天国か地獄


 21

 部屋に戻ってから、まず、違和感を覚えた。この部屋を出てどれくらい経ったか分からないが、それは明らかな違和感だった。
 脱ぎ散らかされたままの服、出しっぱなしの参考書。そして、点けっぱなしのテレビには芸能人たちが今日日に起きたスクープについてコメントする番組が流れていた。

 少なくとも俺の知ってる壱畝遥香は、几帳面なほどに綺麗好きだった。少しでも散らかっているとイライラするほどの人間で、そんなやつが、こんなに脱ぎ散らかすことがあるのだろうかと思うのだ。そうでなくても、出掛けるというのにテレビを点けっぱなしにしてるのなんてありえない。
 それから、もう一つ。玄関口に転がった、壱畝の靴だ。それを見た瞬間、息が止まりそうだった。
 壱畝の靴は、三足ある。一つ目は通学用のローファー。そして、外出用のスニーカーが二足。
 その三足の靴が、玄関口、或いは靴箱に収納されているのだ。
 寮内を彷徨くためのスリッパも二足各部屋に用意されてるが、どちらもそのままある。
 なのに、壱畝遥香は部屋にいないという。あの壱畝が裸足でどこかに行くとは思えない。
 厭な汗が止まらない。胸の奥がざわついて、吐き気がした。気にするな、あんなやつのことなんか、いない方がましだ、そう思いたいのに、一抹の思考が過るのだ。
 ――もしかして、あいつの身に何かがあったのか。

 全ての部屋を確認する。俺の私物は全て見当たらなかった。恐らく捨てられてるのかもしれない。それよりも、リビング以外はどこもかしこも片付いているのが気になった。洗濯機を開ければ、乾燥を終えた壱畝の私服が入ったままになっていて。
 鼓動が加速する。冷蔵庫には飲み物しか入っていない。窓を開ければ、街の外、行き交う車が目に入った。

「…………ッ」

 なんだ、これは。

「っ、あの、すみません……」

 体の方が先に動いていた。扉を開けば、そこには先程の風紀委員が二人いた。八木の姿は、そこにいない。
 俺の血相見て、「どうしましたか?」と心配そうに声をかけてくる風紀委員に、俺は部屋を指差した。

「あの壱畝君っていつ頃出掛けたかって分かりますか?」
「いつだったっけ?」
「俺は知らないです。今日は朝から出入りなかったと思いますけど……」
「そういうの、分かる人とかって誰か……」

 そう恐る恐る尋ねれば、顔を見合わせた二人は「委員長なら分かるかも」と声を揃えた。
 風紀委員長……八木、あの男か。背後にいるのが阿賀松だと分かってる今、安易に頼るのはよくないと分かる。

「いや、なら、大丈夫……です。ごめんなさい、邪魔して……」
「いえ、僕たちは先輩の頼みを聞くようにと言われてますのでお気になさらず」

 片割れが笑う。俺を先輩と呼ぶということは一年生なのだろう。堅苦しくされるよりは、接しやすい。俺は二人に頭をさげ、部屋に戻った。
 扉を締め、チェーンを掛ける。そして、窓がきちんと閉まってるのかを確認して、俺はカーテンを閉め切った。テレビを消す。完全なる密室になり、ようやく俺は息をした。
 信じたくないが、俺は、一つの可能性に気付いてしまった。
 この部屋を自由に出入りできる男がいることを。そして、壱畝遥香は外出するつもりはなかったのだろうということを。

「……ッ!」

 一つの、一つの可能性に過ぎない。自分に言い聞かせる。けれど、吹き出す汗は止まらない。
 口元を抑え、嗚咽を抑える。
 ………………阿賀松がこの部屋にやってきて、壱畝の身になにかがあった?
 かちりと音を立て、ピースが嵌る。最悪の事態を想定するのは悪い癖だ。けれど、そう考えれば、目の前が真っ暗になる。あいつが、いない。それだけに安心すればいいはずなのに、これから起きることを考えると、頭がぐるぐるして、気持ち悪くなって。
 窓がガタリと揺れる。心臓が停まりそうになった。恐る恐るカーテンをめくれば、なんてことはない。ただの風だった。
 それなのに、どこかで誰かが見ているような気がしてならないのだ。誰もいないと分かっていても、部屋のどこかに監視カメラや盗聴器が仕掛けられてるのかもしれないと思うと、正気ではいられない。
 俺は、部屋の掃除をした。壱畝の私物を壱畝のクローゼットに押し込み、床の下、家具の下に何もないか見て、それから、死角になる場所はなくし、人が隠れることができそうな場所は全部ガムテープで塞いだ。
 無音。全てをやり遂げたあと、俺は、大分時間が経っていることに気付いた。
 気が付けば、外は日が落ちていた。
 影が色濃くなる。俺は、部屋の電気を点ける。
 ……一人になったはずなのに、まるで心が休まらない。原因は分かっていた。

 会長は、大丈夫だろうか。怒ってるだろうか。もしかしたら、ここまで来るかもしれない。……どうしよう。そのことばかりを考えてしまっては、動悸が激しくなる。
 そんなことを考えたときだ、部屋の扉が数回ノックされる。全身が震え上がった。
 もしかして、と恐る恐る扉に近付いたとき、聞こえてきたのは聞き覚えのない声で。

「先輩、ずっと籠もってますけど食事どうします?なんなら僕用意してきますよ」

 扉の向こう側、そっと覗けばそこには見張りを任されていた風紀委員の子がいた。
 ……どうやら、ずっと引き篭もっていた俺を心配してくれたらしい。俺は、「ごめん、大丈夫だから」とだけ返し、扉を閉めようとした。けれど、伸びてきた手にそれを阻まれる。

「大丈夫、じゃないでしょう、その顔は。……せっかくの綺麗な顔が台無しよ?」

 現れたのは、連理だった。
 現れたその人にぎょっとする風紀委員は、「あの」と何か言いたげにしていたが連理は、しーっと唇に人差し指を当てる。

「安心して、すぐに戻るわ。……佑ちゃんに渡したいものがあったのよ。これ」

「なんなら中身確認してもらっても構わないわ」と連理は風紀委員に紙袋を渡す。繁繁と中身を確認する風紀委員は、「普通のお菓子ですね」と口にする。

「ええ、甘いものだったら口に入るかと思ったの。ちょっとした差し入れよ。よかったら食べてちょうだいね」
「……ありがとう、ございます」
「今日は色々疲れたでしょう。明日からは今まで通りに登校することになると思うわ。けど、体調が優れない場合は無理せず休むこと。それを伝えに来たの」
「……わかりました」
「それじゃあ、おやすみなさい」
「お疲れ様です、連理先輩」

 そう、見送る風紀委員。連理が立ち去ったあと、風紀委員は「これ、じゃあ渡しときますね」と連理からの差し入れを渡してくる。
 中にはたくさんの市販のお菓子が入ってた。

 俺は風紀委員に頭を下げ、それから部屋へと戻る。
 相変わらず静まり返った部屋の中、俺は、よくわからない子供向けアニメが流れてるのを横目に、連理からの差し入れの一つを口にする。小分けにされたものばかりが入ってるので食べやすい。けれど、満たされない。
 元々それほど体が食べ物を欲してなかったので無理もない。俺は、水で流し込むようにそれを口にした。
 一旦紙袋から大きめの容器に中身のお菓子を移そうとしたときだった、俺は空になった紙袋を畳もうとして、気づいてしまう。

「……ッ」

『23時に3階第2ラウンジ』そう、紙袋の底にボールペンで記入されていた。見覚えのある、崩れた文字。それを見た瞬間、ぶわりと汗が溢れ出した。
 ……会長だ。会長からの、伝言だ。
 誰宛とは書かれていない。けれど、これを持ってきたのが連理ということは、恐らく、言われて持ってきたのか。連理はこれに知っていたのか、知らなかったのか。どちらにせよ、俺に向けたもので間違いないだろう。
 今夜の、23時。消灯時間。来いということか。俺が、その紙袋を畳むことを見越して。
 背筋が凍る。呼吸が浅くなる。
 会長に、会う。会いたい、そう思っていたはずなのに、何故だろうか。会長からのメッセージを見てしまった瞬間、全身の傷が疼き出す。吐き気が込み上げる。
 会長に、会いたい。会いたい。けれど怖い。抱きしめてほしい。きっと怒られる。殴られるかもしれない。嫌われたくない。……会いたくない。けど、会わなかったら、もっと、会長は怒るだろう。体が、震える。息が苦しい。普通にしなければ、考え過ぎだ、そう思い込もうとすればするほど首を締め上げられてるみたいに呼吸ができなくて。
 気がつけば、俺は、床の上に座り込んでいた。気を失っていたのかどうかすらわからない。ただ、いつの間にかに時計の針は進んでいて。既に九時を回っていた。記憶がない。頭が、割れるように痛む。体が寒い。
 会長、会長は、俺に会いたいと言ってくれてる。もう見放されても仕方ないと思っていた俺を、それでも会長は会ってくれるという。逃げたら、今度こそ、終わりだ。
 ……シャワーを浴びよう。体が酷く寒い。温まったら、少しは気分も変わるかもしれない。そう思い、脱衣室へと移動する。自室のはずなのに、まるで他人の部屋で服を脱ぐような気分だった。ずっと、帰ってきていなかったから余計そう感じるのかもしれない。
 思いながら、着ていた制服を脱いだとき、鏡に、自分の体が目に映る。全身を這うように浮かぶ痣、ミミズ腫れ、引っ掻き痕、それが目に入った瞬間、息が止まりそうになる。
 俺は、慌てて鏡から目を逸し、シャツを着直した。……気持ち悪い。気持ち悪い、こんな、気持ち悪い。日が経てば薄くなると思っていた俺が馬鹿だった。一晩の内に傷口は開き、痣は色濃く広がり、腫れは酷くなる。これを、今日、皆に見られたのだと思うと、寒気がした。生きた心地がしなかった。最悪だ。全身を掻き毟りたい衝動に駆られるが、そんな度胸もなかった俺はただ目を瞑って現実から逃避することしかできない。
 俺は、脱衣室から逃げ、服だけを着替え、ベッドに潜る。
 会長のメッセージを気付かなかったフリをしていくのをやめよう。そうだ、あんなわからない場所に書いてるのだから気付かなくても無理がない。寧ろ気付かない前提の可能性もある。
 そうだ、見なかったふりしよう。俺は悪くないはずだ。だって、あんな気付くわけない、普通、こんなの。
 布団に潜る。頭まで被り、全部を見なかったことにして寝ようとする。けれど、冴え渡る頭は眠気をまるで感じない。
 時計の針が進む。テレビの音声が、笑い声が真っ暗な空間に響いた。

 何度も布団から顔を出し、時計を確認してしまう。結局一睡などできるはずもなく、約束の時間はあっという間にやってきた。
 俺は、スリッパへと履き替え、上着を羽織り、見張りの子に「飲み物を買ってくる」とだけ伝え、部屋を出た。
 逃げることはいくらでもできた。それなのに、会長の顔が声がこびりついて離れないのだ。見なかったフリができなかった。愚かだと思う。自分でも大馬鹿だと思う。あれほど皆から近付くなと言われているのに、俺は、会長から逃げることができないのだ。
 既に消灯時間は過ぎ、最小限の間接照明だけがついた三階、第二ラウンジ。
 自室から離れたそこに、その影はあった。

「……っ、ぁ……」

 一人用のソファーそこに腰を掛けるその人の姿を見た瞬間、心臓が握り潰されるようだった。
 声が、出なかった。なんて声をかければいいのか、わからなかった。頭が真っ白になる。足が竦む。呼吸が浅くなる。
 ……会長は、すぐに俺に気付いた。入り口前、佇む俺にゆっくりと視線を向けた会長は立ち上がる。

「なんだ、来たのか」

 喜び、ではない。呆れでもない。形容し難い感情が込められたその言葉に、体が震える。
 一歩、また一歩と近づいてくる会長に、俺は足の裏に根っこが生えたみたいにその場から動けなかった。気付けば目の前にまで会長がきていて。

「逃げることもできただろう、風紀の連中に言いつけたりはしなかったのか?」
「っ、そ……な、こと……」
「そうか」

 疑われて、殴られるかもしれない。
 そう、覚悟して目を瞑るが、痛みはない。
「本当に君は……」そう、何かを言いかけ、芳川会長は、口を紡ぐ。伸びてきた手に、頬を撫でられる。全身が凍りつくようだった。


「……っ、か、いちょ……」
「大方、飲み物を買ってくると言って部屋から出てきたのだろう。あまり君の戻りが遅くなって風紀の連中が勘繰り出すのも面倒だ。手短に伝えよう」

「学校へ行くその間、身の回りのことは心配しなくてもいい。こちらから手を回しておく。……が、阿賀松達と志摩裕斗……連中には近付くな。理由は『俺にでも対処出来兼ねることがある』からだ」淡々と紡がれる言葉は、生徒会長である芳川会長そのものだった。

「俺の手の届く範囲なら対処するが、俺も完全に自由になるわけではない。……万が一があれば、灘か……縁方人を頼れ」
「ッ、え……?」
「その範疇になると、あの男の方が動けるからだ。利害は一致してる。使いたくはないが、君の身に何かがあるよりはましだ」

 そう口にする顔色は変わらない。が、対立しているはずの立場の縁の名前を出すこと自体が信じられなかった。
 今日の会議から様子がおかしいと思っていた。けれど、恐らく二人の間で何かやり取りがあったことは違いないだろう。それでも、会長がそのこと自体を快く思っていないであろうことは分かった。

「……わかり、ました」

 会長が、こうしてまだ俺のことを気にかけてくれていること自体が不思議で、嫌われてるのではないかとか、怒られるのではないかとかビクビクしていただけに余計、戸惑う。殴られたいわけではない。けれど。勘違いしてしまいそうになる、まだ、俺は会長のことを信じていいと。まだ会長に庇護される立場だと。……好きでいてもいいのだと。

「そろそろ戻れ。俺にも監視がつけられているみたいでな、十分は誤魔化せるがこれ以上になると、面倒だ」
「……わかりました」

 本当に、ただ、話しに来ただけだった。ここにくるまで、どんな風に怒られるかばかりを考えていた。けれど、実際はその逆で、俺はまだ夢を見てるのではないかという気持ちのまま、「失礼します」とラウンジから出ていこうとした。そのとき、

「齋藤君」

 名前を、呼ばれた。瞬間、伸びてきた手に、肩を掴まれ、振り向かされた。驚く隙もなかった。視界が影に覆われる。唇が重ねられる。

「……っ、ん、ぅ……ッ!」

 前の、獣染みたそれとは違う。形を確認するような、探り合うようなキスだった。触れられた箇所が蕩けそうなほどの熱に、目が眩む。怖い、という気持ちよりも、会長に触れてもらえてることに反応してしまう自分がいて。
 早く、戻らなければならないと言ったのは、会長なのに。
 壁に押し付けられる。唇に触れる舌の熱にどうかなりそうだった。
 久し振りに会長に触れてもらえてるというだけで心臓が張り裂けそうなほど痛む。
 俺は、それを堪えるように会長の背中に手を回した。

 会長は、すぐに俺を離してくれた。何事なかったかのように、唇を離した。本当に、何もするつもりはないのだろう。「早く戻れ」と、会長はそれだけを口にした。
 以前の過保護なまでの会長を考えるとその態度は素っ気ないようにも思えたが、俺にも会長にも立場がある。本来ならばこうして会うことは許されない。余計、お互いの立場を悪くするだけだ。
 それでも、そこまでしてでも俺に会いたいと思ってくれたのだと思うのは甘いのだろうか。

「……それじゃあ、失礼します」
「あぁ」
「あ……あの……おやすみなさい」
「…………」

 会長は何も答えない。答えを期待していたわけではない、つい以前のくせでそんなことを口にしてしまった自分が恥ずかしくなって、俺はそのまま立ち去ろうとしたとき。

「……おやすみ」

 辛うじて、聞こえてきたそれは幻聴ではないはずだ。俺は会釈だけをし、その場を離れた。
 心臓が、トクトクと脈打つ。殴られなかった。怒られなかった。キスをしてくれた。……お休みって言ってもらえた。
 それだけのことで、酷く安堵する。馬鹿みたいに浮かれてしまう。単純だと笑われても、俺にとってそれだけで充分だった。

 こっそりと三階へと戻ってくる。
 自室の前には出てくるときと変わらず、風紀委員がいた。

「遅かったですね、トイレですか?」
「っ……ごめんなさい、ちょっとお腹痛くなって……」
「大丈夫ですか?薬もらってきましょうか」
「ぅ……うん、大丈夫……」
「そうですか?……もしなんかあったらすぐに言ってくださいね」
「ありがとう…」

 気を遣ってくれてるのだろう。
 風紀委員はひらりと手を振る。俺は会釈を返し、自室へと戻った。
 部屋に戻っても、鼓動は収まらなかった。会長は、どう思ってるのだろうか。俺のことを。
 考えても仕方ないことだが、また、また、前みたいに優しい会長が戻ってくれたら、なんてまだ淡い期待を捨てきれずにいた。
 心配事が一つ消えたお陰か、大分気が楽になっていた。
 ……今は、休もう。明日に備えて。俺は、言われたとおりにしておけばいい。
 自分に言い聞かせながら、俺はその日眠りについた。
 そして翌朝、アラームが鳴る前に目を覚ましてしまった。
 早朝五時。まだ窓の外は薄暗い。体がだるい。相変わらず疲れは取れていないようだ。
 今日から、登校だ。動き出すにはすこし早いが、二度寝をする気にもなれなくて俺は準備をすることにした。
 こうして一人の朝を迎えるのは久し振りかも知れない。
 今までずっと、会長や裕斗、連理など誰かしらが傍にいてくれていた。だから余計新鮮で、そして、少し心細さを感じた。
 ……やっぱり壱畝は帰ってきていないようだ。
 気にしないようにしようとは思っていたが、無意識に確認してしまう。いつひょっこり戻ってくるかもわからない。念の為、誰かに確認しようか……。思いながら、テレビをつけようとして、やめた。あまりそういう気分ではなかった。
 一人でいるのがこんなに寂しいものだとは思わなかった。制服に着替え、時間を持て余した俺は、ソファーで目を閉じて、皆が起き出すのを待つことにする。
 時間になり、扉を開ける。すると、そこには。

「おはよう、齋藤」

 息が、停まりそうになる。久しぶりに会った志摩亮太はいつもと変わらない笑顔を浮かべ、そこに立っていた。
 そして、その隣には。

「随分と遅かったな、早く食事に行かないと遅刻するんじゃないか?」

 風紀委員の腕章を嵌めたその男・八木は待ち伏せしてる志摩に何を言うわけでもなく、俺を迎える。

「っ、え、あ……ぁ……」

 どうして、志摩が、ここに。厭な汗が流れる。当たり前だ。最後、あんな別れ方をして、そして、見計らったかのように俺が自室に戻ってきた翌日に待ち伏せしてるということは、筒抜けということだ。

「どうしたの、そんな、幽霊でも見たような顔をして。……それともなに?……ここにいたのが俺で残念、だと思ってる?」

 ぎくり、と全身が強張った。
 俺の表情や仕草一つも志摩は見過ごさない。目を細め、「相変わらずだね」と笑う。その目は笑っていない。

「それじゃあ、行こうか。学校、行くんだよね。一人じゃ心細いでしょ」
「……志摩」
「ああ、八木さんには予め伝えてるから問題ないよ。それに、風紀委員はあくまでも『監視』と『護衛』が目的だから直接的に関わったりしてこないはずだしね」

「ね、八木さん」と笑う志摩。
 八木は、「そこまでしろとは言われてないしな」と吐き捨てるように答える。
 ……志摩と八木、二人の背後にいる阿賀松の存在が頭から離れなかった。もしかして、何か企んでるのだろうか。十中八九そうだろう。

「八木さんもこう言ってるんだし、行こうか」
「……いい」
「……は?」
「一人で大丈夫だから」

 このまま志摩の手を取ったところで、その先の未来は見えていた。志摩が俺のことを快く思っていないのは明快だ、そして最悪阿賀松に引き渡される可能性だってある。
 それならば、いくら不安でも一人を選んだ方がましだった。
 だから、勇気を振り絞って俺は志摩に言った。
 が。

「……何が大丈夫なの?」

 志摩の笑顔が引き攣る。伸びてきた手に、手首を思いっきり掴まれた。

「っ、痛……ッ」
「行くよ、齋藤。……このままじゃ遅刻しちゃう。ご飯も食べないといけないしね。十分前行動は基本だって習ったでしょ」

「それとも、今日は学校休んで俺とどこかに遊びに行く?俺はそれでも構わないよ」志摩は笑う。その含みのある物言いに背筋が凍りつくようだった。
 手を振り払おうとしたときだ。志摩の手が引き剥がされる。振り返ると、八木が立っていた。

「八木先輩……」
「志摩、やり過ぎだ」

 そう、一言。八木の言葉に、志摩は一瞬八木を睨み、そして、何事もなかったのように笑った。「ああ、すみません、つい癖で」と、笑うのだ。

「それじゃあ、行こうか。……齋藤もあんまり目立ちたくないよね」

 俺もだよ、と志摩は目を細めた。
 通路のど真ん中、行き交う生徒たちの視線が自分たちに集中してることに気付いた。厭な汗が流れる。
 今度は俺の手を掴まずに、志摩は歩き出した。俺は、それでも迷い、離れたあとからついていくことにした。下手に志摩を刺激するのはよくない、そう思ったからだ。
 ……けれど、八木がいてくれてよかった。
 見てみぬふりされると思っていただけに止めに入ってくれたのは驚いたが、八木は、本当に護衛してくれるというのか。……分からない。分からないけど、後ろからついてきている八木の存在を感じては今は安堵する。

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