天国か地獄


 38

 殴られるのだろうか。
 罵倒されるのかもしれない。
 或いは、もっと酷いことを。

「……あーあ、本当馬鹿だよね。ここまで言ってもわかんないなんてさ」

 けど、志摩は驚くほどあっさりと俺から手を離した。
 その表情に浮かぶのは『呆れ』だった。

「――本当に馬鹿だよ」

 そう、志摩が呟いたとき。背後、玄関口から扉が開く音がした。
 まさか、十勝?いや、外には裕斗が……。

 そう思った瞬間。

「齋藤君……と、亮太?」

 勢いよく開いた扉から現れたのは裕斗だった。
 血相変えた裕斗だったが、部屋にいた俺と志摩を見るなりその表情は目を丸くした。
 それを一瞥した志摩は、面倒臭そうに溜息を吐く。

「なに?俺がいちゃ悪いの?……俺の部屋だよ、ここ」
「悪くないが、なんでここにいるんだ?まだ授業の時間だろ」
「そっくりそのまま返させてもらうよ。俺は具合悪くなって早退しただけ、そしたら齋藤が勝手にこの部屋に転がり込んでたから話してたんだよ。それのなにが問題なの?」

「それより、そっちはなに?勝手に他人の鍵使って入ってくるなんて普通じゃないよね」そう、実の兄に目を向ける志摩に、指摘された裕斗は「あー」と面倒臭そうに頭を掻いた。そして、お手上げのポーズ。

「悪いな亮太、今お前に構ってやれる暇ねえんだわ。……齋藤君、話がある。悪いが、ちょっといいか」

 その裕斗の言葉が、表情が、その話というものが穏やかではないのを物語っていた。
 俺には拒否権はない。きっと、裕斗は聞いたのだろう。十勝からなにかしら。
 わかりました、と頷くよりも先に、志摩が口を挟んできた。

「その話、ここじゃできないの?」
「何だって?」
「俺がいたら都合悪いの、それ」
「……亮太、お前聞き分けそんなに悪くないはずだろ。俺は、齋藤君と二人で話したいんだ」
「齋藤が本当はセックス狂いのド淫乱で女好きの書記まで手籠めにして生徒会を解体させようとしてるって話?」
「……ッな……!」

 耳を疑った。
 何を言い出すかと思えば、それも裕斗の前でとんでもないことを言い出す志摩に顔に血が昇る。
 気付けば俺は、志摩の腕を掴んでいた。「やめてくれ」と咄嗟に止めようとして、こちらを見た志摩が一瞬笑った。

「今更何を嫌がってるの?齋藤。さっき自分で言ったよね、自分は生徒会を入れ食いしてますって。そのせいで堅物の生徒会長さんは頭おかしくなっちゃったんでしょ?」

 確かに、会長の行いは俺のせいだと言った。
 けれど志摩の言い方はあまりにも悪意がある。意味は同じにしてもだ、辱めるようなその言い草に、何も言い返せなくなる。

「亮太、そういう言い方は……」
「あんたも気をつけなよ、齋藤は相当手が早いから二人っきりになったらすぐに襲われるかもよ」
「ッ、志摩……っ!」

 我慢できなかった。
 いくらなんでも酷い、さっきの仕返しのつもりか。
 裕斗にあらぬことを吹き込む志摩を睨めば、志摩は目を細める。笑ってる、ようには見えなかった。
 そしてそれ以上何を言うわけでもなく、言いたいことだけ言って部屋を出ていったのだ。

 空気は、最悪だった。
 俺は今すぐこの場から立ち去りたい気持ちでいっぱいになる。
 これくらい耐えられなければこれから先堪えられない、そうわかってても、顔の熱が引かない。裕斗の反応が怖くて、顔を上げることもできなかった。
 喉が急速に乾き、居たたまれなさのあまり動くこともできない。

「大丈夫か?齋藤君」

 けれど、裕斗は気にせず俺に声をかけてくれた。
 俯く頭上から落ちてくる声は変わらない裕斗の声だ。

「亮太のやつ、昔はまだいい子だったんだがな。……悪いな、あいつには後で俺から言っておくから」

 気にするな、と掛けられる声に、あれだけ息苦しかった胸に伸し掛かった重石が僅かに外れた気がした。
 顔を上げれば、裕斗と目があってその距離の近さに驚いて咄嗟に後退った。

「……ぁ、あの……鍵……」
「あ?あぁ、どうして鍵を持ってたのかってことか?」

 こくりと頷けば、裕斗は「十勝君から借りた」と何でもないように答えてくれる。
 ……やはり、十勝と会ったのか。
 裕斗がここに来た時点で想像ついていたことだが、それを意味することにますます背筋が凍りつくようだった。

「ぁ、あの……話って……」
「さっき亮太の手前君に話があるって言ったけど、別に無理にして話さなくてもいい。……大体十勝君に聞いた。君に酷なことをさせようとしてたっていうのもな」
「……ッ!」

 ドクン、と心臓の脈が大きく跳ねる。
 汗が噴き出す。憐れむような裕斗の視線に、圧迫されるような息苦しさを覚えた。
 終わってしまう。
 全部、会長が作り上げてきたものが崩れてしまう。

「後は俺がなんとかするから齋藤君はとにかく休んでろ。……大丈夫だ、君の不名誉も全部撤回させるから」

 裕斗の笑顔が怖かった。
 その言葉は芳川会長の死刑宣告に等しい。
 駄目だ、そんなことはさせない。そんなことをされたら、会長は。

 気がついたら、俺は裕斗の腕を掴んでいた。
 何も考えていなかった。けれど、とにかく、この男を行かせてはならない。それだけは確かで。
 この男が皆の元へ戻ったら、今度こそ本当に会長と会えなくなるような気がして。どうすればいいのかなんて、まともな思考もない。焦りと不安、恐怖でごちゃまぜになった頭の中、俺は裕斗を見上げる。

「ん?どうした?」

 不思議そうに、それでも嫌そうな顔をするわけでもなく聞き返してくる裕斗。
 裕斗は最近復学したばかりで、大怪我をしていたと聞いていた。それでも、俺よりも体格はいい。真っ向に立ち向かって勝てるはずもない。けれど。

『あんたも気をつけなよ、齋藤は相当手が早いから二人っきりになったらすぐに襲われるかもよ』

 去り際の志摩の言葉が頭を過る。
 あのときはただ不快だったのに、今では、志摩の言う通りになっている気がしてならない。

 俺は、最悪なことをしようとしてる。
 震える指先を誤魔化すように裕斗の腕を掴み、背伸びする。鼻先数センチ、すぐ目の前にある裕斗の唇に、俺は押し付けるようなキスをした。

 不名誉ではない、醜聞も全部、事実にしてしまえばいい。そうすれば、芳川会長の嘘も本当になる。
 俺に残されたできることは、それだけだ。

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