天国か地獄


 13

 学生寮、縁の部屋。
 俺達は荷物を抱えて部屋を出て、もう一度志木村の元へ鍵を返してから自室へと戻ってきていた。

「齋藤君の荷物、この棚使っていいよ。俺の荷物こっち纏めておくから」
「あ……ありがとうございます」
「いいよいいよ、気にしないで。それに、齋藤君に使ってもらった方が棚も喜ぶから」

 笑う縁。結局、俺の用事に縁と志摩を付き合わせるだけ付き合わせてしまったが……。

「あの、縁先輩、すみません、先輩も用事があったのに……」
「ああ、俺のはもう終わってるから」
「え?」

 いつの間に、と驚く俺に、縁はただニコニコと笑いながら自分の服を片付けていた。
 どういうことなのだろうか。
 気になったが、あまりプライベートに口出しするのもあれだ。縁がいいと言ってるのならいいのだろう。そう思うことにした。

 志摩は、部屋に戻る前に別れることになった。
 管理室で志木村と会ったときから何かおかしいとは思ったが、志摩は用事を俺たちに明かさずにそのままどこかへ行ってしまった。縁も特に気にしてる様子はないし、俺もあまり深く考えないようにしようとは思うが、志木村に呼び止められたあの時、何かがあったことは明白だ。

「……」

 気にしても仕方ないことだが、それでも、なんだろうか。落ち着かないな、と思ったとき。背後からいきなり肩を掴まれ、飛び上がりそうになる。

「手、止まってるよ」
「せ、先輩……」
「亮太のことが気になるのか?」

 気付いていたようだ。荷物を分別していた手を取られ、つい言葉に詰まる。

「……はい、なんだかずっと上の空みたいだったし……俺が心配しても仕方ないんですけど……」
「確かに、あんな腑抜けみたいな亮太は珍しいな。考えられるのは……あいつ関連か」

 あいつ、と言うのは誰のことだろうか。
 そこまで考えて、さっき聞いた志摩の実兄の話を思い出す。
 入院してる志摩の兄の身に何かあったというのか。だとしたら、あんな風に上の空になるのも分かる。縁も同じことを考えてるのだろう。けれど、その横顔は俺の目には険しく映るのだ。

「まあ、大丈夫だよ。俺の方からも後で聞いてみるし、あいつがなんにもないってんなら放っといても大丈夫だって」
「そうですね」
「そうそう。あ、齋藤君昼飯何食べたい?フレンチくらいなら出来るけど」
「あ……じゃあ、あの、先輩の作ったのなら何でもいいです……」

 甘えていいと言ってくれた縁だからか、つい思ったことを口にしてしまえるのだ。
 昨日食べた縁の料理は、美味しかった。料理の説明を色々してくれたが、そもそも料理について詳しくない俺にはなんのことか分からなかったが、それでも縁の料理が美味しかったのは事実だ。
 恐る恐る答えれば、数秒、縁は固まる。そして、縁にぎゅっと抱き締められた。

「せ、先輩……っ」
「よっし、任せて!俺、齋藤君のためなら腕奮っちゃうからね!お腹いっぱい空かせて待っててね!」
「は、はい……!」

 わしわしわしと頭を撫で回される。すっかり上機嫌になった縁先輩は鼻歌交じり、冷蔵庫を漁り始めた。

 縁と過ごすようになって数日。
 最初は色んな意味で近寄りがたいと思っていた縁の人柄というかそんなものを漠然とだが分かってきた……ような気がしていた。人懐っこくて明るくて、それでいてたまに酷く冷たい目をする縁方人。そんな縁は俺のことを優先してくれる。
 何が目的なのかと言えば身も蓋もないが、それでも、好意的な縁の態度は変わらない。

 今日は久し振りに外に出たが、思っていたよりも外は落ち着いてるように思えた。志木村が俺を見ても何も言っていなかったところを見ると、阿賀松と俺のことは表沙汰になっていないのかもしれない。
 縁に断りを入れ、少しだけ分けてもらったレモネードを喉に通す。突き抜けるような柑橘系の爽快感に、頭の隅々までが澄み渡るようだった。
 午後十二時を回った頃、部屋の中には食材の焼ける音と薫りが立ち込めていた。換気扇の羽音に混ざって、扉の外、廊下の方が騒がしくなっていることに気付いた。
 怒号、いや、ただの大きな声か。普段この時間帯はほぼ無人になるのだからこんなに煩いはずはないのだが、何かあったのだろうか。と、扉の方を覗いたときだった。

 ドン、と大きな音が響いた。
 それは前日志摩がガンガン扉を蹴っていたときのものと似て非なるもので、壁が揺れるような鈍い振動に、俺は慌ててソファーから立ち上がる。

「大丈夫だよ、齋藤君」

「すぐに止むから、そこに座って待ってな」そう、縁方人は俺に背中を向けたまま、持ってたターナーを軽く振った。
 その表情は見えなかったが、俺は、縁が笑っているというのは分かった。
 どんな根拠があってそんなことを言えるのか、俺には分からなかったが何故だろうか。その言葉に逆らうことができなかった。俺は再びソファーに座り、耳を塞ぐ。それからすぐ、インターホンが何度も押されたが、縁はそれを無視して鼻歌交じりに料理を続けていた。
 どんな神経をしているのか分からないが、俺は、正直心臓が破裂しそうなくらい緊張して、テレビの内容もろくに頭に入ってこなかった。
 志摩は用事があってここにはいない、ということは、訪問者はその他の誰かというわけだ。
 芳川会長の顔が過る。心臓がキリキリと痛んでは、呼吸が浅くなった。
 縁の宣言通り、数回のインターホン攻撃の後、何事もなかったかのように部屋は静まり返った。

 汗が滲む。静かになったはずなのに、まだ耳の奥ではインターホンの無機質な音とノックの音が響いていた。
 縁は、「お待ち遠様」と言って、テーブルの上に料理を並べていった。
 その顔は、やっぱり笑っていた。

 本当に、このままでいいのだろうか。何度も繰り返してきた自問自答に答えは出ない。
 けれど、俺が何も言えないでいると縁は向かい側のソファーに腰を降ろし、「ご飯、食べないの?」と笑う。

「あの、先輩……出なくていいんですか……?」
「出てほしい?」
「そ、そういうことじゃなくて……」

「相手なら分かるよ。きっと、芳川君か栫井か会計辺りかな……出るつもりがないと分かればすぐ引き下がるくらいには冷静な頭あるからね、しつこくないだろうってのは分かってたからさ」
「……どうして、会長たちだと分かるんですか?」
「俺が呼んだから」
「……っ」
「きっと、八木辺りが対処してくれてるとは思うんだけど。ま、窓ぶち破られたら面倒だし、後でこっちから顔出さないといけないだろうなぁ」
「あっ、あの、呼んだって……どういうことですか……?」
「そのままの意味だけど?俺の部屋まで来るように少し誘導してみたんだよ。食いつくかどうかのテストって感じで、色々ね」
「……」
「あ、そんな怖い顔しないで。別に酷いこととか痛いことしたわけじゃないから」

 朗らかに笑う縁に、俺は、正直食事の味が分からなかった。
 何をしたのだろうか。気になったし、それで誰かしらがやってきたということはそれなりのことをしているということだ。怖い。けれど、聞いてはいけない。そんな気がしてならないのだ。

「齋藤君、美味しい?」

 不意に、手を止めていた俺に、縁は笑い掛けてくる。慌ててパンを口にすれば、縁は楽しげに目を細めた。

「慌てて食べたら喉詰まるよ。ほら、水。あ、ミルクもあるよ」
「……あ、ありがとう……ございます。それじゃあお水をいただきます」

 楽しみにしていた縁の手料理なのに、不信感ばかりが募って肝心の味が薄れていく。きっと、通常時に口にすれば美味しいこと間違いないのだろう。けれど、こんな状況だからか、余計。

「大丈夫、何があっても君の悪いようにはしないから」
「……はい」
「君は良い子だね」
「……」

 俺は、縁に騙されているのだろうか。それでも、俺も縁を利用しているのだ、お互い様ではないのだろうか。
 考えれば考えるほど頭がこんがらがる、けれど、髪を掬うようになぞるその指先は心地よくて、俺は、つい、縁に体を預けてしまう。

 食事を済ませ、腹を膨らませた後。
 縁は、俺に触れてきた。昨日と同じように、髪を触られ、そのまま毛先にキスをされ、唇が髪から頬へと移動する。
 くすぐったさの中、俺は、流されるがまま縁の唇を受け入れる。まだ日の高い時間帯。外からは校庭で体育を受けている生徒たちの声が聞こえてくる。
 電気を消し、カーテンを締め切った薄暗い部屋の中、差し込んでくる日の光だけが頼りだった。

 抵抗、した方がいいのだろうか。最後まで迷っていたが、そんな気すら起こさない程、縁の態度はいつもと変わらなかった。
 ここに置いてもらうということはそういうことなのだろう。そんな風に結論付けては俺は、シャツのボタンを外す縁の指先を見つめて、ただ時間が過ぎるのを待った。

「芳川君に会いたい?」

 縁は着ていたシャツを脱ぎながら、そんなことを尋ねてきた。
 俺はというと先に縁に脱がされたせいで下着一枚しか身に着けていなくて、そんなこと関係なしに、俺は縁の問い掛けに羞恥も全部持っていかれる。

「……な、何……言ってるんですか?」
「例えばの話だよ。例えば、今ここに芳川君を呼び出すことも出来ると言ったら君は芳川君に会いたいと思うのかなって思ってさ」
「会いたくないです」

 それは自分でも驚くほどの大きな声だった。

「こんな姿で……会えるわけないじゃないですか……」

 縁の戯言だと分かっているはずなのに、だからこそ余計、縁の試すような口ぶりが許せなかった。

「絶対に、止めて下さい……っ」
「あはっ、はは、そうだよね、そっかぁ、ごめんごめん、君があまりにも俺のことどうでもいいみたいな感じで目を逸らすからさ、ちょっと意地悪してみたくなっちゃったんだ。ごめんね、呼ばないよ、芳川君」
「……っ、……」
「あ、もしかして本当に怒った?ごめんって。でも、そうだよね。こんな姿、芳川君がみたら今度こそ君のこと、好きになってもらえないかもしれないね」

 言いながら、耳元を唇で撫でられる。こそばゆさよりも、その言葉の不快さに全身が、震えた。
 縁を見れば、縁は悪びれた様子もなくそれどころか目を細めて楽しげに喉を鳴らす。それから、甘えるみたいに俺の耳元に顔をすり寄せた。

「許してよ、たかが睦言だろ。齋藤君が芳川君のことばっかり考えてるのが妬けたんだよ」

「本当本当」と、縁は繰り返す。
 どこまでが本心か分からない。けれど、吐息混じり耳の裏側をねっとりと舐められると脳味噌がじわりと熱くなる。
 ずるいな、と思う。そうすれば、俺が許すと思っているのだろう。その上で、土足で踏み込んでくる。芳川会長のことを考えてるつもりはなかった。けれど、縁のことを見ていなかったというのは、否定が出来ない。

「今度からは……止めて下さい、そんなことを言うの……」
「うん、分かった分かった。もうあんなこと言わないよ」
「……はい」

 大分俺も縁に毒されてるのかもしれない。
 どうすれば自分が楽なのか、逃げ道ばかりを探している。縁との行為が好きなわけではない、それでも、その間は何も考えずに済む。結局俺は自分以外見えてないのかもしれない。

 縁には朝も昼も夜も関係ない。そんな縁と一緒にいると時間感覚も薄れてくるわけで、全身の疲労感と関節の違和感に苛まれながら浅く夢を見る。
 夢は縁に食われる夢だった。口づけされた指先から掌、手首までをバリバリとクッキーかなにかのように咀嚼される。自分の腕が肩辺りまで無くなるのを眺めていたところで目を覚ました。正確には、声が聞こえてきた。

『今日はありがとう、ちゃんとやってくれて安心したよ。お前のことだから嫌だって言い出すかもしれないって思ったからさ』

 夢の中の縁の声とは違う、俺ではない他の誰かに向けたその声は確かに現実だった。……と、思う。

『後は……うん、そうそう。何かしてくるだろうから、俺が見張っとくよ。それまでお前はここを離れてたままの方がいいだろうな』

 縁の声は甘い。耳障りがよく、柔らかくて不快感を覚えない。それは声質のものだろうと思ったけど、聞こえてくる縁の声はどことなくいつもと違った感じだった。
 言葉にするのは難しいが、なんだろうか、少し、硬く聞こえたのだ。

『……大丈夫だって、お前がちゃんとやってくれれば悪いことにはならないから。……あぁ、勿論、そっちこそ最低限、自分の身はなんとかしろよ。……これ以上怪我したら、伊織も悲しむだろうからな』

 それじゃあ、という言葉を最後に、縁の声は途切れる。目を開けて確かめれば、恐らく縁が携帯を仕舞ってるところが見れたのかもしれない。
 けれど、俺は、なんとなく目を覚ましてはいけない気がして、それと体が死ぬほど動かすのが億劫ということもあってそのまま目を瞑り続けた。
 縁の歩く音が微かに聞こえる。そしてすぐ、遠くで扉が開く音がして、足音は止んだ。
 縁がどこかへ言ったのだろう。それでも俺は目を閉じ続けた。

『これ以上怪我したら』

 縁の言葉に、阿佐美の顔が浮かぶ。
 もしかして、通話の相手は阿佐美だったのだろうか。
 確証もなんもない。けれど、なんとなくそんな気がした。
 でも、だとしたらどういうことなのだろうか。
 縁と阿佐美が何か企んでいる?
 ぐるぐるとネガティブなことばかりが頭の中を巡り、結局頭が冴えてしまって再び眠りにつくまでに結構な時間が掛かった。


 ◇ ◇ ◇

 目を覚ますと、縁の姿はなかった。
 あれからまだ戻ってきていないみたいだ。
 どこにいったのだろうか。
 気になったが、取り敢えず顔を洗うことにした。

 縁がいないというだけで、こんなにも部屋が広く感じるものなのだろうか。
 昨日部屋から持ってきた自分の服に着替えると、いつもよりも体が軽く感じた。恐らく気持ち的なものなのだろう。

 今日はどうしようかと思いながらソファーに座ろうとしたとき、テーブルの上にメモ用紙が置かれてることに気づく。

 そのメモには『今日は昼過ぎぐらいに戻ってくるから朝ごはん、冷蔵庫に入ってるの好きに食べてね』と書かれてる。うさぎのような落書きも添えられていた。間違いなく縁からなのだろう。
 女の子みたいなメモだな……と思いつつ、俺は書かれてるとおりに取り敢えず冷蔵庫を開けた。
 中には縁の好物らしいレモネードのボトルがストックされており、その更に奥、ケーキが入っていた。容器には『齋藤君へ、デザートにどうぞ』と書かれたメモもついてる。
 ……なんというか、まめだ。今度はネコの落書きが書かれていた。
 どんな顔して書いたんだろうこれと思いつつ、俺はレモネードの横に申し訳程度に置かれたミネラルウォーターを貰うことにした。


 ◇ ◇ ◇


 昼過ぎ頃縁は帰ってくると言っていたが、既に時計の短針は十二時を回ってる。
 まだ帰ってこないのだろうか、いやでも別に十二時に帰ってくるなんて縁は一言も言ってなかったしな、と一人考えながらもテレビを見てるときだった。
 玄関でガチャリと鍵が差し込まれる音が聞こえてくる。
 縁だ。
 そう思い、慌てて俺は玄関へと駆け寄る。
 ゆっくりと開かれる扉。
「おかえりなさい」と声を掛けようとしたとき、開いた隙間から倒れ込むように入り込んできた影はそのままぐらりと俺の方へともたれ掛かってくる。

「え……」

 目を横に動かせば青い髪が視界に入る。柑橘系の爽やかな香水の薫り。縁だ。けれど、何か、何かがおかしい。

「縁先輩……?」

 いきなり抱き締められ、ぎょっとしたが一向に顔を上げない縁に俺は照れや動揺よりも先に、嫌な予感を覚えた。

「っ、先輩……?」

 咄嗟に、縁の体を支えようとしたとき、手にべとりと嫌な感触が付着する。ベタベタとした、渇いているのに粘着質で、それで、鉄の錆のような匂いの。

「っ……先輩……!」
「ちょっと、齋藤君……声おっきー……」
「ど、どうしたんですか、これ、この血」

 自分の言葉に、俺は、縁の腹部、そして自分の手を汚すその赤黒い液体が血液だと再認識する。染み具合からして出血量は夥しい。
 縁の顔色は悪い。殴られたのか、頬が青黒く変色してる。目の縁も同様に腫れていた。
 痛ましい顔を歪め、縁は笑みを作った。

「……大丈夫だよ、そんな不安そうな顔しなくても」

「けど、平衡感覚狂っちゃってさぁ……上手く歩けないんだよ。悪いけど、ベッドまで連れて行ってくれないかな」なんて、申し訳なさそうにする縁に、俺は何も言えなかった。断る理由もない。俺は、慌てて部屋へと縁を入れ、扉を閉めた。
 それから、縁を担いで部屋の奥まで運んだ。

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