天国か地獄


 32【side:十勝】




 それからは、すべてが一転した。
 会長のリコール問題が議会にかけられたことが発端となり、どこから漏洩したのか瞬く間に会長のことが学園中の噂となる。
 恋人思いで清廉潔白、全校生徒の代表者である会長が実際は裏で恋人であるはずの生徒を軟禁し、暴力を振るっていた。
 まるでそれは火をつけたかのように生徒たちの間であっという間に広がり、口々に話題されるそれには尾ひれはひれがついていく。そしてスキャンダラス好きによって面白おかしく誇張されていき、最早どれが事実でどれが虚像かもわからない。

 中には勿論会長を庇うような声もあった。
「そんなことをするわけがない」「勝手な噂だろう」そんな声は大きな声に掻き消されていく。
 最初は、一つ一つ訂正していったが最近ではキリがなくなっていた。「何も知らないくせに、部外者のくせに」と言い返す度に、その言葉が自分へと突き刺さるのだ。
 ……何も知らないのは、俺も同じだ。
 あの部屋で、会長と佑樹の間にどんなやり取りがあったかもしれない。知ろうと思えば知れたかもしれないが、実際、こうして問題が大きくなるまで俺は見てみぬふりをしていた。会長のすることに間違いがないと、会長に従うことが正しいことなのだと。そう、どこか他人事でいたからだ、行動に起こすことはしなかった。
 身から出た錆とはまさにこのことだろう。

「会長は裏で気に入らない生徒を自主退学まで追い込んだこともあったらしい」
「暴力を振っていたのは例の二年だけではない」
「中では生徒会も加担してたという」

 まことしやかに囁かれる噂は会長自身から生徒会へと広がっていく。流石に直接言われるわけではないが、嫌でも耳に入ってくるのだ。周りの見る目が変わる。
 その頃にはいちいち腹を立てることもなくなっていた。
 ただ、いくらどれほど身を費やして取得した信頼も全て呆気なく崩れていくの見て、バカバカしくなった。
 どうせこんなものかと。わかっていたことではあるけど、それでもどこか人の心を信じたい気持ちもあったのかもしれない。

 五味さんも和真も栫井も、腹を立てることはなかった。
 最初から三人はこうなることを分かっていたかのように諦めていた。勝手に言ってろとでも言うかのように、会長がいなくなった生徒会室で日々の業務をこなすだけだった。
 会話もない。元々他の奴らは喋る方ではなかったが、状況が状況なだけに呑気にお話する気にもなれなかったのだろう。

 生徒会の書類仕事はあまり好きではなかった。
 けれど皆といる時間は正直、楽しかった。変に気を張る必要もなくて、たまに会長に怒られたりもしたけれどそれでもダラダラと話すのは楽しかった。
 ……けれど今は。

 一人が不在なだけでここまで変わるものかと思った。
 まるで見えない分厚い壁に遮られてるかのようだった。まるで、他の皆が考えてることがわからない。

 五味さんは、志摩裕斗たちの話を信じてるのだろう。
 栫井はわからない。一番騒ぎそうなやつのくせに、まるで最初からこうなることを分かっていたかのように冷静を保っていた。……最低限の仕事を済ませてはすぐに生徒会室を出ていくようになり、裏でこいつが何をしてるのかは謎だ。
 ……ただ唯一、和真だけは。

「本当に加害者なのは会長なのでしょうか」

 五味さんと栫井が帰ったあとの生徒会室。
 そんなことを言い出す和真に思わず俺は顔を上げる。
 卓上に広がっていた書類を整頓していた和真と目があった。

「何、言ってんだよ……いきなり」
「齋藤佑樹が会長を陥れるために仕組んだ罠だという可能性がゼロではない、という意味です」
「待てよ、和真……それじゃあまるで佑樹が悪者みたいな言い方じゃないかよ」

 自分で言って、ハッとする。
 和真が何を考えてるのか、それを理解した瞬間嫌な汗が額から流れ落ちる。
 室内の温度が下がった気がするのは、冷房だけのせいではないだろう。

「齋藤佑樹は阿賀松伊織たちと通じている。そして現に何度も会長を裏切った。……ならばそう考えるのが通りではありませんか」

 和真の意見は、根本を覆すものだ。それを理解した瞬間、今度こそ自分が信じていたものが心の奥底で崩れていくような気がしてならなかった。

 全部が佑樹の策略で、会長を嵌めるための罠だった。
 和真はそう言うのだ。
 そんなわけがない、あいつはそんなやつではない。そう言いたいのに、口が動かない。最早、何を信じていいのかわからなかった。
 脳裏に阿賀松伊織に抱かれる佑樹が過り、咄嗟に口を抑えた。……吐き気がする。汗が止まらない。
 和真の言っていることが本当だとしたら。
 佑樹は最初から、会長を陥れるつもりだったとしたら。
 困ったように眉尻を下げ、目を伏せるだけの控え目な笑顔が過る。今ではもう見なくなっていたあいつの笑顔を思い出す。
 全部が、嘘だと……演技だとしたら。

「……あいつは、そんなやつじゃない」

 ようやく絞り出した声は、酷く震えていた。
 自分の声が自分のものではないように響いた。
 口にすれば確信できると思ったのに、寧ろその逆だ。

「……本当に、ないと言い切れますか」

 覗き込んでくる二つの黒い目に、心臓が締め付けられるようだった。
 疑いたくなかった。考えたくもなかった。
 けれど、和真の言うとおりだ。俺にはそう言い切れるほどの確証はなかった。

 実際、会長は言っていた。佑樹が阿賀松伊織に脅されていたことを知っていた。その上で佑樹に手を差し伸べ、協力するために表面上恋人を演じたという。

 それすらも阿賀松と佑樹の計画の一部だとすれば?
 軟禁させるように煽ったのが佑樹だとすれば?
 ……恋人のフリをしている内に、会長が一度も恋愛感情を抱かなかったという証拠は?
 だとすれば、状況は大きく変わる。
 全てを踏まえ、阿賀松伊織が会長を失脚させるために仕組んだ舞台だとすれば。
 そう考えた瞬間、寒気が走った。

「……和真は、佑樹が裏切ったって思ってるのか?」
「以前から会長は彼に固執していましたが、彼が戻ってきてから明らかに悪化してます。……この時点で彼に煽動されている可能性がありますと考えれば状況が違って見える」
「だとしても……机上の空論だ。そんなこと、あいつらに言ったところで『証拠がない』とか言って一蹴されておしまいだろ」
「証拠ならば、ここに」

 そう、静かに突き付けられる指先。それが自分に向いていることに気付いた瞬間、息を飲んだ。

「……っ、俺……?」
「……貴方はその目で見、聞いてきたのではないですか。……阿賀松伊織に捕らわれていた際の、彼らのやり取りを」

 呼吸が、浅くなる。頭の奥、忘れようと蓋をしていた記憶を抉じ開けられるような頭痛に思わず声を漏らす。

「思い出してください。……貴方は他に何かを聞いたのではありませんか」
「っ……和真」
「前々回の会議の様子からして、貴方の記憶は阿賀松伊織と齋藤佑樹の行為を見た衝撃で記憶が混濁しているようでした。……あのとき貴方が見たもの、聞いたもの、思い出して下さい。貴方の証言が手掛かりになります」

 鷹揚のない声が、脳を占める。無数の針が刺さるような痛みに、思考が乱される。
 ……俺が聞いたこと、見たこと。

 人質がいなくなった空の部屋の中。
「縁方人を探れ」そう言ったのは会長だった。
 佑樹がいなくなって、会長は日に日に荒んだ。いち早く安否を確認しなきゃ、そう奮起して俺は学園内たまたま見かけた縁方人を追った。
 そして。

『よぉ、直秀君』

 血糊のように真っ赤な髪。だらしない唇に携えた凶悪な笑み。
 痛みを感じる暇もなかった。

『こんないい天気にお出掛けか?……それとも、誰かと逢引の予定でもあんのか?』

 揶揄するような下卑た笑み。
 阿賀松伊織は、当たり前のように俺の目の前に姿を現し……そこで記憶が途切れる。
 ノイズがかった記憶を呼び起こす。
 顎が外れるくらいの痛みに、脳天揺さぶられてから記憶があやふやになっていた。

『佑樹君に会いたいのか?』

 霞む視界の中、革靴の先が目に映る。血が出てるのかもわからない。髪を掴まれ、乱暴に顔を挙げさせられる。阿賀松伊織は、笑っていた。

『……なら会わせてやるよ。お前らのお姫様に』

 そこで、一度記憶が途切れた。忘れかけていた、治りかけていた全身の傷が疼き出す。
 屈辱だった。あいつに何一つ傷を追わせることもできなかったことが、目の前で佑樹を痛めつけられることが。けれど、痛がる悲鳴も俺を庇う佑樹も全部偽物だとしたら。

「……ッ」

 認めたくはない。それは、事実と違うからなのか?それとも、自分が信じていたものをこれ以上壊されたくないからか?分からない。けれど、全てが嘘だとしたら。俺は……。

「無論、他の証拠も探ります。……あの男たちの周囲を探れば自ずと出てくるはずです」
「……」
「明日の会議で会長の処分が決定します。……今、齋藤佑樹の部屋には風紀委員が二名見張りをしているのみ。……突破は不可能ではない」
「……俺に、直接確認しろって言うのか?」
「貴方は人を疑うことが苦手な方です。自分の目で確認して、それから決断するのも手だと思います。……その必要があるのなら、俺が手引きしましょう」

 和真はあくまで冷静だった。
 迷いのない、目。
 全部が嘘だとして、それを暴くことで傷つくのは自分だけではないはずだ。それでも構わない、そう言い切るかのような和真が理解できなかった。

「どうしてそこまでするんだ」

 俺には、到底出来ない。疑うなんて真似、できることならしたくない。

「……大方貴方と同じです」

 そう一言、和真は告げる。
 誰を信じ、誰を切り捨てるか。
 取捨選択。どちらも選ぶことは許されない。

 そうなったとき俺が選んだのは、今まで一緒にやってきた仲間だった。

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