天国か地獄


 22

 正直、生きた心地がしなかった。
 これが夢ならばまだよかっただろう。隣を歩く志摩が時折話しかけてくるが、会話すら頭に入ってこない。適当に頷くことが精一杯だった。周りの視線が怖くて顔をあげて歩くことができず、ひたすら廊下を眺めていた。

 結局、地に足をつけた感覚のないまま、俺たちは教室前までやってくる。

「流石に教室の中まで付いてきませんよね」
「当たり前だろ。……が、風紀委員はどこにでもいる。それを頭に入れておけ」

 志摩の言葉にも動じることなく、八木はそれだけを言い残して教室前から離れる。
 立ち去っていく八木を見送った志摩は「邪魔だな」と、一言、吐き捨てた。その声にゾッとする。
 和気藹々してるとは思わなかったが、仲間、というわけではないようだ。……正直いち早くこの場から立ち去りたかったが、一人残されればどうしていいのか分からなくなる。常に誰かしら俺を導いてくれる人間が傍に居たからそう感じるのかもしれない。

「まあいいや。別に俺も人前でどうこうするつもりは毛頭ないからね。……ほら、早く入りなよ」

 棒立ちになった俺の肩を軽く叩く志摩。指が触れた感触に、体が強張る。
『人前で』という言葉が引っかかった。息を呑む。なんて返したらいいのか分からなかった。思考回路はぐちゃぐちゃになったまま、俺は、目の前の扉を見つめた。
 2年B組。以前、どういうふうにこの扉を開けていたのか思い出せない。
 息を呑む。呼吸を整える。自然に、自然に開けるんだ。口の中で呟きながら扉に手をかける、そっと開いたときだった。
 教室中の無数の視線が一斉にこちらを向いた。

「……ッ」

 先ほどまで教室の外にまで響くほどの声がしていたそこは水を打ったかのように静まり返った。目が、こちら見てる。息が浅くなる。
 やっぱり、この目の中は、無理だ。
 逃げようとして、背後に立っていた志摩に背中を押される。

「……入りなよ、齋藤」
「っ、……わ、かってる……」

 けど、足が竦む。逃げ出したい、逃げ出したい、逃げ出したい。けれど、ここで逃げ出したら何も変わらない。
 なるべく皆の視線を感じないように、目に入れないように、俯いて歩いていく。
 心臓が爆発しそうなほど煩かった。
 自分の席だったそこに座る。汗が止まらない。指先が震える。平静を装わなければ。そう思うのに、今まで自分がどのような顔をしてこの教室で過ごしていたのかが思い出せないのだ。
 ホームルームまでの時間がやけに長く感じた。教科書を取り出して、理解できないままそのページに目を走らせる。そうすることでしか一分一秒を過ごせなかった。

 隣の席についた志摩は、話しかけてこなかった。ちらりと見れば、携帯触ってるみたいだ。俺が席についてからは、静まり返っていた教室にもざわつきが戻ってきた。けれど、各所で交わされる会話の声が全て自分に向けられているような気がしてならなかった。

 早く、早く、授業が始まらないだろうか。そうすれば、少しはましになるはずだ。イライラにも似た焦れったい気持ちが芽生え始めたときだった。目の前、机の前に数人のクラスメートがやってくる。息が、止まりそうになった。

「……あの、齋藤君……」
「え、あ、……は、はい……」

 なんだ、なんだ、俺に、何の用なんだ。悪い想像しかできず、返した声は上ずり、震えてしまう。けれど、クラスメートたちの行動は俺の悪い期待を裏切った。

 目の前、差し出されたのは数冊のノートだった。

「これ、君が休んでた間のノート。……よかったら使って?」

 耳を疑った。最初に、『なんで』という疑問。そして次にやってきたのはこんなことしてくれる人がいるという事実が信じれなくて、疑う。けれど、その反面、嬉しかった。まさか、わざわざろくに話したこともない俺なんかのためにしてくれるなんて。

「……い、いいの……?」
「うん。……体調崩してて大変だったろ。……あ、返さなくていいから。いらなかったら捨ててくれても構わないし」
「っ、あ……ありがとう……ございます……」

 クラスメートたちの用はそれだけだったようだ。立ち去り際クラスメートたち同士でなにやら話し合っては笑っていた。内容は分からなかったが、もしかしていたずらの可能性もあると思い恐る恐るページを開くが、中は授業内容を綺麗にまとめられたページが続いていた。先程のクラスメートたちが遠くからこちらの反応見ていたので慌てて頭さげれば、手を振ってくれた。胸の奥が暖かくなる。

 そしてすぐ、担任がやってくる。響く予鈴。ホームルームが始まる。
 担任は、教室に入るなり俺の姿を見て「もう大丈夫なのか?」と心配してくれた。大丈夫です、と答えると「無理はするなよ」と笑った。ああ、と、俺が考えていたよりも周りの人間は優しい人ばかりだ。以前の中学とは違う。そう思うだけ、ほっとした。最初に比べ、緊張はなくなった。けれど、それでも好奇の視線がないわけではない。


 簡単なホームルームが始まる。
 酷く懐かしいとすら思えること自体が異常なのかもしれない。
 ホームルームの内容は目立ったものはない。もうすぐ期末テストがあるというものだった。テスト。ろくに勉強する暇なんか俺にとっては実感が沸かなかった。
 けれど、クラスメートが用意してくれたノートもある。……ちゃんと、勉強しないとな。
 そう思いながら、俺は引き出しに仕舞ったそれに軽くふれた。

 そしてホームルームが終わり、一限目の授業が始まる。
 一限目は科学。科学室へと移動することになっていた。
 各自授業の用意を済ませ、教室から出ていく。俺は、遅れを取りながらも授業の準備をする。
 ……確か、科学のノートも用意してくれてたんだよな。先程クラスメートから貰ったノートを取り出し、念の為前回の授業内容を確認しようとしたときだった。

 横から伸びてきた手に、ノートを奪われる。
 ぎょっと振り返れば、そこにはノートをパラパラと捲る志摩がいて。

「……っ、返して」

 慌てて取り返そうと手を伸ばせば、志摩はひょいとそれを持ち上げる。そして、

「齋藤には必要ないでしょ、これ」

 切り捨てるような冷たい声。
 いつもの笑みのない志摩に、その言葉に、息が詰まりそうになる。この目には、棘には、身に覚えがあった。息苦しいまでの、害意。

「勉強なら芳川会長本人に教えてもらえばいいでしょ。勉強以外のことも色々教えてもらってるんだし」

「てかさ、今更勉強する必要あるの?」会長の名前が出た瞬間、息が詰まりそうになる。気付けば教室には俺と志摩しかいない。誰もいない教室に、志摩の声は酷く無機質に響いた。汗が、止まらない。

「お、れは……」
「よく教室まで来れたよね。……俺、驚いたよ。だってこんな状況で、会長さんに閉じ込められてセックスしまくってましたって皆に知られてるんだよ。さっきの奴だって、齋藤の股の緩さ試そうとしてたんでしょ。……まあ、どっかの誰かさんは呑気に喜んでたけど」
「そ、んなこと……」
「本当にないって言い切れるの?今までだって全然齋藤のことなんか興味なくて阿賀松に絡まれても助けてくれなかった連中が会長がリコールされるかもしれないことを知ってここぞとばかりに友達面してるんだよ、寧ろよくこんな露骨な掌返しで喜べるよね、って思うんだけど」
「……ッ」

 志摩の言葉は、鋭い。志摩の言葉を否定したいのに、否定する材料もない。寧ろ、確かにと思えてしまうのだ。この男がどれほど口先が達者なのか知っていたのに、言葉に呑まれる。先程まで心を温めてくれていたものがどろりとしたどす黒いものに変化する。嫌だ。疑いたくないのに。善意を信用したいのに、何も言葉が思い浮かばない。汗が止まらない。今まで俺はそれに気付かずアホ面下げてヘコついてたと思うと、ゾッとする。

「齋藤さぁ、自分が周りにどんな目で見られてるのか理解してる?まあでも、理解してるならわざわざこんなタイミングで人前に出ないよね。齋藤馬鹿だからどうせ連中の言葉鵜呑みにしたんでしょ」

 目の前、立ち塞がる志摩の手が伸び、トン、と胸を叩かれる。

「馬鹿通り過ぎて哀れだね」

 足元が崩れ落ちるような感覚に、目眩を覚えた。視界が眩む。息が、できない。志摩の言葉は呪縛のように俺の鼓膜に染み渡り、体内まで浸透する。足が、震えた。立ってられなかった。逃げ出そうとして足を動かせば、よろめく。バランス崩したところを志摩に抱き止められる。

「……可哀想な齋藤。俺の忠告を聞かないから悪いんだよ。最初から、俺はずっと言っていたのに。……芳川知憲に関わるなって」

 視界が揺らぐ。息苦しくて、何度も空気を吸おうとするが、それでも、鼓動は収まらない。呼吸が浅くなる。肺が痙攣してるような錯覚を覚える。喉が酷く乾く。顔が、引きつる。苦しい。汗が止まらない。立っているのか寝ているのかすらわからない。
 志摩は、俺を見ていた。その目は冷たく、冷静に、俺を見ていた。ただ、空気に喘ぐ俺を見ていたのだ。


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