天国か地獄


 30

 気を失っていた。
 首に走る痛みに気づき、重たい瞼を持ち上げる。静まり返った部屋の中。見知らぬそこで、自分はベッドに眠らされていた。

「……ッ」

 飛び起きようとして、頭の奥がずきりと痛んだ。なるべく頭を揺らさないよう、ゆっくりと上半身を起こす。
 拘束は、されていないようだ。
 ……俺は、どうしてここに。
 混乱する頭の中、ゆっくりと気を失う前の記憶を辿る。

 確か部屋に灘がやってきて、そして……妙なことを聞かれた。時間がないとも、言っていた。
 それからだ、首に痛みが走って、そこで記憶は途切れている。

「……気付きましたか」

 聞こえてきた声に、全身が凍り付いた。いつからそこにいたのだろうか。部屋の壁際、扉を立ち塞ぐように立っていた灘は俺の元へとゆっくりと近付いてくる。

「……っ、灘、君……」
「声が枯れてますね。……水分をどうぞ」
「……いい、いらない」

 手渡されたグラスを受け取る気にはならなかった。
 強引に押し返せば、グラスの中で透明な水が揺れる。……なにが入ってるのかも分からない。灘に限って、と信じたい反面この男が何を考えてるのかまるで分からない。
 ただ分かるのは、今、灘に気を許してはいけないということだけだ。
 押し返されるそれをただ受け取る灘は傷付いてるようにも怒ってるようにも見えない。相変わらずの無表情のままそれを近くのサイドボードに置いた。

「灘君……ここは、どこなんだ。どうして俺をこんなところに……」
「貴方に今、勝手な真似をされると都合が悪い。……だからこうして隔離させていただいてます」

 応えてくれるだけでも、進歩なのか。分からないが、平然と言い放つ灘に俺は頭が真っ白になる。
 ただでさえ寝起きで麻痺している思考回路は混乱する。なぜ、誰の指示で、その結果どうなるのか。聞きたいことは色々あるはずなのに、上手く口が回らない。

「……会長が、そう言ったの?」
「先程もお伝えしたはずですが。……貴方が知る必要はないと」
「っ、こんなこと……されて、必要はないは……ないだろ……」

 こんなこと、言いたくなかった。けれど、あまりにも何も話したがらない、話そうとする意思のない灘を相手にするのが不安だった。
 文句というよりも、懇願に近かったかもしれない。頼むから、教えてくれ。そうでなければ俺は灘を疑わずには居られない。

 それはあくまで推測に過ぎなかった。
 会長の命で動いているときの灘は、それが誰からの命なのかを隠そうとしない。会長が隠そうとしていないからだ。けれど、灘がそれを口にしないということは。
 嫌な想像ばかりが込み上げてくる。

「……会長は、この事を知ってるの」

 恐る恐る、口にする。高い位置にある灘の顔を見上げようとしたとき、手首を掴まれた。

「っ……離し……っ」

 振り払うよりも先に、灘の掌により両手首を束ねられる。慌てて振り払おうとするが、ベッドの上、乗り上げてきた灘に腹の上に体重を掛けられ、動けない。
 自らのネクタイを緩めた灘はそれを引き抜き、慣れた手付きで俺の手首を頭上で拘束する。そしてベッドヘッドへ括り付けるようにガッチリと拘束され、それでいて手首への負担が軽減したその縛り方に嫌な予感がした。すぐに開放するつもりはない。そう暗に言われてるような気がして。

「灘君……ッ」
「その口も塞いでおいた方が良さそうですね」
「っ、な、やめ……ッ!ぅ、んん……ッ!」

 取り出したハンカチを丸め、強引に開かされた咥内へと捩じ込まれる。清潔なハンカチであろうが、口の中に入れられたその異物に吐き気を堪えられなくて。口の中の唾液が奪われる。息苦しくて、吐き出そうと舌を動かすが儘ならない。

「っ、ん゛ぅ……ッ!」
「暫くの間、そこで大人しくしておいてください。……くれぐれも、妙なことを考えないように」

 お願いします、と最後まで慇懃な態度を崩さない灘は俺をベッドへと寝かし、そして、部屋を出る。
 拘束はビクともしない。上半身がベッドと繋がってるせいか体を起こすこともできなかった。
 一人残された部屋の中、俺は八木たちのことを考えていた。眠ってもらったと灘は言っていたが、俺にしたような真似を他の風紀委員にもしたのか。
 そんなことをすれば灘だって無事ではないはずなのに、どうしてこんなことを。
 ぐるぐると思考は巡る。けれども湧き上がる焦りが邪魔をし、まともに状況把握することもできなかった。

 灘は……誰の指示で動いているのか。自分の考え?それとも、本当に会長がこんなことをしろといったのか?
 ……分からない。
 けれど、このままここにいるのは危険な気がしてならない。……何もわからないからこそ余計。俺がここにいることでどこかで何かが動くのなら、なおさら。

 一先ず、拘束が外れないかと試みる。拘束してるのは鉛でもない、ネクタイだ。結び目さえどうにかして緩めることができれば抜け出すことも不可能ではないはずだ。

 そう思い、体をねじって自分の手元を覗き込む。シンプルな結び目であるが、ガッチリと固定されているそこはただでさえまともに両手が使えないこの状況では解くことすら難しい。

「……っ、ぅ、く……」

 何度も腕を動かし、解くことに失敗する度に拘束がキツくなっていくのは気のせいではないはずだ。
 やがて、自由に手を動かすことすらできないくらいに縛り上げられた両手首に絶望する。

 せっかくの逃げ道すら塞がれた、そんな状況に嫌な汗が滲む。やけくそになって思いっきり手首を引っ張り、ベッドヘッドの方へと負担を掛けようとも試みるが、鬱血しそうなくらい手首が締め付けられ、やめた。

 ……クソ、最悪だ、どうしよう、こんなところでグズグズしてる場合ではないのに。
 上手く行かないどころか、自分から自分を追い込んでしまうこの状況に泣きそうになった。そのときだった。
 扉が開く音が聞こえた。全身が硬直する。
 ベッドの上、まな板の上の鯉の如く体を捻って扉の方へと向こうとした俺はそこで固まった。

「……佑樹、大丈夫か?」

 生徒会書記、十勝直秀はそう心配そうにベッドへと歩いてきて、そしてその横で膝を折る。仰向けになった俺を覗き込んでくる十勝に、この状況を見られたことに羞恥を覚えた。みっともない姿を見られて恥ずかしい反面、同時に違和感を覚える。
 どうして、ここに十勝がいるんだ。ここは、どこなんだ。そして、十勝はなぜそんなに申し訳なさそうな顔をしているのか。
 様々な憶測が一瞬にして一つの可能性を呼び起こした。
 そして、それを理解した瞬間、目の前が真っ暗になる。
 まさか、灘の協力者というのは。

「和真にはあまり手荒な真似はするなって言ってたんだけど……悪かった、こうすることしかできなかった。……ごめん、佑樹、怖かっただろ?」

 ごめんな、とまるで自分の方が苦しそうな顔をして何度も呟く十勝に、俺は、何も考えることができなかった。

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