天国か地獄


 44

 
 裕斗の動きがあったのは朝方だ。
 隣で裕斗が起きる気配がして、俺は、あくまでも寝たふりを続ける。
 遠くからシャワーの音がして、そして暫く部屋の中を動き回ってると思えばようやく裕斗は動き出した。

 玄関口の扉が開く音がした。
 俺は、それが閉まるのを確認して慌ててベッドから降りる。
 気怠い体を動かし、少しだけ時間を置いて裕斗の後を追って部屋を出た。
 冷房の利いた廊下は薄暗く、少し先も見えない。
 けれど、足音が聞こえた。恐らく裕斗だろう。俺はそっと扉を閉め、足音のした方へと忍び歩きでついていく。
 息が詰まりそうだった。当たり前だが、既に消灯時間はとっくにすぎ、寧ろ朝に近いそこに人気はない。
 裕斗がどこに行こうとしてるのかもわからない。けれど、とにかく見失わないようにその気配を追った。
 迷路のような通路を何度か曲がった先、ようやく裕斗の後ろ姿を見つけた。裕斗はエレベーターではなく、非常階段へと向かおうとしていた。

 この学生寮から出るつもりか?
 非常階段となると足音が不安だったが、今更逃げることもできなかった。俺は、非常階段へと進む裕斗の後を恐る恐る追いかけた。

 それからどれくらい経っただろうか。
 普段使わない非常階段を降り、裕斗を追い掛ける。
 裕斗は気づいていないのか、歩みを止めることもなかった。ただ、目的を持って下へと向かっていた。

 ――長い階段を降りた先、学生寮一階。
 そのまま扉を開いて裕斗の後を追いかけようとした瞬間だった。ドアノブに伸ばした手が、いきなり影から現れた手に掴まれる。

「ッ!!」

 あまりの恐怖に飛び上がりそうになった俺は、暗闇の中、そこから浮かび上がる人影を見て凍りついた。

「こんばんは、齋藤君」

 柔らかく、耳障りのいい声。
 白い肌は暗闇でもよくわかった。凍り付く俺を見て、志木村はニコッといつもと同じ笑顔を浮かべた。

「そんなに急いで、どこへ行こうとしてるんです?」

 ああ、しまった。と。
 待ち伏せされていたと理解した瞬間、頭が真っ白になった。
 動揺を悟られるな。あくまでシラをきれ。
 ここで志木村に悟られては、すべてが台無しになってしまう。

「っ、あの、俺……裕斗先輩が、心配で……」
「だから、気付かれないようにコソコソ後をつけてたんですか。『一緒に行きます』と声も掛けずに」
「お、……怒られると思ったので」

「ごめんなさい」と、慌てて頭を下げる。
 悪気はなかった、ただ裕斗が心配だった。そう、反省の色を見せれば少しは信じてくれるかもしれない。
 我ながら苦しいかとも思ったが、相手は志木村だ。こういうのが一番信じてもらえるのだと思ったのだが、肝心の志木村はやれやれと言わんばかりに肩を竦めてみせる。
 そして、口元にはいつもの柔和な笑顔。

「やはり、見張りを付けてて正解でしたね」

 見張り。どこにそんなものがいたのか。
 部屋を出たとき、周りには誰もいなかったはずだ。
 それに、わかってて尾行させていたということは、もしかして志木村は最初から。

「……裕斗さんは騙せても、僕を騙すことはできないですよ。齋藤君」
「……っ」
「聞いてたんでしょう、僕たちの会話を。それで、こうしてわざわざ裕斗さんの後を尾行するような真似をした」

 口が、乾いていく。急速に全身の熱が引いていき、ドクンドクンと脈打つ音だけが大きくなっていくのだ。
 この男、わかってて俺を泳がせていたのか。
 わざと情報を散りばめ、俺の動きを見ていた。
 最初から俺のことを信じてなかったのだ、志木村は。

「心配しなくても、盗み聞きしてたくらいで怒らないですよ。寧ろ、君の行動は想定内でしたし」

「まあ、裕斗さんがどう思うかは知りませんけど」なんて、他人事のように続ける志木村の声に、気が遠くなる。
 裕斗は、俺を信じてくれていた。そのことだけ見れば俺にとっては十分うまく行っていたはずだったのに、俺は志木村の性質を理解しきれていなかった。

 軽薄。疑り深く、人を信用しない。
 優しくしてくれたのも、全部演技だったのか。俺を安心させるための、だとしたら、この男は。

「幸い、裕斗さんは気付いてません。君のことを随分と信用してるみたいですしね、自惚れ屋なので可愛がってる子に自分が騙されるなんて毛頭も思ってないんでしょう」

「本当、何も学んじゃいませんね」と口にする志木村。呆れ、落胆、それ以上の裕斗に対しての憐れみにも似た色を滲ませる。
 裕斗に言いつけられるのだろうか、そうなれば、きっと裕斗は俺を警戒するだろう。二度と信じてくれないかもしれない。
 ……逆にその方がいいのかもしれない。裕斗が俺を見捨てれば、それで。
 そう思った矢先、志木村に手を取られる。
 ひんやりとした乾いた手のひらの感触に驚いて顔を上げれば、そこには変わらない笑顔を浮かべた志木村が俺を見ていた。

「何をしてるんですか、戻りますよ」
「っ……ど、して」
「言ったではありませんか。今ならまだ裕斗さんは気付いていないと。部屋でおとなしく裕斗さんを迎えればいい話です」
「っ、それは……」
「今回のことは、不問にしてあげます。って言ってるんですよ。そんなに難しいこと言ってますかね、僕」

 理解が追いつかなかった。
 なんで、どうして、疑問符が浮かんでは弾ける。
 どうしてバラさないのか、裏切り者だと言えばいい話だ。
 それなのに、この男は。

「……先程も言ったように、君はあくまでも血迷っただけです。芳川君の洗脳が解けてないんでしょう。だとすれば無理もない。……それに今ならまだ間に合う」
「……っ」
「何を躊躇ってるんですか?今、この状況で君が躊躇う理由がありますか?……不問にすると言ってるんですよ、僕は」

 何を考えてるのか分からなかった。けれど、俺の反応がまずかったことだけは理解できた。
 確かに、そうだ。俺はただついてきただけだと言った、それなのに、これではまるで俺が自首してるようなものだ。
 志木村の表情から笑顔が消える。端正な顔立ちに冷たい影が落ち、見たことのないその目に、ぞくりと寒気を覚えた。

「……そういうことですか」

 細い指先が、手からするりと離れた。
 何に納得したというのか、理解したというのか。俺は、志木村が何を考えてるのか分からず、ただその次の言葉が恐ろしくて呼吸が浅くなる。

「……齋藤君、どうやら君は僕が想像しているよりもうんと強からしいですね」
「どういう、意味……ですか」
「君の目的は僕たちが捕まえた彼に会うこと、そして君はその彼についても概ね予想ついてるんでしょう?」
「……、……」
「裕斗さんを尾行してあわよくば現場を抑えるつもりだった、それともその彼と手を組んで僕たちを直訴するつもりでしたか」
「っ、そんなこと……」
「ありませんか?……嘘ですね、君は信じてもらおうとするときほど人の目を見る癖がある。何かを隠そうとしてる意志の現れです」

 違う、そんなはずじゃない、無茶苦茶だ。
 そう言い返したいのに、言葉に詰まってしまう。志木村の勝手な言い分は、全て的を得ていたからだ。
 憶測の域を出ないのに、志木村の憶測が全部あたってるからこそ余計、否定の言葉を探してしまう。
 言おうと思えばいくらでもあったはずだ、けれど俺は動揺してしまったのだ。
 そして、志木村はそれを見逃さなかった。

「……残念でしたね。裕斗さんのことは騙せても、僕を騙すことはできないですよ」
「……俺は、騙してなんて」
「一つだけ言っておきましょうか。君、芳川君のためになにか企んでいるようですけど君がなにをしたところで処罰される人間がひとり増えるだけであって芳川君がリコールを免れるわけではありませんからね」

 一瞬、時間が停まった。
 目を見開けば、微笑んだ志木村と視線がぶつかる。薄く開かれた目は俺を捉え、離さない。

「君がしようとしてることは全て無駄な足掻きなんですよ、齋藤君。……あまりにも君が健気で可哀想だから言っておきますよ、芳川君を庇ったところで君に利点なんて一つもない」
「……っ、……」
「貴方も馬鹿ではないでしょう、君が本当に望んでるのは芳川君がリコール回避することではない。回避した芳川君に褒められたいんでしょう。もしくは、彼を敵に回したくないかのどちらかだ」

 なんで、どこまで、気付いてるのだ、この男は。
 滝のように流れる汗が止まらない。否定される、お前のしてることは全部無駄だと。それはなにより俺が恐れていたことで、目を背け続けていたものだ。
「ちがう」と口にすれば、酷く情けない声が出た。

「ちが、う……」
「齋藤君」
「俺は……」
「芳川君から逃げたいんでしょう」

 容赦なく、叩きのめされる。見たくなかった自分の本心を突き付けられるようで、怖かった。それを認めてしまえば、今度こそ、自分がなんのためにここまできたのかがわからなくなる。それがなによりも怖くて、俺は。

「……僕なら、君の力になれますよ」

 その言葉は、波立つ心に真っ直ぐに落ちた。
 一瞬、その言葉の意味が理解できなかった。
 志木村を見上げれば、底冷えするほどの薄暗い瞳が俺を見下ろしていた。薄い唇が弧を描く。

「芳川君を敵に回さずに逃れる方法、僕にはあります。……もちろんそのためには、君にその意思がなければならないのですが」

 呼吸が浅くなる。
 ――会長から逃げる。そんなこと、できるわけがない。会長に歯向かって無事で済むなんて、そんなこと。会長は俺のことを恨んでるはずだ、憎んでるはずだ。
 あるはずない、認めては駄目だ。会長がどこで聞いてるのかもわからない、それなのに。どうして志木村の言葉がこんなにも耳に残るんだ。

「……俺は、そんなつもりは」
「そうですか、ならいいですよ。この話はなしです。けれど、僕の立場上君には無事でいてもらわなければならないのでこのまま裕斗さんの部屋に連れて帰りますね」
「……っ、ま、って……下さい」

 咄嗟のことだった。
 連れ戻される、そう思った瞬間、俺は志木村の腕を引っ張って止めようとしていた。
 こちらを見た志木村は確かに笑った。

「……どうかしましたか?」
「……っ、……ぁ……」
「…………」

 俺は、何をしてるんだ。
 何を、言おうとしてるんだ。
 声が出ない、当たり前だ、頭は真っ白でなにも考えられない。

「……っ、ぉ、れ……は……」

 語尾が消え入る。震えが止まらない。どこかで会長がいるんじゃないか、そんな気がしてならなくて。
 その先は続かなかった。
 暫く黙って俺の様子を見ていた志木村は、「そうですね」と何かを考える素振りをする。

「……少し歩きませんか?」

 そう、志木村は提案する。俺には、それを断ることができなかった。会長を裏切るつもりはない、そう決めてるはずなのに何故か俺はこの男の意識を少しでも引き留めようとしていたのだ。
 なんのために、どうして、自分が自分でわからない。それ以上にわからないのは目の前の男だ。
 俺は、志木村に言われるがままついていく。
 そして、すぐに自分の選択を後悔することになった。
 少し歩こう、そう言う志木村に言われるがまま俺たちは四階へと戻ってきていた。
 けれど、裕斗の部屋に戻る素振りはない。
 そもそも歩くとはどういうことなのか、こんな薄暗い場所をただ歩いて誰かに見つかったりしたらどうするのか、とか、志木村の後をついていってる間にも疑問は絶えなかった。
 会話はない。志木村の革靴の音と、自分の足音だけが響いている。志木村は俺を拘束することはなかった。ついてきたくなければこなければいい、そういうつもりなのだろう。
 そして、四階の奥までやってきたところで、俺は、この男がどこに行こうとしてるのか気付いてしまった。今思えばこの時点で逃げるべきだったと思う。
 強制もされていない、それなのに、俺はアホヅラ下げて志木村についていってしまったのだ。


 学生寮、四階――阿賀松の部屋。

「すみません遅くなっちゃって。少し込み入ったことがありまして」

 なんで、どうして。
 汗が止まらない。口の中が乾く。手が、指先がじんじんと痺れ、感覚が薄れていくのがわかった。
 煙草の煙で白く濁った部屋の中。
 革のソファーに腰を落とした阿賀松伊織は手にしていた煙草を灰皿に押し付け、ゆっくりとこちらを見上げた。

「……込み入ったことって、もしかしてソレのことか?」

 歪んだ唇、その開いた隙間から煙が溢れ出す。
 一ミリも逸らされないその視線に、俺も、目を逸らすことができなかった。
 俺は、志木村が歩くというからついてきただけだ。
 それなのに、なんで。
 なんで、この男に会わされるのか。
 真っ白になった頭の中、全身が冷たくなっていくのを確かに感じた。

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