天国か地獄


 34

 灘が俺を疑ってるのは分かった。
 俺が本気で阿賀松たちの仲間と思ってるのだろう。何故そう思うのか、考えたところでそう思われても仕方ないというのが感想だった。

 でも、だからってこんなことをする必要はあったのか。
 思いの外、ショックだった。
 脱がされたわけでもない、ケツの中を弄られたわけでもない、ただ唇を重ねられただけだ。
 それだけなのに、俺のなけなしの自尊心を傷つけるのには充分だった。

「……俺は……っ、……」

 俺は、何も企んでない。
 その言葉が喉まで出かかって、飲み込む。何を言ったところで信じてもらえないだろう。灘の目がそれを物語っていた。

「……もういいよ」
「どういう意味でしょうか」
「……灘君に任せるよ、全部」

 会長が、生徒会が助けられるのならそれでいい。
 そう思うことでしか割り切れなかった。
 どんな屈辱よりも何を言っても信じてもらえないことがただ虚しくて、それ以上に、あんなに俺のことを気にかけてくれていた二人に冷たくされることが辛かった。

「……そうですか」

 やや間があって、灘はそれだけ口にした。
 向けられた視線は先ほどと変わらない猜疑心を孕んだものだ。俺はそれを直視することはできなかった。
 俺は否定することをやめた。受け入れることを選んだ。結果、それが何を意味するかわかっていた。俺も、灘もだ。
 何をされるのか、会長のように酷いことをされなければいい。けれど、二人にとって俺はすべての元凶もいいところだ。きっとぶつけたいものもあるだろう。
 そう思うと、抵抗だとかする気持ちは失せていた。
 もうどうにでもなれ、どうだっていい、俺が我慢すればすぐに終える話なのだろう。
 目を瞑る。殴られるかもしれない。
 そう構えていたが、俺の思惑とは反対に灘の手は離れた。

「貴方は――」

 そして、灘が何かを言おうとして、その言葉は続かなかった。
 言い掛けて口を閉じた灘は、言葉の代わりに俺から視線を外した。

「その時になれば迎えに来ます。その間、貴方にはここにいてもらいます」
「……」
「……失礼します」

 何も答えない俺に怒るわけでもなく、いつもと変わらない調子で丁寧に会釈する灘がなんだかおかしかった。
 ベッドに縛り付けるのは失礼じゃないのか。
 灘が部屋から出ていった気配を感じた。
 誰もいなくなってからようやく俺は息を吐いた。……まるで今までちゃんと息をしてなかったかのようにすら思えるのだから変な話だ。

 これからどうなるのだろうか。
 そんな不安出どうにかなると思っていたが、案外頭の中は穏やかだった。超えてはいけない一線を自分から踏み込んだからだろう。
 ……怖くないといえば虚勢になる。けれど、こうするしかない今、俺に残された道なんてないのだ。諦めて受け入れるしかない。

「……っ、……は……」

 息を飲む。括られた腕、その指先が震えてるのが分かって、思わず自重する。心を騙しても体は騙せないのか。不便なものだ。
 泣きたい気持ちはあった。俺を信じてくれと縋りたかった。俺だって好きでこんなところにいるんじゃないと、こんなこと望んでなかったと、ただ会長の側にいられたらそれで良かったんだと灘の胸倉を掴んで泣き喚きたかった。
 けれどそれをしたところで誰も幸せにはなれない、分かっていたからこそ、こうするしかなかった。

 きっと、八木たちは探し回ってるかもしれない。
 あんな無茶な真似してきたんだ、灘だって相当の覚悟はしてたということになる。
 俺だけがぬるま湯に浸かっていた。蚊帳の外だからと知らないふりをしてきた。会長の全部を赦そうとした。その結果が、これだ。
 扉の外で十勝と灘が話してる声が聞こえてくる。
 言い争ってるわけではないだろうけど、その会話のトーンからして穏やかな様子ではない。
 俺のことを話してるのだろうか。聞く気にはならなかった。聞いたところで何も変わらない。
 後は、なるようになるだけだ。

 そして思いの外そのときは早くやってきた。
 ベッドの上でできることなんて限られている。一刻も時間が過ぎるようにひたすら目閉じて眠りにつこうとしていた。次に目を覚ましたときにすべて夢だったら、そんなことを思いながら目を閉じていたがもちろんそんな都合のいいことなんてあるわけない。
 白い天井に、縛られ続けたせいで末端が痺れで冷たくなりだした両腕。
 眠ろうと思えば眠れたが、それでも体勢が体勢なので満足に眠りにつけるわけではなかった。
 あれから何度か灘は部屋に顔を出した。
 とはいえ、食事を取らせるためだけだ。会話もない。その時だけは片手を自由にしてもらえたのだが、それでも俺は逃げる気などとっくに失せていた。
 なんで俺を拘束し続けるのか、俺が逃げると思ったのか。不安だったのか。今となっては一生わからないだろう。それでも、やはり灘は食事を終えるとすぐに腕を拘束し直すのだ。
 そんなことを繰り返して、体感で一日ほど経ったくらいか。
 今度現れた灘は、見慣れた制服姿に生徒会の腕章をつけていた。

「齋藤君、貴方を証人として連れていきます」

 とうとうこのときがきたか、と思った。
 処刑を待つ囚人さながら俺はこの時を待っていたかのような気すらしていた。
 罪悪感と言いしれぬ不安感に身を寄せて眠る時間はあまりいいものではない。
 それならばいっそ早く叩き切ってほしかった。希望なんて持てないくらい打ちのめして、矢面に立たせて的あてゲームの的にしてくれ。そう思えるほどには俺は誰かの敵意を常に感じながら生きる生活に疲れていたのかもしれない。

 制服には着替えなくてもいい、と灘は言った。
 部屋には十勝もいた。十勝も灘同様きちんと制服に着替えていた。
 十勝はこちらをちらりとだけ見て、そしてすぐに目を逸らされる。会話もない。ソファーに座り、食事をしていた十勝の通り過ぎていく。

「和真」

 と、そのときだった。
 丁度十勝の座るソファーの横を通過しようとしたときに、十勝に呼び止められる。……正確には俺ではなく、俺を連れて行こうとしていた灘をだ。
 歩み寄ってくる十勝に何事かと思ったとき、腕を掴まれる。

「……やっぱり、それ、俺がやるよ」

 そして一言、絞り出すような言葉に、俺はなんのことだかわからず、それ以上に掴まれた腕の熱さにびっくりして目を丸くした。

 灘は、変わらない。さして表情が崩れるわけでもないが、十勝の言葉を聞いた瞬間、僅かにだが確かに灘の目が細められた。

「……いいえ、元はといえば自分が提案したことです。事前に伝えていた通りに事を進めさせていただきます」
「けど、それじゃ……和真お前まで罰せられるだろ。それなら、俺がやるよ……俺なら別にいなくったって代わりはいつでも見つかるし、けどお前の代わりになるやつなんて早々いないだろ?」

 まるで諭すような言い方だが、だからこそ余計その発言は卑屈に聞こえた。
 十勝が言わんとしていることはすぐに理解できた。
 俺を連れてきたとなると、風紀委員を殴りましたと認めたも同然になる。
 それでも構わないという灘と、それを拒否する十勝。
 どちらも譲ろうともせず、その場に冷たい空気が流れた。

 おかしな話をしよう。俺は二人に敵意を向けられても、信用されてなくても、それでもまだ十勝と灘には仲良くしててほしいなんて思っていた。
 だから。

「二人が、勝手に部屋を出た俺を見つけたことにすればいいよ」

 勝手に口が動いていた。
 目を丸くした十勝と、無表情の灘の目がこちらを向いた。

「灘君のことだから風紀委員たちには見られてなかったんじゃないかな」
「……そうですね、姿が確認されないように背後を狙いましたから」
「なら、念の為十勝君に連れて行ってもらうよ。それで、逃げてるところを確保したって伝えればいいと思う」

「……佑樹」
「俺が勝手にしたことだって言えば、まだマシになるんじゃないかな」

 気休め程度にしかならないことはわかってた。捕まえてすぐに突き出さなかったことを問い詰められるだろう。
 それでも、風紀委員襲った云々よりかは遥かにましなはずだ。
 提案する俺に、二人は納得するどころか理解できないとでもいうかのような目を向けてくる。
 その理由が俺にはわからなかった。

「本気で言ってるのかよ」
「……そう、だよ。……けど、それが一番……」

 いいじゃないか。
 誰も傷つかない。それが一番だろう。
 そう口にしようとすれば、十勝に肩を掴まれ、言葉が途切れる。
 どうしたのかと顔を上げれば、苦虫でも噛んだような十勝がこちらを睨んでいた。

「……っ、そんなことしたら……お前は……」

 喘ぐように、言葉を探す。けれど、それ以上十勝の言葉が続くことはなかった。
 自分で自分の言ってることの矛盾に気付いたのだろう。

 ……十勝はやはり、根本は何も変わらない。優しい十勝のままだ。だから、《裏切り者》である俺の心配をしてくれたのだ。
 ――そんなことしたらお前は、本当に戻れなくなるぞ。
 なんとなくだがそう、十勝は言ってくれようとした気がした。
 もうとっくに戻れない場所にいる俺に対してそれを言うのはお門違いだと自分で気付いたのだろう。

「…………わかった。けど、全部俺が説明する。……佑樹は、何も言わなくていい」

 自分から望んだこととはいえ、返ってきたその言葉に何も言えなくなる。
「うん」と返したつもりだったが、ちゃんと口から出てたのかすら怪しい。

 不思議なくらい心は穏やかだった。
 逆に、細やかな十勝の気遣いが痛いくらいだった。
 灘は、十勝が反論しなければそれでいいと思ったのだろう。何も答えない。ただ、終始灘の視線が突き刺さるのを肌で感じた。

 自分のことなのに、まるで他人の体を借りてるようなそんな気分だった。
 歩いているはずなのに、まるで地に足がついていないような感覚。その理由はわかっていた。
 ……こうでもしなきゃ、きっと俺は受け入れられなかったのだろう。この感覚には身に覚えがあった。

 思い出したくもない中学時代、向けられる他人の目も、罵声も、笑い声も、殴る蹴るの痛みも全部自分に向けられたものではないと思いこむようにしていた。
 俺ではない誰かが殴られてる、笑われてる。そして俺はそれを見て感じてるんだ。そう考えるだけでも大分そのときだけはましだった。

 本当は気休めにもならない現実逃避だとわかっていた。
 一過性の嵐のような暴行が終わったあとにやってくる痛みは紛れもなく本物だし、俺のものだ。それでも、心だけはなんとしてでも守りたかった。
 とっくに形なんてありゃしなくてもだ。

 自覚していたからこそ余計虚しく感じる。俺はまたここで同じことを繰り返すのだろう。それでも、以前のような理不尽さは感じなかった。
 全部自分で選んだことだから、招いた結果だから、だから――もういい。


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