天国か地獄


 15

 どれくらい時間が経ったのだろうか、袋を両手に下げた仁科が戻ってきた。
「お前がどういうの好きなのか分からなかったから」と言って手渡された袋の中にはいくつかののど飴が入っていた。
 横から覗いた縁が「俺、これ欲しいな」とか言ってレモン味の袋を奪っていく。飴食べれるのかと思っていたが、案の定仁科に留められていた。

「方人さん、今日は一日大人しくしてて下さい」
「ええ、暇だなぁ」
「……何もするなとは言いませんが、いつも通りにしてて後から泣きを見るのは方人さんですよ」
「わかったよ。それじゃ、齋藤君に今日一日俺のお世話してもらおうかな」

 突然話を振られ、「えっ」と凍りつく。
 それは仁科も同じで、呆れ果てたように息を吐いた仁科は「あのですね」と念を押した。

「齋藤……こいつも具合悪いんですよ」
「なら俺が齋藤君の面倒見ればよくない?問題なくね?」
「……今日は、俺がお二人の面倒見させていただきます」
「えっ?奎吾が?まじ?やったー!」
「…………」

 大袈裟に喜ぶ縁に、仁科はなんとも言えない顔をしてる。本当にそう思ってるのか?と疑ってるようにも見えた。
 でも、縁ほどではないかもしれないが、俺も仁科がいてくれるとなると正直、心強い。
 ただ単に縁と二人きりになるとどうも、普通でいられなくなってしまうからか。自分でも自分がよくわからなかったが、仁科の提案に俺は確かに安堵していた。

「方人さん、本気でそう思ってますか」
「二割ね。せっかく齋藤君と二人きりに水を差されるのは残念ってのが八割。けど、それが齋藤君にもいいのは確かだしね」

「多分、今の俺じゃどうしようもないし」と縁は笑う。
 縁はいつも調子のいいことばかりを言っているという偏見を持っていただけに、驚いた。
 それほどまでに弱ってる……ように見えなかったが、やはり、弱気になってるということなのだろうか。
 仁科は「そうですか」とだけ答えるが、その表情には僅かにだが驚きの色が滲んでいるのがわかった。

 というわけで、思わぬ形で縁との同室生活が終わることになったわけだが、仁科がいるだけでも大分、楽になった。というのも、基本俺と縁は別々のベッドで休んで、仁科がせっせと水を用意してくれたり濡れタオルを持ってきてくれたりするお陰でまず身体的な負担が軽減される。
 そして何より、仁科の手前縁も大人しくしてることが一番大きいだろう。ベッドに腰を下ろし、点けっぱなしになったテレビを眺めては頻繁にリモコンでチャンネルを変える縁は退屈そうだが、それでもわざわざ俺にちょっかいかけてくることはなかった。

 俺は、仁科に甘えておとなしく横になっていた。縁といると、良くも悪くも意識してしまって心身から休まることはなかった。だからだろう、油断しきっていた。
 うつらうつらしていた意識の中、遠くで仁科と縁の声を聞きながら俺は眠りに落ちる。
 本格的に熱が上がってきたのは、深夜、時計の短針が十二時を回った頃だった。
 内側から焼けるような熱に目眩と吐き気を覚えながら、体を起こす。喉が酷く乾き、口の中が乾燥のあまりにくっつきそうなそんな気すらした。
 部屋の中は暗い。縁も仁科も眠ってるのだろうか、電気の消えた部屋のどこからか寝息が聞こえた。
 霞む視界の中、手探りで壁を伝いながらやってきた冷蔵庫の前。水のボトルを撮ろうとすれば、想像以上に指先に力が入らず、床の上にボトルごと落としてしまう

「……齋藤か?」

 聞こえてきた声は、仁科の声だった。

「……すみません、あの、起こしてしまって……」
「謝るな。……飲み物だろ?用意するからそこに座ってろ」

 そう仁科が言ったと同時に、リビングの照明が点く。仁科が点けてくれたのだろう。俺の代わりにボトルを拾った仁科は、グラスを用意してくれた。
 俺は、素直に甘えることにした。正直、今は真っ直ぐ立っていることも辛かった。

「顔が赤いな。熱も、さっきより悪化してるみたいだな。頭痛むか?喉は?」
「……頭は……奥の方が、ズキズキします……それと、喉も、痛くないんですけど……なんか、もやもやして……」
「……そうか。もう一度薬飲んでおいた方が良さそうだな」

 そう言って、俺の額から手を離した仁科は体温計を俺に手渡してきた。測れ、ということなのだろう。俺はそれを受け取り、言われた通り測ることにする。
 静まり返った部屋の中。ひどく電球が頼りなく感じる。
 いつもならまだ縁がテレビを見てる時間だからか、やけに部屋の中が静かだった。
 俺は、沈黙を紛らすようにグラスの中の水に口を付けた。喉を通り抜ける冷水に体が、意識が、生き返るようだった。

「あの、ありがとうございます。……水」
「いや……気にするな。お前も、最近色々大変だったろ」
「いえ、そんな……」
「方人さんの怪我、なにか聞いてないか」

 唐突な仁科の問い掛けに、俺は、言葉に詰まる。
 仁科も縁に直接聞きはしなかったが、やはり、気になっていたようだ。真剣な顔した仁科に尋ねられ、俺は、すぐに反応することが出来なかった。

「……俺も、詳しいことは……すみません」
「いや……知らないなら良いんだ」
「……けど、あの、……縁先輩が出掛ける前に……誰かと電話してたんです……」

 言っていいのか迷ったが、相手は仁科だ。純粋に心配してる仁科に隠し事をするのもいたたまれない。
 俺は、知ってることを仁科に伝えることにした。
 それがただの考えすぎかどうかなのかもわからない、それでも少しでも力になれればと思ったのだ。

「電話?」
「……相手まではわからなかったですけど、それで部屋を出ていって……昼間までずっと戻ってきませんでした」
「戻ってきたときには、怪我してたってことか……」
「すみません、俺、何も知らなくて……」
「……気にするな、お前に何も求めてない」

 きっと、俺が気負わないためにと言ってくれたのだろうが、仁科の言葉は俺の胸の奥まで深く貫く。
 期待されてない。
 当たり前だと思う反面、役立たずな自分が申し訳なくて、何も言えなかった。そんな俺に気付いた仁科は「悪い、そういう意味じゃなくてだな」と口をモゴモゴさせていたが、やがて、諦めたようだ。「気にしなくていい」とだけ言ってくれた。
 それから、薬とのど飴もくれた。
 まずは薬を飲んだ時、体温計から音が聞こえてくる。
 熱は案の定上がっていた。38.4°。表記された数字を見た仁科は眉間に皺を寄せ、それから「無理に喋らせて悪かったな」と、俺の額の汗をタオルで拭ってくれる。
 人に触れることには抵抗があった。けれど、弱っているからか、それとも仁科の手が優しいからか、仁科に触られることには嫌悪感は覚えなかったのが不思議で仕方なかった。

 俺は、仁科から貰ったのど飴を口に入れて、ベッドへ戻る。はちみつ入りりんご味、と袋には書かれていたが、正直俺にはなんの味かわからなかった。おそらく高熱のせいで器官が正常に機能してないのだろう。
 ベッドまでついてきた仁科は俺が横になったのを確認して、布団を掛け直してくれた。

「熱冷まし、替えるから少し我慢しろよ」

 そう言って、前髪を除けた仁科の指先は額にくっついていた熱冷ましシートを剥がす。
 熱をたっぷり孕んだそれがなくなり、少し物足りなさを覚えたとき、今度は氷のように冷たいシートが額にそっと貼られた。俺は少しびっくりしたが、仁科にそっと頭を撫でられ、すぐに目を閉じて眠る体勢に入った。

「……おやすみ。今度喉渇いたら俺を呼んでいいぞ。そこのソファーに寝てるから」

 縁の眠りを妨げない程度の声量は心地良かった。熱に浮かされた俺にはやけにふわふわと聞こえたが、それでも頷き返すことは出来た。頭が揺れるように痛む。

 その日、夢を見た。
 砂漠をひたすら歩いている夢だ。焼けるような砂を裸足で踏み締めていく。どんどん歩く度に俺の足は砂の中へ沈んでいって、最後らへんは俺の腰ぐらいまで飲み込んでいくのだ。
 このまま俺は死ぬんだろうなとぼんやり考えていると、足元で縁の声が聞こえた。「無理して進む必要はないよ」と、「苦しい思いしてまで生きるよりも死んで楽になった方がよくない?」と、そんな甘言ばかり投げかけてくるそれは縁の声帯を持った蠍で。
「俺なら君を助けられるよ」そんなことを言う蠍に、俺は、何かを言おうとした。それが「結構です」なのか、「それじゃあ、お願いします」なのか分からないが、それでも何かを言おうとしたのだ。そこで、夢は途切れる。

 今度目を覚ました時は、全身が汗でぐっしょりと濡れていた。けれど、夜中覚えた目眩や熱や頭痛はなく、ただ、体やけに軋んだ。

 爽やかな朝、ソファーに腰を下ろして朝の占いを見ていた縁は「おはよう、齋藤君」と笑った。縁の顔の腫れも引いているようだった。けれど、痣は広がって色が濃くなってるのが分かった。俺は「おはようございます」とだけ答えた。そのときにはもう見た夢のことなんて俺の頭からすっ飛んでいた。

「おはようございます……あの、怪我は……」
「そんなに俺が弱ってるように見える?」
「み、見えません……」
「ならそういうことだよ」

 縁方人は相変わらずだった。
 何も変わらない。いつもと同じ一日が始まりそうな、そんな気がする程に変わらなかった。
 ただ一つ、この部屋に俺と縁の他にも仁科がいることを除いてだ。

「齋藤、もう少し横になってた方がいいんじゃないのか」

 水が入ったグラスと錠剤を持ってきた仁科は、それらをサイドボードに置く。準備がいいというか、気が利くというか。仁科が元々そういう気回しする人間なのか、それとも阿賀松と一緒にいるとそういう風になってしまうのか。気になったが、聞くのも怖い。俺は「大丈夫です」と断って、グラスを受け取った。
 気怠さぐらい、なんてこともない。それよりも。

「奎吾、俺にも飲み物頂戴」
「わかりました、水でいいですね」
「いいよ」

 なんてやり取りをして、仁科は冷蔵庫の元へと戻る。
 縁はというと立ち上がるなり、俺のベッドの横までやってきて、どさりと腰を下ろした。
 いきなり距離が近くなり、びっくりして「あの」と縁の方を見たとき、頬に縁の唇が触れた。
 何を、と慌てて離れようとしたら、「前向いてないと、バレちゃうよ」なんて言って俺の耳元に息を吹き掛ける。
 ここまで近付いてバレるもクソもないのではないかと思ったが、確かに仁科から見れば縁がただ近付いてるようにしか見えないかもしれないが、それにしてもだ。

「先輩……いい加減に……」
「今日、一日奎吾のことを頼んだよ」

 一瞬、縁の言葉の意味が分からなかった。何を言い出すのか、それも、このタイミングで。
「どういう意味ですか」と、聞き返そうとした時だった。

「ま、方人さん、何やってんすか……!」

 露骨に俺に迫ってる縁に気付いた仁科が、慌てて止めに入る。
 縁は「ただ隣に座っただけだろ」と笑いながら手を振って、それから仁科が用意してくれた水に口を付けていた。
 今日、何かが起きるというのか。それも、仁科にではなく俺に伝える縁に、ただならぬ嫌な予感を覚えた。
 どうしてそんなことを言うのだろうか。聞こう聞こうと思ったが、その場に仁科がいるのもあってか、中々踏み出すことはできなかった。

 縁はそんな俺に気付いてるのか気付いていないのか。それとも気付いてて気付いていないフリをしてるのか。
 結局、詳しく話を聞き出すこともできないまま日は昇る。

 今日は休日。授業はない。
 学生寮は朝から休みを持て余してる生徒で賑わっているようだった。それは、外から聞こえてくる楽しげな声で分かった。

「方人さん、どこ行くんですか」
「買い出し。何か食べたいものある?」
「買い出しって……そんなの、俺が行きますよ。方人さんは休んでてください」
「齋藤君ならまだしも、俺は別に元気だからね?相手間違えんなよ」
「……す、すみません……けど……」

 言い淀む仁科の腕を掴み、縁は無理矢理仁科をソファーに座らせる。「いいからいいから」と、そんないつもと変わらない調子で。
 俺は、正直仁科と同じ気持ちだった。縁はああ言ってるが、ちょっとやそっとであの腹部の傷が治るとは思わない。けれど、縁は仁科を庇ってるのだとしたら、頑なに仁科を外に出さない理由も納得できた。
 だから、俺は。「俺、縁先輩の得意料理が食べたいです」なんて適当なことを言ったんだ。縁は少しだけ呆けた顔して、それから「りょーかい」と無邪気に笑った。久し振りにみたその笑顔は普段の縁よりも幼く見えたのは気のせいだろうか。
 仁科は、最後まで何か言いたそうだったが、それを言われる前に縁は部屋を後にした。
 縁がいなくなった後の部屋の中、仁科の小さな溜息が部屋の中に響いた。

「大丈夫かな……あの人」

 心配で仕方ないといった様子の仁科。
 無理もないが、縁が心配してるのが仁科だと知った今、なにも言えないのがただもどかしい。

「大丈夫ですよ、多分……ほら、あの、本人もそう言ってましたし……」
「……本当にそう思うのか?」
「……え」
「方人さんの歩き方、いつもと違っただろ。……足の裏くっつけて、あんま体に響かないように歩いてた。……多分、どっか怪我してんだよ、顔以外に、手足は普通に伸ばしてるようだったから恐らく……腹か、胴体か」
「……ッ!」

 やっぱり、気付いていたのか、仁科は。それで敢えて何も言わなかったのか。
 正直侮っていた。けれど、分かってても尚、縁の意志を尊重していたのか。

「……すみません」
「お前、知ってたのか」
「……昨日、先輩が傷だらけで帰ってきたとき……手当を手伝ったんです。そのとき、お腹に切り傷を見つけて……」
「……っなら、どうして……いや、あの人のことだ、どうせ口止めしてきたんだろ」

 頷き返せば、仁科はまた、先程よりも深い溜め息を吐いた。

「まあ、買い出しくらいなら大丈夫だろうけど……」
「そ、そう……ですね」
「……」
「……」

 とは言ったものの、心配になってくるのも事実だ。
 どんだけ大怪我を負ってもニコニコ笑ってそうな縁だが、縁も人間だ。もし、何かがあったらと思うと、落ち着かない。

「……やっぱり、俺、ちょっと様子見てくる」

 十分も経っていないだろう。やはり、我慢ならなかったようだ。そんなこと言いながら玄関口へと向かう仁科を、俺は慌てて止めた。

「齋藤?」
「あ、あの……仁科先輩は、ここにいた方がいいと思います……」
「は?」
「ええと、その……もし、何かがあったら……その……大変なので……」

 縁が気になる気持ちは同じだが、それでも縁の言いつけがある今、仁科を危険な目に遭わせることは避けたかった。そして、そこまで言ってから気付いた。縁方人の真意に。

『今日、一日奎吾のことを頼んだよ』

 蘇る縁の言葉に、笑顔。縁は、仁科の身に何か起きるとは一言も言っていない。
 けれど、それがそうだと俺が勘違いしたのは、縁が仁科ではなく俺にわざわざ告げてきたからだ。

 もしかして、と、俺は咄嗟に、仁科から手を離した。縁が危惧していたのは、仁科の身ではなく、『今日、自分の身に何かが起きる』という可能性ではないのか。
 そう理解したと同時に、頭から血が引いていくようだった。俺は、慌てて部屋を出ようとして、仁科に「おい!」と腕を掴まれる。

「に、仁科……先輩……っ」
「どこ行こうとしてんだよ、そんな体で」
「あの、俺……すごい、勘違いしてたかもしれなくて……それで、早く……縁先輩のところに……っ!」
「おい、何をそんなに動揺してるんだよ。落ち着け、深呼吸しろ、深呼吸!」

 軽く肩を揺すられ、ハッとする。目の前には心配した仁科の顔があって、心臓が、酷く煩かったのだけは覚えてる。

「……齋藤、ゆっくりでいい、説明しろ」
「……っ、ありがとう……ございます」

 仁科は、俺の拙くて、順序もバラバラの説明も、ちゃんと黙って聞いてくれた。だからだろう、仁科に説明してる内に頭の中が冷静になっていって、気付けば、あれだけ煩かった心音も落ち着いていた。

「だから、もしかしたら縁先輩は自分の身が危ないと気付いてて……それで、仁科先輩のことをよろしくって俺に言ったんじゃないかと思って……」
「……ッ!な、なんだよ……それ……」

 言うなり、仁科は玄関口へと向かう。俺も、それに続いた。
 それから、俺達の間に会話はなかった。とにかく、早く、縁を探さないと。その一心で、エレベーターを停める暇もなく、俺達は階段で一階へと向った。

 一階・ショッピングモール。
 多くの生徒が休日を愉しんでるそので、俺と仁科は縁先輩を探した。時折名前を呼び、探す。あんな目立つ青い髪、一目見れば見失うはずがない。
 そう思うのに、中々見つからないその人の姿に焦っていく。

「縁先ぱ――――」

 先輩と、声を上げた時。背後から伸びてきた手に、顔を、口元を覆われる。
 ギョッとして振り返ろうとしたときだった。

「……ちょっと、何してんの、齋藤君」

 聞こえてきたのは、まさに聞きたかった声だった。
 呆れたような、恥ずかしそうな、ばつの悪い顔した縁方人は笑みを引き攣らせ、そこにいた。

「何やってんの?……奎吾、お前も」

 そう、ひくりとコメカミを引く付かせる縁。
 どこからどう見ても本人だし、ピンピンしてる。もしかして、いや、もしかしなくても俺、先走ってしまったのか。
 見たことのない縁の笑顔に、冷や汗が滲む。
 俺たちに気付いたようだ、仁科もその場に駆けつけてきた。

「ま、方人さん……無事だったんですね!」
「……無事も何も、俺は普通に買い物してるところにいきなり外から名前呼ぶ声聞こえてきてここに来たんだけど」

 あくまで口調は穏やかで、まるで子供に言い聞かせるような柔らかい声だったが縁が怒ってるのは一目瞭然だ。

「えーと……そうだね、取り敢えず、一から説明してもらってもいい?」
「は、はい……」

 最早俺たちに拒否権はなかった。
 その笑顔の圧力に負け、一旦俺たちは場所をラウンジへと移し、そこで縁に一連の出来事(というか俺が勘違いしたこと)を伝えることになる。

 思えば、確かに軽率だった。いくら縁が心配だといっても、縁からしてみれば不名誉だろう。
 けれど、俺たちがもだもだ説明してるのを聞いて、縁はますますばつの悪そうな、照れ臭そうな顔をする。「ほんと、何やってんだよ」「考えすぎだろ」とか、時折そんなことを口にしつつも、満更でもなさそうに見えたのも事実だ。そんなことを言ったら「齋藤君反省してないよね?」とか言って怒られそうなので言わないが。

「本当、お前ら心配性ってか……何?そんなに俺って信用ならない?ショックだなぁ、落ち込むなぁ、そんなにか弱く見えるわけ?」
「す、すみません……」
「で、でも、方人さん実際に怪我人なんですし、もし何かあったら……」
「何かあってもいいんだよ、俺は。お前らに何かあるよりかよっぽど都合がいい。だから俺が出るっつったのに……本当にさぁ……はー、ほんと君たちと居ると気が抜けるから良くないな」

 それは、怒ってるというよりも「やれやれ」と言わんばかりの脱力感だった。けれど、それよりも俺は縁の言葉が引っ掛かった。
 縁は、何を企んでるのだろうか。
 俺たちを庇ってるのか、だとしたら、余計そんなことさせたくない。

「取り敢えず、あらましは分かったけど……今度からは勘弁しろよ。俺、もう、他のやつらから『なんかあの人すげー呼ばれてね?』って遠巻きにヒソヒソされんのいやだから」
「す、すみませんでした……」

 そう怒ったフリをしてみせる縁に、俺と仁科はぺこぺこ頭を下げ合うことになる。
 それから、俺たちは改めて買い物にいくという縁に着いていくことになった。
 この前、志摩と縁と一緒に外出したお陰か、この前程の緊張はなかった。それよりも、寧ろ縁を一人で出歩かせる方が心配だったので俺としては良かったのだけれど…。

 学生寮一階・ショッピングモール。以前とは違い、大勢の生徒で賑わう通路。
 逆にここまで人が多いと、俺たちも紛れて他の人間からは認識されないのではないだろうか。そう思うくらい、休日のモールは賑わっていた。

「齋藤君、パスタとかどう?」
「方人さん、パスタは消化悪いんじゃないですか。もっとこう、柔らかいものにして下さい。……あ、これとかどうすか」

 わいわいと話し合ってる二人のちょっと離れたところから後を付けていく。
 それにしても、無事で良かった。
 念のため、周囲に怪しい人影がないか観察してみるが、人が多すぎてそれどころではない。
 それに、会長たちがいたら他の生徒が気付くだろう。なんて思いながら、通路に目を向けたとき。不意に、見覚えのある後ろ姿を見つけた。あれは、確か。

「……志摩?」
「どうした?齋藤君」
「いえ、あの……今、志摩がいたような気がして……」
「亮太が?」

 一瞬、縁の目の色が変わったのに気付く。けれど、すぐにいつも通りの縁が戻ってくる。

「珍しいな、こんな時間帯にいるなんて。……見間違いとかじゃないの?」
「……わからないです、一瞬だったので……もしかしたら間違いなのかもしれません」

 縁にそういう風に言われると段々自信がなくなってくる。
 そんな俺の肩をばしばしと叩き、縁は「そうそう」と笑った。
 もう一度、通路の方に目を向けるがそこにはもう志摩らしき影はなく、代わりにたくさんの生徒が固まって行動していた。
 ……確かに、今思えば志摩よりも少し髪が短かったような気がしてきた。

 縁の代わりに荷物を持った仁科とともに、俺たちは店を後にした。
 それにしても、数量とは言え学園で食材を販売してそれが売れてるのだからすごい。
 料理人志望の生徒が良く休日に買っていくというのを聞いたが、それでも、俺は精々カップ麺にお湯を注ぐので精一杯だろう。

「さあ、早く帰ろうか。お腹減っただろ、齋藤君」
「そ、そうですね……言われてみれば……少し」
「うんうん、空腹は元気な証拠だよ」

 なんて他愛のない会話をしながら歩く。
 ここに来るまでは縁のことが気になってそれどころではなかったが、安否を確認できてからはほっとして先程から胃が活発に動いてるような気がする。


 ◆ ◆ ◆


 正午、学生寮ロビー。
 四階へと向かうため、エレベーター乗り場へとやってきた俺たちだった。
 エレベーターの扉の前。数人の生徒が休んでるベンチの傍、自販機の前に、先程見たのと同じ後ろ姿を見つけた。志摩だ。
 私服姿だが、ダークブラウンの後頭部には見覚えがあった。

「志摩」

 と、俺は、咄嗟にその背中に声を掛け、肩を掴む。
 奇遇だね、とか、「この前はどうしたの」とか、色々言いたいことがあったが、それも一瞬。こちらを振り返った志摩、正確にはその人影に、俺は息を飲んだ。

「……お前、誰だっけ?」

 志摩、だと思った。目元もよく似ていた。背格好も、と思ったが、発せられたその声は志摩の柔らかくて優しいそれとは違った。志摩のそれよりも低く、そして、利発そうなハキハキとした声。……志摩、じゃない?
 人違い。そんな文字が頭に浮かぶ。慌てて俺はその人から手を離し、「すみません、間違えました」と頭を下げようとしたときだった。

「齋藤君、エレベーター来たよ。……って、え」

 呼びにやってきた縁は、俺、ではなくその奥にいたその人を見て、目を見開く。それは、驚いたとかそんな生ぬるいものではない。まるで死霊でも見たかのような、そんな気迫すら感じ取れる表情に俺はつい「え?」と再び目の前の人物に目を向ける。
 すると、その男も男で驚いたように目を丸くしていて、それも数秒間のこと。花が咲いたように、その人はぱぁっと笑った。

「方人、久し振りだな」

 男は言うなり、縁の手を取った。握手というには一方的で、それ以上に俺は、男よりも縁の反応が引っ掛かった。

「裕斗……お前、なんでここにいんの?」
「なんでって、復帰だよ。正確には月曜日からだけどな、今日は荷物運びと下見兼ねて志木村に色々教えてもらってたんだよ。な、志木村」

 裕斗、と呼ばれたその人は露骨な縁の態度にも顔色一つ変えることなく、寧ろ楽しそうに笑いながら近くのベンチに座って端末を弄っていたその生徒に声を掛けた。
 制服とは違うラフな格好と眼鏡で気付かなかったが、確かにあの時管理室で出会った志木村がそこにいた。
 志木村は裕斗に紹介され、「ん、ああ」とぼんやりしながらも立ち上がる。

「すみません、なんの話ですか?聞いてませんでした」
「本当お前は俺の話全く聞かないよな。ま、その集中力はお前のいいところでもあるんだけど」
「……ああ、縁先輩に齋藤君、こんにちは。三人で仲良くお買い物ですか?楽しそうですね」
「……え、ええと……どうも……」

 集中力というか、ただ超絶マイペースなだけではないのだろうか。またもや裕斗を無視してる志木村にどう反応していいのか分からずたじろいでると、いつまでもやってこない俺たちが心配になったようだ。仁科がやってきた。

「方人さん、何して……は、え?!か、会長?!」
「えっ?!」

 仁科の口から飛び出してきた単語に思わず素っ頓狂な声を上げてしまうが、そんなことを気にしてる余裕もなかった。
 会長、って、なんで、え?と混乱してる俺を他所に、裕斗は大きく口を開けて笑う。

「久し振りだなぁ、仁科。けど、俺はもう会長職じゃない。言うなら元会長って言ってくれよ」

「なあ」と裕斗は俺に笑い掛けてくる。
 笑った顔はより志摩に似ている気がした。けれど、そんなことを悠長に考えてる場合ではない。
 元会長、元生徒会長ということか。
 ここの学園に来てもう数カ月は経ったと思っていたが、生徒会長と言えば芳川会長ということしか頭になかった。

「ああ、そっか。齋藤君、君は転校生なのでこの人のことを知らないんですね。……この人は志摩裕斗さん、我らが元生徒会長さんです」
「齋藤君って言うのか。転校生とは珍しいな。よろしく、気軽に裕斗さんって呼んでくれてもいいからな」
「よ、よろしくお願いします……!」

 握手を差し出される前に、手を握り締められる。驚いたが、それ以上に氷のように冷たい手に度肝を抜かれる。と、いうか、待て。ちょっと待て。今、確かに、志摩って。

「志摩……?」
「こいつは亮太の兄貴だよ、齋藤君」

 そう答えたのは縁だった。
 つい最近、聞いたフレーズだっただけに、つい聞き流してしまいそうになった。
 志摩のお兄さん、ということは、ずっと休学していた例の人ということか。
 まさか、元生徒会長だなんて知らなかった。それも、こんな、病院とは無縁そうな元気な人。
 さっきから驚きの連続で、何が何だか分からなくなってくる。混乱する俺に、裕斗は「あ」と何か思い出したように声を漏らす。そして。

「もしかして、君が噂のユウキ君か?」
「えっ、あ、はい……俺の名前は佑樹ですけど……」

 噂のってなんだ、と胸の奥がざわざわする。と、思った矢先、肩を掴まれ、ぐっと抱き寄せられた。

「ちょ、ちょっと、裕斗さ……」
「大体、伊織から話は聞いてるぞ。大変だったろ、色々」

 囁かれるその言葉に、俺は咄嗟に裕斗から離れた。目を見開けば、志摩裕斗はただ明るく無邪気に笑った。
「俺が来たからにはもう大丈夫だ」と。
 無条件で周りを明るく照らす太陽によく似てる人だと思った。俺の目には志摩裕斗の笑顔は心強くもあり、恐ろしく思えたのは、強すぎる日の光が辺りを焼け尽くすこともできることを知ってしまってるからだろうか。


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