天国か地獄


 side:生徒会

『外傷は付けるな』と芳川知憲は言った。
 手渡されたのは注射器が入ったケース。芳川は精神安定剤と言っていた。

 灘和真は足元、座り込んだ阿賀松伊織を見下ろす。手足を拘束してるので動けない。騒がないようにと猿轡も噛ませていたが、喋る気すら起きないようだ。床の上、こちらを見るその目が気に入らなくて、阿賀松伊織をはいつくばせ、背中を踏みつける。注射器を手に取り、腕に浮き出たその血管に先端、取り付けた針を埋め込ませた。

「暴れない方が良いですよ。針が残ったら大変ですから」
「……」

 何も答えない。大抵の人間はここで動転するか、震え出すかなのだが、阿賀松伊織は反応しない。抵抗するわけでもない。諦めてるのだろうかと考えながら、針を抜く。注射の効き目はすぐに来る。はずだが。

「……」

 虚脱感。吐き気。幻覚。幻聴。精神不安定を呼び起こすその『安定剤』は、中々阿賀松伊織に効かなかった。使用量は守れと言われたが、少し気になって二本目の注射器を手に取った時、くぐもった声が聞こえてくる。
 呻くような声に、灘和真は阿賀松の口の猿轡を外した、瞬間。顔面にどろりとした感触が流れる。唾を吐き掛けられたのだ。

「……随分と、良い趣味してんじゃねえの?」

 見上げる阿賀松伊織は笑う。いつもと変わらない不敵で下劣で品のない笑み。灘和真はその顔面を蹴り上げようとして、堪えた。代わりにハンカチを取り出し、唾液を拭う。その直後、阿賀松伊織の内臓を蹴り上げた。死なない程度だ。どうしてもという場合、目立たない傷なら付けてもいいと芳川からも許可は得ていた。
 阿賀松伊織は声を上げない。ただ、浮かべた笑みを崩さず、それでいて、殺気だけは膨らんでいく。
 流石タフだと思った。けれど、その額に脂汗が滲んでるのが見え、先程の注射器が効いてるのが分かった。

「この部屋は防音です。好きなだけ、声を上げても問題ありません。俺以外、聞こえませんので」
「……あー、そうかよ、そりゃ……お気遣いありがとな……」

 言葉とは裏腹に、殺気は強まるばかり。
 減らず口に生意気な態度、見下ろしているはずなのに、まるでこちらが見下されているようなその高圧的な姿勢を崩さない阿賀松伊織はただ、不愉快だった。けれど、過剰に痛め付けて意識を飛ばさせるよりも、より鮮明に悪夢を見た方が効果的だ。
 灘和真は椅子に腰を下ろす。
 すぐに、効果は現れる。けれど、やっぱり、阿賀松伊織は悲鳴を上げない。弱音を吐かない。けれど。浅い呼吸音、獣じみた唸り声に、流れる汗に、先程までの余裕の笑みはそこにない。硬直した表情筋に、深く刻まれた眉間の皺。開かれた瞳孔の先、既にそこに自分は映っていないようだった。
 人は悪夢を見たとき、怯える。泣き出す。何も出来ず、ただ、虚無に陥る人間もいた。
 けれど、阿賀松伊織が見せたそれは、どれでもない。
 憎悪だ。

「……ッ、は、ぁ……ぐッ……」

 暫くして、痛みが回ってきたようだ。マイナスの感情が増強されるその安定剤は直接痛みを引き起こすわけではないが、予め身体に影響を与えていた痛みに対する思いも増強するようだ。つまり、実際はなんてない痛みすら、脳が大怪我と認知する。

「……」

 ここから先は、自分は必要ないだろう。
 床の上、這いずる阿賀松伊織を眺めていると、不意に、扉が開いた。現れたのは、よく見知った顔だった。

「……栫井君」
「へぇ、こいつにも効くんだな。……ああ、人間なんだっけ、一応」
「何の用ですか」
「会長が呼んでる。……お前に仕事だってよ」
「会長が?」
「お前、携帯の電源切れてるだろ。それで伝言頼まれた。場所は職員室。……なんか、こいつのことで面倒なことになってるみたいだ」

 栫井平佑はそう言って、阿賀松伊織を顎で指す。
 その言葉に、制服のポケットにしまっていた携帯端末を確認した灘は確かに電源が切れてるのを見て、頷き返した。

「……わかりました。戻ってくるまでの間、お願いします」
「いいから早く行ってこいよ」
「……はい」

 灘和真はその場を後にした。静まり返った部屋の中、扉が閉まるのを確認して、栫井平佑は床の上の阿賀松伊織に歩み寄った。

「……おい、生きてるか?」

 そう、蹲る阿賀松伊織の肩を掴み、起こしたときだった。二つの目が、栫井平佑をじとりと睨みつける。

「……おっっせぇよ、つまんねえ時間過ごしたわ……まじ、お前責任取れよ」
「……感謝の言葉も言えないのか、あんた」
「うるせぇんだよ、良いからこれ外せ。さっきから手首擦れていてぇんだよ、ちゃんとサイズ合わせとけってテメェの会長に言っとけ」

 そう言って、軽く体を捻った阿賀松伊織はガシャガシャと両手首の拘束具を鳴らす。
 先程まで悶絶していたのは嘘みたいに、いつもと変わらない阿賀松伊織に栫井は心底うんざりした。

「……少しは大人しくなってると思ったら、全くだな。灘にあの薬打たれたんじゃないのか?……よく平気でいられるな」
「悪夢ならしょっちゅう見てるからな」

 冗談か、本気か。相変わらず何を考えてるのか分からない男だが、その笑顔は面白くない。栫井平佑は阿賀松伊織の戯言を無視することにした。

「……後ろ向けよ、あと、解くのは少しの間だけだからな。間違っても逃げるなよ」
「……ああ、その手が合ったな」
「おい……」
「冗談だっての。せっかくここに来たんだぜ。手ぶらで帰っちゃそれこそ申し訳立たねえからな」
「……申し訳、ね」

 誰に対して言ってるのかわかったが、気付かないふりをする。
 阿賀松伊織はときに手段を選ばない。自分の立場も分かってないのか、理解した上の無鉄砲か、恐らく後者だろう。
 数日前、いきなり呼び出されたと思えば『俺を捕まえろ』と言い出したときは面を食らった。
 生徒会の内部に入り込むにはこれが手っ取り早いと判断したのだろうが、下手すれば退学になり兼ねないはずだ。それまでして何がいまさら阿賀松伊織を焚き付けたのか分からなかったが、今まで阿賀松を利用してきた栫井平佑はその命令を断れなかった。断ったら、次の標的が自分になると分かっていたからだ。
 あくまでも内部の調査が目的だと言っていたが、万が一の場合もある。芳川知憲に何かしようとでもすれば、すぐに制することも視野に入れていた。
 阿賀松伊織も、自分が他の生徒会アンチと同じとは思っていないだろう。危険な橋ではあったが、阿賀松伊織を捕まえたことで芳川知憲の機嫌がいい。それだけでも、阿賀松伊織と組む意味はあった。

「とにかく、大人しくしとけよ。俺も、毎回あいつの気を引くことは出来ない」
「分かってるよ、心配性だな、お前」

 あんたがガサツ過ぎるんだよ、と言いたいのをぐっと堪え、栫井平佑は代わりに深いため息を吐いた。
 やはり、早まったか。そんなことを思いながら、手首の拘束のみ緩めた。


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