天国か地獄


 28

 眠りはそれほど深くない。遠くで聞こえる足音だとか微かな話し声だとかは耳に届いた。
 とはいえ話の内容まではわからない。ただ漠然と、八木と風紀委員らしき知らない男の声が聞こえていた。
 それから次第に意識はハッキリと覚醒していき、目を開ける。窓から射し込む日に照らされた部屋は赤く染まっていた。
 短い間ではあったが、全身の倦怠感は抜けていた。喉がひりつく。体を起こし、俺は靴に履き替えた。
 妙に辺りが静かなのが気になった。
 恐る恐るカーテンを開き、辺りの様子を伺おうとする。すぐに、見知った顔は見つけた。
 ベッドを仕切るカーテンの前、椅子を置いて本を読んでいた八木は現れた俺を見るなり、「起きたのか」と本を閉じた。そして、俺が反応するよりも早く、立ち上がる。

「あ、す……みません、お待たせして……」
「別にいい。それよりも、具合は?」
「……大丈夫です」

 声が、思いの外喉が乾いてるらしい。声は枯れ、なんとなく嗄れ声になってしまうが八木は特に何も言わない。
 なら戻るぞ、と言わんばかりに保健室から出ていこうとする八木の後を追いかける。

 保健室の前には、風紀委員が二人いた。
 二人の風紀委員は八木の姿を見るなり姿勢を正し、それから「お疲れ様です」と頭を下げる。
 片方には見覚えがある、昨夜部屋の前にいた風紀委員だ。
 八木はそれに「ああ」とだけ答え、そのまま前を素通りして行く。俺は軽く会釈だけして、やっぱり八木の後を追いかけた。

「齋藤、飯は」
「……まだ、そんなに……」
「ならこのまま部屋に戻るが」

 問い掛けられ、頷き返す。
 嘘ではない、お腹は減っていたのだが、食欲がない。いち早くゆっくり休みたい、というのもあった。

 八木は無駄な干渉はしない。気遣いなど最初から不要だと言わんばかりに俺を突き放すような物の言い方をする。
 だからこそ、無理して話す必要もなくて今の俺には気が楽だった。……つくづく変な話だとは思うが。
 距離を開けて歩く。
 数歩先を行く八木だが、こちらの足音は気にしているらしい。俺が足を止めると、八木はすぐにこちらを振り返った。

 学生寮へと帰る途中の通路。腹痛に襲われ、俺は思わず足を止める。

「おい、どうした」

 怪訝そうに眉根を寄せ、八木が歩み寄ってくる。下腹部に、内側から殴られるみたいに鈍痛が走った。
 大丈夫です、と言いたかったのに、言葉が上手く発せられなかった。お腹を抑え、その場に蹲るような形になる。周りの下校中の生徒たちがヒソヒソと話しながらこちらを見ている。恥ずかしい、申し訳ない、早く立ち上がらないと、そう思うのに、体が言うことを聞かない。脂汗が額から流れる。

「っ、す、みません……」

 辛うじて口にできたのは謝罪の言葉だった。申し訳なさが勝る。八木に面倒だと思われてるだろう。悪目立ちして鬱陶しく思われてるかもしれない。そう思うと、自分が恥ずかしくて申し訳なくてどうしようもなく情けなくなる。そして、その感情に比例するが如く腹部の痛みは強くなるのだ。

「痛むのか」

 視線を合わせるように俺の横に膝をつく八木。そう、静かに問い掛けられ、俺は恐る恐る頷いた。
 今まで、外傷で痛むことはあった。それらとは違う、内側からの痛みには誤魔化しようがないのだ。
 八木は辺り見回す。

「そこのベンチまで歩けるか?」

 そう、八木が指した先。
 確かにそこには空いているベンチがあった。
 本当は、動きたくても力が入るか不安だった。が、このままいるわけにもいかない。俺は頷き返し、それから八木の手を借りてベンチへと移動する。

 俺の座った隣に八木は腰を下ろし、背中を丸めて痛みを堪える俺の背中を何も言わずに撫でてくれた。
 どれくらい経ったのだろうか。痛みは完全に収まらないものの、目眩を覚えるほどの強烈な腹痛は去った。

「すみません……もう、大丈夫です」

 ありがとうございました、と続けて口にすれば、八木は背中を擦る手を止め、「本当か?」と訝しげな目をした。
 やはり見抜かれてるらしい、それでも、ずっとここにいるわけにはいかない。
 いつの間にかに夕暮れ空は暗く染まり、辺りの生徒の姿も少なくなっている。

「……薬は、あるのか?腹痛止めの」
「……ない、です」
「こういうのはたまにあるのか」

 なんとなく、尋問されてるようで萎縮しそうになる。俺は首を横に振り、答えた。嘘ではない。大したことのない腹痛はあるが、すぐに治っていた。

「念の為、養護教諭に見てもらえ」
「っ、それは、そこまでは……大丈夫です、市販の薬買えば……多分、その、治ると思います」

 しどろもどろと口にすれば、八木は怒ったような顔のまま、何も言わなかった。勝手にしろと呆れてるのかもしれない。それでも、ただでさえこんな状況だ。変に心配されるのは怖かった。自分でも馬鹿だと思うが、俺の行動のせいで余計会長の立場を悪くするなら俺は我慢した方がいいと思えたのだ。

「……もう動けるのか?」
「はい……すみません……」
「……なんだよ、すみませんって」

 大きな溜息に、全身が緊張する。
 怒られると思ったが、八木はそれ以上俺に話しかけてくるわけではなかった。それから、八木はちゃんと部屋まで送り届けてくれる。
 さっきよりも歩幅が狭くなり、ペースが落ちたような気がした。もしかしたら俺を気遣ってくれたのだろうか、なんて思ってしまうのは己惚れか。気まずい沈黙、腹部の違和感、性行為の後遺症、まるでまだ夢を見てるような浮遊感。

 ……早く風呂、入りたいな。そのあと、ベッドでゆっくり眠りたい。誰にも邪魔されないように。
 ……誰にも。

 目眩がする。本調子などには程遠い、寧ろいつもがどうだったのかもわからなくなる。けれど、足は動く。まだ、大丈夫だ。確認するように、なるべく八木に変に思われないように歩いた。
 部屋の前、俺から鍵を受け取った八木は俺よりも先に部屋に入り、誰もいないかを確認してくれる。
 相変わらず、壱畝遥香が戻ってきた痕跡はないらしい。それを聞いて俺は心の底から安堵した。

「昨日同様見張りをつける」
「……はい」
「また腹が痛くなったときも呼べ。……いいな」

 それはいつもの上から圧力を掛けるようなものとは違い、どちらかといえば子供相手を諭すようなそんな口調だった。
 嫌だ、なんて面と面向かって言えるわけもない。俺は、ただ無言で頷いた。八木がそれに満足したのかはわからない。けれど、言いたいことだけ言って八木は俺の部屋から出て、扉を閉めた。

 俺はそれを確認して、扉に内側からロックを掛けた。
 壱畝が戻ってこれなくなるとか知ったことではない。どうせ、あいつは戻ってこない。戻ってこられないのかもしれない。この際どちらでもいい。確固たる安全を確保したかった。そうでもしないと心の底から休めた気がしなかった。
 壱畝が戻ってきたときのことを考えるとゾッとするが、それでも、あいつが帰ってきたときのほうが俺には恐ろしかったのだ。
 風紀委員に言われたからということにしておけばいい。俺の意思ではないと。そう、いくらでも言い逃れはできる。そんなことばかりを考えながら、チェーンを掛ける。これで扉は外から簡単に開くことはできないはずだ。
 全身の力が抜けるようだった。体を無理矢理動かし、ベッドへと向かう。制服を着替える気力もない。俺は、ベッドに飛び込み、そのまま目を閉じた。
 ほんの数秒、目を閉じていただけのような気がしたがその間にも俺はしっかりと眠っていたらしい。気絶するような睡眠後、意識を覚醒したのは扉を叩く音が聞こえたからだ。
 気付けば締め切ったままのカーテンの外からは明るい日が差している。時計を確認すれば、正午に近い。完全に遅刻だ。慌てて飛び上がろうとして、頭がずきりと痛む。
 眠りすぎたせいだろうか。体もやけに重い。
 体を引き摺るように玄関口へと向かう。内側からロックした扉は開けられた痕跡はないことに一先ず安心した。……そんなわかりきってることでも、安心するのだから愚かだと思う。

 ドアノブに触れかけ、迷う。
 普通に考えて八木辺りが遅刻を見兼ねて起こしに来てくれたのだろうが、俺は、得体の知れない不安を覚えたのだ。
 荒っぽいノックの音。まさか、とは思うが、外には風紀委員の見張りもいる。簡単に誰彼近づけないはずだ。けれど、八木と繋がりのある阿賀松ならばどうだろうか。

「……っ」

 そう思うと、急激に頭が冷えていくようだった。
 足が竦み、体が石のように動かなくなる。呼吸が浅い。纏わりついてくる嫌な予感、不安、それらを振り払って扉を開けることなど俺には不可能だった。
 部屋の奥に引き戻す。ノックの音から逃げるように布団を被る。やり過ごそう。やり過ごそう。聞かなかったふりをして、どうせ遅刻は遅刻なんだから。言い訳を並べる。音を完全に遮断することなど不可能だ。来訪者の存在を感じるだけで、目の前が真っ暗になる。体を丸めて必死に耳を塞いでいると、直にその音は止んだ。
 結局誰がきたのかわからないが、それでも、音が止んでも暫くその場から動けなかった。
 どれくらい経ったのだろうか、もうそろそろ大丈夫だろうと布団を脱ぐ。今日は、あまり体調も芳しくないからこのまま休もう。
 せめて、風紀委員には一言言っておきたかった。が、連絡先もわからない。
 扉を開けて、見張りの風紀委員にでも声を掛けようかと思った。
 けれどさっきの来訪者がまだ待ち伏せている可能性を考えると恐ろしくて自ら扉を開けることを躊躇ってしまう。

 その反面、さっきの来訪者がなにか重要なことを告げに来た可能性もあると考えると、恐ろしくなる。俺は、いつでも扉を閉じることができるように確認して、それから恐る恐る扉を開いた。

 そして、俺は、目を見張った。
 扉の向こう、扉の前に立ち塞がるそのシルエットに、咄嗟に俺は扉を閉めようとした。けれど、間に合わなかった。扉の隙間に捩じ込まれる指。絶対に痛いはずなのに、やつはその無表情を崩すこと無く扉を強引に開いた。

「何故閉めるのですか」

 水を打ったような、静かな、低音。
 それは、今の俺にとって恐ろしいほど冷たく響く。
 制服姿の生徒会会計の灘和真は、やはり感情のない眼差しで俺を見下ろすのだ。

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