天国か地獄


 09

「っ、会長……」

 電気の点けっ放しの室内。玄関口、佇んでいた会長にぶつかりそうになり、寸でのところで立ち止まる。

「……」
「あ、あの……っ」

 後を追ったはいいものの、会長の背中から滲み出る拒絶のオーラに言葉を呑む。怒ってる……無理もない。あんなことまで言われて、おまけに、五味まで会長を嵌めるような真似をしたんだ。それが会長のためであれ、会長は嫌がるだろう。
 それでも、一人にさせれなかった。
 いくら会長が一人でいたいと思っても、今だけは、会長を一人には出来なかった。

「……会長……」

 元気出してください?気にしないでください?どれも違う。なんて声を掛ければいいのか分からなくて、口籠る。


「会長……っ、俺は、会長がリコールされるのは嫌です」

 咄嗟に、喉奥から出てきた言葉に、会長がこちらを振り返る。その目に、声を上げそうになった。どうしてそんなに睨むのか、分からなかった。それでも、俺は、勇気を振り絞った。
 会長に今必要なこと。
 それは、簡単なことだ。俺が証明すればいい、会長は疑われるような後ろ暗いことなどないと。……例え事実だろうが、嘘だろうが、それでも、会長が後ろ指指されるよりかはましだ。

「俺、明日……志木村先輩に話しに行きます。だから、会長は……」

 心配しないでください、と言い掛けた、その時だった。バン、と顔のすぐ傍で破裂音にも似たそれが響く。驚いて顔を逸らせば、ドアを殴りつける会長の腕が視界に入り、体が凍り付く。視線を戻そうとしたとき、すぐ目の前には会長がいた。

「ぁ、あ、あの……?」
「今、なんと言った?」
「……え?ぁ、あ……俺はただ、その……志木村先輩に会長のことを」

 言い終わるよりも先に、肩を掴まれ、その痛みに体が強張った。どうして会長がそんなに怒ってるのかが分からなかった。ただ、俺は、このままでは会長がリコールされると言うからそれを撤回してもらうために直談判に行くと言っただけだ。それのなにが、会長の気に障ったというのか。

「君は余計なことをするな」
「よ、けいなことって……」
「自分の始末くらい自分でする。それともなんだ、俺のことが信用できないのか?」
「……ッ、そういうわけじゃ……」
「ならばいいか、これ以上口を挟むな。……君は、ただここにいればいい。余計なことは考えるな」

 それは、その言葉は、やけに冷たく響いた。
 ああ、そうか。会長は、俺が何かをすることが気に入らないのだろう。
 それが相手の思惑通りだと分かっていても、会長はそれを許さない。何故、そんなことに囚われる必要があるのだろうか。
 俺は、別に会長のことを裏切るつもりもない。寧ろ、ただ、会長を助けたい。そう思っただけなのに。
 会長は、それ以上は何も言わなかった。俺が何も言い返さないでいると、納得したように部屋の奥へと歩いていく。
 そして、そのまま洗面室へと入っていった。俺は、暫くドアの前から動けなかった。
 このままでは、志木村の思惑通りになってしまう。
 けれど、あの様子では会長は俺が志木村の元へ行くことを認めてくれないだろう。それが、会長のためだとしてもだ。
 そんなに俺は信用ならないのだろうか。裏切って、会長のことを売ると思われてるのだろうか。
 無理もないと思う。長い間縁のところにいたのも事実だ。けれど、それでも、少しも信用されていないというのはやはりくるものがある。

 けど、このまま本当に会長に任せてていいのだろうか。
 志木村は明日までと期限付けている。会長がどうこうするつもりがない今、自分の首を締めることになるのではないだろうか。
 不安になる。もし、俺のせいで会長が会長でなくなると思うと、ただただ申し訳が立たない。
 会長はああ言っていたが、やはり、俺はこのまま見過ごすことは出来ない。
 会長に怒られるような真似はしたくなかった。けれど、それでも何もせずただ会長が追い込まれるのを見てるだけでいるよりは……ましだ。それに、俺が翌日ちゃんと教室へと登校すれば問題がないはずだ。
 会長を裏切るわけではない。信じていないわけでもない。
 俺は、それが会長のためだと思っていた。思いたかった。そうすれば、怒られるだろうが少しは会長の助けになる。そう、信じていた。

 ◆ ◆ ◆

 夜。
 ろくに食事も水も口にせず、ソファーに腰を下ろしたまま何かを考え込む会長に、飲み物くらいはと水を注いで運んだとき、会長と目が合った。

「あ……あの、喉、乾いたと思って……」

 よかったらどうぞ、とテーブルの上にグラスを置く。そのままそそくさと立ち去ろうとした時、「待て」と呼び止められた。

「そこに座れ」

 それは、命令だった。体が強張る。俺は、考えるよりも先に言われるがまま、会長の隣に腰を下ろした。酷く、緊張した。隣に会長がいる、少し手を伸ばせば触れるような距離。
 別になんて意味はないと分かっていたが、それでも、近くにいる会長に反応してしまうようだ。我ながら浅ましいとは思う。弾む心音、会長に聞こえませんようにと必死に押さえ込みながら、俺は、手持ち無沙汰を誤魔化すように、グラスを乗せていたトレーを膝の上に置いた。

「あ、あの……何か……」

 静まり返った室内に、自分の鼓動がやけに煩く響いた。
 このままでは、変に思われそうだ。俺は、なるべく平静を装って会長に尋ねる。けれど、会長は何も答えない。ただ、俺の方を見るのだ。じっと、何かを思案するように。

「か、いちょ……」

 もしかして、悟られたのだろうか、俺が考えていることが。
 バクバクと響く心音。手汗をジャージの裾で拭う。会長、ともう一度その名を口にした時、ぽすりと、会長が凭れ掛かってきた。
 肩に体を預けるように凭れ掛かってくる会長に一瞬、口から心臓が飛び出しそうになる。

「かっ……会長?」
「……君は、温かいな」
「え……ぁ、あ……ありがとう、ございます」
「……」
「……」

 それっきり、会長は何も言わなかった。ただ無言で俺に体重を預け、目を瞑った。……瞑った?

「……会長?」

 もしかして、眠たいのだろうか。
 何も答えない会長に、俺は恐る恐る視線を会長に向けた。すると、程なくして寝息が聞こえてきた。
 まさか、本当に眠るとは思っていなかった。それにこの速さ。……最近会長の眠ってるところ見てないと思ったが、もしかしたら寝不足だったのだろうか。言われてみれば目の下にも隈が浮かんでいる。
 肩から伝わってくる会長の呼吸が、体温が、……今だけは心地よく感じた。緊張しないと言えば嘘だ。
 けれど、それ以上に、こうして自分の隣で無防備に眠りにつく会長を嬉しく思う自分もいた。
 会長を、助けたい。
 会長が俺のことを嫌おうが、構わない。それでも会長が一人で背負い込んでは苦しめられるのを一人指咥えて見てることは出来ない。
 会長の寝顔を見て、一層その気持ちは確かなものになる。
 
「……会長……」

 甘えてばかりで、頼りっぱなしだった。それが会長の望む姿だとしても、俺は、これ以上会長が誰かに責められるのは見たくなかった。
 会長のような人は、絶対に生徒会長じゃなくちゃいけない。全生徒の代表でなければならない。それが、芳川会長だ。俺が憧れ、信じ、救われてきた姿だ。
 俺は、眠ってる会長の手にそっと触れる。冷たい指先。見た目よりも骨っぽく、がっしりとした指。
 今思えば俺は、会長に一人の人間として認められたかったのかもしれない。ただの擁護対象ではなく、一人の、齋藤佑樹として会長の隣にいたかったのかもしれない。
 思いながら、俺は目を瞑った。
 一人で眠る冷たいベッドよりも早く、眠りにつくことができたのは会長がいたからだろうか。
 緊張するのに、それ以上に、その背中に安心するのだ。
 目を覚ました時、会長の姿はなかった。
 既に日の上がった窓の外を見て、朝だと確認する。
 寝ぼけ眼を擦り、俺は洗面室へと向った。顔を洗う。芳川会長の姿は洗面室にも風呂場にもなかった。つまり、部屋を出るなら今だと言うことだ。

「……」

 制服は、縁の部屋にあるはずだ。縁の部屋に行けば、協力してくれるはずだ。
 けれど、芳川会長は怒るだろう。分かってはいるが、何をされるか分からないだけに酷く、不安になる。けれど、ここで立ち止まったらそれこそ、取り返しのつかない事になる。

「っ、よし……」

 両頬を叩き、喝を入れる。頬はヒリヒリと傷んだが、その痛みが俺を勇気付けてくれる……そんな気がした。
 とにかく、会長が戻ってくる前に……。こそこそと玄関口へと向う。
 そして、そのドアノブに手を伸ばしたその時だった。
 目の前の扉が、勢い良く開いた。
 全身が、凍りつく。開いた扉の向こう、立っていたのは芳川会長……そのひとだった。

「こんな朝からどこに行くつもりだ」

 喉が、焼け付くように乾いた。変な汗が滲み、止まらない。伸ばしかけた指先が、目的を失い、引っ込めることも出来ずにそのまま固まった。
 芳川会長の目は、冷ややかだった。それどころか、滲み出る怒りの色に、呼吸が浅くなる。
 やばい、やばい、やばい。早鐘打つ心臓。俺は、咄嗟に言い訳を考える。けれど、突然の出来事に真っ白になった頭は何も考えられなかった。

「っ、会長……」
「そっちは便所じゃないぞ」
「ぁ、あの……その……ッ」

 額から汗が流れる。
 玄関口へと上がる会長。後退り、慌てて距離を取ろうとするが、胸倉を掴まれ、強引に引き寄せられた。そして。

「貴様……逃げようとしたな」
「……ッ」
「俺に、嫌気が差したか。それとも……あの男が恋しくなったのか?」

 額同士がぶつかる。痛みを感じる余裕もなかった。唇に吹き掛かる息。
 会長に睨まれれば、何も考えられなくなるのだ。けれど、会長は誤解してる。俺は、縁の元へ帰りたいなんて思っていない。俺は、必死に首を横に振り、否定した。

「っ、違います……このままここにいたら会長に迷惑になるし……会長がリコールされたら……ッ」

「俺は気にするなと言ったはずだが……記憶違いか?」

 こうなったら、ちゃんと話そう。そう思うのに、会長の怒りは消えない。それどころか、滲む殺気は先程よりも濃くなっているのが肌でも感じるようだった。
 確かに、そう言われた。けれど、それでも、と口籠った矢先、思いっきり壁に叩き付けられた。壁に背骨がぶつかり、呻く。鈍い痛みに、目の奥がチカチカと光った。

「ぅ、ぐッ」
「それとも、俺のことがそんなに信用できないのか」
「違……ッ!」
「人を愚弄するのも大概にしろッ!!」

 違います、と言う声は会長の怒声に掻き消された。
 体が、無意識に震えた。冷たい汗が背筋から伝い落ちる。
 怖い、怖い。怖くて堪らなくて、足が震える。それでも、会長の手は離れない。首元が締め付けられ、息苦しい。それ以上に、憎悪に満ちたその目に、聞いたこともない声に、何も考えられなくなる。

「貴様が俺の傍から離れることは許可しない。誰がなんと言おうと、貴様を手放すことはない」
「っ、……」
「少しは自分の立場を理解したと思っていたが……また、叩き込まないといけないようだな、その頭に」

 その目に、言葉に、足が竦む。
 また、あんな目に遭わされるのか。数日前、頭がおかしくなりそうなくらいの苦痛を覚えたあの夜の記憶が、痛みが蘇り、無意識に後退った。ようやくあの日の跡もなくなり、以前のように動けるようになったというのに。
 嫌だ、と会長から逃げようとする。が、この距離で逃げられるはずがなかった。

「ぁ、や……会長……ッ」
「来い」
「や……ッ」
「いいから来いッ!!」

 胸倉を掴まれ、引き摺られる。足が縺れ、転んでも床の上を引き摺られて、無理矢理ベッドへと放り投げられた。
 俺の体重に耐えきれず、スプリングが大きく軋む。シーツの上、仰向けに倒れ込む俺の上、馬乗りになった会長に腕を無理矢理捻り上げられる。
 関節が軋み、堪らず声を漏らした。
 会長は、本気だ。脅しなんかじゃない。本気で、俺に、裏切られたと思っている。

「か、っ会長、お、俺は、会長を裏切るつもりはないです……ッ、ただ、俺は……」
「どいつもこいつも口ばかり……ッ、俺が信用できないのなら最初からそう言えばいいだろうが!」
「っ、違っ、会長、そんなつもりは……」

 ありません、と声を上げるよりも先に、ネクタイを引き抜いた会長はベッドフレーム、そのパイプ部分に思いっきり俺の手首を結び付けた。
 しまった、と思ったときにはもう遅い。血が止まりそうなくらいキツく結ばれたそこは腕を動かしただけではびくともしない。もう片方の手で解こうとするが、それもすぐ、会長に掴まれ、邪魔される。

「かっ、会長、外してください……っ、こんな……」
「言っただろう、躾が必要だと」

 躾。それは、人間に対して使われるものではない。
 血の気が引く。逃げ出したいのに、片腕だけではまともに動けない。バタつく俺を見下ろしながら、会長は制服の内ポケットから何かを取り出した。それは鮮やかな色のカプセル剤のようにも見えた。
 それを自分の舌の上に乗せる。突然の会長の行動が読めず、狼狽えていたとき。

「な、にを」

 言い掛けた言葉は、唇に塞がれる。重ねられ、その感触に気を取られた瞬間、会長の舌からカプセルが喉奥へと押し込められる。唾液ごと飲ませるように流し込まれるそれは俺の意思に反して喉を通り、体の奥へと落ちる。

「……っ、ん、ぅ、ん……!」

 異物感。確かに何かを飲まされたその恐怖に血の気が引く。唇はすぐに離れた。青褪め、自分の口の中に指を突っ込もうとするが、仰向けの体勢では吐き出すことも儘ならない。咽る俺を見下ろし、会長は目を細めた。

「安心しろ、致死量にも満たない毒薬だ」
「……ッ!」
「この量ならただ全身の神経が過敏になり、脳が錯覚起こして外的刺激が通常の数十倍に受け取るくらいだろう」

「そうだな、例えば……少し指の腹で突いただけで太い槍に皮膚を突き破られ内臓ごと引き摺り出されるような…そんな風に認識する……なんてことない、ただの物好きのお遊び用だ」なんてことはない、と会長は笑いながら俺の腹部、臍の上を指でぐ、と抑える。その感触はいつもと変わらない。けれど、会長の言葉を聞いたからか、いつも以上にその指先の感触が強くも感じた。

「何をそんなに震えてるんだ?……顔を上げろ、君が自分を信じて取った行動だろう」

「……俺をコケにしてまであいつらを選んだんだ、それなりの覚悟は出来てるんだろう?」絶対零度の体温を感じさせないその目に、声に、目の前が真っ暗になる。
 会長は、本気だ。
 ごめんなさい、と言おうとしても、上手く舌が回らない。得体の知れない恐怖が込み上げ、思考回路を支配する。指が、喉が、爪先までも震えた。

「まさかな、俺が貴様の愚行を許すなんて甘いこと考えてはないだろうな」

 その笑みに、据わった目に、体が凍りついた。シーツの上、身体を攀じれば、皮膚の下、布の感触がやけに硬く感じた。

「ぁ、あ……ぁ……っ」

 おかしい、と思ったときには、手遅れだった。流れる汗が、自分のものとは思えないほど熱かった。まるで血管から血液が溢れ、皮膚から外部へと押し出され、流血するかのような、違和感。

「ご、めんなさい……」

 奥歯がやけに煩い。心臓の音も、部屋いっぱいに響いてるようなそんな錯覚を覚えた。目が回る。手首を動かせばそこが千切れそうなくらいネクタイが食い込み、息が止まった。
 会長は、本気だ。そして、会長が言ってることも全部本当なのだろう。
 現に、現れた自分の身体の違和感に俺は、全てを悟った。
 会長は、笑った。それは、俺が今までに見た笑顔とは違う、凶悪で冷徹な笑み。

「効能は一時間だ。六十分、生きながらも死ぬ程の激痛を体験できるわけだ。なかなかできない体験だぞ」
「ゃ、会長 ……ッ」
「中には脳が現実の痛みと錯覚して殴られて死亡した人間もいるらしいが……安心しろ。死なない程度のギリギリの分量を用意した」
「……っ、ご、ごめんなさ……」
「俺を裏切って、ただで済むと思うなよ」

 会長の手に握られてるそれを見て、俺は今度こそ目の前が真っ暗になるのを覚えた。棒状のそれは、教鞭かと思ったが、違う。革で編み込まれたような太くしっかりとした一本のそれは、鞭だ。
 ……笑えない。笑えるはずがない。
 そんなもので叩かれてみろ。想像しただけで、生きた心地がしなかった。

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