36
十勝の部屋……志摩との相部屋であるが、同室者は幸いいないらしい。ホッとするのも束の間、扉を施錠した十勝がそのままずるりと扉に凭れるのを見て青褪める。
「っ、は……と、かちくん……傷……」
大丈夫、と言う言葉は飲み込んだ。大丈夫なわけがないのだ。あんな殴られ方して。
無我夢中で走ってきたせいで息が続かない俺に対し、十勝は顔をしかめ、それからガシガシと自分の髪を掻き上げる。
「……っクソ……通りで痛えわけだよなぁ……」
そして手のひらを見た十勝は苛ついたように吐き出した。
そこにべっとりとついた赤い血を見て俺は思わず息を飲んだ。
「っ、救急車……」
「大丈夫だって、冷やしときゃなんとかなるから。……それよりも、佑樹の方が心配なんだけど」
「……っ、俺は、大丈夫だよ……十勝君に比べたら、こんなの……」
……少し強がった。
走るときはとにかく逃げなきゃって思ってたからそんな余裕なかったけど、ここに来て立ち止まるとどっと内側から押し上げてくるような痛みに脂汗が滲む。
「――佑樹」
きっと、十勝にはすぐ見抜かれてるのだろう。
本当は死ぬほど緊張したし、怖かった。もう怖いものなんてないって思ったのに、全身の痛みも、十勝が殴られるのを見たときの熱も、全部現実のもので。
「……お前ってすごいよな」
十勝がポツリと口にする。
一瞬、それが誰に向けられたものかわからなかったがこちらを見るその哀れみすら滲んだ目にそれが自分に向けられたものだと気付いた。
「すげーよ、お前。よく、俺なんかの心配できるよな」
「……っ、そんなの……十勝君だって……」
「だって佑樹があまりにも変わらず俺と接してくれるし……俺だってわけわかんねえよもう」
自嘲染みた笑いを浮かべ、それから十勝はそのままずるずると座り込む。濃い血の匂いの中、倒れやしないかと思わず動きそうになった俺に「ほら」と十勝はまた笑った。
「今なら逃げられるとか思わねーの、普通」
「十勝君たちと、約束したから……ちゃんと証言するって」
それが俺もいいと思ったから。
そういったところで十勝に信じてもらえるかわからない。
それでも、こうして十勝がちゃんと俺の言葉を聞いて返してくれるのが嬉しかった。
……単純なんだろう、俺も。
「俺、もうわけわかんねえわ」
「……」
「佑樹のせいだって思いたいのに、佑樹だってそう認めるのに、それなのに、まだ信じらんねえ。……お前が俺たちを、会長を裏切るわけねえって」
体操座りをし、膝小僧に額を擦り付けるように俯いた十勝は吐き出す。
それは俺に対する言葉というよりも、独り言のようなもののようにも聞こえた。
十勝も、十勝の中で葛藤があったのだと思うと、何も言えなかった。
「……佑樹は、これでいいのかよ」
それは、迷子の子供のような声に聞こえた。
最後通牒。十勝の優しさなのだろう。それは、覚悟を決めた俺にとってなんの意味も為さなかった。
いいわけないだろう、けれど、そうするしかないのだ。
「いいよ」
こうすることで十勝が、生徒会の皆が報われるのならいいと思えた。
いいよ、もう一度口の中で呟く。十勝は何も言わなかった。ただ、息を吐き出すように呼吸をし、それから、俺の手を掴んだ。
「佑樹は……本当馬鹿だな」
「……十勝君」
「……けど、俺はもっと馬鹿だ。……本当、最低だ」
俯いたまま、十勝は俺の手を握り締めた。その冷たい指先が微かに震えてるのを感じ、俺は、それに気づかないふりをしてその手を握り返した。
俺は誰かを助けたつもりでいて、誰かを陥れてるのだろう。本当はこんな風にさせたかったわけじゃない。ただ今までと同じように笑ってほしかった。
けれど、今の俺にそれを言う資格はない。
「と、かち……くん……」
慰める言葉すら出なかった。
何を言っても空々しく響いてしまいそうで、ただ名前を呼ぶことしかできなくて。
「……会議は俺だけで行ってくる、佑樹は……ここにいろ」
「っ、でも、それじゃあ……」
俺は、自分の役目を果たせない。
意味がないだろう、と続けるよりも先に、十勝が引き攣ったような笑みを浮かべる。生傷や腫れが痛々しくて、胸の奥が詰まりそうになる。そんな俺の顔を撫で、慰めるように、大丈夫だというかのように目を細めた。
「俺は、生徒会役員に選んでもらって嬉しかったし、面倒臭いこともあったけど……楽しかったし、五味さんも、和真も会長も、……平佑のことも好きだったよ」
「なら……っ」
「けど、佑樹……全部お前のせいにして無理矢理元通りにしようとしても、無理だ。俺は、そんなの全然嬉しくない」
そう言い切る十勝の目に、さっきまでの不安や迷いはない。ただ、真っ直ぐなその目に見据えられ、俺は、咄嗟に口籠る。
「……っ、どうして……」
どうして、どうしてだ。
バラバラになるよりかはましだろう、元通りにならなくたって終わるわけではない。またやり直すことだってできるのに。
なんで。
「……俺は、嫌だ……生徒会が……皆が、俺のせいでバラバラになるのは……」
嫌だよ、と続けるよりも先に、伸びてきた腕に抱き締められる。
「っ、十勝君」
「っそんなの、俺だって嫌だよ」
「けど、そのまま居座ってたって意味ない……そもそも、間違ってたんだよ」五味さんの言ってた通りだな、と顔を上げた十勝は悲しそうに笑う。痛々しいその笑顔に、俺はこれっぽっちも笑えなかった。
抱き締められた胸から流れ込んでくる体温は温かいのに、十勝の存在がまるで遠い。
俺にはどうして、十勝がなんでそんな風に笑えるのか分からなかった。
「十勝君……っ」
「和真には……他の奴らには、俺から伝えておく。俺が、お前を無理矢理連れ出したって」
「……だめだ、そんなの……そんなこと言ったら……」
十勝が責められる。会長も、裕斗も、敵に回したことになってしまう。それだけは絶対に駄目だ。
そんなことしたら、本当に、もう後戻りができなくなる。
――俺のせいで、十勝の居場所がなくなるなんて。
それなのに、十勝は怖がるどころか寧ろ先程までよりもスッキリした顔で笑って俺の頭を撫でてくるのだ。
「佑樹、お前はなんも悪くねえ。……悪くねえんだよ、佑樹」
優しい声に、目に、胸の奥が苦しくなる。ずっと、ずっと押し殺してきた、見てみぬふりしてきた何かが腹の底から込み上げてくるような、吐き気を伴うほどの、強烈ななにか。
だめだ、駄目だ、駄目だ。
十勝を離すな、行かせるな、こんなことになったら、生徒会は――会長はどうなる?
離れる腕。咄嗟に俺は縋り付こうと手を伸ばす。
「十勝君、待って、十勝君っ!」
けれど、届かなかった。
「――後で迎えに来る」
それだけを言い残し、十勝は俺を残して部屋を出ていった。
「十勝君!」と、慌ててそのあとを追いかけようとするが、扉が開かない。外からロックを掛けられたと気付いたときにはもう遅い。
扉を叩く。「十勝君!」と何度も名前を呼んだが、反応はなかった。
そして、そこが開いたのは十勝が出ていってから一時間後のことだった。
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