天国か地獄


 33

 どうして、十勝がここにいるのか。
 俄信じられない。ここにいて、俺を見て動じないということは灘がしたことをわかってるはずだ。
 そのことを頭で理解したくなかった。

「佑樹、痛いよな。……悪い、けど、解くわけにはいかないんだ。……お前、逃げるだろ」

 わからなかった。
 十勝が何を考えてるのか、自分が何をされるのかもだ。
 けれど、その辛そうな表情からしてこれが十勝の本意ではないことはわかった。
 ならば、余計、わからなくなる。

「佑樹……教えてくれ、お前は……会長のことが本当に好きなのか」

 早鐘打つ心臓。泣きそうな、震える声で尋ねられ、反応が遅れる。塞がれた口では言葉を発することも許されない。
 首を縦に振ればいい、わかっていたのにほんの一瞬の恐怖が過り、反応が遅れた。

 会長のことが、好きだった。優しくて、真っ直ぐで、それでいて、器用そうに見えて誰よりも不器用なあの人が。
 ……けれど、今は、その会長すら本物なのかもわからなくなっていたというのが事実だ。
 けれど、会長を助けたいという気持ちに偽りはない。

 恐る恐る、首を縦に振る。嘘ではない、はずだ。
 こちらを見る十勝の目は優しい、それ以上に哀れなものを見るような色すらあった。

「――佑樹、俺はお前のことを信じたいと思ってる。けど、わかんねえんだよ……全部、和真は、お前が会長を誑かしたんじゃないかって言うんだ」
「……ッ!ふ、ぅ……!」
「そうだよな、そんなはずないよな。お前はいいやつだよ、優しくて、俺の無駄話だって最後まで真剣に聞いてくれる。……お前みたいな優しいやつ、そうそういねえよ」

「……だから、余計わかんねーんだ。……お前のそれも全部演技だったらって思うと、すげー怖い。なにを信じればいいのかわかんなくなる」泣きそうに震えるその声に、笑ってるのに泣いてるみたいなその表情に、十勝らしくない弱音に、心臓が痛くなる。
 今すぐ弁明したいのに、口の中の異物が邪魔で言葉すらも遮られるのだ。
 違う、違う、違う、演技なわけがない。俺はそんなに器用ではない。そんなことできるような人間なら、こんなことにならないだろう。そう目で訴えるが、伝わってるすらもわからない。
 寝不足なのか、十勝の目が赤い。

「――佑樹、お前は」

 首を横に振って、なけなしの力で否定する俺に、十勝は何かを言いかける。そして、俺の口に手を突っ込み、口の中の遮蔽物を取り出した。ずるりと唾液を多く含んだそれは口の中から取り除かれ、瞬間、一気に新鮮な空気が入り込んできた。
 咽る。枯れ掛けていた喉奥に唾を流し込み、潤わせる。
 十勝はそれをベッドの横に置く、そして咽る俺の背中を擦ってくれた。

「佑樹……」
「……君たちは、俺のこと……疑ってるんだね」
「……っ佑樹、俺は……」
「無理もない、と思う……だって、俺のせいで……こんなことになったんだから……」

 経緯がどうであれ、だ。俺が原因で会長がおかしくなったと言われても言い返せない。実際、会長を苛立たせて疑心暗鬼にさせたのは俺のせいだ。
 けれど、疑われて悲しくないわけがない。十勝だけは、俺の味方だと勝手に思っていた。それほどのことをしたのだと言われてるみたいで顔をあげられなかった。
 俺は、俺が死ぬほど恥ずかしい。
 正直、泣きたかった。もう元に戻れないところまで来てるとわかってても、誰かに信じてもらいたかった。けれど、自分のことすらわからなくなってる今、こんな自分を信じろというほうが無理な話だ。
 ならば、俺にできることは、一つだけ。

「――そうだよ、全部、俺のせいだ」
「……ゆ、うき……」
「会長は優しいから、俺のことを疑わなかったよ。……全部、演技だ。けど、ここまでうまく行くなんて……思わなかったな……」

 恐ろしいことに、嘘というのはすんなり口から出てくる。
 本心を通していない言葉だからこそ、余計冷たく響いた。見開かれる十勝の目を直視することはできなかった。
 俺は、最低だ。一人の人間を今、傷つけている。
 けれど、それがきっと最善なのだろう。
 こうすれば、俺が全部被れば、会長は、生徒会に向けられた矛先は全て俺に向く。
 そうすれば、全て丸く収まるのだ。
 どうしてそんなことを思いつかなかったのだろう。理由はきっと、俺はこの人たちと一緒にいることができる未来を期待していたからだ。
 全部がバラバラになってしまったあとでは遅いのに、我ながら呆れる。

「本気で言ってるのか、それ」
「……本当だよ、全部……こうすれば、簡単にリコールさせられることができるって言われて……」
「……っ、……!」

 言いかけた先の言葉は、声にならなかった。
 十勝に肩を掴まれ、ベッドに押し付けられたのだ。
 見下ろす十勝の表情は陰り、見えない。
 ただ、肩に食い込む指が痛くて、その指先が震えてるのは怒りからなのか、それとも別の何かなのか俺にはわからなかった。
 わかりたくなかった。わかってしまえば俺まで引きずられそうだったからだ。

「佑樹……お前は……馬鹿だ……っ、なんで、そんなこと……っ」
「……ごめんね」

 それは、本心から出た言葉だった。
 何に対する謝罪なのか最早わからない。
 もっと十勝と遊びたかったし、色んな話を聞きたかった。けれど多分、もうそれは無理なのだろう。俺が、そうしたのだ。
 手が縛られていなければ、背中を擦るくらいはできたのかもしれない。
 自分だけ助かったところでなんの意味もなさない。
 少なくとも会長に必要なのは俺ではない、会長のことを必要としてくれている生徒会という存在だと肌で感じた。

「……恨むなら、俺を恨んでくれ」

 それで事が収まるのなら、本望だった。

「……っ、ふ、ざけんなよ……ッ!!」

 聞いたことのないその声に、全身が震える。ベッドヘッドを殴る十勝に、汗が滲む。
 悲痛な声、滲む困惑とそれ以上に、遣る瀬無い怒りに肩を震わせる十勝に、俺は心臓が酷く痛んだ。
 俺が、選んだ結果だ。わかってても、それでも、何も感じないわけがない。

「いつからだよ、いつから、会長を……俺たちを騙してんだよ……っ」
「……っ」
「言えよ、それとも……最初からかよ?!」

 怒鳴られる度に心臓が跳ね上がるようだった。
 普段怒る十勝を見たことないから余計怖くて、それ以上にこんな顔をさせてるのが俺のせいだと思うと胸が抉られるようだった。罪悪感を飲み込む。そして、俺は息を吐くように答えた。

「……そう、だよ。……最初から、ずっと……ッ」

 その先の言葉は、言葉にならなかった。
 胸倉を掴まれ、上半身を無理矢理引き起こされる。
 殴られる、そう肌を焼き付くほどの怒気に覚悟をしたが、一向に痛みはやってこない。
 俺の胸倉を掴んでいた十勝は、俺を睨みつける。
 抑えきれない憎悪の中、悲しみ揺れるその目に気づいた瞬間、俺は殴られたような衝撃を受ける。
 ……一層、殴られた方がましだった。

「クソッ!!」

 苛立たしげに俺から手を離した十勝は、ベッドから離れそのまま部屋から出ていこうとする。
 その背中に掛ける声すらなかった。
 きっとこれから十勝は灘にこのことを言うだろう。
 そうすれば……どうなるのだろうか。きっと次の会議で全ての元凶は俺だということになり、会長は俺に騙された被害者になる。そうすれば、無傷とはいかないだろうが生徒会解体ということは免れるだろう。
 ……そうだったらいいのに。
 ぼんやりとした頭の中、十勝の怒声が脳にこびりついたまま反芻していた。
 涙は出ない。ただ、ぽっかりと胸の中に大きな穴がいたいような喪失感はどうしようもなかった。

 一人残された中、俺は逃げることを諦めていた。
 その代わり、八木たち……風紀委員にはどう言おうかというのを考えていた。
 俺が自主的に出てきたと言うか。……もう何でもいい。俺が悪いと言えば、許してもらえるような気がした。
 会長は……怒るかもしれない、けれど、俺にできることなんてこれくらいしかない。

 閉まった扉が開いた。十勝が戻ってきたとは思えない、きっと灘だろう。そちらを確認する気力もなかった。

「十勝君に何を言ったんですか」

 その声の主は想像どおり灘だった。
 顔を背けたまま、俺は「別に」と声を絞り出す。正直誰とも話す気分ではなかった。少しでも気を緩めたら不安でどうにかなりそうだったのだ。

「全部、嘘だったって言っただけだよ」
「……」
「……灘君も、そう思ってるんでしょ」

 灘は、少なくとも会長に近いところから俺のことを見てきた。俺が会長になにされたのかも知っている。それでも会長のそばにいるのだ、そこにあるのが信頼関係なのかどうかなんて今の俺にはわからない。
 けれど、会長を助けたいという気持ちは俺と同じのはずだ。

「ええ、そうですね」
「……ッ」

 わかってても、当たり前のように答えられて何も感じないわけがない。

「しかし貴方は、随分と簡単に認めるんですね。それも、このタイミングで」
「……っ、それ……は……関係ないだろ……もう、俺の役目は終わったんだ……」

 声が、震える。だめだ、動揺を悟られるな。そう思うのに、ベッドに乗り上げてくる灘に無理矢理顎を掴まれ、正面を向かされる。目があった。あの何を考えてるのかわからない黒い眼に見据えられ、息を呑む。

「……なに……っ」
「何を企んでるんですか」
「……っ、灘君には……関係ないだろ……」
「ならば何故俺の目を見ないんですか」

「これ以上後ろめたいことがまだあると」底冷えするような声に、心の奥がざわつく。灘の目を見るのは怖い。真っ直ぐに覗き込んでくる両目に見据えられると心の奥まで見透かされそうで怖かった。

「俺は、認めたはずだ……っ、全部俺のせいだって、なら、もういいだろ、全部俺が悪いんだ、どこにでも突き出してくれ……これ以上、俺に関わらないでくれ……っ!」

 自然と語気が荒くなる。言葉で壁を作る。そうしなければ、弱い心を見透かされてしまいそうだった。ヒステリックになる俺にも動じることなく灘はただじっと俺を見ていた。

「何をそんなに慌ててるんですか」
「いい加減にしてくれ、もう用は済んだはずだろ。俺は、認めたんだから。……早く、会議なりに突き出せばいいじゃないか……っ」
「ええ、そのつもりですが」
「なら……っ」

 放っておいてくれ。
 そう言いかけた矢先だった。
 視界が、手のひらで遮られる。目元を掴まれ、驚いて飛び上がりそうになったときだった、唇を、何かで塞がれた。
 一瞬、なにが起こってるのかわからなかった。
 ぬるりとした感触が唇に触れたとき、全身が凍り付く。噛み付くように唇を重ねられ、動揺のあまり身がすくむ。

 なんで、俺、灘にキスをされてるのだ。
 真っ白になった頭の中、深く重ねられるその冷たい唇の感触に呼吸が止まる。

「……っぅ、ふ……!」

 抵抗することなんてできない。縛られた腕を動かすが、手首がきつく絞まるばかりでびくともしない。
 それどころか、歯列をなぞられ、喉の奥まで挿入された舌に咥内を舐められれば唾液が溢れ、じんと頭の奥が痺れだした。

「……ッ……ぅ……ん……ッ!」

 腕に力が入り、ギチギチと拘束されたベットヘッドが軋む。足をばたつかせるものの、腹の上に跨る灘には当たらない。舌を絡められ、唾液を舐められる。キスと呼ぶには生々しい、淡白な灘から想像つかないようなまるで恋人相手にでもするかのようなそのキスに酸素すら奪われ、何も考えられなくなったとき、ようやく唇が離れた。
 目の前を遮っていた手のひらが離れ、照明の明かりとともにこちらを冷たい目で見下ろす灘が視界に入った。いつもと変わらない、得体のしれない目。そして濡れた唇に、全身がぞくりと震える。

「……っ、な、だ君……ッ」
「……会長としたときはすぐに大人しくなってましたが、随分と時間が掛かりましたね」

 いつもと変わらないその男の言葉に、顔が焼けるように熱くなった。こうして灘の方から会長との行為の言及してくるのは初めてだった。
 落ち着かせるためにするものではない。普通ならばわかることだ。それでも、恥ずかしげもなくそんなことを言う灘に改めて俺はこの男の当たり前が俺とずれていることを知らされる。
 ……同時に、慄いた。

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