天国か地獄


 45

「な……んで」

 なんで、ここにいるんだ。
 喉から出かけた声は震えとともに途切れる。

「人の部屋に来ておいて随分な言い分じゃねえか。……俺がいちゃおかしいのか?」

 喉の奥で笑う阿賀松だが、やつが不機嫌なのは全身からありありと伝わってきた。絡みつくようなどす黒い怒りに全身が雁字搦めになり、足の裏を床に縫い付けられたように動けなくなる。
 そんな俺の肩をそっと触れる志木村はいつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべ、目の前の赤い髪の男に向けるのだ。

「ああ、すみません伊織さん。彼ちょっと緊張してるみたいで」
「へえ、緊張なぁ?……こいつが?」

 立ち上がる阿賀松に、全身が凍り付く。
 覆い被さる影に、覗き込まれる顔に、怒りを孕んだ薄暗い瞳。蛇に睨まれたカエルというのはまさにこのことだろう。
 急速に乾いていく喉。言葉なんて出なかった。絡みつくような視線から逃げるように必死に目を逸らすことしかできない。

「……緊張してんのか、お前。なんでだろうな?」

 伸びてきた手が顔面に触れそうになったとき、咄嗟に目を瞑る。それとほぼ同時に、「伊織さん」と、嗜めるような志木村の声が聞こえてきた。
 阿賀松は志木村に邪魔されたことに腹を立てるわけでもなく、視線だけ動かして俺の隣にいる志木村を見た。

「……志木村、電話で言っていた件だが対処はお前らに任せておく。取り敢えず、持ってきたもんだけど置いて帰れ」
「ええ、わかりました」

 そう、向かい側のソファーに腰を下ろした志木村は、制服の内ポケットから取り出した紙切れのようなものを阿賀松に手渡した。それを受け取った阿賀松は中を一瞥だけし、そして、笑みを浮かべるなりそのまま再びソファーへと腰を落とす。

「これについて裕斗は?」
「一応裕斗さんにも同じことは伝えてます。もしかしたら裕斗さんの方が詳しいかもしれないですね。……今もまた例の彼に会いに行ってるようなので」
「物好きだな、あいつも」

 ハ、と鼻で笑う阿賀松だがその目は笑っていない。
 けれど、裕斗の話をしてるときの阿賀松は僅かにだが機嫌が良くなっているようにも感じたのだ。
 それも一瞬。
 部屋の奥の扉が開いた。阿賀松以外に誰かいるのかと動揺したが、開いた扉、そこから現れたのは人物を見た瞬間頭の中が真っ白になった。

 濡れたような真っ黒な髪に、口元のホクロ。陰険さを隠したようなその涼し気な顔の男は、俺を見るなり目を見開いた。

「……ハルちゃん、客人だ。飲み物くらい出してやれ」

 ハルちゃん――壱畝遥香。何故やつが、ここに。そしておそらくそれはやつも同じことを考えてるのだろう。引き攣った表情は、阿賀松に呼ばれるとすぐに人当たりのいい笑顔になった。

「……わかりました、阿賀松先輩」

 なんて、いつもと同じ、あの気持ち悪いくらいの嘘くさい笑顔を浮かべて。
 何故、なんで、やつがいる。ここに、どうして、阿賀松に名前を呼ばれている。全身から汗が噴き出す。制服のままの壱畝に、無傷な壱畝に、笑顔で從う壱畝に、混乱した頭は何一つ理解できなくて、否――理解しようとしなかった。思考することを拒否する。冷たい汗が流れた。

「どうぞ」
「ああ、どうも」

 テーブルの上に置かれる二人分のグラス。志木村は「お構いなく」と言い足せば、壱畝はにこりとだけ笑った。
 俺の方を見ようともせず、そしてその場から離れようとして「ハルちゃん」と阿賀松に呼び止められる。

「俺の分がねえんだけど」
「……すみません、すぐに用意します」

 演技かかった会釈とともに、飲み物を取りに戻る壱畝。ほんの一瞬、俺の横を通り抜けるその一瞬、やつの目がこちらを見た。視線が、ぶつかったのだ。
 ……けれど、それもすぐに離れた。呼吸の仕方を忘れてしまったかのように呼吸が浅くなり、指先が痺れるように震えて仕方ない。
 どうして、何故、そう繰り返しては見えない答えに余計焦りと恐怖に追い詰められる。
 飲み物を用意する壱畝の背中を一瞥した志木村は、用意されたグラスに手をつけるわけでもなく、阿賀松に向き直った。

「……彼、見ない顔ですね。もしかして、彼が例の転校生ですか」
「寮長のくせに本当に裕斗以外には興味ねえんだな、お前。……ああ、そうだよ、あいつも転校生だ」

「なあ、ユウキ君」いきなり名前を呼ばれ、体が震える。
 咄嗟の問いかけに言葉が出なかったが、最悪のタイミングで阿賀松の飲み物を用意した壱畝が戻ってきた。
 トレーの上には阿賀松がよく飲んでいたミネラルウォーターのボトルが一本。それを、音を立てないように阿賀松の座る前にそっと置く。
 そのまま壱畝が離れようとしたとき、志木村が「ああ」と壱畝を呼び止めた。

「すみません、挨拶が遅れましたね。僕は一応名ばかりの寮長やってる……三年の志木村です。よろしくお願いしますね」
「……壱畝遥香です、どうぞよろしくお願いします。志木村先輩」
「どこかのユウキ君と違って利口だろ」

「おまけに頑丈だ」と笑う阿賀松に、壱畝のこめかみがぴくりと反応するのを見逃さなかった。その表情に、すべてを察した。過度のストレスによる顔面の痙攣のように見えたからだ。

 ……阿賀松が何を考えているのかなんて理解できないししたくもないが、この男は嫌がらせのためなら手段を厭わない男だということを俺は身を持って知ってる。そして恐らく、阿賀松が壱畝に目を付けた理由は恐らく――俺への当て付けか、或いは。

「へえ、それはそれは……っと、すみません」

 志木村も触れてはいけないものを感じたのかもしれない、曖昧に笑っていたが、不意に響き始める携帯のバイブレーションに慌てて尻ポケットを探り出す。そして、端末を取り出した志木村は少しだけ動きを止めた。

「裕斗からか?」
「ええ、裕斗さんからです」
「貸してみろ」

 当たり前のようにそう命じる阿賀松に、志木村はさして難色を示すわけでもなく「どうぞ」と自分の携帯を手渡すのだ。そして、まるで自分にかかってきた電話かのように阿賀松はそれに出る。

「よお、こんな時間に夜遊びしてるんだってな」

 それは、まるで気の知れた親友にでも話しかけるような気軽さだった。咥えていた煙草を外し、指で弄びながら阿賀松は電波の向こう側にいる裕斗に言葉を投げかける。

「志木村なら俺のところにいる。……裕斗お前、後で俺のところ来いよ。話がある。……ああ、お前の好きそうな話だよ。
 ――おう、急がなくていいからな」

 聞いたことのないような上機嫌で、まるで子供相手にしてるかのような優しい声に俺は耳を疑った。
 ニヤついた口元、それでも、ああ、と思った。俺は阿賀松のこんな顔を向けられたことはない。けれどそれ以上に場違いなほど優しい声が逆に俺の恐怖を煽るのだ。

 通話を終えた阿賀松は、「ほらよ」と志木村に投げて携帯を返す。

「裕斗さんはなんと言ってましたか?」
「内容も聞かずに後で行くってよ。……アイツに言っておけ、なんでもほいほい請け負うなって」
「僕よりも伊織さんが言ったほうが言うこと聞きますよ、確実に」

 くすくすと笑いながら、志木村は携帯をしまった。そして、ゆっくりとした動作で腰を持ち上げた。

「それじゃあ、僕たちは先にお暇しますかね」

「齋藤君、行きましょうか」と、棒立ちになったまま動けない俺の肩を軽く叩く。帰りますよ、と志木村がこちらに目を向けたとき。

「待てよ」

 阿賀松は持っていた煙草を灰皿に押し付け揉み消した。
 紫煙で白くなった部屋の中、先程までの穏やかさどこへいったのかそこにはいつもの阿賀松がそこにいた。

「志木村。俺は持ってきたもんは置いておけ、って言ったよな」
「ええ、それが?」
「置いていけよ、ソレも」

 ソレ、と阿賀松が顎で差したのは棒立ちになっていた俺だった。絡みつく粘着質な視線に、圧に、心臓を握り潰されるような息苦しさに汗がどっと溢れる。
 志木村は、阿賀松が何を言わんとしてるのか気付いたようだ。穏やかな笑みを浮かべていたその目が、僅かに細められる。

「……ですが、伊織さん」
「なんだ?俺の言うことが聞けねえって?」
「理由を伺ってもよろしいですか?」

 低姿勢ではあるものの、あくまですぐに受け入れようとしない志木村に阿賀松は愉快そうに唇を歪めた。

「……ユウキ君、言うこと聞かねえから手ェ煩ってんだろ?お前ら。……だから、俺が緊張解しといてやるよ」

 舐めるような阿賀松の視線を爪先から頭部へ感じ、恐ろしくて顔を上げることすらできなかった。阿賀松の視線だけではない、部屋の隅、壱畝の視線が痛いほど背中に突き刺さる。額から大粒の汗が流れる。それを拭うことすら俺にはできなかった。

「安心しろ。すぐに裕斗も来る。お前が心配するようなことはなんもねえよ」

 それは、芯から底冷えするほどの柔らかい声だった。まるで聞き分けのない子供に対して優しく言い聞かせるようなその言葉に、志木村も逆らえなかったのだろう。
 わかりました、という志木村の声がやけに遠くに響いた。

 home 
bookmark
←back