗は何かを感じたのだろうか、それ以上言ってこないことにほっと安堵しかけたときだ。
 視界が一気に晴れる。目を開けば、そこにはこちらを見下ろす裕斗の顔があって。息が、止まる。タオルを取られたのだとわかったのは裕斗の手にタオルが握られていたからだ。

「っ、……!!」

 咄嗟に殴られた頬を隠そうと腕で覆い隠そうとするが、それすらも裕斗に掴まれ無理矢理暴かれる。汗が噴き出す。見られている。それも、全部。

「っ、み、な……いれ、くぁさ……」

 恥ずかしい、というよりも、恐怖の方が大きかった。
 顔を逸らそうとして、顎を掴まれ上を向かされるのだ。強引に重ねられる視線に息が詰まりそうになる。

「……どうした、この痕」
「……っ、……」
「伊織か?」

 静かに問い掛けられ、背筋が凍る。ひくりと震える喉に、裕斗は俺から手を離した。そして阿賀松の部屋に戻ろうとする裕斗を見て、慌てて俺はそれを引き止める。強い力だ。逆に振り払われそうになり、尻餅をついたとき。裕斗は、慌てて「悪い」と俺を抱き起こす。そして、その腕が離れる前に、離れないようにと俺はぐっと裕斗の腕を掴み返す。

「……ちがい、ます」
「……齋藤」
「おれが、わるいんです」

 舌が上顎に当たる度に痛みで顔が歪む。それでも、はっきりと発音するように、或いはたどたどしく聞こえたのかもしれないがそれでも俺は裕斗に告げた。
 裕斗は、顔を引き攣らせていた。呆れてるのかもしれない。その方がいい。下手な真似をされるよりかは、遥かに……。そう、思うのに。

「……お前が悪いわけ無いだろ、殴ったやつが悪いに決まってる」

 そう、裕斗は言うのだ。俺の頭を撫で、まるで憐れむような目で、言うのだ。
 その言葉に、心臓がぎゅっと苦しくなる。ずっと、そう思っていた。俺も。けれど、今になってはそれすらもわからない。だからこそ余計迷いのない裕斗に救いを見出してしまうのか。
 今更、そんなもの全部無駄だとわかっているのにだ。

「ちが……います、おれが……」
「違わない、お前は悪くない」
「おれが、好きなんです」

 この人は、阿賀松と揉めてほしくない。既に手遅れなところまで来てるとしてもだ、それでもまだ、裕斗には救いがある。俺と同じところに来てほしくない。
 だから、その救い手を振り解いた。

「おれが、痛いの……好きなんです」

 自分がどんな顔をしてるのかもわからない。けれどもうどうだって良かった。これ以上裕斗の心象が下がることもないかもしれない。とんだ変態でも色狂いでもなんでもいい、どうだっていい。
 この場から早く立ち去りたかった。一刻も早く阿賀松から逃げたかった。
 だから、俺は裕斗の手を握り締めた。

「……すき、なんです」

 痛みも震えも恥も、全部殺す。裕斗の顔を見ることは、最後まで叶わなかった。
 それでも、捕らえた指先が解かれてしまわないようにきつく絡めた。
 今度こそ呆れられたのかもしれない。
 裕斗の目が、反応が怖かった。俯いたまま、動けなくなる。そのくせ握った手を離すことはできないのだ。
 裕斗はそれ以上追求してくることはなかった。けれど、何も言わずに俺の手を握り返してくれるのだ。

「……とにかく、俺の部屋に戻るぞ。詳しい話は後で聞く。先に、手当をしよう」

 まだ、まだ俺の手を振り払わないでいてくれるのか、この人は。
 殴られたところも、焼かれた舌も痛かったがそれ以上に心が苦しかった。俺は頷くこともできず、ただ裕斗に従うことしかできなかった。



 裕斗の自室。
 戻るまでの間俺たちの間に会話はなかった。玄関の扉を開けば、裕斗の手が離れる。手のひらに残った温もりに、一抹の寂しさを覚える。

「そこ、座れよ」

 なんだか久しぶりに裕斗の声を聞いたような気分だった。
 俺はそれに従うしかなかった。裕斗が示したベッドに腰を下ろせば、氷嚢を手にした裕斗が戻ってくる。

「殴られたのはそこだけか?」

 氷嚢を殴られた頬にそっと押し当てられ、驚きながらもそれを受け取った。舌のことなど言えるはずもない、俺は、ただ頷き返す。じっと顔を覗き込まれ、目のやり場に困った。
 恥ずかしい、というよりも、裕斗に見られてるということが耐えられなかった。もっと耐えられないようなことをしてるのに、その姿も見られてるのにだ。おかしな話だと思う。

「……伊織とは、付き合ってるのか?」

 少しだけ迷って、首を横に振る。
 裕斗からして見れば、芳川会長に阿賀松にと節操のない男だと思われてるだろう。そして俺は裕斗ともこうして体の関係を迫ったのだ。自らの汚い部分が露呈する都度、そして僅かにしかめられる裕斗の顔が怖かった。

「……俺と同じようにあいつを誑かしたのか?」

 冷たい汗が流れる。こんなこと聞いてどうなるのか俺にはわからなかった。けれど、違う、と首を横に振れば裕斗は小さく息を吐いた。

「伊織は確かに、齋藤みたいな子が好きだろうしな。……芳川が言っていた、伊織から嫌がらせを受けていたっていうのは……あれはどういうことだ?伊織とは合意の上じゃなかったのか?」

 質問責めに、緊張で目が回りそうになる。なにか下手なことを言ってしまいそうで怖かったし、それ以上に、うまく喋れる自信もなかった。
 上手く言葉にできず、そのまま押し黙ってしまう俺に裕斗は「言いたくないのか」と静かに問いかけてきた。
 俺は無言のまま頷いた。

「……芳川のことを庇っていたのに、伊織のことも庇うのか?……随分と欲張りだな」
「……ッ、そ、れは……」
「志木村のやつも何を考えてるんだろうな、君を伊織に会わせて……依りでも戻させるつもりだったのか?」

 その言葉の端々から裕斗が怒ってるのが伝わってくる。俺に向けてなのか、志木村への怒りなのかわからない。恐らく前者なのだろうが、それでもいつも笑ってくれていた裕斗の笑顔がないだけで大分印象が違う。
 俺が、この人を怒らせたのだという自覚はあった。申し訳なく思わないわけもなかった。
 それでも、何も言うことができなかったのだ。

「……ゆ、うと……先輩……」

 困らせてるのも、苛つかせてるのも俺だ。わかっていて、この人を癒やすどころか陥れようとしてる。
 それなのに、罪悪感を覚える自分が矛盾してることはわかっていた。
 本当のことなど、口が裂けても言えない。そうすればきっとこの人は許さないだろう。
 どうすればいいのかわからなかった、ただ、名前を口にすれば、裕斗の手が、殴られた頬に触れた。指先が掠めるだけで、熱を持ったそこは電流が走ったみたいに痺れるのだ。

「齋藤、お前……本当に痛いのが好きなのか?」

 ゾッとするほど静かな声。輪郭を撫でるように頬を触れられ、思わず肩が跳ねた。
 その触れ方にどうしても裕斗との行為を想起され、顔が熱くなる。

「……っ」

 試されているのだと思った。
 体の震えを堪えるように頷き返せば、裕斗は「そうか」と短く応えた。

「知憲とのことも、同意の上だったのか?」

 会長とのことが過り、喉がひくりと震える。汗がじんわりと滲んだ。それでも、裕斗が信じかけてくれている。俺は、震える声で「はい」と口にした。
 裕斗は目を伏せ、なにかを考えてるようだった。

「……せ、んぱ……」
「じゃあ、俺が今ここで君に乱暴を働いたとしても、お前はそれを受け入れれるわけか」

 一瞬、言葉に詰まった。聞き間違いかと思ったが、そんなはずがない。冗談、でもない。裕斗は笑ってすらいなかった。
 冷たい空気が俺たちの中に流れる。向けられた視線に、指先の感覚が急激に失せていくのがわかった。

「っ、ぇ、あ……」

 咄嗟にベッドから降りようとして、伸びてきた手に肩を掴まれベッドに押し倒される。
 視界には冷たい目で見下ろす裕斗と、その背後から俺を照らす照明。起き上がろうにも大きな手のひらに肩を押さえ付けられれば上半身を起こすこともできなくて。
 いくら元怪我人とはいえど、体格差や力の差を考えれば俺に勝ち目がないことなどわかっていた。分厚い拳で殴られればと想像したら、それだけで血の気が引いた。

「ぁ、お、れ……っ」
「言ったよな、お前。痛いのが好きなんだって」
「……っぁ……っ」

 身から出た錆。我慢、しなければ。そう思うのに、軋むベッドと覆い被さる影、固められる拳に、全身が石のように硬直する。そして、その拳が振り上げられるのを見た瞬間、俺は咄嗟に頭を腕で覆った。

「っ、ご、めんなさい……っ、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」

 無意識だった。来るであろう痛みを想定して真っ白になった頭の中、俺はうわ言のように謝罪を口にしていた自分に驚いた。
 それ以上に一向にやってこない痛みに疑問を覚え、恐る恐る顔を上げたとき。

「……っ、……」

 裕斗に抱き締められる。
 一瞬、何が起こってるのか、何をされているのかもわからなかった。ただ、汗でびっしょりと濡れ、震えの収まらない体を躊躇なく抱きしめてくる裕斗に驚いて、そして、自分が罠に掛けられたのだとすぐに理解した。

「……お前は、嘘吐きだな」
「っ、……は……っ」
「痛いのが好きとか、なんでそんな嘘吐くんだよ」
「う、そじゃ、な……」
「嘘だ」

「なら、なんでこんなに震えてるんだよ」離れようとしても、背中と後頭部に回された腕により一層、隙間すらなくなるくらい抱き締められ息が詰まりそうだった。

「っ、……齋藤、お前は何をそんなに怖がってるんだよ。まだ、俺にも言えないのか」
「……っ、……」
「……俺じゃ、頼りないのか?」

 裕斗の脈が、鼓動が、流れ込んでくる。離れたいのに、離れがたい。あれだけ怖かったのに、全身裕斗の体温に包み込まれればそれだけで心が落ち着いていくのだ。
 必死に堰き止めていた心の蓋を抉じ開けようとしてくる裕斗に、俺は、ただ首を横に振る。裕斗のことは、頼り甲斐のある人だとわかってる。だからこそ、巻き込みたくなかった。放っておいてほしかった。俺のことを嫌いになってほしかった。
 けれど、俺が思ってる以上に裕斗は温かい人間で、それ以上に、強固だった。

「っ……齋藤」

 懇願するように、名前を呼ばれ、後ろ髪を撫で付けられる。焦れったさそうに、歯がゆそうに、俺の名前を口にする裕斗に心が揺れ動きそうになる。
 その人に助けを求められたらどれほどよかったのだろうか。きっと、裕斗は俺がどんなやつでもきっと信じてくれるのだろう。真っ直ぐな目で、俺は悪くないと言い切るのだ。
 助けてください、とただ一言言えばいい。そう、喉まで出かかり、息を飲んだ。頭の中に、血まみれの裕斗の姿が浮かんだからだ。伸ばしかけた手をぎゅっと握り締め、俺は、裕斗の胸を押し返した。

「っ、ご、めんなさい……」

 やっぱりダメだ。ダメだ、この人を、巻き込んじゃダメだ。
 それだけは、してはいけない。


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