天国か地獄


 12

 意識はぷつりと途切れる。辛うじて一本のそれで繋がっていた頭と身体すらも会長の手によって断ち切られてしまった俺は、文字通り気絶していた。
 あんな激痛の中、よく眠っていられた。そう思うくらい、ぽっかりと時間ごと切り取られたみたいに何も覚えていないのだ。
 ただ、全身の感触は残っている。会長に触られた場所も、挿入された感覚も、鞭で殴られた痛みも、性器の痛みも。全部。
 窓の外は、既に日が暮れていた。溶けるような赤に目眩を覚えたのは、まだ目が慣れてないからという理由ではないはずだ。
 時計を見れば、既に授業は終わってる時間帯だ。手遅れだった。何もかも。間に合わなかった。志木村との約束に。
 会長は、今頃会議室にでも呼び出されているのだろうか。色んな人たちに指をさされ、責め立てられてる会長を思うと生きた心地がしなかった。
 けれど、それ以上に、会長を助けたいという気持ちよりも今は下手に会長に逆らって逆鱗に触れることが恐ろしかった。
 俺が眠らされていたのは、最初に連れて行かれていたあの小部屋だ。簡易ベッドを用意され、その上に眠らされていた。手錠は、相変わらず嵌められたままだ。それも、利き腕である右腕はベッドのフレームに嵌められていた。
 初めて会長に抱かれた部屋の中、思い出したくないことまで思い出し、身体が震える。
 会長が戻ってくるかもしれないと思うと全身が硬直した。
 手錠がはずれないか試す気力もなかった。
 何もしたくない。何かをすることによってまたあんな目に遭わされると思うと、気が遠くなる。奥歯がガチガチと鳴り始めた。
 会長、……会長。会長に、憧れていた。 
 いつだって堂々としていて、全生徒から羨望の眼差しを受けてもそれを衣に着せずに自分自身の力で解決しようとしていた。
 そんな会長の役に立ちたくて、少しでも、釣り合うようになりたくて、それで……それで?
 会長は、それを望んでいない。俺が何をしても会長を怒らせるだけで、役に立てない。それ以上に、俺は、会長の笑顔を、優しかったときの表情を、目を、思い出せなくなっていた。

 その時は、唐突に訪れた。ノックも無く開いた扉に、会長が戻ってきたのかと怯んだときだった。
 違う。と思ったのは足音だ。静かではあるが会長の足音は聞こえる。けれど、今回は。
 足音もなく、小部屋のドアノブが捻られる。ベッドの上、慌てて体勢を立て直した時、扉は開いた。
 現れたのは、灘和真だった。

「っ、な、だ君」
「……」

 発した声は思った以上にガラガラだった。
 喉がひりつき、下腹部が鈍く痛む。灘和真は真っ直ぐに俺の傍までやってきた。それから、手錠で繋がれた俺の右腕を掴んだ。

「痛……っ」
「ここから移動します」
「……え?」

 灘和真は、どこからともなく取り出したペンチで手錠の鎖チェーンを引きちぎる。それだけで、腕は軽くなった。けれど、灘の言葉が理解できなかった俺は暫く呆然としたまま動けなかった。
 そんな俺に何を言うわけでもなく、灘は構わず俺の膝の下に腕を入れてくる。驚いて後退ろうとしたとき、視界が揺れる。身体が持ち上がり、目の前すぐそこに灘の顔があった。

「お、ろして」
「暴れないでください。歩けないのでしょう、なら黙っていてください」
「……っ、嫌だ、灘君、下ろして……っ」
「会長の命令です」

 その言葉に、耳を疑った。会長が?ここから移動しろと?灘に手伝ってもらって?
 ……この部屋が一番安全じゃなかったのか。
 暗に、自分の立場を理解したのか。会長がこの場にいないことがただ不安で、それでもこのまま灘を信じて良いのかすらも分からなかった。だって会長はあんなに俺に自分から離れるなと言ったのだ。それなのに。

「どうして……」
「会長の部屋を捜索するため、寮長達が押し入る動きがありました。そのための一時避難です」

 ああ、やっぱり、と思った。最悪の事態が目に浮かぶ。それを見越した上で、会長は自分自身ではなく灘を使ったということか。それとも、下手に身動きが穫れないか。

「っ、分かった……から、下ろして……」

 流石に、この体勢でいるのは辛かった。歩けるかどうか自信がないが、それでも抱えられるのならば無理にでも自力で歩いた方がたしだ。
 けれど。

「却下します。今は時間がありません」

 それだけ言って、灘は歩き始める。身体が痛い。近くて、抱き締めるような体勢なのに、ドキドキすらしないのは恐怖と緊張が勝ってるからか。足で扉を開けた灘は、そのまま会長の部屋へと出た。
 そして、その時だった。玄関から、ガチャガチャとドアノブを撚る音が聞こえてきた。全身が強張った。会長はガチャガチャとドアノブを慣らさない。だとすれば、灘の話からして志木村たちか。
 まずい。なんてタイミングだ。こんな場所見られたら、なんの弁解も出来ない。どうしよう、と目の前が真っ暗になったとき、灘は傍にあったクローゼットを開けた。
 え、と思った瞬間、思いっきりクローゼットの中に放り込まれた。壁にぶつかった反動で痛みが走る。何を、と顔を上げたとき、灘もクローゼットの中へと入ってきた。そして。視界はそこで暗転する。
 締め切られた戸。その微かな隙間から、会長の部屋が微かに見えた。思ったよりも、クローゼットの中は広い。が、俺と灘が入っても余裕があるかどうかと言えば別だ。
 密室内、すぐ目の前には灘の顔があった。近い、と身を捩るが、遠くから扉が開く音が聞こえ、息を飲む。バタバタと部屋に上がってきた足音は一人ではない。少なくとも二人いる。

『この饐えた匂い、酷いものですね』
『そうか?俺はなんも感じねーけどな。ま、鼻詰まってるけど』
『そーですか、そりゃ良かったですね』

 聞こえてきた声の一人、緊張感とは程遠いその声の持ち主はわかった。……志木村だ。
 だとしたら、もう一つ、この扉の向こうから聞こえてくる、溌剌とした声は。
 志摩裕斗。あの快活な男が思い浮かぶ。背筋に一筋の汗が流れた。

『いませんね、齋藤君』
『ちゃんと探したか?まだ見てない場所あるだろ。ちゃんと、便器の中まで確認しろよ。あいつは、大切なものは肌身離さないタイプなんだからここにいるのは違いねえんだし』

 ガチャリと、すぐ近くで何かが開く音がした。小部屋を開かれたのか。近付いてくる足音に、冷や汗が滲む。
 どうして、やっぱり、俺がちゃんと教室に行かなかったせいで疑われたのか。息が儘ならない。すぐ側には灘もいる。下手に動いたらクローゼットで物音がしそうで、恐ろしかった。
 息が混ざり合う。
 狭い密室の中、動かないように気を付けるとどうしても灘の肩口に埋めるような体勢になってしまうのだ。早く、離れたい。思うのに、裕斗と志木村はまだ部屋から出ていく気配がない。
 行き交う足音、扉が開く音をただ静かに聞いては息を潜めていた。どれほどの時間が経過したのかも分からない。

『こっちの部屋にもいないし、やっぱり、もうどっか逃げたんですかね……裕斗さん?そっちにはいなかったですよ』
『逃げようが隠れようが、形跡っていうのは残ってんだよ。どこかしらにな。いくら隠そうとしたところで、上塗りされたその場所は明らかに不自然になる。あいつだって、分かってるはずなんだがな』

 足音が、すぐ側を通り抜けていく。裕斗の声が遠くなる。先程までいたあの部屋に、移動したのだろう。分かったからこそ、冷や汗が滲む。灘があの短時間でどこまで片付けたのかは分からない。確認する余裕すらなかった。

『……これって』
『硬い何かで擦れた跡。それも、金属が削れるなんて相当な力がないと無理だぞ。この傷の形からしてここに何かを引っ掛けて摩擦が起きたと考えるのが妥当だな』

 汗が流れる。金属が擦れた痕跡には身に覚えがあった。
 繋がれた手錠。眠ってる間についたものか、最悪、昨日使われたベッドと入れ替わっていたとしたら?
 血の気が引く。このせいで昨夜のことも全部悟られてしまえば、芳川会長は、会長は、俺のせいで。

『裕斗さん』
『志木村、お前はこの部屋の周りを見てきてくれ。俺は、もう少しこの部屋を見てみる』
『分かりました。……近くにいるんで、なんかあったら呼んでくださいね』
『あぁ、わかったよ』

 静かな足音が一つ、志木村のものだろう。それが玄関の方へと向かう。
 部屋に残る足音は一つ……志摩裕斗のものだけだ。
 まずい、まずい、このままでは会長の不利になってしまう。違うんだと、誤解だと弁明できれば。けれど、灘がいる手前、そんなことをするわけにはいかない。
 第一、会長はそれを望まないだろう。分かっていても、頭で理解していても、気が逸り、心はバラバラになってしまう。
 だからだろう。無意識に、手足に力が篭もる。瞬間、足元の何かにぶつかった。がたりと微かな音が、クローゼットの中に響く。心臓が飛び跳ねる。

「……っ!」

 小さな音だ。外までは聞こえない。そう思うが、先程まで部屋の中を散策していた裕斗の足音がピタリと止んだ。
 バクバクと心臓の音が響く。灘の呼吸は聞こえない。それとも、俺の心音で掻き消されているのか。
 聞き流せ、聞き流せ、気のせいだと、全部思い込みだと、そのまま部屋から出ていってくれ――。
 一歩、また一歩と近付いてくる足音。それは確かに、意志を持ってこちらに近付いてくるのが肌で感じるようだった。
 一筋の汗が背筋に流れる。すぐ鼻先まで足音が近付いて……止まった。
 もう、ダメだ。こんなところを見られてしまえば、おしまいだ。そう、ぎゅっと目を瞑ったときだ。

「俺がいいと言うまで、出ないで下さい」

 すぐ耳元、押し付けられた唇から吐き出された言葉に、目を見張る。けれど暗い闇の中、灘の表情は分からなかった。
 同時に、体を思いっきりクローゼットの奥へと押し込められた。
 ハンガーに掛かったコートたちがクッション代わりになったが、何事かと目を丸くするのも束の間、次の瞬間、灘は勢い良くクローゼットから飛び出した。射し込む照明の明かりに目が眩むのほんの一瞬のことだ、乱暴に開かれた扉は反動で自分で閉まる。
 締め切られたクローゼットの外。ガタガタという音ともに、裕斗の驚いたような声が聞こえてきた。

「うわ、びっくりした。……って、お前は……知憲の……っ、ておわ!」

 布が擦れるような音ともに「痛っ、て、おい、タンマタンマ!!」と裕斗の悲痛な声がすぐ側で聞こえてくる。厚くはない扉の一枚向こうに裕斗の気配を感じた。
 灘は、囮になってくれたのか。俺を庇うために?
 そうと考えると、生きた心地がしなかった。
 なんであれ、コソコソと隠れていたということに裕斗たちはいい印象を示さないだろう。
 けれど、灘の態度は依然として変わらない。

「誰の指図で此処へ立ち入ったんですか」
「おいおい、それが人に物を尋ねる態度か?」
「前任の生徒会長ならば何をやっても許されると」
「その言葉、そっくりそのまま返してやりたいところだけど、お前……どうしてそんなところに隠れていたんだ?なんで今出てきた?」

「それとも、そこに俺に見つかってでも隠したいものでもあるのか」息が、詰まりそうになる。
 見つかっていないはずなのに、見つかっているような錯覚。地に足が着いてる気がしなかった。ただ、口を塞ぎ息を殺す。そしてじっと丸々ことしかできなかった。
 それも束の間。扉の外で何かがぶつかるような音が聞こえた。同時に、裕斗が息を漏らすのが聞こえてくる。

「おっと……正気か?ここで俺に手を出せば、あいつの立場は余計悪くなるぞ。外には志木村たちもいる。俺を封じたところで、ただ自分たちの立場が悪化するだけなんじゃないか?」
「よく喋る口ですね。……申し訳ございませんが、俺にその手は通用しませんよ」

 何が起きてるのか。まるで分からない。その分、周りの物音に気が集中する。
 くぐもった裕斗の声が聞こえてきて、すぐにそれがやつの笑い声だということに気付いた。

「ふ、くくッ……はは!馬鹿だな、馬鹿で真っ直ぐで考えなし。そういうやつ、俺は大好きだぞ」
「……っ貴方は」
「どうした?俺のことが気に入らないんだろ?あいつを助けたいのなら、俺を殺してでも行けばいい。それぐらい本気ならな」

「その代わり、俺も本気でお前を潰す」嫌な予感が、脳裏を過る。
 裕斗の挑発に、灘が乗ってしまうのではないか。罠だ。全部。裕斗が何を考えてるのかはわからない。けれど、このままでは確実に全てが悪化する。それが分かっただけに、じっとしていられなかった。
 体当たりをするように、クローゼットの外へと飛び出した。縺れる足。顔を上げれば、驚いたようにこちらに目を向ける灘。そして、その手がポケットの中から黒い何かを取り出そうとしてるのが見え、慌てて灘の腕を掴んだ。

「だっ、ダメだ、灘君……!」

「灘君……っ、これ以上は、本当にダメだ……君まで会長みたいにリコールされたら……」スタンガンを取り出そうとしていた灘を必死に止める。外には志木村もいる。裕斗の言うとおり、全てを悟られておしまいだ。
 挑発に乗ってはダメだ。そう必死に止めれば、灘は、呆れたように浅く息を吐いた。

「貴方という人は……」

 その目に、微かに苛立ちの色が滲んでることは分かった。言いつけを破ったのは俺だ。灘の反応も分かっていた。
 けれど。背後から伸びてきた手に、ぐっと肩を抱かれる。
「ひっ」と息を飲めば、すぐ側には裕斗の顔があった。
 血の気が引く。目が合えば、裕斗はにっと笑う。

「大丈夫だ、別になんもしねーから」

 そう、俺に耳打ちをした裕斗は「志木村!」と玄関に向かって声を上げた。そして束の間。遠くからパタパタと足音が聞こえてきて、開っぱなしになっていた扉から志木村が覗いた。

「呼びましたか……って、なんか増えてないですか?」
「そいつを捕まえろ」

 一言。簡潔なその命令に、志木村は間髪入れずに「了解」とだけ答えた。が、志木村が灘の元へと向かうよりも、灘が部屋の隅、窓に向かって駆け出す方が早かった。

「な……っ!灘君!」

 窓を開き、人が一人ぎりぎり通れるくらいのそこに足を掛ける。瞬間、生温い風が部屋から玄関の方へと吹き抜ける。

「佑樹君置いて逃げるつもりか?思ったよりも、周りを見ないタイプの馬鹿ではないみたいだな!残念だ!」
「どうぞ好きに言って結構。……生憎、優先順位を履き違える程愚かではありませんので」

 その言葉を皮切りに、そのまま灘は窓の外へと身を投げ出した。
 瞬く間に姿を消した灘に、血の気が引く。「灘君っ!」と声を上げ、慌てて駆け寄ろうとしたところを裕斗に腕を掴まれ、引き戻された。

「心配しなくても大丈夫だ。あそこから飛び降りた先には三階のバルコニーに繋がってる、そう簡単に死なない」

 何が大丈夫なのか、俺には分からない。灘が逃げてくれたことはいい。けれど、この状況は。

「は、なして下さい……っ俺……っ」
「……彼、すごい怯えてますけど、裕斗さん、何かしたんですか?」
「俺は、何もしてないんだけどな……佑樹君、落ち着け。別に俺たちは君にどうこうするつもりはない。ただ、助けようとだな……」
「……っ会長を、リコールしないでください……」

「会長は、何も悪いことなんてしてません、だから、会長を返してください、お願いです」思考が儘ならない。ただ思考と言葉が溢れて、止まらなくなる。ただ懇願れば、裕斗は掛けかけた言葉を飲んだ。
 ちゃんと、交渉しないと。せっかく裕斗たちと会えたのだ。じゃないと、本当に、会長に、顔を合わせられない。震える。体が、器官が、声が、何もかも。

「裕斗さん、一旦ここから出ましょう。……人目もあります」
「あ……あぁ。齋藤君」
「っ、行きません、俺は、ここから出ないって会長と約束して……っ」
「いいから、俺達と来るんだ」

 ぐ、と手を握り締められ、昨夜一晩中拘束されて擦り切れていた手首に痛みが走る。堪らず息を漏らせば裕斗の視線が俺の手首に向いた。しまった。そう、慌てて手を引っ込めようとするが、絡まる裕斗の指はがっしりと俺を掴み、離してくれない。

「っ、嫌だ、離して……」
「裕斗さん、そんな乱暴な真似しても無駄ですよ。齋藤君、僕達に大人しくついてきたらちゃんと会長のところに連れて行ってあげますよ」
「……ッ、え」

 その言葉に、頭が真っ白になる。
 会長に、会える。嬉しいはずなのに、喜ばしいはずなのに、それ以上に、恐怖に体の芯が震える。俺のせいで、裕斗たちから逃げ損ねたと知った会長は、どうなるのだろうか。きっと、怒り狂うだろう。今度こそ、殺されるかもしれない。そう思うと、手足から力が抜けていきそうになる。指先が震え、昨夜の痛みが蘇り、その場にへたり込みそうになったのを支えてくれたのは、裕斗だった。

「っ、おい、志木村……そんな勝手なこと」
「ですよね、裕斗さん」
「わかったよ、けど、先に手当だ。……怪我が酷い」
「了解、それじゃ、僕の部屋でいいですかね」
「ああ、そうだな。齋藤君、歩けるか?」
「……」

 何も、考えられなかった。会長を助けたい。それ以上に、会長が怖い。もしこんな姿を見られて会長に何をされるか、それを考えただけで生きた心地がしなかった。会いたいのに、会いたくない。
 二律背反する心に、体が言うことを聞かない。
 それからは、何も頭に入ってこなかった。けれど、裕斗に身体を支えられて歩いていたのだけは覚えてる。
 気が付けば、俺は見知らぬ部屋へと来ていた。

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