天国か地獄


 17

 水を打ったかのように静まり返った会議室内。
 全員の視線が集中する中、栫井は変わらない調子で続ける。

「……リコール理由として提起された問題点については先日説明あったので省略させていただきます。……それで、今回話し合う事柄についてですが……」

「それは、俺が話そう」

 栫井の進行を遮るように割入ったのは志摩裕斗だ。
 栫井は芳川会長に目配せをする。しかし、芳川会長は無言のまま、ただ視線だけを志摩裕斗に向けていた。
 その沈黙をなにと受け取ったのか、栫井は「それじゃあ、志摩先輩お願いします」と続ける。
 そして、志摩裕斗は立ち上がった。

「それでは、前回芳川知憲が話した内容についてもう一度俺から話させてもらうぞ」

「今回問題とされている一般生徒への過干渉、早い話軟禁紛いの行為についてだ。芳川知憲はそれをその生徒を第三者から擁護するためだと言ったな。その件についてだが、その生徒本人、齋藤君に確認をした」語り口はあくまで淡々としていた。志摩裕斗の目がこちらを向く。心臓が、緊張で張り裂けそうだった。
 やはり、あのときのことを話すのだろうか。当たり前だ、このために聞いてきたのだとわかっていたはずだ。けれどやはり、平常ではいられない。
 全員の視線がこちらに突き刺さる。顔を上げることはできなかった。

「それが擁護目的だとしても、本人の受取方次第では犯罪と同じだ、ストーカーと同じだ。だから俺は確認した、『芳川知憲に暴行紛いのことはされてないか?』と」

 確かに聞かれた。阿賀松からの暴行のこともだ。
 汗が滲む。けれど、俺は、会長に不利になることは何一つ言っていないはずだ。なのに。

「答えはイエスだ」

 志摩裕斗の口から吐き出されたその言葉に、一瞬、頭が真っ白になった。それから、その言葉を理解した瞬間全身が熱くなる。

「な……ッ!」

 何を言ってるのだ、この男は。話が違う。
 平然と、さも当たり前のことのように嘘を口にする志摩裕斗に堪らず俺は立ち上がる。

「お、俺は、そんなこと言ってないです……ッ」

 撤回して下さい、と志摩裕斗に詰め寄ったとき、いきなり腕を掴まれる。後ろ手に拘束され、困惑する間もなかった。志摩裕斗は乱雑に俺の着ていたシャツのボタンを外し始める。

「っ、や、め」
「おい、何を……」

 突然の志摩裕斗の奇行に、当惑する外野の声。
 けれど、すぐにその声は別のものに変わる。
 大きく開けさせられた上半身。その下に浮かぶ無数のミミズが這うような傷跡を、全員に晒された。
 口笛を吹く縁、短く声を漏らす連理、青ざめる十勝。反応は様々だ。けれど、灘と芳川会長の反応は、相変わらずのものだった。
 恥ずかしい気持ちと、恐ろしさが入り混じる。会長の反応が怖かった。見られたことが、恥ずかしかった。特徴的なミミズ腫れだ。何があったのか、されたのかなんて分かる人には分かるだろう。だからこそ、余計。

「芳川、お前この傷に覚えあるんじゃないのか?」
「おいっ、やめろよ!」

 それでも、敢えて名指しする志摩裕斗。それを止めに入ってきてくれたのは、十勝だった。

「嫌がってるだろ!つーか、アンタ、非常識すぎだろ、何んて真似……」
「非常識なのはこんなえげつねー痕をつけた当人じゃないか?それに、これも立派な物的証拠だろ?違うか?」
「ッ信じられねえ、証拠って、わざわざここで見せる必要はないだろ……佑樹の立場考えろよ」
「論点を履き違えるなよ。俺が言ってるのは、この痕だ。形や色からして、鞭で殴られたもので違いないだろうな。痕から分かるように、そう時間も経っていない。何よりも、俺がこの傷をみたのは芳川君の部屋からこの子を連れ出したときだよ」
「それで?そのミミズ腫れが芳川君となんの関係があるの?裕斗君が殴ってわざわざ作った可能性だってあるわけだよね?」

 言い争う十勝と裕斗の会話に口を挟んだのは、縁方人だった。
 笑いながら、なんでもないように指摘してくる縁に志摩裕斗がいい顔をするわけがない。
 けれど、その言葉に反応したのは裕斗ではなく、今まで傍観を決めていた志木村だった。

「馬鹿なことを言いますね……そもそも、その傷は齋藤君を救出した直後に僕も一緒に見てます。芳川君の元にいたときに出来たもので間違いないですね」
「その場にいたのは他にいるの?」
「僕と裕斗さんと、齋藤君だけですよ」
「それじゃあさ、二人が口裏合わせてる可能性だってあるわけだよね」
「それは……」

「志木村君のことだもん、彼氏のためならなんだってするでしょ?あ、元、だっけ?」それはありません、か、違います、か言おうとしたのだろう。志木村に口を挟めさせる隙も与えず、縁方人は厭らしく笑う。
 カレシ、という単語に、志木村の目の色が変わった。無気力で怠惰的、そんな志木村からは考えられないほど、怒りに似たものが孕んだその目に、ゾッとした。
 どういう意味なのか、恐ろしくて聞けなかった。付き合っていた、わけではないのだろう。分からないが、二人からそのようなものを感じたことはなかった。あるのは強い信頼感。けれど、志木村の反応もまた過剰のように思えて。

「方人、お前わざわざ俺と喧嘩しに来たのか?」
「なんだよ、ちょっとしたジョークだろ。この冷えた場を温めようとさ……ね、齋藤君?」

 いきなり名前を呼ばれ、ろくに反応もできなかった。
 言葉すら発せなかった俺に縁は気を悪くするでもなく、続けた。

「丁度本人もいるみたいだし、確認してみればいいじゃん。本当に、裕斗君と志木村君の言う通りなのか?ってね。……その傷作ったのは芳川君なのか?ってさ」

「で?そこんところどうなの、齋藤君」二つの目が、それだけではない、周りの人間の視線がこちらを向く。
 今度は誰も口を挟まなかった。俺の返答を待っているのだろう。俺が話せば、全て終わる話なのだ。けれど、それは、即ち芳川会長を売るということだ。

「……ッ、……」

 志木村と裕斗の言葉に頷けば会長が黒に。
 縁の言葉に頷けば、二人が黒になる。会長から矛先を変えることはできる。けれど、そんなこと。
 志木村と目があった。志木村は、ただ俺を見ていた。大丈夫ですよ、と言うかのような変わらない目で。
 ………………裏切れるわけがない。志摩裕斗は確かに嘘を吐いた。けれど、だからと言って、面倒を見てくれて、優しくしてくれた二人のことを切り捨てることができなかった。
 志摩裕斗はなんで嘘をついたのか。反応を見るのが目的だったのか。おそらく理由があるはずだ。
 ならば、今ここで軽率に俺が判断していいのか。答えは、でなかった。

「黙秘ねえ……裕斗君たちが怖くて下手に発言できないのかな?……また打たれるかもしれないしね」

 露骨な縁の挑発に、志摩裕斗と志木村も無視をする。
 空気が淀む。最初からいいものではなかったが、濁りを増した空気は呼吸をする度に肺まで浸透していく。そんな気すらして。

 そんな空気の中、十勝直秀が発言する。

「待てよ、別に選択肢はそれ以外にあるんじゃないか?」
「……何?」
「何も、裕斗さんたちか会長か、その二つ以外にもあるんじゃないかって言ってるんだよ。佑樹が一人になる時間帯はどこかしらあったはずだ。その間に他の第三者と接触してる場合もあるわけだろ?」

「窓ぶち破って部屋に上がり込む変態もいれば、マスターキーがいつでも使える野郎もいるしな」そう、縁に目を向ける十勝。縁はというと「へー誰だろうね」と他人事のように嘲笑っていた。
 俺には、どちらも心当たりがあった。確かに、そう考えると選択肢は広がる。二択だけではない。

「不毛だな」

 そんな十勝のフォローを斬り捨てるその声に、全身が凍りつく。

「俺たちが憶測を並べたところで証拠がない限り全て可能性の話だ。……本人もいることだ、彼に聞けばいいのではないか?」

 そう、提案をしたのは芳川会長本人だ。
 脈が加速する。いっその事このまま心肺停止でもした方がましだったかもしれない。そう思うほどだ。
「どうなんだ、齋藤君」腕を組み、会長は俺の名前を呼ぶ。レンズの下、向けられたその視線に体中の傷が意志を持ったみたいに皮膚を這いずり出すかの如く疼き始めた。
 汗が、額から頬へと滑り落ちる。

「そっ、れは……」

 本当のことなど言えるわけないのに。
 分かっていて尚、会長は俺に指示する。命じる。強要する。

「簡単なことだろう、この場に君に傷をつけた人間がいるならその指で指し示してみろ」

 張り詰める空気の中、俺の心臓の音が大きく響く。手が震える。視線が、泳ぐ。どこを見ればいいのか、どうやっていつも通りにすればいいのか、わからなかった

「……ま、せん……」

 震える手を握り締める。俺は、誰にも視線を合わせないように目の前のテーブルに目を向けた。

「ここには、いません」

 芳川会長が笑った、ような気がした。
「……佑ちゃん」と、声が聞こえてくる。けれど、何も、答えることができなかった。
 これで良かった、良かったのだ。志木村たちを敵に回さず、会長のメンツも守る。これで良かったんだ。そう思いたいのに、背後の来ていた道を塞がれたようなそんな息苦しさ、不安感を覚える。

「だってよ、分かった?ここにはいないってことは、誰なんだろうね?俺分かんないなー」
「齋藤君、君はなんのためにここまでついてきたんだ?」
「……っ」
「君には俺達がついている。事実を口にしたところで君が責められることはないんだぞ?」

 志摩裕斗のセリフは心強い。けれど、そんな心強いよりも、俺には芳川会長への感情の方が何倍も強かった。
 誰も責めないはずがない。少なくとも、俺自身は、会長は、許さない。許可しない。気休めにすらならないのだ。

「やめなよ、可哀想だろ、齋藤君が。ほらほら栫井君、次のコーナー行っちゃってよ。これ以上話したって堂々巡りだしな」
「なんでアンタが仕切るわけ」
「身内ばっかだと遠慮しちゃって話進まねーかと思ってさ、あくまで公平な目を持った俺が言わないとね」
「何が公平だよ……ッ、クソ野郎……」
「おい、口には気をつけろよ。十勝君さぁ、先輩には敬語だって習わなかったか?」
「先輩面してんじゃねえよ、学年が上なだけだろ!」

 十勝と縁の会話が、頭に入ってこない。
 どうすれば、皆を欺き、会長のメンツを守れるか。考える。この場にはいない赤い髪の男が過ぎっては、消えていく。思い切って加害者はこの場にはいないと言ったが、だからといって阿賀松を売ったと思われてみろ。後が恐ろしい。けれど、だからといって、どうすれば。

「発言してもいいですか」

 困惑と動揺で正常に働かない頭で必死に思案していたときだ。
 そう、挙手するのはずっと黙っていた灘だ。
 栫井は眠たそうな眼のまま「……どーぞ」とだけ口にする。
 軽く頭を下げ、ありがとうございます、と口にした灘は「物的証拠があればいいとのことでしたね」と、静かに立ち上がる。そして、

「証拠ならここにあります」

「齋藤君が暴行を受けているときの証拠が」そう、制服から取り出した携帯端末に、会議室全体の空気が一気に変わるのを感じた。それは、俺も同じだ。灘が何を考えているのか、企んでるのか、わからなかった。けれど、この会議室に渦巻く空気は確実に悪くなっていた。
 お互いがお互いの足を引っ張り合い、顔に泥を塗りたくる。地獄のような空間へと明らかに変化していった。
 灘が持ち出した携帯端末、そこに録音されていたのは早い話作り物の証拠だ。
 志摩裕斗と俺の声を録音されたものをうまい具合に切り抜いて繋げたそれは、何も知らないものが聞けば俺が志摩裕斗に暴行されてるかのように感じるだろう。
 正直、あまりの切り抜きの上手さに俺も耳を疑ったぐらいだ。
 灘は、それが俺の制服に仕込んでいた盗聴器の音声だと言った。そんなもの、見に覚えはない、と思ったが確かに志摩裕斗たちに見つかる前に、灘とかなり近い距離にいたことも事実だ。その間に仕組もうとすればできるということか。

「なんですか、これ。こんなもの、証拠になると思ってるんですか?」

 一番最初に声をあげたのは、志木村だ。耐え切れられない様子で、志木村は声をあげる。

「盗聴でもしていたんですか、僕たちの部屋ですか?それとも彼に。……どちらにせよ、偽証行為は論外です。そんなもの、証拠になりません」
「確かに盗聴はルール違反ですが……偽物である証拠などありません。正当なものではないとはいえ、都合が悪くなったら全てを偽証品扱いするつもりでしょうか」

 煽る灘に、志木村は不快感を顕にする。
 志摩裕斗は、笑っていた。それは楽しそうなものではなく、渇いた笑いで。

「……なるほどな。盗聴していたと認めるのか。肉を断ってまで俺を貶めたいか?そうか、結構」

 志摩裕斗の声が響く。憤る志木村を宥め、何かを耳打ちした。

「灘和真、だったな。それを提示したことが何を意味するか分かってるんだろうな」
「ええ、正当の証拠品ではない限り認められない」
「そしてそれが偽証品の場合は……」

 表情一つ崩さない灘和真に、志摩裕斗は言葉を飲み、笑った。「覚悟はできてるんだろうな」、と。まるで友達相手に問い掛けるように。
 会議は、志摩裕斗の判断で中断になった。当事者である俺、志摩裕斗、志木村、そして灘。ソレ以外の人間が騒ぎ始め、収集がつかなくなったからだ。空気としては、志摩裕斗を疑う空気が強かった。元々、会議室にいるのは現生徒会の人間が占めてる。ほぼ面識のない志摩裕斗よりも、長い間付き合ってきた人間を信用するほうが妥当だ。
 当事者である俺からしてみれば、どちらが正しくてどちらが間違ってるのか一目瞭然だったが……。

 証拠品の真偽を確かめるため、時間がほしい。そう、言い出したのは志摩裕斗だ。疑われてるのを分かってて、そう志摩裕斗は切り出した。早い話、俺に尋ねればいい話だ。けれど、それをしなかったのは志摩裕斗は俺が『証拠品が偽物である』という問に首を縦に振らないと判断したからか。
 無理もないし、志摩裕斗の判断も正しいだろう。あの状況下なら、俺は、首を横に振る。それで全てが決着つく。多数決も意味もない。加害者がいなかろつが被害者が存在すれば、それはもうひとつの事件として確立するのだ。作られた事件だとしてもだ。
 志摩裕斗とは、会議が終わってからも顔を合わせていない。会議室を出ていった志摩裕斗と、それの後をついて出ていく志木村。
 取り残された俺は、他の皆のところに行くことも出来ず、一度、外の空気を吸うために踊り場へと来ていた。
 開いた窓から吹き込む夏の風はどこまでも渇いていた。
 俺がいなかった方が、裕斗たちにはよかったはずだ。それなのに、来たいと言った俺をちゃんと傍に置いてくれた二人のことを考えると、心臓がぎゅっと痛む。けれど、やっぱり俺は、芳川会長に不利になることは、言えない。言えるわけがない。そんなこと、最初からわかっていたはずなのに。
 ふいに、遠くから足音が近付いてくる。硬質な靴の音。振り返れば、そこには見慣れた人影が佇んでいた。

「お疲れ様、齋藤君」

 縁方人は、なんでもなかったような顔をして俺の元へ現れるのだ。

「っ、え、にし……先輩……」
「大変だったね、色々。……ほら、そこでもらってきたんだ、水。齋藤君にもお裾分け」
「……俺は、大丈夫です」
「っと……振られちゃったな。やっぱり、芳川君がいるからかな。さっきから距離取るし」

 言いながら、2本のボトルを手にした縁は俺の隣へとやってきて、そのまま壁に背中を凭れさせる。その距離に思わず後退れば、「ほら」と縁は笑った。
 いつもなら、別だ。今の俺にとって、あまり縁とは会いたくなかった。何より、どういうつもりなのか一切読めないのだ。

「どうして、ここに……」
「んー?君が、寂しそうにフラフラ会議室出ていくのを見かけたからね、追いかけてきたんだよ」
「……」
「あ、もしかして、どうして俺が会議に出られたのかって話?」

 分かっていたのだろう。俺がどう思ってるのかも。
 あくまで変わらない態度で切り出す縁に、俺は顔をあげる。縁は微笑んでいた。

「芳川君に頼んでさ。少しだけお邪魔できないかなって」
「……会長に?」
「うん、そうそう。じゃなきゃ、速攻俺つまみ出されるでしょ。だから、予めあの席は予約してたってわけ」
「あの、どうするつもりだったんですか、あの封筒……」
「あー、これね。齋藤君には秘密かな」

「また、盗聴されてるかもしれないしね」といたずらっ子のように笑ってみせる縁は、ボトルに口をつけ中身を流し込む。話を逸らされた。と思ったが、怪しむのも無理はない。けれど、話の流れからして警戒しているのは志摩裕斗ではなく。

「皆から虐められて大変だったね、怖かっただろ?」
「……俺は」
「芳川君も、気にしてたよ君のこと。裕斗のやつらと一緒にいて、怖い思いしてないかって」

 心臓が、また軋む。今度は罪悪感ではない、芳川会長の名に反応するかのように、息が浅くなる。その原因はすぐにわかった。
 足音が、もうひとつ。ゆっくりと近づいてきたそれは、俺達の姿を見つけ、立ち止まる。

「おい、何をしてる」

 階段の上部。こちらを見下ろす芳川会長の姿が視界に入った瞬間、器官が閉まる。呼吸ができなくなって、指先が震え始めた。

「ッ、か、いちょう……」
「随分と仲が良さそうだな」
「そうだよ、俺たち仲良しだもんねー、齋藤君」

 笑いながら、肩を組んでくる縁。芳川会長の目がこちらを見てる。その事実に耐えきれず、俺は、咄嗟に縁の手を振り払った。こんなところ、会長に見られたら、そう思うと。

「声が大きい、そこまで響いていた。俺に聞かれてまずいような会話をするなら、場所を選んだらどうだ」
「っ、……そんな、ことは……」

 ありません、と声高々に宣言したいと思うのに、会長に見られてると思うと体が竦む。声が、掠れる。
 芳川会長は俺から隣の縁へと視線を移した。縁は「はいはい」と仕方なさそうに肩を竦める。

「そんじゃ邪魔者はお暇しますよ。齋藤君、また後でね」

 そう、縁方人は楽しげに笑いながら俺に手を振る。そして、そのまま芳川会長と入れ違うように階段を上がっていった。硬い足音は心なしか軽やかだ。
 会長と、二人きり。静まり返った踊り場に、俺の心臓の音がバクバクと煩く響くようだ。
 会長が、降りてくる。一歩、また一歩とこちらへと向かって降りてくる。詰まる距離。気付けば額に汗が滲み、汗の玉が頬から顎先へと流れ落ちた。 

「……っ、あ、の……」

 謝らなければならない。謝らなければ。そう思うのに、すぐ目の前に芳川会長がいると思うと全ての声が、言葉が、抜けていく。息を吐くことすらできなかった。
 目の前、佇む芳川会長と目が合う。逸らすことができなかった。硬直する俺に、芳川会長はゆっくりと口を開いた。

「少し、痩せたんじゃないか」

 一言。なんと会長が言ったのか、頭に入ってこなかった。突然手首を掴まれたのだ。ぐ、っと力が篭もる会長の指に、全身が硬直した。

「ちゃんと食べてるのか、飯」
「……ぁ……」

 汗が、震えが、息が、熱が。
 腰が抜けそうになる。そのとき、深く、押し込めていた会長への恐怖が、不安感が、寂しさが、あらゆる感情が爆発した。
 怒られる。その一言に、一斉に思考は塗り替えられた。

「……ごめ、んなさい……っ」

 辛うじて絞り出した声は、聞くに耐えないもので。

「ご、ごめんなさい、ごめんなさい……っ、ごめんなさい……ごめんなさい、俺、の、せいで、会長がっ、俺の……せいで、ごめんなさい、すみません、俺、おれが、っ、ちゃんと、反論しなかったせいで、ごめんなさい、ごめんなさい、許し、許して、ください、許してください……ごめんなさい……っ、俺……っ、おれ、役立たずで、ぶたないで、打たないで、下さい、今度はちゃんと、おれ、頑張ります、だから、会長、俺」

 ごめんなさい、と口にしたときだった。
 掴まれていた腕を引き寄せられる。殴られる、と強く瞼をつむった時。視界が陰る。けれど、殴られる痛みは一向にこなかった。その代わり。唇に柔らかい感触が、触れた。

「っ、ぁ、う……っふ……」

 壁に押し付けられ、唇を噛まれる。触れ合う熱を感じるよりも先に、以前にも、会長にキスされたときのことが過る。瞬間、全身が震えた。

「――ッ!!」

 蘇ったものの中に、甘く満たされた記憶なんてなかった。
 しかし既に会長が染み付いた全身は、それだけで十分だった。
 俺は、気が付けば思いっきり会長を突き飛ばしていた。けれど、あのときとは違う。びくともしない、それどころか蹌踉めきすらしていない芳川会長はただレンズ越しに冷めた目で俺を見下ろしていた。

「……っ、は……ッ、ぁ、……ッ」

 やってしまった。やってしまった。やってしまった。終わりだ、終わりだ、全部、何もかも。会長に、嫌われる。
 そう自分のしたことの恐ろしさを理解した瞬間、全身が寒くなる。
 謝らないと。謝らないと。また、鞭で打たれる。二度と、あんな生きながら死ぬような思いはしたくなかった。

「……っ、ご、ごめ、んなさ……い……ッ」
「……」
「ご、めんなさ、ごめんなさい、俺、こんな、つもりじゃ……」

 頭が回らなかった。とにかく、一分一秒でも会長に許してもらわなければならない。その意識だけが俺を支配していた。土下座しようとして、会長に掴まれたままの手に気付く。腕を引っ張られ、ぐっと立ち上がらせられる。
 今度こそ壁に押し付けられ、鼻先同士が擦れそうなほどの至近距離、芳川会長に「口を開けろ」と命じられる。

「舌を突き出せ」

 俺に逆らうな。芳川会長の目がそう言ってるような気がした。
 背筋が凍る。けれど、断るという思考は微塵もなかった。今度こそは、粗相してはならない。俺は、口をゆっくりと開いた。言われた通りに舌を出した。他の人間がこんな場所を見たらどう思うかなんて、考えられなかった。ただ、目の前のこの人に捨てられられないようにする。それだけが俺の脳裏を占めていたのだ。

「会長、そろそろ会議再開の時間です」
「分かっている。灘、連中はどうだ?」
「齋藤君のことを探してるみたいでした。連理先輩が上手く誤魔化していたようですが、会長の姿も見えないことから勘付いてるようです」
「どうせ俺の姿が見えたところで勘ぐるだろう、放っておいて構わん」
「彼は」
「俺は先に戻る。落ち着いたら彼を会議室まで送ってやれ」
「畏まりました」

 時間感覚も麻痺していた。どれほどの時間が経ったのか、もしかしたら全然経っていないのかもしれない。
 芳川会長の熱も、感触も、くっきりと残ったままだった。
 殴られることはなかったが、それでも、唇、舌に残った生々しい感触に意識を奪われ、俺は、暫く何も考えることができなかった。
 ぼんやりと、立ち去る芳川会長の足音を聞いていた。
 傍にやってきた陰、もとい灘和真は「立てますか」とこちらを見下ろしたままの体勢で尋ねてくる。俺は、頷くことも否定することもできなかった。
 すると、痺れを切らしたかのように灘は俺の肩を引っ張り、立たせる。
 灘は、何を考えてるのだろうか。芳川会長を手助けをしたいのだろうというのはわかったが、やり方が正攻法とは思えない。
 下手すれば灘だけの問題ではないはずだ、それなのに自身の首を締めるような真似をする。

「ど……して、あんな物、用意したんだ……」
「あんな物とは」
「ボイスレコーダー……あんなの、裕斗先輩たちはすぐに気付いて……」
「それがどうしましたか」

 灘和真の態度は依然として変わらない。
「志摩裕斗たちがどう思ったところで関係ありません」目的は、当事者以外……第三者の印象操作か。
 すぐに裕斗たちが偽物だろうと気付いたところで、痛くも痒くもないわけだ。肝心な他の役員たちの裕斗への信用度を下げれば、元生徒会長という発言力による効果がなくなる。
 ……だけど、そうなれば裕斗たちの会長たちへの信用度はそれ以上に。

「貴方は、どちらの味方なんですか」

 冷たい視線を投げかけられ、息を飲む。
 刺さるようなその視線に、背筋に一筋の汗が落ちた。

「……ッ俺、は、……」
「会長を心配するのなら、志摩裕斗を心配する必要はないはずですが」

 下手なことを言えば、墓穴を掘る。
 それを直感した。灘の目は、まるで俺を人として見ちゃいなかった。信じちゃいない。結果的に裏切るような形になったのだから無理もないが、それでも、俺は……。
 ……俺は?

「戻りましょう。これ以上姿が見えないと変に騒ぎ立てられて面倒です。歩けないのなら肩を貸しますが」
「……大丈夫……」

「そうですか」とさして興味もなさそうに、灘は歩き出した。その背中がやけに遠く見えた。
 俺は、会長のためになっているのだろうか。そもそも、会長はそれを求めているのだろうか。助けてくれた裕斗たちも敵に回すような真似をしてしまった今、縋り付いた相手を、その選択を見誤った気がしてならないのだ。それ自体が会長に対して失礼だとは思ったが、それでも、本当に裕斗たちから感じた人の温かみとかそういったものをまるで会長たちに感じないのだ。それどころか、俺が何かをしようとする度にその溝は広がり、気付けば、俺は一人になっている。
 ……今更、後戻りも出来ない。後戻りしたいなんて少しでも迷ったこと自体が、会長に失礼だとすら思える。思考を振り払い、俺は、皆が集まる会議室へと向かった。足音がひどく冷たく響いた。

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