天国か地獄


 04

「生徒会を解体する」

 扉を開けたと同時に聞こえてきた阿賀松の言葉に、俺は、開きかけた扉を閉めた。
 聞いてはいけないものを聞いてしまったような、そんな緊張に掌に汗が滲む。
「どうやって」と、縁の声が聞こえた。
 阿賀松の声は聞こえなかったが、想像ついた。首を掻ききるジェスチャーでもしてるのだろう。縁は「野蛮」と笑う。

「それで、何?戻ってきた裕斗君のために席を空けておくの?」
「そのつもりだったが、あいつ、そんなつもりはねえとか言い出したんだよ。ま、想定内だがな。誰が座ろうが関係ねえ、問題は今あいつが座ってるってことだよ」
「期限は早くしないと、任期満了になっちゃうしな」

 ……ざわざわと胸の奥がうるさくなった。任期満了。芳川会長のことだろう。
 逆に言えば、芳川会長が任期までその場に居続けることが出来れば、会長は、喜ぶのだろうか。
 会長は笑いもせずただ「当たり前のことだ」と言って見せるだろう。そんな気もする。
 俺は、扉を背に座り込んだ。先程まで湯に充てられた身体から急激に熱が引いていく。
 阿賀松が戻ってきて、十勝がここにいる。
 ということは、生徒会はきっと大変なことになってるだろう。俺は、数週間前に十勝がいなくなったときのことを思い出す。それともまた芳川会長が企んでると思うのだろうか。分からないけど、俺は、自分が蚊帳の外であることを改めて思い知らされた。そんな気分だった。
 扉が開く音が聞こえて、遠くで声が聞こえた。遠くなるのは阿賀松の声だった。縁がなにか言っていたが、ぼんやりしていたせいで聴き逃してしまう。

 元生徒会長、志摩裕斗。
 悪い人のようには思えなかった。けれど、あの目。あの真っ直ぐな目は、俺は好きではなかった。
 十勝を、助けたい。そうは思うが、自分の置かれた立場を考えてみる。縁の部屋にお邪魔になってる手前、そんなことをしてみればすぐにバレるはずだ。そうなると、俺にはとうとう居場所がなくなってしまう……。

「齋藤君」

 コンコンと扉が叩かれ、声を掛けられる。縁だ。
 慌てて「はい」と返事をした。

「着替え、そっちある?大丈夫?」
「あ……はい、すみません、大丈夫です」
「そう、よかった。もしかしたら服なくて出てこないのかと思った」

「もう伊織はいないから大丈夫だよ」と縁は笑った。
 やはり、出ていったのは阿賀松だったようだ。その言葉に安堵し、そろそろと扉を開けばそこには縁方人が立っていた。

「仁科先輩は……」
「奎吾も、伊織に引っ張られていっちゃったよ。かわいそうに。これから多分、色々振り回されんだろうね」
「あの、十勝……十勝君は……」
「十勝君?ああ、書記君ならあっちじゃないかな」

 と、部屋の奥を指差す縁。その方向にはクローゼットがあった。血の気が引いた。慌てて歩み寄ろうとすれば、「ストップ」と手を掴まれる。

「あの、十勝君……阿賀松先輩に蹴られて、怪我してたんです……早く手当しないと」
「大丈夫だよ、君がそんな心配しなくても」
「でも」
「手当くらいなら俺も出来るしね」

 確かに、普段から生傷絶えない縁は自分の怪我を自分で手当することもあると言っていた。
 その言葉を聞いて安堵する。

「そう、ですか」
「それよりも、俺は君の体のほうが心配なんだけど。大丈夫?伊織に虐められなかった?」
「あ、は、はい……大丈夫です」

 忘れかけていたのに、散々嬲られた体に阿賀松の手の感触が蘇る。それも、縁に見られてしまった。
 恥ずかしくなって、居たたまれなくなる。伸びてきた手に驚いて、慌てて身を引いた。
 それでも、濡れた髪を撫でられ、雫が落ちる。冷たくなったそれが肩口に落ち、その氷のような感触に体が跳ねた。

「本当に?」
「……先輩?」
「……」
「あ、あの……縁先輩」
「そうか、君は、元々伊織の物だったもんね」

「仕方ないかな」と、溜息混じり、俺から手を引いた縁。
 別に、阿賀松の私物ではない。それに、ここにいたのは、縁に頼ったのは、俺の意思だ。そう伝えたかったのに、「いや、なんでもないよ」と手を振る縁に、言葉すら掻き消される。

「頭、濡れたままだったら風邪引いちゃうよ。こっちに出てきなよ、乾かしてあげるから」
「いえ、あの、自分でします」
「そう寂しいこと言わないで。君にまで冷たくされたらそろそろ俺、本気で凹んじゃいそうだから」

 君にまで、ということは、阿賀松に何か言われたのだろうか。いつもと変わらない様子だが、先程から様子の違う縁を見てしまったせいか、なんとなく放っておけなかった。「それじゃあお願いします」と俺は縁に頭を下げた。
 阿賀松は、志摩裕斗のところに行ったのだろうか。気になったが、縁に聞ける雰囲気ではなかった。
 鼻歌混じり、ドライヤーを指で掛けながら熱風を当てる。髪を撫でる縁の指に不快感はなく、寧ろ、さらさらと髪を梳かすその手は慣れているのだろう、心地がいい。

「齋藤君、君は、まだ芳川君のこと好きなの?」

 不意に、そんなことを尋ねられ、ぎくりと体が震える。
「そんなこと」ないです、と続けようとするが、そう言い掛けた自分の声が酷く震えてることに気付き、言葉を飲む。

「いいよ、本当のこと言っても。ここにあいつはいないんだし、俺と君の二人きりだ。別に、君が芳川君のことが好きだろうがそりゃ残念だけど、言い付けたりしないよ」
「分からないです、俺……」
「分からない?」
「阿賀松先輩が戻ってきて……十勝君も捕まってると思うと、きっと、会長は、会長たちは心配してるんじゃないかって思うと……いても立ってもいられなくなるんです」
「……」
「すみません……こんなこと、縁先輩にも言うべきではないと思うんですけど……ごめんなさい、忘れて下さい」

 縁が優しいからと言って、こんなこと言うべきではない。裏切り行為と変わらないことに気付き、慌てて頭を下げれば、縁は「どうして?」と首を傾げる。

「俺はね、正直芳川君が羨ましくて仕方ないよ。こんなに慕われるなんてね、俺なら絶対、自分の手元に置いて目を離さないよ。得体の知れない相手のところなんて、一分一秒でも二人きりにさせるなんて耐えられない」
「……縁、先輩……」

 耳朶の裏、そっと皮膚を撫でられ、ぞくぞくと震える。温かいのに、寒い。矛盾した体と心に、縁はそっと耳を寄せる。

「芳川君を助けたい?」
「……っ」
「伊織は、本気で生徒会を潰しに掛かるみたいだよ。きっと、皆ただでは済まないだろうね」
「……っ、そんな……こと……」

 分かってた。分かっていた。少なからず、そんな未来がやってくることは、予想していた。けれど、いざ突き付けられると、震えが、止まらない。芳川会長が、会長だけではない、血を流した十勝が過り、血の気が引く。嫌だ。嫌だ。皆が苦しむ顔は、見たくない。

「齋藤君、俺が力を貸すよ」
「っ、え?」

 一瞬、反応が遅れた。意味が分からず、振り返れば、にっこりと笑った縁は俺の手に掌を重ね、きゅ、と手を握ってくる。

「あの、先輩」
「芳川君を助けたいんだろ?俺も、協力するって言ってるんだよ」
「本気ですか?」
「今思い付いたんだけどね。俺も、今回ばかりは伊織には賛同出来ないから」

「あいつのためにご丁寧にイスを用意するなんて」と、口にする縁。その目は見たことないくらい冷ややかで、背筋がゾッとする。
 本気……なのだろうか、縁が芳川会長に加担するとは思えない。けれど、嘘をついてるようには見えなかった。少なくとも、阿賀松に対して呆れてるのは本当のようだ。
 志摩裕斗とは仲がよくない、と聞いていたが、恐らくそれが大部分なのだろう。どこまで信用していいのか分からない。けれど、縁が力を貸してくれるなら心強い。

「……でも、そんなことしたら縁先輩も裏切り者って言われるんじゃないんですか?」
「伊織は最初から俺のことなんか微塵も信じちゃいないよ」

 そんなことありません。なんて軽々しく言えるような立場でなければそんな根拠もない。縁の言う通り、阿賀松は縁のことを心から信用しているかと聞かれればイエスと即答出来ない。
 けれど縁もそれは知っているのだろう。そして、対して問題視しているわけでもない。当たり前のことだとそれを甘受する。そこに卑屈さも微塵も感じさせないのは、それが普通だと言わんばかりの飄々とした縁の態度からか。

「齋藤君、君は芳川君を見殺しにしたいの?」

 その聞き方は卑怯だと思う。そんな風に聞かれて、頷けるわけがなかった。縁に優しくしてもらえれば、いずれ忘れられるだろう。そう思っていたが、時間は待ってくれない。俺は、恐る恐る首を横に振る。

「俺は、会長を……会長たちを、助けたいです」

 それは犯行声明。阿賀松に対して反旗を翻すことの同意となる。それと同時に、縁方人に対しても離反を強要するものにもなる。
 単純明快、俺と縁の利害は一致していた。芳川知憲を助けることにより、阿賀松の企みを阻止する。
 それが善行愚行かは、未だ判断付かない。それでも、縁は笑っていた。「そういうと思ったよ」と言うかのように。


 どこまでが本気で、どこまでが出任せなのだろうか。
 縁は俺に対して甘言ばかり口にする。だから、もしかしたら今回もそうなのかもしれない。そう思っていたが。

「十勝君、大丈夫?」

 クローゼットの扉を開いた縁。その中から、濃い鉄が辺りに広がり、噎せ返りそうなそれに顔を顰めてしまいそうになる。十勝は、ガムテープで口を塞がれていた。気を失いかけていたのだろう。眩しそうに細められた目がこちらを見て、縁を睨む。
 それを無視して、縁は十勝の口に貼られたガムテープを思いっきり剥がした。

「い゛っ」
「あ、痛かった?ごめんごめん、さっさと楽にしてやった方がいいかなと思ったんだけど」
「なんで、お前が此処にいるんだよ。阿賀松は……」
「ここは俺の部屋だよ。そんで、伊織は君放ったらかしてどっか行っちゃったわけ」
「と、十勝君……怪我は」
「……」

 恐る恐る、声を掛ける。手当も何もまともにしてもらえてないはずだ。縁に借りた救急箱を抱え、クローゼットの中から救出された(引き摺りだされた)十勝に駆け寄った。
 十勝の目が、こちらを向く。「佑樹」と、以前のように名前を呼ばれ、俺は、安堵する。あんなことがあったあとだ、俺の顔も見たくないと思われるのではないか。そう思っていたから。

「佑樹……お前、大丈夫かよ」
「……っ、俺は、大丈夫」

 寧ろ、俺の目には十勝の方が大丈夫じゃないようにしか思えない。
 十勝は、俺のことをなんと聞いてるのだろうか。
 ガムテープでぐるぐるに巻かれた腕をハサミで切る。ベリベリと拘束を引き剥がせば、自由になった自分の手を見つめ、それから俺の背後、縁方人を睨み付けた。

「どういうつもりだよ。佑樹を使って何企んでるつもりだ?」

 手負いの十勝の全身から滲み出る痛いほどのそれは警戒心だった。
 それを向けられた縁は、「勘弁してくれ」とでも言うかのように肩を竦め、笑う。

「まあ、企みは否定するつもりはないけど、それよりも自分の怪我を心配すべきだと俺は思うけど?それとも、こんな状況で俺に逆らうほど元気そうなら放置するけど」
「せ、先輩……っ」
「冗談だって、ま、手当するかしないかは君に任せるよ。俺が触ると噛み付かれそうだし」

 縁はそう言って一歩下がった。
 俺だって得意ではないけど、本当に何もしないつもりだろう。俺は、一度十勝をソファーへと連れて行くことにした。その間、十勝の警戒心が解けないので縁には退室を願った。縁はシャワーを浴びてくるとだけ言って、そのまま俺達を残して部屋の奥へと引っ込んだ。
 二人きりになった部屋の中、遠くからシャワーの音が聞こえてきた。
 気まずい……。何から話したらいいのだろうか。
 ぐるぐると巡る思考。傷薬を手に取った俺は、十勝の顔を覗き込む。
 阿賀松に蹴られたときに切ったのだろう。唇の端が切り傷になってる。滲んでる血をガーゼで拭い、俺は、「あの」と恐る恐る口を開ける。そのときだ。
 十勝に腕を掴まれた。手首を取られ、ぎょっとする。
 持っていたピンセットが落ちそうになり、慌てて握り直した。

「佑樹……逃げるぞ」
「っ、え?」
「佑樹いきなり居なくなって、皆何かあったんじゃないかって言ってたんだ。今なら俺達だけだろ?逃げるぞ」

 言うなり、立ち上がる十勝に引っ張られる。俺は、咄嗟に「待ってよ」と声を上げる。

「ま、待って……十勝君」
「待つって、何をだよ。ここてグズグズしてたら、あいつが戻ってくるかもしんねーだろ。早く戻らないと」
「縁先輩は、味方だよ。俺たちを、芳川会長のことも助けてくれるって言ったんだ」

 ここで誤魔化すのはよくない。そう判断した俺は、先程の縁とのやり取りのことを伝えた。
 すると、十勝は、呆れたような、そんな冷めた目で俺を見た。その目には怒りの色すら滲んでるようだった。

「佑樹、お前それ本気で言ってんのか?」

 見たことのない、十勝の怒った顔。あくまで口調は静かだが、だからこそ余計、胸に突き刺さる。

「ほ、本気って言うか……その」
「お前、騙されてるぞ。あいつは平気でそんなことを口にするやつだ。佑樹、目を覚ませよ。お前は騙されてる」

 そんなことはない。……と、言い切ることが出来なかった。
 縁の笑顔が浮かんでは泡沫のように消えた。俺は、縁の甘言に惑わされてるだけなのか。
 けれど、それでも。掌に重ねられた温もりを思い出す。
 あの目は、嘘は吐いていない。

「確かに、ちょっと胡散臭い人だけど……それでも、縁先輩も阿賀松先輩のこと、怒ってたし……そうだ、十勝君のことを助けていいって言ってくれたのも縁先輩なんだよ」

 どうすれば、十勝を安心させられるだろうか。
 必死に考えながら口にするが、一向に十勝の表情は険しくなるばかりで。それどころか、自分に向けられたその視線に憐憫すら感じ取れた。

「お前は、誰の味方なんだよ」

 その一言に、言葉に詰まる。どくりと大きく脈を打ち、汗が流れ落ちた。十勝は俺から手を離すと立ち上がる。「十勝君」と声を掛けるが、十勝は俺を見下ろした。

「会長、お前のこと心配してたぞ」
「……っえ……」
「あいつらと一緒にいるのは分かってた。けど、お前の身に何かがあったら心配だからって何も出来なかった」

「もう、戻ってくるつもりはないのか?」息が、詰まりそうだった。会長が、心配をしてくれていた。
 その事実に、頭がこんがらがって、正常に考えられることが出来なかった。
 会長が、俺を。
 そんなはずは、ない。ないはずだ。だって縁は、芳川会長には交渉も断られたって、言って。

「う、嘘……だ……」
「嘘じゃねえよ」
「だって、先輩が、会長は俺のことを見限ったって……言って……それで、俺……」
「騙されてんだよ、佑樹。お前」
「……ッ!」

 ガラガラと音を立てて足元が崩れ落ちていく。そんな錯覚に襲われる。汗が止まらない。震えも。
 だとしたら、俺は何故ここにいるのか。会長に捨てられて、行く宛もなくて、それで、俺はここにのうのうと何日も過ごしていた。その間、会長は俺の事を心配していた?……なんだよ、それ。なんだよ、だとしたら俺が今までしてたことって?

「……おかしいと思ったんだよ、お前は手足を縛られてるわけでもねーのになんでここにいるのかって。だって、いつでも逃げられるのに」
「……ッ、……俺は……」

 心の中では芳川会長を信じきれていなかった?
 言葉にすると、より残酷にその言葉は響く。甘言垂れていたのは俺の方だ。裏切られることを何よりも嫌う芳川会長に、俺は、なんてことを。震えは吐き気となり込み上げてくる諸々を飲み込む。
 十勝は俺の手をぎゅっと握った。

「……逃げるぞ。んなところに佑樹一人残して帰れない。佑樹だって会長のこと嫌いになったわけじゃないんだろ?」

 そんなわけがない、と首を横に振る。嫌われたとしても、俺は、簡単に会長から与えられた恩恵を忘れることはない。

 十勝の言う通り、逃げようと思えば逃げられた。けれどそうしなかったのは、俺にはここしか居場所がなかったからだ。
 けれど、芳川会長が、俺の帰りを待ってくれていたとしたら?……ここにいる必要はあるのか?
 縁の笑顔が、過る。胸の奥がざわつき、熱いものが溢れ出した。何を躊躇ってる。十勝の手を掴めばいい。簡単だ。
 腕に、指先に力を込め、十勝の手を取ろうとする。けれど、そこで気付く。自分の手が汚れているのことを。手だけではない。捨てられたと勝手に思い込んでこの部屋で何度も縁を代替にしては唇を、肌を重ねた。その行為の痕は体の奥まで染み付いている。
 俺は、芳川会長に合わせる顔を持ち合わせていない。

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