天国か地獄


 39※

 ほんの一瞬のことなのに、まるで永遠かのような時間に思えた。
 固く結ばれた唇の感触、見開かれる目、肩を掴む手。
 どうにかなりそうだった、否、こんなことをしてる時点でとっくに手遅れだ。
 引き剥がされそうになるのを拒むように、裕斗のシャツにしがみつき、裕斗の唇に押し付ける。キスと呼ぶには稚拙な行為だった。

「っ、ふ……んん……っ」

 ちゅ、と音を立て、何度も裕斗の唇を吸った。角度を変え、必死に唇にしゃぶりつこうとするが、裕斗の手によって無理矢理引き剥がされた。
 強い力で両肩を掴まれ、ぎくりと顔を上げればそこには見たことのない顔をした裕斗がいた。
 いつもの朗らかな笑みなんてない、怒ってるのが肌で伝わってきた。

「っ、齋藤く……なに、考えてんだ……」

 困惑、違う、なんだろうか、これは。
 向けられる視線に、その声に、背筋にびりっとしたものが走る。
 裕斗はこんな俺にいつだって優しくしてくれた、少し強引だけど太陽みたいな人だった。
 そんな人の優しさを裏切る。
 信頼をかなぐり捨てる。
 酷いことをしてるという自覚はあった。あったが、裕斗の信頼と芳川会長を天秤にかけると結果は明らかだった。
 肩を掴む裕斗の手に、自分の手を重ねる。掌の下で裕斗の血管が動くのを感じた。

「……志摩の、言う通りです。全部、俺が悪いんです」

 汗が滲む。するりとその手首へと指を這わせれば、裕斗が反応する。
 ごめんなさい、裕斗先輩。ごめんなさい。ごめんなさい。頭で謝罪をしたところで、何も変わらないとわかっていても、心を殺すことまではできなかった。

「俺が……こんなだから」

 裕斗の体に手を伸ばす。衣類越しでも分かる、その体温の高さ。薄いシャツの下、這わせた指からシャツ越しに筋肉の硬い感触を感じた。

 いっそのこと、拒否してくれた方がましだった。
 気持ち悪いと突き飛ばしてくれれば、俺を軽蔑して、二度と俺を助けようとしないでくれ。見放してくれ。
 俺たちを放っておいてくれ。

「……っ、齋藤君」
「軽蔑、して下さい。……俺は、先輩に庇ってもらうような人間じゃありません」

 齋藤君、と名前を呼ぶその唇を塞ぐ。二度目のキスだ。
 開いた唇を舐め、ちろりと出した舌でその唇を舐める。裕斗が逃げようとするのを、ネクタイを掴んで更に追ってキスをする。

「っ、ふ……っ、ん……っ……ぅ……」

 ちゅ、ちゅ、と響く音が恥ずかしくて、耳を塞ぎたくて仕方なかった。裕斗の胸にしがみつき、子供騙しみたいなキスをする。もたもたしながら裕斗のシャツに手を掛ける。慣れない手つきでボタンを外そうとしたとき、裕斗に手首を掴まれた。
 なにを、と息を飲む。瞬間、体を思いっきり抱き寄せられ、視界が大きく傾いた。背中に回された硬い腕の感触。
 ぎょっと顔を上げようとすれば、顎を掴まれる。何を、と考える暇もなかった。

「っ、ふ……ッ!」

 開いた口に、噛み付くように唇を重ねられる。
 大きな舌が口の中に入ってきて、頭の中が真っ白になった。突き飛ばされる想定はしていた。どんな言い訳をしようかともだ。
 けれど、この展開は、考えていなかった。

「っ、ん……っ、んん……っ」

 強い力で抱き締められ、唇を吸われる。口の中を舐め回され、酸素ごと奪われそうになる。気付けば裕斗にしがみつくことが精一杯で、舌を絡め取られ、深く口つけられてる内に自分が壁際へと追いやられてることに気付いたときには遅かった。

「っ、ゆ、うとせんぱ……」
「……軽蔑なんてするわけねえだろ」

「お前はそういう風に作り変えられたんだろ、齋藤」名前を呼ばれ、騒がしかった心臓が更に煩くなるのがわかった。
 濡れた唇、脱ぎ掛けのシャツに乱れたネクタイ。頬に伸ばされた手に輪郭を撫でられ、全身が凍り付いた。

「手が震えてるぞ。体も。……自分からするのは慣れていないんだろ?本当はこんなことしたくないと思ってる」
「……ッ!ち、が……います……俺は……っ」
「なら、続けろよ」

 息が止まりそうだった。
 裕斗の目は笑っていない。怒ってる、呆れてる。俺を、試そうとしてる。その目で真っ直ぐに見据えられ、逆らうことなんて出来なかった。
 断れば、きっと裕斗は何もなかったように俺を許してくれるだろう。けれど、それではなんの意味もない。

「やり方、わからないのか?」

 手を握り締められ、心臓が跳ねる。
 こんなんじゃ駄目だ、疑われる。そう思って、俺は裕斗のボタンに手を掛けた。一つ一つぷちぷちと外すこの時間が地獄のようだった。裕斗の視線が外れない。
 怖気付いてはいけない。悟られてはいけない。そう言い聞かせながら、俺は、裕斗の肩口に顔を埋める。こんな真似、したことない。
 いつも阿賀松や会長には一方的に抱かれることの方が多かったから自分からするなんてない。裕斗の匂い、薬品の混ざったそれに頭がくらくらする。
 俺は目の前の首筋に唇を押し付けた。
 浮き出た鎖骨に舌を這わせ、噛み付くように口に含みながら裕斗のネクタイを外す。

「っ、ん……ぅ……」

 汗の味が口の中に広がり、自分がとんでもないことをしてる自覚はあったが止めることなど出来なかった。
 犬みたいにペロペロ舐めることしかできない。どうすればいいのかなんてわかるわけがない。迷子のように裕斗のシャツにしがみつくことしかできない俺に、裕斗は痺れを切らしたようにネクタイを抜き取った。
 そして、肩を掴まれ、引き離される。

「……もういい」

 冷たいその声に、全身から血の気が引いた。
 裕斗に呆れられた。俺が、俺がちゃんとできなかったからだ。そう思うと焦りで頭が真っ白になった。
 俺は、考えるよりも先に裕斗に抱きついた。待ってください、とかそんなことを口にして。

「待ってください、俺っ……ちゃんと、ちゃんとしますから……」

 慌ててシャツを脱ぐ。裕斗の体に自分の体を押し付ければ、裕斗の顔が引き攣った。
「おい」と呆れたような顔をする裕斗に再びキスをして、口を塞いだ。もう、やけくそだった。逃げられないように裕斗の両頬を手で抑え、口を深く重ねる。
 滑稽だ。何をやってるんだろうか俺は、考えたところで虚しくなるだけだとわかってても考えずにはいられなかった。

「っ、は……んん……っ」

 太い舌にこちらの舌を絡め取られ、先っぽを吸われるだけで腰が痺れるように甘く疼き出す。
 裕斗は、裕斗なら、拒むと思っていた。拒んでほしかった。自分から煽っておきながら勝手だと思ったが、それでも、肉厚な掌に尻を揉まれ、下腹部が熱を持ち始める。
 志摩のお兄さんで、元生徒会長で、阿賀松の友達で、会長の先輩。
 そんな相手と俺は、何をしてるのだろうか。
 吐息が混ざり合う。言葉はなかった。裕斗の下腹部に手を伸ばし、固くなり始めていたそこに手をやったとき、視線が絡み合う。
 顔が熱くなる。耳までもだ。唇ごとむしゃぶりつかれ、荒々しい手付きで尻の肉を揉まれると体が石のように固くなってしまう。掌の下のそれが比例するように膨らみ始めるのがわかって、そっと指先でなぞれば裕斗は息を吐いた。

「……齋藤君」

 尻を揉まれ、下半身、スラックス越しに下腹部を押し付けられ、呼吸が浅くなる。
 あっと言う間にテント張った下腹部が窮屈そうで、喉がひりつく。熱っぽい手、声に、視線に、体が痺れるように疼き始めるのだ。

 怖くないといえば嘘になる、後悔してないともだ。
 けれど、既成事実さえ作ってしまえばこちらのものだ。
 裕斗が会長と同じことをし、そして俺から迫ったという事実が必要だった。
 俺は、ベルトを緩め、スラックスごと下着をゆっくりと下ろす。

「……っ、遠慮、しないでください……これは、俺から頼んだことなので……」

 そのまま、裕斗に背中を向ける。
 死ぬほど恥ずかしい。声の震えまでは誤魔化すことはできなかった。下着をずらし、腰を突き出す自分に、俺はもう何も考えることはできなかった。

 なけなしのプライドも何もかもが音を立てて崩れていく。犬のように腰を突き出し誘う自分の姿を客観的に見たら耐えられなくなるだろう。心を殺す。思考を停止させる。下腹部の熱だけを意識する。
 そうしなければ、耐えられなかった。

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