天国か地獄


 13

 会長を、助けたい。恩返しがしたい。嫌われても、何されてもいい、助けたかった。俺のせいで芳川会長が苦しむような姿は見せたくなかった。
 けれど、今は、ただ怖かった。芳川会長から向けられる殺意にも似た息もつかない程の感情の熱に。
 気が付けば、俺はソファーの上に座らされていた。どうやってここまで来たのか、志摩裕斗に身体を支えられてたのは覚えてる。それでも、その時の志摩裕斗と志木村の会話は全く頭に入ってこなかった。
 志摩裕斗といれば、芳川会長に会わせてくれる。
 確かに、あの時志木村がそう言ったのは覚えていた。

「齋藤君、喉渇いたんじゃないか?ほら、志木村のお気に入りのグレープジュース。果汁100%だぞ、うまいぞ、飲めよ」
「裕斗さん、また勝手に……」
「いいだろ、減るもんじゃないし。ほら、齋藤君、一口でもいいから」
「っ、いい、です……」

 グラスを押し付けてくる裕斗に、とっさに俺は顔を逸し、手で押し退ける。怖かった。二人と一緒にいることが。
 何かを悟られるのではないかと思うと、いつも通りが出来なくて、とにかく離れようとするが、手が裕斗の持ってたグラスに当たってしまう。

「……ッ」

 中身のジュースが溢れ、びちゃりと服に掛かった。染み込む冷たい感触に、広がる濃厚な葡萄の薫りに、身体が凍り付いた。

「わ、悪い、大丈夫か?齋藤君!」
「……っ、すみません……俺……」
「気にしなくても大丈夫ですよ。それよりも、それ、放っておいたらシャツの染みになりますよ。早く洗った方がいいと思いますけど……」
「……だ、いじょうぶ、です」
「大丈夫って、ベタベタするだろ?ほら、志木村、濡れたタオル持ってきてくれ!」
「元はと言えば裕斗さんが零したんじゃないんですか……」

 言いながらも、志木村は言われた通り、洗面室の方へと引っ込んで行く。
 肌に濡れたシャツが張り付いて気持ちが悪い。嫌いではない葡萄の薫りが、今はただ頭が痛くなる。
 服を脱ぐような真似、したくない。出来るわけがない。

「ほら、手を上げろ。風邪引くぞ」
「俺は、大丈夫です、このままで……」
「齋藤君……」
「っ、大丈夫ですから……っ」

 腕を掴まれそうになり、俺は、ソファーの上から逃げるように立ち上がるが、急に動いたせいでバランスが上手く取れず、よろける。「危ない」と、裕斗に肩を掴まれ、なんとか転ばずには済んだ。

「す、みません……」

 ありがとうございました、と言い掛けた時、裕斗に腰を掴まれる。太い釘を打ち込まれたような鈍い痛みに汗が滲む。
 離して下さいと慌てて裕斗を押し返すが、それよりも早く、裕斗にシャツを思いっきりたくし上げられた。

「や……ッ、め、て下さい……ッ!!」

 驚いて、声が裏返る。裕斗の突然の行動に頭が回らなかったが、すぐに気付いた。シャツの下には、見られたくない生傷が絶え間なくある。
 乱雑にボタンを外され、開けられたシャツごと引き抜かれる。濡れたシャツが張り付く気持ち悪い感覚はなくなったけど、その代わり、肌寒さがまとわり付いてくる。

「……ゆ、うとさん……っ」

 どうして、なんて考えなくても、分かった。
 眼下に晒される肌を隠そうとしたところで、無意味だと言うことも分かった。昨夜の裂傷の数々はミミズのように腫れあがり、熱を孕んでいた。全身に絡みつくミミズ腫れに、裕斗の表情が、変わる。

「……これを見られたくなくて、脱ぎたくなかったのか?」

 問いかけられる。静かな声で。
 何も、答えられなかった。俺が下手なことを言ったら会長の首が飛ぶ。プレッシャーと羞恥、そして恐怖に言葉は黒く塗り潰されていくのだ。
 けれど、沈黙を肯定と取られたら、それも会長の立場が掛かってるのだ。何か、上手く返さなければ。言葉を探す。けれど、こういうときに限って言葉が浮かばない。
 何も考えられない。

「これは、あの、生まれ付き……っていうか、その、元々、俺、肌が弱くて、それで、小さい頃の傷が残ってるから……それで、先輩たちに見られたくなくて……俺、だから、あの、確かに、脱ぎたくなかった理由はこれです、けど」

 だから、芳川会長とは関係ない。そう、言い訳をする。
 けれど、俺が何かを言う度に裕斗の目は鋭いものになっていく。笑顔も、なくなっていた。
 冷や汗が、滲む。寒い。寒くて、震える。ちゃんと志摩裕斗に言葉が届いてるのかも分からなくて、不安になった。志摩裕斗は相槌も打たなかった。ただ、冷静に俺を見るのだ。まるで、可哀想なものでも見るかのような、目で。

「だから……その……っ」
「もういい」

 え、と顔を上げたとき。裕斗が俺から手を離した。
 そのまま歩き出す裕斗に、待ってくださいと、と手を伸ばす。それと、濡れタオルを手にした志木村が戻ってきたのは同時だった。
 志木村は出ていこうとしていた裕斗にまず驚き、その後、追い掛けようとしていた俺の姿を見て目を丸くした。それも束の間のことだ。

「志木村、あいつはやっぱり黒だった。……今から、理事長のところに行ってくる」
「違……ッ」
「分かりました。じゃあ、彼のことは僕が見ておきますので」

 よろしくお願いしますね、と止めようともせず寧ろ見送る志木村に、堪らず俺は裕斗の背中にしがみついていた。痛みとか関係ない。焼けるように熱を持つ四肢も無視して、俺は思いっきり体重を掛け、裕斗を引き止める。

「待ってください、違うんです、本当、これはなんにもないんです!だから、お願いです……っ、会長を、リコールしないで下さい……ッ!!」

 焦燥感。わけがわからないまま、それでも裕斗だけは止めないといけない。その気持ちが先走り、俺は、ただダダ捏ねる子供のように喚くことしか出来なかった。二人の視線も関係ない。ここで、裕斗を引き止めないといけない。そうしなければ、ダメだ。

「ちょっと、齋藤君……」
「お願いします……っ、俺は、全然、こんなの平気なんで……だから、会長を……返して下さい……っ、お願いします……ッ!」
「……」

 震える。こんなこと言ったら、自分でこの傷が会長に付けられたものだと白状してるようなものだ。頭で理解出来てても、考えられない。指先が痛む。指だけではない。力いっぱいしがみつく度に、全身が軋む。俺は、どうなってもいい。けれど、会長に、何かあったら、そうしたら、俺は。

「齋藤君、落ち着いて下さい。別に僕達は彼を取って食おうなんて考えてるわけではないんですよ」

 俺の傍、視線を合わせるように屈み込んだ志木村はそう言って濡れタオルで俺の顔を拭ってくれる。そこで、自分が泣いていたことに気付いた。

「リコールされたからといって学生生活が終了するわけでも、況してや人生が終わるわけでもない。ただ『相応しくない人間をその席から外す』だけです。確かに、芳川君の所業を考えると君と芳川君がまた一緒にいることは難しくなるかもしれませんが、それは芳川君の態度次第。彼が改めれば、君も痛い思いもせず、また彼と一緒にいることも出来る。ただそれだけの話ではありませんか」

「それなのに齋藤君、君は、何をそんなに怯えてるんですか?」不思議そうに、志木村は投げ掛けてくる。俺は、志木村の言葉に、その目に、口を噤んだ。
 志木村の話は、俺が最も望んでいるものだ。それでも、分かる。そんな単純なものではないと。それはもしかしたら別の誰かと俺ならば成立したのかもしれない。けれど、芳川会長が簡単に諦めて改心するとは思えなかった。
 固執していたものを他人から取り上げられた人間の行動。それは、俺にも予期が出来ない。
 だからこそ、怖かった。それを頭で再認し、ああ、と思った。俺は、俺が抱いているこの感情は、会長が他人に取り上げられることそのものへの恐怖ではない。その事により、会長が取る行動。それが、何よりも怖かった。

「裕斗さん……」
「齋藤君、言いたくないなら無理して言わなくてもいい。ほら、だから落ち着け」

 目配せをする志木村を無視して、志摩裕斗は俺の肩を撫でようとして、やめた。その代わり、俺の手を掴み、握り締める。
 その手の動きに驚く。けれど志摩裕斗はそれでも構わず俺の手をぎゅっと握り締めた。痛いくらい、強く。

「大丈夫だ。大丈夫、大丈夫だから。泣くな。な、ほら。あいつなら俺達に任せてろ。お前は何も悪いことしてない。ただ、俺達に無理矢理つれてこられただけだ。誰も、お前を責めねえよ」

 だから大丈夫だ、と志摩裕斗は笑った。
 根拠もない。何もない。それなのに、志摩裕斗は俺を元気づける言葉を口にするのだ。

「そんな、わけ……ない……」

 そんなはずがない。そんなわけがない。有りえない。繰り返す。志摩裕斗の手を振り解こうとしても、はずれなかった。
 押さえ付けられる。真っ直ぐな目、心強い言葉は今の俺にとってただの恐怖でしかなかった。

「そんなわけ、ない、会長は……っ」

 声が震える。必死に腕を振り払おうとするが、それすらも捕まえられる。拘束跡が残った手首に痛みが走る。
 呻く。声とともに息が溢れ、痛みに全身の筋肉が引き攣るようだった。志摩裕斗から逃げようと無茶苦茶に身体を動かすけど、志摩裕斗の表情は変わらない。それどころか、志木村の表情の方が変化してるのが分かる。憐れむような色を滲ませ、こちらを見下ろすのだ。

「会長は……」
「あいつが許さなくても俺は許す」
「……っ、は……?」
「だから、大丈夫だ」

 この男が恐ろしい。言葉が通じない。恐ろしいまでに愚直で純粋、得体の知れない自信に満ち溢れたこの男の目が怖かった。会長や阿賀松と違うタイプで、話が通じない。情緒が噛み合わない。
 愕然とする俺を見て、裕斗は満足げに頷き、手を離す。そして。

「……ゆうと、先輩ッ」
「便所行ってくるから、志木村あとよろしく」
「裕斗先輩ッ!!」
「……手短に済ませて下さいね」

 そのまま部屋を出ていこうとする裕斗にハッとし、慌てて立ち上がろうとするがすぐに志木村に止められる。あくまで俺の傷には触れないように、それでも絡みついてくる腕は離れなくて。何度も腕に爪を立てるが、志木村は「ダメですよ」と困ったように息をつくばかりで。
 結局、裕斗を止めることもできなかった。目の前で、部屋の扉は閉まる。血の気が引いた。

「離……ッ、離して下さい……ッ志木村先輩……ッ!!」
「だめです、って言ってるじゃないですか。……それに、ここで離したからといって君はどうするんですか?一人で、芳川君にでも会いに行くんですか?その傷で?」
「……ッ」
「とにかく、待ちましょう。ああ見えて、裕斗さんもただの馬鹿じゃありません。それに『元』とは言えど、俺達生徒の代表で、味方だった人です。正義感は人一倍強いですよ」
「ぅ、……う……ッ」
「分かって下さい。このまま君を放っておいたら、どうなるか。君だって本当は分かってるんでしょう?なら、僕たちを利用して下さい」

「ね?」と、志木村は目を細めた。志摩裕斗と比べて、志木村の言葉はどこまでも冷静だった。志木村の言葉は理解できた。俺一人ではどうすることもできないことも、わかっていた。それでも、俺は認めてはならない。他の人たちに助けを求めてはならない。会長への裏切りと同じだ。
 だから、利用しろと志木村は言葉を選んだのだろう。俺が頷くわけがないと分かっていてそう言うのだから狡い。
 時計の針は時間を刻む。志木村は、自失する俺をソファーに座らせ、身体の傷を冷やしてくれた。濡れたタオルは焼けるように熱い皮膚によく染みたが、それ以上に、痛みが勝った。それでも、腫れが、痛みが、次第に薄れていく。俺達の間に会話はなかったが、志木村は手厚く俺を手当してくれた。
 俺は、とうとうお礼を言いそびれてしまう。

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