天国か地獄


 07

 気が付けば、ベッドに寝かされていた。
 どれほどの時間が経ったのだろうか、窓の外は既に真っ暗だった。
 薄暗い部屋の中、起き上がろうにも指一本動かすことが出来なかった。

 もしかしたら全部夢だったのかもしれない。
 そう考えたりもしたが、この全身の倦怠感が全てを物語っている。腰が鈍く痛む。何も入れられていないはずなのに、身体の中、捩じ込まれる異物感が拭えないのだ。
 辛うじて動かせる眼球で辺りを見回す。
 芳川会長の姿はなかった。どこかに行ってるのだろうか。
 そう分かった途端、全身の緊張の糸が切れる。ぼろぼろと、枯れたと思っていたはずの涙が止めどなく溢れ、流れていく。
 心臓が、痛い。体も、心も。

「っ、うぅ……うう……」

 本当なら、喜ぶことのはずなのに。傍にいろと言われ、唇を重ねられ、求められる。相手も自分のようにそんな想いを抱いていた。こんな幸せ、他にないはずだ。と、有頂天になってもいいはずなのに。
 涙が止まらなかった。ただ、辛かった。素直に喜べない状況が。

「……っぐ、ぅぅう……ッ」

 拭うことすら出来なかった。頭までシーツを被り、喘ぐように泣くことしか出来ない。苦痛。ひたすら苦痛。少し動いただけで全身に激しい痛みが走り、声を噛みしめる。

「っ、ふ、……ぅええ……」

 噛み合わない。全部、何もかも。
 それが、ただ辛くて、悲しかった。
 分かっていたことだ、それでも、それでも、少しも耳を傾けられなかった。掴まれた手の感触が、腿の裏の感触が、こびりついて離れない。
 全部夢だったらよかった。思ったところで仕方ないと分かっていても、思わずには居られない。

 芳川会長にどんな顔をして会えばいいのか分からなかった。怖かった。上手く笑える自信がなかった。

 泣いていても仕方ない。どうしようもない。会長は俺のことを受け入れてくれた。こうして、温かいベッドも用意してくれた。それだけで十分じゃないか。自答する。けれど、胸の奥にぽっかりと空いた穴は見てみぬふりするにはあまりにも大きく、深かった。
 起きていても泣くことしか出来ない。俺は、思い切ってもう一度眠ろうとシーツを被り直した。
 そして目を瞑るが、……眠れない。それどころか、直前のやり取りを思い出しては全身が、焼けるように熱くなる。
『俺以外考えられないようにしてやる』
 蘇る言葉に、全身の血液が反応して熱くなり、血管の内側から焼けるようだった。
 ……どうしようもない。会長が本気だとしたら、その思惑は達成されたことになる。良くも悪くも、会長のことしか考えられなかった。

 結局、眠れないまま悶々とした時間が経つ。
 不意に玄関の方から扉が開く音が聞こえてきた。
 俺は、咄嗟にシーツを被り、眠ったフリをした。まともな顔をする自信がなかったからだ。
 静かな足音が近付いてくる。息を殺し、ぎゅっと目を瞑る。
 ベッドの傍に、芳川会長の気配を感じた。

「眠ってるのか?」

 それは、普段と変わらない芳川会長の声だった。一本気で、頑固だけど、芯を持った真っ直ぐな声。
 身体が反応しそうになったが、それを堪え、狸寝入りを続ける。
 芳川会長はそれ以上何も言わず、シーツを掛け直してくれた。それからガサガサと枕元で何か音が聞こえてきたが、束の間、そのままベッドから離れる。

 その間、俺は動くことも、息をすることすら出来なかった。遠くから冷蔵庫の開く音が聞こえた。続いて聞こえてくるのは、飲み物をグラスに注ぐ音。
 聞こえてくる生活音に、会長の一挙一動に、全神経が向いてるのが分かった。

 心臓が煩くなり、汗が滲む。とにかく静かに、気付かれないように、と気張っている内にどうやら俺は眠ってしまっていたようだ。微睡む意識の中、俺は、芳川会長の声を聞いた。電話をしているのか、それはとても小さな声だったがなんとなく、会長が怒ってるのだけは分かった。
 今度は気絶したような眠りではなく、夢を見た。
 芳川会長と一緒に洋菓子屋でケーキを食べる夢だ。向かい側に座る芳川会長は生クリームをたっぷりと塗り込んだショートケーキを食べていて、その先端をフォークで切り取った会長は「ほら、君も食べてみろ」と切っ先を向けてくるのだ。俺は少し恥ずかしくなったが、それでも会長と同じものが味わいたくて「はい」と口を開けた。瞬間、フォークの上に乗ったそれがおどろおどろしい色をした腐ったケーキになる。無数の小虫が沸き、異臭を放ち、中からはどろりと得体の知れない濁った液体が溢れ出す。そこには血も混ざっているようだった。
 咄嗟に後退る俺に、芳川会長は不思議そうな顔をした。「どうした、俺と同じものが食べてみたかったのだろう、何故食べない?」と、そう、不思議そうな顔をした。
 逃げようとしても、逃げられない。椅子はいつの間にか拘束椅子になっていて、手足、腰を無数のベルトが椅子に縛り付けるのだ。
 嫌だ、無理です、と泣き言を口にする俺に、さっきまで優しく笑っていた会長の表情は一瞬にして恐ろしい顔になるのだ。
「逃げるつもりか」と、「自分の理想を押し付けておいて、勝手に幻滅するのか」と。
 俺は、何も言えなかった。けれど、酷く生々しい夢の中、俺は、芳川会長のあの目だけは忘れられなかった。
 怒りと憎悪、それらに混ざって鈍く光るあの目に見据えられると、俺は、会長を突っぱねることが出来なかった。
 夢は、そこで途切れた。正確には、それ以降が思い出せなかった。
 けれど、きっと俺はあのケーキを食べたのではないだろうか。そんな気はした。

 次に目を覚ましたのは、遠くからアラームが聞こえてきたからだ。
 全身の倦怠感はマシになっていたが、それでも起き上がろうとする気にもなれず、目だけを開けばベッドの傍、立っていた芳川会長と目が会い、心臓が止まりそうになる。

「おはよう。……ようやく目を覚ましたか。随分と長い間眠っていたようだが……起きれるか」

 問い掛けられ、俺は、言葉に詰まる。何か返事しないと、と思うのに、言葉の発し方が一瞬、分からなくなるのだ。

「……はい、大丈夫です」

 そう、辛うじて喉の奥から絞り出した声は酷いものだった。枯れ、言葉を発し呼吸をする都度喉全体がひび割れるように痛む。
 それでも、まだましな方なのだろう。無理矢理身体を動かし、起き上がる。そうでもしないと、何をされるか分からないからだ。

「ッ、痛……」
「おい……無理をするな。まだ万全でないなら動くんじゃない、寝ていろ」
「……っ、大丈夫です……俺は……」

 怒られる、と思い、それでも無理にベッドから立ち上がろうとすれば下半身に力が入らず、そのまま床に落ちそうになる。……その寸でのところで、会長に身体を抱き支えられた。

「君がそんな調子でいて、周りに余計な詮索されても面倒だ。今日は一日寝ていろ」
「……はい……」

 会長は、いつもと変わらない。本当に、何事もなかったかのようだった。それでも、身体を優しく支えてくれる手は間違いなく、俺の足を無理矢理開いたものと同じで、条件反射で緊張する。それでも、抵抗しないでいると会長はそのまま俺をベッドに寝かしつけた。

「今朝は会議がある。一人にするが、何かあればすぐに連絡をしろ。……そこのサイドボードに、君の携帯端末を置いてる」
「……分かりました」
「食事は入りそうか」
「……いえ、大丈夫です」
「そうか。一応、サイドボードに一緒に飲み物と食事も用意してる。……腹が空いたら食べればいい」
「……ありがとう、ございます」
「……」

 会長は、それだけを言って部屋を出て行った。
 扉が閉まる音を聞いてホッとした。会長が居なくなっただけで空気が軽くなるのだ。
 俺は……自分が、会長がわからなかった。
 携帯電話、やっぱり会長が持っていたんだ。途中から無くしたと思っていたが……。
 サイドボードはベッドから離れていない。少しだけ身体を起こし、サイドボードに目をやれば会長の言うとおり、そこには色々なものが置かれていた。
 見慣れた携帯端末に、水が入ったメイソンジャー。その横には小皿に置かれたおにぎりが置いてあった。
 会長が作ったのだろうか。冷えないようにラップが掛けられているのを見て、俺は、心臓が酷く痛んだ。
 俺には、会長が分からない。会長が、会長が優しくしてくれる度に心がぎゅっと締め付けられる。
 それと同時に、その優しさを信じていいのか、分からなくなるのだ。
 慣れていないのだろう、形も大きさもバラバラで歪なそれを会長が作ってくれているのを想像して、目頭が熱くなる。
 サイドボードには、もう一つあった。袋に包まれたそれに手を伸ばせば、中には薬用の軟膏とのど飴が入っていた。
 昨日、枕元でガサガサと音が聞こえたが、もしかしてこれを置いていたのだろうか。間違いなく俺宛なのだろう。顔が焼けるように熱くなった。
 俺はそれを再び袋に仕舞い、見なかったことにした。
 会長の気遣い……悪いと思ってるのだろうか。そうは思えない。きっと、会長は俺を自業自得だと思ってるだろう。
 休もう。会長には許可を貰った。今は何も考えたくない。
 再び布団に潜る。身体の疲労感が残っていたお陰か、長時間眠った後にも関わらず再び眠りに付くことが出来た。

 今度目を覚ましたときは、会長が部屋に戻ってきたときだった。
 大きな扉の音に驚いて飛び起きれば、鬼のような形相をした会長がそこにはいた。

「っ、……、ぁ……」
「……」

 おかえりなさい、と言い掛けて、言葉を飲む。会長はそのままソファーに座れば、苛ついたように息を吐き出した。
 会長の機嫌が悪いのは一目瞭然だ。何かあったのだろうか。
 声を掛けないほうがいいだろう……。かと言って、起きてると分かってて無視するのも、会長が気を悪くしそうな気もする。
 どうすることもできず、ただ会長を眺めることしか出来なかった。
 沈黙が、苦しい。時計の針の音がやけに大きく響く。

「ぁ……あの……」
「……」
「……かい、ちょう……」

 元気を出してください?何かあったんですか?……ダメだ。こんなこと聞ける立場ではない。
 気分転換になるような気の利いたことも出来ない、ただ俺は会長に声を掛けようとしては躊躇うことしか出来なかった。
 放っておくのが一番だ。頭では分かっていた。けれど。
 疲れてる会長を見ると、いても立ってもいられなくなるのだ。
 大分楽になった身体を起こし、よろよろとベッドから降りようとする。お茶の一つでも会長に注ぐことができれば、と思ったのだ。けれど、自分が思っているよりも感覚は取り戻せていないようだ。

「っ、う、わ」

 重心が定まらず、よろめきそうになる。咄嗟にサイドボードに手を付いたとき、皿やメイソンジャーを倒してしまった。
 床に落ちるそれらの音に会長はソファーから立ち上がり、慌てて駆け寄った。

「おい、大丈夫か?」
「っ、す……すみません……」
「寝ておけと言ったはずだ、何をしてる」
「……っ、……すみません、でした」

 顔を見ることも出来なかった。
 情けない……結局また会長の手を煩わせてしまうことになっている。
 それでも、駆け付けてくれた会長が嬉しくもあるのだからどうしようもない。

「食事、無理だったか」

 不意に、会長は俺の傍にひっくり返ったおにぎりの入った皿を見て目を細めた。ラップのお陰か飛び出すことは免れたが、思いっきり潰れたそれを拾い上げる。

「……ぁ、あの……それ……」
「なんだ、要らないのだろう。一度床に落ちたものだ、これは処分しておく」
「っ、だ、駄目です……」

 咄嗟に、俺は、会長の手を掴んでいた。
 自分でも考えられないような大きな声に、俺も、会長も、驚く。それでも、口は、身体は、勝手に動くのだ。痛みを無視して、勝手に。

「食べます、から……なので、捨てないでください」
「腹が減ってるのなら別のものを用意する。無理して食べる必要もない」
「……会長が、作ってくれたものだから」
「……」
「……捨てないで、ください……」

 変なやつ、と思われても無理がない。どうしてここまで固執するのか。そう思われてるだろう。
 それでも、俺のために用意してくれた会長の気持ちを捨てるのは、いくら本人だと言えど、耐えられなかった。
 会長は何も言わなかった。「勝手にしろ」と、「後から腹壊しても知らないぞ」とも言った。けれど、そう顔を逸した会長の纏う空気は、さっきよりもほんの、ほんの少しだけ……和らいだような気がしたのだ。
 ただの都合の良い妄想でも、良かった、会長に許してもらえた、その事実だけで良かった。
 お腹は相変わらず膨らんだまま、喉も食道も細くなったままだけど、俺は、歪なおにぎりを食べた。すっかり冷えたそれは強い力で握られているのだろう、潰れて、硬かった。おまけに塩分を控えめにしてくれたのだろうが、控えめにしすぎてろくに味もついていない。それでも、俺は良かった。会長が作ってくれたというだけで、十分だった。

「多めに作ったんだ……別に無理して全部食べなくてもいい」
「……いえ、大丈夫です」
「嘘を吐くな。それで俺に気遣ってるつもりなら、不要だ。素人が作った飯を食べて満足できるとは思えないからな。……ほら、あまり詰め込み過ぎると喉に突っ掛かるぞ。水を飲め」
「……ありがとうございます」

 会長と、普通に会話出来ているこの状況が信じられなくて、同時に嬉しくもあった。ちょっとした俺への気遣いに、酷く胸が暖かくなる。
 現金だと分かってる。騙されてるかもしれないという可能性もある。それでも、いい。そう思えてしまうほど、俺は、会長を。

「風呂、入るか?」
「……え?」
「長い間眠っていた。寝ている間も汗は掻くという。入れそうなら用意するが、どうする」
「……」
「一人が不安なら俺も手伝うが」

 そういうつもりはないと分かっていても、この間のことが蘇り、喉が急激に渇いていく。
 会長と、お風呂。
 断ったところで罰されることはないと分かっていても、それでも、俺は、会長に逆らうことが出来なかった。
 小さく頷き返せば、会長は「分かった。ならば用意する」とその場を離れた。
 バクバクと心臓が騒ぐ。下腹部が熱くなって、目の前が、くらくらする。あの日の熱が、痛みが、蘇るようだった。
 俺は、ストローに口を付け、中の水を一気に喉奥へと流し込んだ。けれど、喉は渇いていく一方で。

「……」

 自分の身体が、自分のものではないみたいだ。まるで意識と噛み合わない。
 必死に下腹部を押さえ付け、俺は昂るそれを落ち着けさせようと試みるが全身を巡る熱量は増すばかりだった。

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