天国か地獄


 46※微小スカ

 わかっていた。わかっていたことだが、裕斗もこの後来るのだ。無茶なことはしないだろう、なんて少しでも淡い期待を抱いていた俺が馬鹿だった。
 髪を掴まれ、頭を引っ張られるように阿賀松の寝室に引き摺り込まれる。痛みなんて感じる暇もない。

「っ、……や、め……っ 」

 床に放られ、咄嗟に立ち上がろうとしたところを目の前、屈み込んだ阿賀松に胸ぐらを掴まれる。
 この男が嘘吐きだと知っていたのに。気分次第で自分の発言を変えることも、知ってたのに。
 大きな手のひらは片手だけで俺の首を締めることも容易だろう、阿賀松の親指が俺の喉仏を軽く押した瞬間、恐怖に全身が引きつった。
 そして。

「……なぁにがやめてくださいだ?俺のところにどうなるかくらいその脳味噌でも考えられただろうが」
「っ、ぐひ」
「――俺に何か言うことは?」

 聞き分けのない子供に言い聞かせるような声だった。
 志木村の前で見せたときと同じ、優しい笑み。けれど、首を掴み、加えられる力は異常だった。 
 咄嗟に阿賀松の手首を掴み、剥がそうとするがびくともしない。それどころか、徐々に、確実に器官ごと塞いで呼吸を邪魔しようとしてくる阿賀松に頭に血が昇る。息苦しさに指先がじんと痺れ、目の前が、霞む。

「ッ、……ご、めんなひゃ……」

 瞬間、何かが潰れるような音がした。殴られた、とわかったときには反動で頭が壁にぶつかり、そして、理解したと同時に焼けるような痛みが頬に走る。口の中に広がる鉄の味。瞼裏が真っ赤に点滅し、目の前の阿賀松の顔がグニャリと歪む。呼吸が浅くなる。殴られた。それも、顔を。

「……あー、顔はダメ……なんだっけ?まあいいか、どうせ、あいつにも殴られてたんだろ」
「っ、は……ぁ……っひ……ッ」

 目に見える場所には何もしないだろうと箍を括っていた俺は速攻で裏切られ、もうどうしようもなかった。手加減したつもりなのかもしれない、それでも、ズキズキと痛む頬に元からない戦意すら根こそぎ奪われる。
 後ずさりして逃げようとしたところを、伸びてきた指に顎を掴まれた。そして、強引に口の中へ入ってくる指。
 二本の指は恐怖で引っ込んだ俺の指を強引に掴み、そして引き摺り出そうとしてくるのだ。

「ん、ぅあ」
「小せえ舌。……こんなんでも感じることはできるんだよなあ、すげーよな、人体って」
「っ、は……ッ」

 ぎちぎちと舌が引き千切れそうな勢いで引っ張られ、汗なのか、涙なのか、最早わからない体液で顔が濡れる。
 どこから取り出したのか、片方の手で煙草を咥えた阿賀松は寝室の扉の方へと向く。
 そして。

「ハルちゃん火ィ貸して」
「……はい、先輩」

 聞こえてきた第三者――よりによって見られたくないやつの声に背筋が凍った。いつからいたのか、なんて、わかるわけがない。キンキンと耳鳴りが鳴り止まない。頭痛。舌を出したままの口から唾液を止めることもできず、歩み寄ってきた壱畝にアホヅラを見られる。
 死ぬほど恥ずかしかったし、悔しかった、けれどあいつは目の色を変えるわけでもなく、さっきと変わらない態度で阿賀松の咥えた煙草に火を着けるのだ。
 吸えば吸うほど腹の奥に溜まるような重い匂いと、真っ白な煙。そして、煙草を手にした阿賀松は溜まった煙を俺の顔に吹きかける。瞬間、開きっぱなしの器官に直接流れ込んでくる煙に呼吸を邪魔され、俺は噎せ返りそうになった。口が閉じることができず、余計に苦しくなる。

「ユウキ君、もう一回聞いてやる。お前、俺に何か言うことあるんじゃねえのか?」

 込み上げる吐き気に、唾液に、頭がどうにかなりそうだった。
 阿賀松が何を言ってるのか、心当たりがないわけではない。寧ろ、心当たりしかなかった。
 会長のことか、裕斗のことか、縁のことか、それとも……。

「遅えよ」

 そう、痺れを阿賀松が手にしていた煙草を長い指で持ち替えた瞬間だった。限界まで引き摺り出した舌に、まるで判子でも押し付けるかのように火のついた先端を押し付けた。

「っ、ぎ」

 一瞬、何をされたのかわからなかった。神経が集まったそこに、ぢぢ、と肉が焼けるような音が口の中、すぐ耳元で聞こえた。

「ぅ、あ゛ッ、が、ぁあ゛ぁッ!!」

 熱い。熱い。焼ける。肉が焼ける匂いが口いっぱいに広がり、舌に根性焼きをされてる。灰皿かなにかのように舌にぐりぐりと押し付けられるそれに、粘膜が焼き尽くされる。喉奥から溢れる獣じみた悲鳴が自分のものというのもわからなかった。けれど、のたうち回りそうになる体を上から押さえ付けられ、グリグリと濡れた肉に煙草押し付けられるのだ。

「ッは、ははは!すげえ声、お前、そんなデケー声も出せたんだな。へえ……」
「っ、ぁ゛……ぎ……ッ!」

 視界が滲む。全身の毛穴という毛穴が開き、汗が、汗だけではない、色々なものが溢れ出すような気がした。
 唾液で濡れた煙草の火は消えたが、残った熱は、神経を焼き尽くした痛みは残ってる。阿賀松が吸い殻を捨てても尚、まだ焼けた煙草を押し付けられてるかのように体が錯覚を起こし、舌先に押し付けられたその火傷に何も考えられなかった。

「お前、自分が誰の物なのか忘れたみてえだな。……なあ、知憲に絆されたか。憐れで滑稽なあの糞野郎に」
「ひ、……ィ、ひ……ッぅ゛……」

 阿賀松の言葉なんか聞こえるわけがない。感覚のなくなった舌先。自分の舌がどうなってるかなんて恐ろしくて確かめられなかった。閉じることすらできなくなった舌から大量の唾液が溢れる。
 唾液だけではない、じわじわと濡れる四肢に、自分が漏らしていると気付いたときには遅かった

「っ、ぐ、ぅ!」

 伸びてきた手に頭を床へと押し付けるように横倒しにされる。そして鼻先、押し付けられる自分の体から漏れ出た水たまりに、息を飲んだ。それだけの動作だけでも、皮膚を引っ張られるような痛みが走る。

「漏らしてんじゃねえよ、汚えな。おい、テメェで綺麗にしろ」
「っ、ぃ、あ」
「早くしろ、頭蓋骨にヒビ入れられてぇのか?」

 立ち上がった阿賀松に頭を踏まれる。瞬間、頭蓋骨に響くような痛みよりもこちらをただ見ている壱畝に、何も考えられなくなった。助けようともせずにただこちらを見るその目に、俺は、この状況から助かることを諦めた。


 地獄のような時間だった。
 一分一秒が長く、感覚が麻痺した舌に、硬い床の感触。犬のように木目調の床を舐める。鼻で呼吸はしなかった。吐き気が込み上げてきて、ひりつく喉からは嗚咽が止まらなかった。
 それでもそれを堪えて、阿賀松に従う。自分が一人の人間だと思わないように、ただ、阿賀松を怒らせないように従う。

「見ろよ、ハルちゃん。ユウキ君はなぁ、人に命令されればなんでも言うことを聞くドマゾ野郎なんだよ。……そのせいで、たまに誰が本当の飼い主なのか忘れるようだがな」

 笑う阿賀松の声が落ちてくる。二人がどんな顔をしてるのかなんて見たくもなかった。舌が焼けるように熱い、まだ煙草の火を押し当てられてるみたいに熱くて。濡れた下半身が気持ち悪いのに、それよりも阿賀松に怒られるのが怖くて、ただ床に張り付いて犬のように舐めることしかできない。

「前の学校でもこうだったのか?ユウキ君は」
「……さあ、どうですかね。昔のことなのでよく覚えてないです」
「へえ……ユウキ君のことをここまで追ってきたくせにな、薄情なやつだよなぁ。それとも、頭打ちすぎて記憶飛んじまったか?」

 二人の声が聞こえてくる。耳鳴りが酷く、会話のないようまでは分からなかったけど壱畝の口振りからして笑ってないのは肌でわかった。

「おい、何動き止めてんだ。臭えんだよ、早く片付けろよ」
「ぐ、ひッ」

 思いっきりケツを蹴られる。腰が震え、息を飲んだ。汗が滲む。痛みよりも、羞恥の方が強かった。涙を飲んで、それに従うことしかできない。

「せっかく裕斗が来るんだからな。それまでに綺麗にしとけよ」
「……あの、阿賀松先輩」
「遥香、そいつ見とけよ。それと、そいつ臭えから着替えさせておけ」

 わかりました、と答える壱畝の声が他人の声のようだった。阿賀松がどこかへ行く。俺にすら興味も失せたのか、それともこの劣悪な環境がお気に召さなかったのか。……恐らく両方ではあるだろう。
 寝室から出ていく阿賀松に、リビングへ繋がる扉が閉まったとき。全身の緊張の糸が解けたように体が動かなくなる。そして。

「ぅ、お゛げ」

 緊張が緩んだと同時に、やってくる吐き気を堰き止めることなどできなかった。何度も吐いた。胃液しか溢れない。口を洗いたいのに、焼け付くような喉の痛み、吐き気、口の中いっぱいに広がるアンモニア臭に耐えられなかった。
 唾液と胃液が口から溢れる。何度もえずいた、止められなかった、落ち着いたとき、視界の端に映る靴先に背筋が凍りついた。
 俺は、壱畝の前で、なんてことを。怒られる、殴られる、殺されるかもしれない。萎縮する全身、すっと膝をつく壱畝に全身が震えたとき。

 壱畝はハンカチとティシュで俺の嘔吐物を躊躇いなく掃除するのだ。

「……は、ぅひゃ……」

 舌が、うまく回らない。わかっていたことなのに、俺はそれでも無意識の内にその名前を口にしてしまっていた。
 やつは無表情のまま、淡々と清掃する。そして、そのまま無言で濡れたハンカチで何度も拭き、綺麗にすれば、とうとう俺に何も言わずに部屋を出ていった。

 ほんの、数分のことだと思う。
 頭も働かず、その場から一歩も動けずにいると、壱畝は手に何かを抱えて戻ってきた。
 それは制服と、白いタオルのようだ。
 タオルを手にした壱畝は俺の前に屈み、そして、タオルを握った手が伸びてきた。

「っ……」
「動くなよ。……腫れるだろ」

 苛ついたような低い声。阿賀松に受け答えするときの声よりもトーンが落ちている。睨むようにこちらを見下ろす壱畝は、硬直する俺の頬にタオルを押し当てた。ひんやりとしたそれは濡らしてあるらしい。
 阿賀松に殴られた頬をそっと抑えられ、熱を奪っていくその冷たいタオルに思わず息を飲む。

「っ、な、んれ……」
「……阿賀松先輩に言われたから。今から志摩裕斗が来るから着替えさせろって」
「っ、……」

 久しぶりに聞いた、壱畝の抑揚のない声。それと同時に、酷く久し振りにその声を聞いたような気がした。
 こんなに声が低かっただろうか、怒ってるからそう聞こえるのかもしれない。そんなことを思いながら、俺は、頬の熱を奪うそのタオルをただ受け入れることしかできなくて。

「……お前さぁ、本当……何やってんの?」

 人の顔を冷やしながら、壱畝に問い掛けられる。それは俺の行動についてもあるのだろうが、恐らく、もっと広義的な問いなのだろう。

「まじで、なんで……こんなことになってんだよ」

 きっと、この問いかけに対しては舌が使えたところでもちゃんと答えることはできなかっただろう。
 向けられる目は呆れ、というよりも、それは怒りに近い。
 それを直視することはできなくて。

「本当。お前のせいで俺、阿賀松のやつに絡まれるし、こんな真似までさせられて、すげえ最悪なんだけど……お前がノコノコ他の野郎といちゃついてる間何されたと思う?」

 何、なんてわかるはずもない。考えてもいなかったのだ、阿賀松と壱畝が一緒にいるなんて。どう答えればいいのかわからず口籠る俺に、壱畝は自らのシャツの裾を思いっきりたくし上げ、腹部を顕にした。
 そして、俺は言葉を失う。

「……お前のせいで暫く固形物食えなくなったんだけど

 薄暗い室内でもわかるほど、壱畝の腹部にはアザが広がっていた。青や紫、薄いアザもあれば、濃いアザもある。俺は、そのアザがどうすればできるのか知っていた。
 何度も集中して殴られなければ、こんなにも大きなアザはできることは早々ない。
 俺がどこでなにをしてようがお前には関係ないだろ、という思考は掻き消される。
 俺のせい、なのか。これは。

「お前のせいだよ。……お前が俺を売ったんだろ、あのキチガイ野郎に」

 違う、と言いたかった。けれど、人の個人情報も勝手に調べる阿賀松だ。阿賀松が壱畝に目をつけたとしたら、間違いなくそれは俺に対する嫌がらせのつもりだろう。
 けれど、俺は阿賀松に対して壱畝を売ったことはなかった。……ない、はずだ。だって俺だって壱畝に関わりたくなかったのだから。
 首を横に振り、何度も否定する。けれど、壱畝の表情は益々歪められるばかりで。

「――嘘吐き」
「っ、ぅ、あ」

 俺の体温を奪ったタオルが、顔から離された。
 まずい、と思った瞬間には、遅かった。首に巻き付くタオルに、思いっきり首を締め上げられる。
 部屋の中、乗り上げてくる壱畝の顔に滲む憎悪に血の気が引いた。咄嗟に首を締めるものをはずそうとするが、壱畝の手に力が加えられ、更にキツく締められるのだ。
 圧迫される器官に、脳に届くはずの酸素が足りなくなる。目の前が真っ白になり、全身が痙攣するように震えた。
「やめてくれ」と、回らない舌で懇願するが、言葉になってるかすらも分からない。
 けれど、壱畝の手が緩むことはなかった。

「お前が……ッ!俺の前から逃げるから……お前が他のやつに頼るから、俺に内緒で勝手な真似するから俺が、全部、昔からだ、お前は何も考えずに俺に迷惑ばかりかける……ッ!」
「きゅ、ッ、ぐ……ッ!」
「っ、は、クソ……なんであんな頭おかしい野郎にまで目ぇ付けられてんだよお前!なんなんだよ、なんで……ッ!……ッお前なんか、お前のせいで、お前が……ッ!」
「ぁ゛……ッ、ぐ、ぎひ……ッ!」

 首を締めるものを外そうとしても指先が痺れ、うまく力が入らない。ジリジリと追い詰められていく。息苦しさに、壱畝の憎悪に、呑まれる。
 これ以上は、本当に、死ぬ。視界がぶれ、汗が滲む。阿賀松に首を締められたときの恐怖が込み上げ、意識ごとぶっ飛びそうになったとき、首を締めていた壱畝の手が緩んだ。

「ッ、か、は……ッ」
「っ、お前のせいだ……」
「っ、は、ぁ、……はぁっ、は……ッ!」

 何度も呼吸を繰り返し、首に巻き付くタオルを外し、壱畝から逃げようとする。けれど、すぐに伸びてきた腕に引き戻される。肩を掴まれ、上に乗る壱畝に胸倉を掴まれた。

「お前の……せいで……っ」

 殴られる、そうわかっても抵抗する気力すら残っていなかった。ただ目の前の壱畝を見上げることしかできなくて、どうしたらいいのか、どうすればいいのか、なんて頭も働かない。向けられた壱畝の顔が強張った。ああ、まずい、と、ぼんやりした頭の中来たるべき痛みに備えて顔を背けたとき。
 唇に、何かが触れた。

「っ、ぅ、ん……っ!」

 それが何がなんて、知りたくもなかった。恐ろしくて、目を開けることもできなかった。
 噛み付くような、薄い唇の皮膚に食い込む歯の感触に全身が震える。なんで、どうして。混乱する頭の中、突然壱畝に体を引き離された。突き飛ばされ、背中が壁にぶつかる。顔を上げれば、そこには、見たことのない顔をした壱畝がいた。

「っ、お前の……せいだ……ッ」
「……っ……」
「お前のせいで――」

 血の気の引いたような真っ青な顔。
 噛みすぎたのか、熱の失せたその唇は震えながら、恨み辛みを吐き出すのだ。怯えるような、目。
 ハルちゃん、と、麻痺しかけた頭でその名前を口にしようとしたとき。

 寝室の扉が開いた。

「おい、ガタガタうるせえぞ」

 阿賀松が戻ってきたのだ。
 開いた扉、その奥に立つ阿賀松はこちらを覗き、そして目を細めた。

「……あー、お前……人のもんに何やってんだ?」

 面倒臭そうな、けれど、不快感を顕にする阿賀松に、壱畝の顔がみるみるうちに青褪めていった。

 home 
bookmark
←back