天国か地獄


 26

 久し振りの行為に、かなりの神経をすり減らし、体力を消耗したようだ。夢中になってるときはあんなに昂ぶっていたが、体が追いつかなかった。ぶつりと音を立て記憶は途切れる。また、気絶したのだと気付いたのは再び目を開けたときだった。

 全身に襲い掛かってくる途方もない疲労感と、倦怠感。指一本動かすことも億劫だった。
 目を覚ますと、そこは変わらず保健室のベッドの上だった。けれど、衣服の乱れも、吐瀉物も、なくなってる。ドロドロになった体も綺麗になっていた。けれど、体の奥、長い間咥えていたせいでまだ何か入ってるみたいに中が疼くのを感じ、夢ではないのだと悟った。

 志摩の姿は、ない。
 正直、いなくてよかったと思う。どれくらいの時間が経ったのだろうか。遠くから聞こえてくるチャイムの音を聞きながら、薄ぼんやりと考える。

 それから、自己嫌悪がやってきた。
 ……俺は、なんてことをしたのだろうか。逃げもせず、志摩にされるがままになって。顔が、焼けるように熱くなる。目の前が暗くなる。……会長に合わせる顔がない。
 けれど、最中、会長のことも考えずに済んだ。杞憂になる余裕もなかったのだ。
 こんなの、ただの一時的な現実逃避に過ぎない。けれど、自分が何者なのかもわからない、何も考えずにいられる。それは、今の俺にとっては最も望んでいたことのように思えるのだ。……最悪の形でもあるが。

 不意に、足音が聞こえてきていきなりカーテンが開かれる
 。そこには、ペットボトルを手にした志摩が立っていた。
「ああ、起きてたんだ」と、何事もなかったかのようにベッドに歩み寄る志摩は、はい、と持っていたボトルを俺に手渡した。

「喉、乾いてると思って。……ああ、安心しなよ。変なもの入っていないから」
「……」
「……何?まだ喋れないの?」

 声、いっぱい出してたもんね。そう、含みのある笑みを浮かべる志摩に、全身が熱くなる。確かに、呼吸をするだけで喉には違和感があった。
 ただ、あまりにも志摩が当たり前のように俺に接してくるから、驚いて反応に遅れたのだ。

「……」

 ありがとう、と言うのも癪だった。あんなことをしておいて、よくもこうして俺の前に現れることができると呆れもした。
 けれど、俺は既に知っていたはずだ。
 志摩がこういうやつなのだと。
 俺が会いたくないときにも、素知らぬ顔して話しかけてくるやつだと。

「随分と寝てたね。ああ、大丈夫、ちゃんと処理は済ませておいたから。感謝しなよ」

 クスクスと笑う志摩。厭な笑い方だと思った。
 カーテンの向こう側では、養護教諭が怪我で訪れてきた他の生徒を手当してるようだ。声が聴こえてくる。
 第三者がいることにほっとすべきなのか、目の前の不穏分子にただ胸がざわついた。誰かにバレようがバレなかろうが、恐らく志摩にとってそれは問題ですらないのだろう。

「それにしても本当よく寝てたよ。レイプされた挙句スヤスヤ眠るなんて、俺なら絶対無理だね」

 伸びてきた手に、頬を撫でられる。表面を滑るようなその触れ方に、一瞬で行為の熱が呼び起こされる。

「……っ、志摩……ん……ッ」

 当たり前のように、ごく自然な動作で唇を吸われる。
 触れるだけだと最初思いきや、次第に深くなるキスに、意思を持って蠢く舌に、耐えられず志摩の肩を叩く。

『亮太、齋藤君、目を覚ました?』

 そのときだ、薄いカーテンの向こう側から聞き覚えのある声が聴こえてくる。その声に、急に現実に引き戻された。
 志摩は舌打ちをし、それから「まだ眠ってます」なんて、他人の口を舐め、答えるのだ。

「嘘付け、今齋藤君の声聞こえたぞ」

 そして、間髪入れずに開かれるカーテン。丁度俺が志摩を突き離したのとそれはほぼ同時だった。

「……えに、し、先輩……」
「や、お見舞いに来たよ」
「……あの……」

 俺がここにいるのを知ってるんだ。と思ったが、八木が知ってるのだ。どこからか情報が漏れ、知られても仕方ない。或いは志摩が養護教諭に説明し、それが広まったか。
 現れた縁の顔を見て、ホッとするのも束の間だ。
 志摩と縁が同じ空間にいるというだけで、別の緊張が過る。……バレて、ないよな。唇が濡れているような気がして、気付かれないよう、裾で拭う。

「やっぱり、まだ顔色が優れないみたいだね。熱あるんだって?……可哀想に。昨日皆に虐められたせいだろ」
「……は?なんですか、その虐められたって」
「生徒会会議に引っ張り出されたんだよ。矢面に立たされ、もう可哀想で見てられなかったよ」

 違う、あれは、俺がお願いしたことだ。俺も行きたいと言ったのだ。
 縁の言葉に、ついそう言い返しそうになるが、返せなかった。蒸し返したくなかった。
 志摩の目が痛いほど突き刺さる。

 それよりもだ。俺は、縁に目を向けた。
 ……芳川会長と一緒にいた縁がここにいるということは、会長も何かしら聞いてるのだろうか。俺のこと。そう考えるとまるで生きた心地がしない。先程まで散々抱かれていた同じ部屋に、こうして縁がいるということが恐怖だった。匂いが染み付いてないだろうか。いつもどおりできているだろうか。不安になる。心臓が張り裂けそうになる。
 志摩としたことが会長に知られたら、今度こそ、俺は。

「……あの、何か、俺に用ですか」

 できることなら早く、一人になりたかった。恐る恐る尋ねれば、縁は俺を見る。腹の奥まで覗き込まれそうなほど、真っ直ぐな瞳。俺は、直視に耐えられず視線を逸らす。縁はその形のいい唇を緩め、笑う。

「……傷つくなぁ。理由がないと会いにきちゃ駄目だった?」

 ベッドの上、膝の上に置いていた手を握り締められ、驚いた。ぎょっとする俺に、「方人さん」と志摩が咎めた。

「……相変わらず、君の手はしっとりとしていてスベスベだな」
「ぁ……あの……」
「ああ、ごめんね。随分と君が色っぽい顔してるから誘われてんのかと」
「方人さん」
「分かってるって、はいはい、病人には手を出さないよ。早く元気になってね、齋藤君」

 すり、と指を絡められ、そして、縁は名残惜しそうに手を離した。触れられた箇所が、酷く甘く痺れる。……この空気はよくなかった。情事の痕跡が残った部屋の中、より深く飲み込まれそうになる。

「……あの、先輩……会長は……」

 空気を変えよう。そう思って咄嗟に会長の名前を口にするが、余計、自分の首を絞めてることに気付く。

「……ああ、芳川君ならまだ謹慎だよ。暫く自室に閉じこもってなきゃならないからね、退屈そうだったよ」
「……謹慎」
「君たちも、まるでロミオとジュリエットだよね。なんも知らない外野に騒ぎ立てられて、引き離されて、まともに会うこともできないなんて……同情するよ」

 ロミオとジュリエット。そう揶揄する縁の言葉に違和感を抱いた。愛し合っていた二人がお互いの家やしがらみにろり引き離される。……俺と会長に当て嵌めてみても、しっくりこない。理由はわかっていた。俺と会長は愛し合っていたわけではない。会長は自分の役割を果たしただけだ。そのやり方が、周りからは到底受け入れられる方法ではなかっただけだ。
 俺は、会長の部屋にいたあの時間、幸せだったのだろうか。今となっては分からないが、恐らく否だろう。笑顔もない。暖かさとも無縁、甘い愛なんて以ての外。
 あのときあの部屋に在ったのは会長ではない、生身の芳川知憲という人間だけだ。
 苦しい思いした方が多かったが、俺は、会長とあの部屋で過ごした時間は嫌ではなかった。勿論、恐怖を感じていないといけば嘘になる。けれど、芳川という人間を肌で感じた。それは、あのとき、あの部屋でなければ感じることはなかっただろう。ずっと表面上の会長しか知らなかったはずだ。

「……そんなに芳川君のこと気になるんだ?」

 頷くことも、否定することもしなかった。俺は、視線を逸らす。縁は「一緒だね」と、愉快そうに目を細めた。

「芳川君も、『齋藤君に会いたい?』って聞いたら何も言わなかったよ。君たちってそういうところ似てるね」

「あ、もしかして俺に言いたくないだけなのかな」と茶化すように笑う縁に、志摩はにこりともしなかった。志摩はただ早くこの話題が終わらないかと思ってるのだろう、終始不快そうな顔を隠すこともしなかった。
 俺はというと、縁の言葉を聞いて、心臓が、その血液の流れが微かに加速するのを感じた。
 けれど、同時に言葉にし難いほどの後ろめたさも覚えた。会長に初めて抱かれた日の熱を思い出す。内側から灼け尽くすほどの熱量、決して離さない手、潔癖の気があると思うほど堅い会長が劣情を顕にしたあの夜。
 ここが、保健室のベッドで良かったと思う。布団の下、熱を帯び始める下腹部に、俺は自己嫌悪のあまり死にたくなった。


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