天国か地獄


 15

「少しは落ち着きましたか?」
「ッ、す、みませんでした……」
「それは僕の服に飲み物を零したことにですか?」
「……すみません」
「冗談ですよ。別に、ぼくは怒ってませんから」

 志木村は、優しい。別段気を遣ってくれているわけではないのだろうが、その距離感が今の俺にとっては丁度よかった。
 志摩裕斗が立ち去った部屋の中。せっかく志木村が用意してくれた飲み物を零してしまったものの、もう一度注ぎ直してくれた志木村はそれを俺の目の前に差し出した。
 それを受け取るものの、なかなか一口目は進まなかった。
 志木村は、傍に椅子を持ってきて、座っていた。
「あ、スタミナが満タンだ」とか言いながら携帯端末を取り出す志木村。
 ゲームでもしてるのだろうか。俺としては、その必要以上に関わってこない志木村の態度は有り難い。
 そこでようやく一口目を口にすることができた。
 この部屋へと連れてこられてどれくらいの時間が経ったのだろうか。
 芳川会長がどうしてるのか、そのことばかりが気掛かりで、気がつけば壁の時計の長針は大きく動いていた。

「それにしても、遅いですね、裕斗さん」

 静まり返った部屋の中に、志木村の声が響く。
 確かに、遅い。何かあったのだろうか、……いや何もないはずがない。胸の奥がざわついて、嫌な感じだった。
 どうすることもできない、ただじっと待つことしか出来ない。
 嫌な時間だ、と緊張を堪えるように膝を掴んだとき、玄関口の方から物音が聞こえてくる。

「……と、流石タイミングがいい」

 志木村は携帯端末を仕舞い、立ち上がる。
 程なくして、裕斗が戻ってきた。
 けれど、表情は出ていったときと同じ、むしろそれ以上に険しさを帯びていて、俺はなんとなくその嫌な予感が的中してしまったことを悟る。

「おい、齋藤君は大丈夫か?」
「開口早々それですか。ご心配なく、こちらは仲良くやってましたよ」
「そうじゃなくて……志木村、俺がいない間、何かなかったか?」
「別に何もないですけど。……そっちは何かあったみたいですね」
「あったと言うか……」

「まあ、方人…………あいつの悪い癖だな。……何を企んでるから知らないけど、ちょっとばかり厄介なことになってな」そう、面倒臭そうに頭を掻く志摩裕斗。
 ここで縁の名前が出てくるとは思ってもなくて、足元で燻っていた不安が徐々に全身へと回っていくのが自分でもわかった。
 そんな俺の気を知ってか、志木村は軽薄そうな笑みを浮かべ、肩を竦める。

「あの人はいつものことじゃないですか。もう病気ですよ、病気」
「ま、そうだな。それが、芳川を変に焚き付けなきゃいいが」
「……」

 何があったのか、想像したくもなかった。
 縁と会長が……?
 深く聞こうか迷ったが、それ以上に動揺の方が大きくまともに頭が働かない。
 そんなときだ。

「齋藤君、芳川のことでちょっと聞きたいことがあるんだけどいいか?」

 傍までやってきた志摩裕斗は、そう一言、俺に尋ねる。
 単刀直入。竹を割ったような男とは思っていたが、志木村とは違い割って入ってはその距離は一気に詰めてきた。

「ちょっと裕斗さん……」

 何も返せないでいる俺を見兼ねたのか、志木村が声を掛ける。が、志摩裕斗の表情は変わらない。

「志木村、お前ちょっと部屋出てろ」

 そう一言。笑った顔は志摩に似ていると思っていたが、寧ろ、笑みが抜け落ちたあとの表情は、瓜二つに等しい。
 寧ろ、それ以上に冷たく感じるのは普段の志摩裕斗との相違を感じているからか。
 諦めたように、志木村は息を吐く。

「……わかりました。けど、くれぐれも口には気を付けてくださいね。裕斗さん、デリカシーないんで」

 志摩裕斗は「わかってるよ」とだけ応えた。
 志木村がいなくなった部屋の中。
 張り詰めるような緊張感に、心音は大きくなるばかりで。
 テーブルを挟んで、俺と志摩裕斗は向かい合って椅子に腰をおろしていた。
 どんな顔をすればいいのか分からない。さながら死刑宣告を待つ死刑囚のような時間が流れた。

「……齋藤君、最初に確認しておきたいんだけど、君は本当に芳川知憲のことが好きなのか?」

 志摩裕斗は、直球で尋ねてくる。
 回りくどい真似はしないと分かっていただけに、覚悟は出来ていた。俺は、「好きです」と返す。
 けれど、想像していたよりも声が出ず、消え入りそうなその言葉でも志摩裕斗には聞こえていたようだ。「そうか、わかった」と、彼は頷いた。

「それじゃあ、これからいくつか質問させてもらう。君は、ただ『イエス』か『ノー』か言えばいい。答えにくいなら肯定するときのみ首を縦に振ってくれてもいい」

 暗に、沈黙は許さないということか。
 冷や汗が滲む。朗らかな男だと思っていたが、なんてことはない。纏うその空気は、鉛よりも重厚で、全身に伸し掛かる威圧感に押し潰されそうだった。

「……はい」
「そうだな、そんな感じでいい」

 そこで、志摩裕斗はここへきてようやく笑ってくれた。
 けれど、それもつかの間のことで。

「早速だが、一つ目。君は伊織から暴行紛いのことをされたいたか?」

 言葉が、詰まる。まさか、初っ端からそんなことを聞かれるとは思わなかった。
 背筋に、冷や汗が伝い流れ落ちた。阿賀松のことを、聞かれるなんて。

「っ、そんなこと……ッ」
「違うのか?」
「ッ、……は、い……」

 嘘を吐くことも、出来た。けれど、今この場で阿賀松を庇う意味を見いだせなかった。
 恥ずかしくて、情けない。真っ直ぐこちらを見る志摩裕斗の目を見返すことができなかった。声が、裏返ったのが余計、恥ずかしかった。

「それで芳川に助けてもらったのか。恋人のフリをするという形で」

 ……どこまで、知っているというのか。
 会長と俺しか知らない事実を口にする志摩裕斗に、背筋が、全身が、冷たくなっていくのが分かった。

「答えてくれ。返答によっては芳川への対応を考えなければいけないもんでな」

 芳川会長が、言ったのだろうか。それしかないと分かっても、俄信じることができなかった。
 会長は、何を考えてるというのか。志摩裕斗にこの事実を伝えるということは、既に俺達だけのものではなくなるというのに。
 会長が考えてることが分からない。けれど、ここで俺が下手に誤魔化したら会長の信用が落ちてしまう。選択の余地はなかった。

「……は、い」

 悔しいとか怖い、というよりも、胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感に何も考えられなかった。
 志摩裕斗は、俺の返答に特別反応するわけではない。
「そうか。じゃあ最後だな」と、指先でテーブルを小さく叩き、そして、俺に目を向けた。

「君は、伊織と同じことを芳川にされていないか?」

 ドクン、と耳の傍で大きな心音が響いた。
 志摩裕斗の言葉の意味が、解らなかった。この人は、何を言っているのだろうか。真っ白になる頭の中、俺は、確かに言葉を発することも首を動かすこともできず、ただ志摩裕斗を見ていた。

「気持ちとか、好きだとか、そういうのは一旦置いてだ。……どうなんだ?」

 ああ、と頭の中、蘇った先日の記憶がいつしかの阿賀松との記憶と重なる。瞬間、全身の毛がよだつ。

「ッ、されてません……ッ!」

 それは、脊髄反射に近かった。自分の声の大きさに、自分でも驚いた。
 目を丸くした志摩裕斗だったが、すぐにその口元に笑みが浮かぶ。

「随分と元気がよくなったじゃねーか」
「す、みません……ッ」
「いいや、気にするな。答えてくれてありがとな。……お陰で分かったよ」

 そう言って、志摩裕斗は志木村を呼び戻した。
 何やらを志木村に耳打ちする志摩裕斗を見て、俺は、本当にこれでよかったのか分からずにいた。
 会長、俺は、俺は間違っていたんですか。会長は、何を考えてるんですか。繰り返したところで、それは虚しく頭の中で反芻するだけだ。
 志摩裕斗が、怖い。それは芳川会長と相対する相手だからか分からないが、真っ直ぐな目が、言葉が、鋭い槍のように突き刺さるのだ。

 長い間をこの部屋で過ごしたような気がする。
 異様に喉が乾き、何口目かのジュースを喉奥へと押し込んだときだ。部屋にインターホンが響いた。
 立ち上がろうとした志木村を制したのは志摩裕斗だ。志摩裕斗は「俺が出る」と、志木村の代わりに玄関口へと向かう。
 そして、扉の施錠を開いた。

「お前は……」
「さっきぶりね、志摩裕斗」

 現れたのは、意外な人物だった。
 腕を組んだ連理貴音は、そう威圧的に志摩裕斗の前に立ち塞がる。

「なんだ連理、何の用だ?まさかまたここに来てまで俺に文句言いに来たのか?」
「違うわよ。トモ君は……うちの会長は見つかったの?他の役員に聞いても言葉濁すばかりだからこうしてわざわざ確認しに来たのよ」

 連理の言葉に、志摩裕斗はちらりとこちらを見た……ような気がした。
 会長が……いなくなったということか?心が、胸の奥が一斉に騒ぎ出す。
 思わず乗り上げそうになったが、志木村に「大丈夫ですよ」と止められた。
 大丈夫、何が、大丈夫なのか。

「見つかった、けど、逃げられたな。まあ、どうせ行動範囲なんてたかが知れてる。齋藤佑樹がいるところに現れるだろうな」

 息を、飲む。呼吸を繰り返し、脈を整える。
 それは、つまり、この状態で会長に会わなければならないということだ。望んでいたはずなのに、今は、ただその事実に酷く不安になる。恐ろしくなる。生きた心地がしなくて、目の前が眩む。

「その佑ちゃんのことだけど、親衛隊で預かることにするわ」

 込み上げてくる吐き気を堪えようとしたときだ。
 連理の言い放ったその一言に、俺も、志摩裕斗も志木村も、その場にいた誰もが固まった。

「……は?」

 辛うじて、反応できたのは志摩裕斗だ。
 素っ頓狂な声を上げる志摩裕斗。その次に、俺の代わりに立ち上がった志木村は連理に噛み付いた。

「何言ってるんですか、それを僕たちが許可するとでも?」
「アタシは心配なのよ。こんな状況であんた達みたいな無神経でよく知らない男たちと一緒にいるなんて、佑ちゃんにとって休まる暇もないじゃない」
「それはお前も一緒じゃないのか、連理」
「あら、少なくともアタシは佑ちゃんの気持ちが分かるわ」
「裕斗さん、聞く必要はないですよ。そんなこと言って、彼は芳川君に齋藤君を受け渡すつもりでしょう」
「そんなことしないわよ。アタシだって事の顛末は理解してるつもりよ。ちゃんとトモ君が冷静になるまで、会わせるつもりはないわ」
「その証拠はあるのか?」
「ないわよ、そんなもの」

 良く言えば、豪胆。己の思うがままに突き進む連理の性格は素直に羨ましい。が、その先にいるのが自分となると大分状況が変わってくるわけで。

「僕、頭が痛くなってきました」

 そう、志木村が大きく息を吐いたときだった。

「貴音先輩、感情論ではどうにもならないとさっき言ってたじゃないですか……」

 油断すれば聴き逃してしまいそうな程の、小さな声。
 音もなく、連理の影から現れた江古田はそう口にした。

「あら、りゅうちゃん、だけど……」
「……どちらか片方に任せっぱなしにするのが心配というなら、皆で監視したらいいんじゃないんですか……相互監視が一番抑制の効果になると思いますけど……それに、人数が多い方が後々動きやすくなりますし……」

 不満そうな連理を宥めるように、クマのぬいぐるみを連理に持たせる江古田。その江古田の提案に同意したのは、意外なことに志木村だった。

「相互監視ですか……そこまで信じてもらえないというのも悲しいですけど、確かにそれならば効率もいい」

「どうですか、裕斗さん」と、志木村は隣でウンウンと唸っていた志摩裕斗に声を掛ける。
 志摩裕斗はというと、その反応は志木村に比べて渋く感じた。

「確かに、人数が多いに越したことはないが……まさか、お前らここに居座る気じゃないだろうな」
「別に僕はそれでも構いませんけど」
「正気か?」
「あら、寮長随分と太っ腹ね」
「まあ僕一人の部屋ですしね、他人に入られても都合が悪いことはありませんし」

「それに、わざわざ部屋移動してる間に何か遭っては困りますからね」保守派なのだろうが、やはり、自分のせいで志木村のプライベートスペースが奪われてしまうと思うと申し訳が立たない。
 が、志木村は俺が思ってる以上にどこか楽しげではあった。
「あら、少しは考えてるみたいね」と皮肉げに笑う連理に、志木村は「君ほどじゃないですよ、連理君」とにっこり微笑んだ。……あまりこの二人は一緒にしない方がいいようだ。二人の間に見えない火花が散ってるようだ。

「というわけで、そういうことになりました、齋藤君」

 大方の流れは、連理と志摩裕斗の大きな声のお陰で把握していたが……。
 志木村の説明を改めて聞かされると、なんだか段々大変なことになってるような気がする。
 ……実際大事になってるのだろうが。

「落ち着かないかもしれませんが、ここの部屋なら少しは一人の空間ができますのでゆっくりしておいてください。外には僕たちがいますので、何かあったらすぐにいって下さいね」
「ありがとございます」

 用意されたのは、別室だった。
 芳川会長の部屋同様、志木村の部屋も他の生徒と違う構造の部屋になってるようだ。
 志木村の趣味部屋なのだろう。漫画本が並ぶ本棚にモニターディスク、季節を無視したこたつが存在感を放っている。
 変に居心地がいいのが余計気になるが……。
 辺りをキョロキョロ見回してると、不意に、扉がコンコンと叩かれる。「はい」と志木村が応えると、扉が開いた。

「寮長、アタシも佑君と話したいんだけど良い?」

 やってきたのは、連理貴音だ。
 控えめに声を掛けてくる連理に、志木村はこちらを見た。

「だそうですけど、大丈夫そうですか?具合が優れないなら断りますけど」

 一人になりたいという気持ちは、多少あった。
 けれど、相手が連理となると……別だ。芳川会長と、少なからず親しい人間。そして、理解してくれようとする貴重な人間。
 連理ならば、会長のことを、分かってくれているはずだ。

「大丈夫です。……お願いします」

 少しでも、会長の状況が、考えが、分かるのならば。俺は、連理の申し出を受けることにした。
 部屋を出て行く志木村と、入れ替わるようにして入ってきたのは連理貴音だった。
 連理は、俺の姿を見るなりほっと息を吐いた。そして、安堵したように微笑む。

「佑君、なんだかすごく久し振りに会った気がするわ、貴方と」
「……先輩」
「大体の事情はトモ君に聞いたわ。本当はそっとしておくべきなのでしょうけど、ごめんなさいね。どうしてもアタシ、佑ちゃんと話がしたくて」
「……」

 ……芳川会長は、連理に何を話したのだろうか。
 少なからずこうして俺の相手をしてくれているだけでも心強い存在であることに違いない。
 けれど、そんな連理相手にもなんて返せばいいのかわからなかった。言葉に迷い、詰まる。聞きたいことがありすぎて、言葉が纏まらないのだ。
 そんな俺にも構わず、連理は俺のそばにやってきた。

「目、腫れてるわね。顔色も、良くない。……眠れてないのね」
「貴音、先輩……」
「そんなに震えないで頂戴。アタシは貴方たちの味方よ。誰がなんて言おうと、これは本人たちにしかどうこうできないことだと思ってるわ」

「見てられないのよ、他人が本人たちの仲を引き裂くなんて真似。……しちゃいけないことだと思う、例えそれがどんな形であれ、本当に思い合ってる者同士なら、それを土足で踏み躙るような真似……許されないわ」連理の言葉が、静かに部屋に響いた。こんなにも連理の言葉が響いて聞こえるのは、そこに連理の感情を感じるからだろう。温度を持って、心に染み入る。
 今まで、誰も、俺の話を聞いてくれなかった。
 芳川会長を悪者扱いしては、俺を可哀想なものを見るかのような目で見てくるばかりで、こんな風に俺達の関係を擁護する人がいることに驚く反面、狼狽えた。
 嬉しくないはずがない。けれど、もっと、もっと早く連理貴音のような人間もいるとわかっていたら、俺は考えなくて済んだ。自分がおかしいのだと、会長が普通ではないと、疑わずに済んだ。
 本当に思い合ってる者同士という言葉に、胸が軋む。即答できないことが情けなくて、俺は、俯くことしかできなかった。

「貴音、先輩……会長は……」
「大丈夫よ。心配しなくても、トモ君はあの通りの性格だし、それに、今日の審問でも遜色はなかったわ。きっと、貴方たちのことが理解されるまでそう時間は掛からないはずよ」
「本当ですか」
「ええ、アタシは本当のことしか言わないわ。だから、そんな顔しないで」

 俺の顔を覗き込み、連理は「ね?」と首を傾げてみせる。
 連理の言葉は温かい。
 けれど、審問を受けている芳川会長のことを考えるとやはり不安の方が大きかった。
 志摩裕斗の様子からするに、会長が俺との関係について詳しく話したことに違いない。
 けれど、その場にいながらもまだ俺達のことを心配してくれる連理のような人間もいるとなると、全部が全部話したわけではないのだろう。……そう思いたかった。

「あの……っ、会長は怒ってましたか……俺のこと」

 聞きたいことはたくさんあった。
 頭の中、一番最初に思い浮かんだ質問を口にすれば、連理は少しだけ考え込む。

「怒ってた……かしら?寧ろ、アタシには不安なように見えたわ。貴方のことが心配で仕方ないって、ずっと顔に書いてあるみたいに」
「心配?」

 あの会長が、というのが一番だった。
 少なからず怒ってるだろうというのは覚悟していた分、予想外の言葉に狼狽える。
 けれど、連理がそんなことを嘘吐く必要もない。
 芳川会長が顔に出していないだけか、なんとなく腑に落ちない。
 そんな俺に、連理はぽんと手を叩いてみせる。

「だーかーら、佑ちゃんまでそんな顔をしてどうするのよ。大丈夫よ、アタシがいるんだから。あの男たちの好きにはさせないわよ、絶対」

 最初から、志摩裕斗たちの懐に潜り込むのが目的だったというのか。
 ばちんと音がしそうなウインクをする連理に、俺は、反応するのに少し時間が掛かってしまう。

「あ……ありがとうございます」
「何言ってるのよ、寧ろ、貴方は『余計なことするな』って言ってもいい立場じゃないの」
「……」

 連理は、いい人、なのだろう。
 今まではそう信じて良いのか不安だったけれど、ここまで屈託のない笑顔を見せられると疑う自分が恥ずかしくなってしまう。
 ……けれど、だからと言って芳川会長のことを安心しきるのは危険でもある。
 そう、思案した矢先。不意に扉がノックされる。
 静かに開いた扉から覗くのは、クマ……ではなく江古田だった。

「……あの、すみません邪魔して……」
「あら、どうしたのりゅうちゃん」
「……あの人たちがそろそろ食事にしないかって言って……ルームサービスを取るみたいです……それで何が食べたいかって……」

 時間切れ、ということか。
 もう少し連理からは聞きたいことがあったのだけれど、変に時間を取らせて志摩裕斗たちに疑われるのも厄介だ。連理も同じことを考えていたらしい。

「そうね、それじゃあそろそろアタシたちも戻りましょうか、佑ちゃん」

 そう目配せをしてくる連理に、俺は頷き返した。
 部屋には、志摩裕斗と志木村がソファーに座ってあーだこーだ言い争っていた。「これがいい」だの「本人に聞けばいいじゃないですか」だの、どうやら料理内容のことで揉めてるようだ。その手には食堂の簡易メニューが握られている。

「齋藤君、別に部屋にいても良かったんだぞ」
「いえ……あの、大丈夫です」
「そうか?ならいいが、まあ丁度良かった。腹減っていないか?今から夜食を取ろうって話をしててな」
「空いていないなら無理しなくてもいいですけど、食堂の営業時間が迫ってますからね。僕たちは先に頼んでおこうって流れになったんですよ。どうですか?君も」 
「俺は……」

 正直あまり空腹は感じないが、軽食だけ頼んでおくことにする。
 食べなければ、また朝にでもそれを食べればいい。一応頼むだけ頼んで、注文は志木村にお願いすることにした。
 用を済ませ、俺は志木村の趣味部屋へと戻ってくる。
 居間ではまだ志摩裕斗たちがワイワイと話してる声が聞こえてきた。
 一時は連理と志摩裕斗がいつケンカになるかとヒヤヒヤしていたが、考えすぎだったようだ。部屋の扉を閉め、息を吐く。

 その瞬間だ。不意に、窓の外で何かが動いたような気配がした。
 窓にそっと駆け寄れば、外はもう暗く、夜の空しか見えない。……見間違いだろうか。
 以前の縁のことがあっただけに、もしかしてと思ったが少々神経質になっていたようだ。
 窓の外には何もいなかった。俺は開いたままになってたカーテンを閉め切った。
 今日は、やけに一日が長い。
 灘君は、あの後どうしたのだろうか。気になったが、調べる手段もない。いつになれば、会長に会えるのだろうか。……そもそも俺は会長に会いたいのだろうか。
 考えれば考えるほど頭の中で感情がぐるぐると回る。
 自分が自分じゃないみたいで、地に足がついていないような、そんな錯覚にただ不安を覚えた。
 けれど、一人で会長の帰りを待っていたときとはまた違う。連理たちがいるからか、少しだけ、まだ気が楽に感じた。

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