27
「本当はこのまま君を連れ去りたいところなんだけど、こっちにも準備があってね、悪いけどそう長居できないんだよ」
「……そう、ですか」
「あれ?想像してたより反応薄いな。もう少し寂しがってくれてもいいんだよ」
そう、冗談混じりに笑う縁に、不愉快そうに眉を寄せた志摩は「方人さん」と止める。
「……なんだよ、亮太。お前は会おうと思ったら会えるんだからいいだろ?」
「それは方人さんもでしょう」
志摩の言葉に縁は何を言うわけでもなく、ただ曖昧に笑う。
妙にその反応が引っ掛かったが、それもほんの一瞬のことだった。
「本当はね、齋藤君に伝えたいことがあったんだ」
そう言って、ベッドのフチを掴んだ縁はそのまま俺に顔を寄せる。
そして。
「志摩裕斗には気をつけな」
「あいつは俺よりも性格悪いからね」そう、声を潜めるわけでもなく、縁はそう忠告する。
もちろん、それは側にいる志摩にも聞こえるわけで。
実兄を貶された志摩が怒らないかと気になったが、志摩は怒るどころか呆れたような雰囲気すらある。
「……そんなこと、いちいち言いに来たんですか」
「って言っても九割は齋藤君の顔見にきただけだから、そのついでだな」
「齋藤君は危なっかしいし、優しくされるとすぐに絆されちゃいそうで心配なんだよ」俺の返答を待つわけでもなく俺の肩をそっと触れた縁はそう耳打ちする。
慌てて離れようとしたとき、縁は先に俺から体を離す。目が合えば、にっこりと微笑み返してくる縁になんだか嫌なものを覚えた。絡みついてくるような笑顔が、その視線が、落ち着かない気持ちにさせるのかもしれない。
「それじゃ、俺はそろそろ失礼するよ。そろそろ風紀の連中が戻ってくる頃だし、亮太、あんまり齋藤君困らせんなよ」
「余計なお世話ですよ、本当」
立ち上がる縁と志摩。
そのままカーテンの外へと出ていこうとしていた縁は、志摩と擦れ違い様にその肩を掴む。
そしてほんの一瞬、志摩の耳元に口を寄せ、何かを耳打ちした。
それは、さっきとは違う、俺にも聞こえないほどの声で…
ただ、縁に何かを聞いた志摩はその顔に明らかな驚きを浮かべていた。
「……っ、方人さん、それどういう……」
志摩が問い詰めるよりも先に、縁は言いたいことだけを言ってそのままカーテンを開いて外へと出た。
そして、縁の後を追うように志摩はカーテンの外へと出ていく。
カーテンの向こうから「方人さん!」と志摩の声が響いたが、すぐにそれも止む。扉が開く音がして、足音が複数響いた。
それから、暫く静寂が流れる。
しかし、それも束の間のことだった。
志摩は戻ってきた。その表情からして、あまり良くないことがあったのだろうというのは推測できた。
「……志摩……」
何があったのか、ということまでは聞けなかった。けれど、俺の表情から何か察したのだろう。近くの椅子に腰を落とす志摩は、「別に齋藤には関係ないことだから」と素っ気なく返した。
「……それより、齋藤は寝てなよ。どうせろくに寝れてなかったんでしょ、ここ数日」
「……」
「何を警戒してるのか知らないけど、別にもう寝込み襲おうなんて真似しないよ」
そういうわけじゃない、とは言えなかった。
志摩に見られると落ち着かないし、何より、前例がある分その言葉を信用しろという方が難しい。
何も言えずに俯いてると、大きな溜息が聞こえてくる。
「まあ勝手にしたらいいよ。今ここには俺と齋藤しかいないんだし」
俺には、志摩が考えていることがわからない。
何かを言えば志摩の逆鱗に触れてしまいそうで怖かったし、こうして表面上俺を気遣うような言葉も信用できなかった。
志摩が俺に対して怒ってることは間違いない。なのに、どうしてまだ俺の側にいるのだろうか。俺が嫌なら離れた方がいいはずなのに、いっそのことそうしてくれた方が良いと思えた。……けれどその反面、一人になることを恐れるあまりに志摩でもいいからいて欲しいという気持ちがないといえば嘘になる。
もしかしたらそれも見透かされてるのかもしれない。
けどこのまま起きてても気まずい。
志摩に言われた通りに寝たフリだけしよう。本当に寝られる自信はないが、そうすれば少しは気は紛れるかもしれない。
そうベッドの上、横になろうとしたときだった。
扉が開く音が聞こえてきた。別の生徒が入ってきたのだろうかと思ったら、その足音は真っ直ぐにこちらへと近づいてきて、そしてカーテンが大きく開かれる音がした。
また縁が戻ってきたのだろうかと思ったが、違う。
「……どうしてお前がいるんだ」
聞こえてきた男の声は、八木のものだった。
高圧的なその声に、寝たフリをしていた俺まで反応しそうになった。
「友達が倒れたから看病してるんですよ。……当たり前じゃないですか。……それよりも、仮にも病人が寝てるところに勝手にカーテン開けて入ってくるのってどうかと思いますよ、八木先輩」
「お前みたいなやつがいねえか確認するためだ、志摩。看病なら俺がする。お前はさっさと教室に戻れ」
「多忙な先輩の手を煩わせるなんて忍びない。……齋藤のことなら俺が見るんで、先輩は戻って結構ですよ」
「これは風紀委員が請け負った業務だ。それこそ、お前に任せるつもりはない。志摩亮太、これは風紀委員長命令だ。教室に戻れ。そうすれば、今回だけは見逃してやる」
「……嫌だと言ったら?」
「駄々捏ねたところでお前の立場が不利になるだけだ。それと、こいつの待遇もな」
「……」
目を覚ますタイミングを完全に見失い、二人の会話を盗み聞きながらも俺は寝返りすら打てないまま硬直していた。
空気が緊迫しているのが肌に突き刺さるように伝わってくる。
暫くの沈黙の末、椅子を引く音が聞こえた。
「……保健室は全然休めないな、邪魔ばかりが入る」
「それは俺のことを言ってんのか?」
苛ついたような八木の言葉に反応するわけでもなく、志摩は溜息を吐き、そして足音が響く。
「そいつから目を離さないで下さいね。……何か遭ったら、アンタでも許さないから」
それだけを吐き捨て、志摩は部屋から出ていった。
遠くで扉が閉まる音がする。
志摩が完全にいなくなり、息が詰まりそうなほどの空気が流れる。
近くで椅子が軋む音がした。八木が座ったのだろう。
寝息を立てないようにするあまりに、そろそろ息苦しくなってきた頃だった。
「おい、起きてるんだろ」
頭上から、声が落ちてくる。
「もう起きていいぞ」と続ける八木にギクリとして、それから、ゆっくりと体を起こした。
椅子の上、長い脚を組んで座る八木は俺を見て特に驚くわけでもなく、かといって反応もなく、ただこちらを見ていた。
「……どうして……」
「息止まってたぞ、お前」
「……っ」
最初から気付かれていたのか。
だとしたら、志摩も俺が狸寝入りしていたことに気付いてたのだろうか。そう考えるとひどく恥ずかしくて、俺は、八木を直視することができなかった。
「……具合は?」
「だ、いじょうぶ……です……」
「もう戻れそうか」
「……っ、それは……」
今から教室に戻る。
そう思うと、目の前が暗くなる。
志摩に突き付けられた辛辣な言葉、無遠慮な他人の目、見えない刃を他方から突き付けられているような気分を味わってしまった今、すぐに頷くことはできなかった。
口籠る俺に八木は溜息を吐く。
ハッキリ言えと思われてるのかもしれない。そう、萎縮したとき、立ち上がった八木はネクタイを直し、それからカーテンを開け、出ていこうとする。
あの、と慌てて声を掛けようとしたとき、八木は目だけを動かし、こちらを睨むように見た。
鋭い視線に、今度こそ全身が硬直する。
「俺はこの外で待ってる。……戻る気になったら呼べ。休んでも無理そうなら寮まで送る」
俺は、八木の言葉に驚いた。
今すぐ戻るぞと強制送還される可能性も考えていたからだ。
「っ、え、ぁ……あの、いいん、ですか……?」
「何がだよ」
「教室……授業、出なくて……その……」
下手に余計なこと言って、相手の気分が変わってしまったらどうすんだと思ったが、それでも聞かずにはいられなかった。
八木は何言ってんだこいつ、と言いたげな目で俺を見ていたが、すぐにその目も逸らされる。
「お前は授業に出たいのか」
「……っ、それは……」
「相手の意に背くことを強要すればそれは芳川としてることは同じだ。俺たちが言われたのはあくまで監視とサポートだ、無理矢理教室まで引っ張ることじゃねえ。そこら辺履き違えんなよ」
ぶっきらぼうで乱暴な物言いだが、言い切る八木に俺は何も言えなくなる。
阿賀松側の人間だとは分かっていても、この人は真面目なんだろうなと思ってしまう。
けれど、監視とはいってもベッタリついてくるわけではない。一人の空間は守ってくれる、その距離感を保つ八木の気遣いはありがたかった。俺がお礼を言うよりも先に八木はそのまま出ていき、そしてカーテンは締め切られる。
ようやく一人になれる。外には他の生徒や八木もいるが、それでも、正真正銘一人になれたと思うと全身にのしかかっていた重石が取れるようだった。
泥のように襲いかかる睡魔の中、俺は、天井を見上げた。
完全に寝てはいけない。そう思っていたが、志摩といることにより精神も身体も思いの外擦り切れていたらしい。
俺の意志とは裏腹に、意識は呆気なく飛んでいく。
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