天国か地獄


 09

 志摩と縁がいなくなった後、俺は、椅子に座ったままだった。
 動きたければ動けばいい、好きに部屋を使ってくれても構わない。そう縁は言ってくれたが、どうも、テレビを見る気にも寝る気にもなれなかった俺はただ椅子に座っていた。

 芳川会長。
 会長の性格を考えると、無理もないと思う。潔癖症で、完璧主義な会長だ。俺が汚点でしかないのは分かっていた。
 けれど、何度も頭の中で縁の言葉が反芻する。
 演技なのではないか、とも思った。もしかしたら少なくとも俺のことを考えていてくれて、そして、その上で俺よりも阿賀松の身を優先させたのではないかとも。
 けれど、どちらにせよ事実は変わらない。
 確かめる勇気もなかった。もし本当に会長に拒絶されたりでもしたら、今度こそ、立ち直れない。

 ふいに、扉が開く音がした。振り返れば、そこには志摩がいた。

「……齋藤、そこ、気に入ってるの?」
「……ふかふかしてて座りやすいよ」
「そう。俺は窮屈そうだと思ったけど、まあいいよ。齋藤かいいなら」


 俺の隣までやってきた志摩は、そのまま俺の膝の上に何かを乗せた。小袋に入ったそれは、チョコレートのようだった。

「……これ」
「疲れたときには甘いものがいいって言うでしょ。あげるよ」
「……わざわざ買ってきたの?」
「なわけないじゃん。俺が喉乾いたから、そのついでにだよ」

 そういって、志摩はポケットから取り出した缶ジュースを開ける。一口飲んで、そのままソファーに腰を下ろした。

「……齋藤、俺が言うのもなんだけどさ、本当に方人さんのこと、信じてるの?」

 志摩から貰った小袋を開け、中のチョコレートを一つ口に入れたとき、志摩はそんなことを聞いてきた。
 正直、俺にとっては簡単に答えることが出来るものではなかった。縁方人の全てを信じてるわけではない。けれど少なくとも、俺にとって害がない相手だと判別した。
 でなければ、こんなところでのうのうとしていない。

「……正直、分からない」
「分からないって……」
「分からないけど、今は、なにも……考えたくないんだ」
「……」

 志摩は、何も言わなかった。厳密には何かを言いたさそうではあったが、その言葉をぐっと飲み込んでいた。

「そんなにショックなの?会長さんのことが」
「……っ、別に、そんな……ことは……」

 ない。
 下手に志摩を刺激するようなことは言いたくなくて、濁して誤魔化そうと思ったのに、その言葉は上手く出てこなかった。
 少しでも、会長の特別になれたのではないだろうか。その他大勢ではなく、その中でも、少なからず会長の支えになれるような人間に。そう浮かれていたのは、俺だ。勝手に思い上がって、そのくせ、勝手に落ち込むのも。

「そんなこと……ない……」

 ないんだ、と言い掛けたときだった。
 視界が翳る。驚いて顔を上げたとき、正面、肩を掴んでくる志摩と目が合った。
 それは酷く、怒ったような顔で。至近距離で睨み付けられ、俺は、思わず息を飲む。

「……本当に?本当にそう言えるの?絶対に?」
「っ、……どうしたの、志摩、どうして、そんな……」
「なら、俺にキスしてよ」
「……っ、は?」
「会長さんのことが好きじゃないんなら、別に出来るよね。キスなんてただ唇が触れるだけでしょ?」
「……、……」

 俺が、志摩の警告を無視したから怒ってるのか。
 突拍子もない志摩の言葉に驚いたが、それ以上に、俺は、躊躇っている自分に驚いた。
 確かに、志摩の言う通りだ。キスなんて、別に、ただぶつかったと思えば気にしなくていい。
 それに別に志摩とするのは初めてではない。頭では理解できていたのに、必要以上に躊躇う自分がいた。
 縁に強請られたときは平気だった。仕方ないと割り切ることが出来た。それなのに、今。何故こんなに俺は、何に躊躇っているのだろうか。

「齋藤」
「っ、……志摩……」

 志摩に怒られるのは、嫌だ。これ以上、何かに怯えるような生活は耐えられない。それなら、と、志摩の肩にそっと手を伸ばす。ただ触れればいい。
 すぐに離れればいい。
 分かってるのに、会長とキスしたときのことが過る。会長に触れた唇で、他の人間に触れる。例え芳川会長の目がなくても、それは、裏切り行為に等しい。
 そこまで考えて、自分が何に怯えているのか分かった。
 俺は、会長との行為を、記憶を、汚されるのを拒んでいる。自分からそれを汚すなんてしたら、今度こそ本当に、俺は、会長に顔向けが出来なくなる。そう理解した瞬間、志摩の問い掛けが再び頭の中で蘇る。
 会長が、好き。嫌われて、見捨てられても、自分の手で今までの会長とのそれを切り捨てるようなことはしたくなかった。

「っ、やっぱり、こんなこと……」

 おかしいよ、と志摩の身体を押し返したときだった。手首を掴まれ、思いっきり後頭部を寄せられる。瞬間、志摩に唇を塞がれた。
 唇の薄皮に食い込む歯、それはキスというよりも、噛み付くと言った方が適切なのかもしれない。

「っ、ふ、ぐッ、ぅ……むぅ……ッ!!」

 慌てて志摩の手を掴んだ弾みに小袋が落ち、中身が足元に散乱する。それでも構わず、椅子の上に乗り上げてきた志摩は何度も角度を変え、執拗に唇を重ねた。
 まるで、僅かに残っていた会長の感触も全部掻き消すような、そんな荒っぽい口付に耐えられず、俺は、志摩を思いっきり振り払おうとして、その頬を叩く。
 乾いた音とともに、志摩が離れた。
 志摩に対する罪悪感とか、申し訳無さよりも先に、『どうして』という気持ちの方が大きかった。

 別に、俺が会長のことが好きだからって、志摩には関係ないことだ。どちらにせよもう終わったことだし、それを、どうして、わざわざ踏み躙るような真似を。

「……ッ、……」
「……なんだよ、その目」
「っ、……………」
「言いたいことがあるなら言えよ。それとも、何?被害者ぶってるつもりなの?俺は何も悪くないって思ってるの?」
「…………………」

 そんなつもりは、ない。そう言いたいのに、言い返す気力もなかった。
 ショックだったのも確かだったが、それ以上に、煮え切らない自分の態度が志摩を怒らせてしまってるのだろうと分かったら、どうすればいいのか分からなくなってしまう。

「っ、……その目、ムカつくなぁ……どうでもいいって目、何それ。……馬鹿にしてるの?」
「……」
「なんか言えよ」

 肩口に食い込む指に、痛みすら感じなかった。嫌な汗が滲み、全身が強張る。
 何か、言わないと。そう思うのに、頭の中で会長の顔が浮かんで、言語中枢がぐずぐずになる。
 志摩が、怖い。どうすればいいのか分からない。もう何も考えたくない。

「っ……ぁ……」

 それでも、何か言わないとと思い、口を開けた瞬間、涙が、溢れてしまう。頬へとボロボロ滑り落ちるそれに恥ずかしさと情けなさで耐えられず涙を拭おうとしたとき、顔を歪めた志摩に、顎を掴まれた。

「ふざけんなよ……ッ!」

 余計、怒らせてしまった。再び重ねられる唇の感触に、俺は今度は抵抗をやめた。こんなに自分の涙が恥ずかしく思えるのが、全ての答えだった。この自分の感情は、独り善がり以外の何者でもない。

「っ、ん、ぅんっ、んん……ッ」

 未練たらしいにも程がある。俺は会長から切られた。それが俺がまだここにいる理由だ。
 いくら俺が会長のことを考えたところで、どうにもならない。
 唇を開けば、志摩の舌が入ってくる。歯列をなぞり、上顎から頬裏まで隈なく舌を這わせる志摩に、俺はその熱と感触を感じながら、自分の頭の中まで冒されていくような、そんな感覚に陥った。

 それでもいい、いまはもう、何も考えたくなかった。暴力的なキスでも、余計なことを考えずにいられるのら良かった。
 ただ、それでも、頭の片隅で会長の顔が過る度に俺は、志摩に自ら舌を絡めることにした。どうにでもなれと。思いごと、全部切り刻んでくれと。いっそのこと会長に嫌われるくらい落魄れることが出来ればこんな思いしなくても済むのかもしれない。それこそ、自己欺瞞か。


 自由行動は許可された。が、何をする気にもなれなかった。
 服を着替え、縁の部屋のシャワーを借りる。他人の部屋の設備を勝手に使うのは忍びないが、縁自身「好きにしていい」と言っていたのだから甘えることにした。
 志摩は、ソファーに腰降ろして携帯を弄っていたようだった。シャワー室から出た俺を見て「おいでよ」と、自分の隣をぽんぽん叩く。その手にはドライヤーが握られていた。

「あの、自分でするから……」
「いいから、ほら、早く」
「……」

 貸してくれる気配もない。下手に駄々捏ねて志摩の機嫌を損なわせるのも面倒だったので、俺は渋々志摩の隣に腰を降ろした。

「俺、他人の髪乾かすのなんて初めてだよ。すごい、シャンプーの匂いがする」

 言いながら、濡れた髪に指を絡めてくる志摩。ドライヤーの熱を確認し、そのまま俺の髪に当ててくる。
 そんなの、俺だってない。身内以外にこんな風に髪を触らせるなんて、美容師以外初めてかもしれない。

「熱くない?」
「俺は、大丈夫だよ。少し熱くても」
「そう」

 会話はそれほど盛り上がらない。
 楽しい会話なんて出来るはずがなかった。ついさっきまでのことを思い出し、息苦しさに息を飲む。
 志摩に背を向けて、無防備に身体を預けてるこの状況すら、俺にとっては耐えられない状況だというのに。
 ……志摩はどう思ってるのだろうか。俺のこと、最悪なやつだと思ってるかもしれない。

 部屋の中に、テレビの音声とドライヤーの音だけが響いた。
 初めてだと言う割に志摩の手付きは優しくて、最初の緊張も少しだけ解けていくのが分かった。だからだろう、少しだけ、ウトウトしてしまう。


 ◆ ◆ ◆


 どれくらい時間が経ったのだろう。実際にはそれ程時間は経っていないはずだ。
 髪全体が乾いたのを確認して、ドライヤーの電源を切った志摩はさらさらと俺の髪を梳いて直してくれる。

「終わったよ。……どうしたの?眠いの?」
「……少しだけ。あの、ありがとう」
「いいよこれくらい。それに、役得だしね」

 いつもと変わらない軽口。けれど、やっぱり、その態度はどこか素っ気ない。
「喉、渇いてない?」と声を掛けられ、俺は首を横に振った。
 何から何まで志摩に世話を焼かれるのも、忍びない。

「あの、志摩……志摩は、いつもここにいるの?」

 恐る恐る志摩に尋ねる。
 俺が目が覚めてから殆ど、志摩はこの部屋に入り浸っている。目を覚ましたときだって、丁度志摩が戻ってきたからだ。
 十勝の言葉もあってか、気になって尋ねれば、丁度ジュースを飲もうとしていた志摩がこちらを見た。少し、不服そうな顔をして。

「何、それ。俺がいたら悪いわけ?」
「いや、あの……そういうわけじゃないんだけど、教室にも、部屋にも戻っていないって聞いてたから……」
「当たり前でしょ。部屋には十勝がいるし、暫く会長さんに目ぇ付けられてたからまともに動けなかったんだよね。けど、方人さんたちのところなら気にしなくていいから、そういうの」
「……そうなんだ」

 正直俺は、志摩は阿賀松たちと完全に決別していたものだと思っていただけに、こうして再び共に行動している志摩を見て、少し落ち着かない気分になった。
 芳川会長が、志摩まで狙っていたなんて。
 あの時だけだと思っていたが……何も、知らなかった。

「齋藤も、ここにいたらいいよ。方人さんもああ言ってたし」
「……え」
「……なんて、言わないよ。確かに俺にとっては都合がいい場所だけど、齋藤にとっては変わらないからね」
「……」
「阿賀松が戻ってくるまで、大人しくていた方がいいのは同意だよ」

「本当は今すぐにでも連れ出してあげたいけどね」と志摩は笑った。自虐的な笑顔。久し振りに見たような気がする。
 いつも自信と行動力に溢れてる志摩のこんな姿、初めて見たかも知れない。
 俺は何も応えることが出来なかった。

 静まり返った部屋の中。いきなり扉が開き、「ただいまー齋藤君」と明るい縁の声が聞こえてくる。どうやら戻ってきたらしい。志摩は笑みを消し、現れた縁に目を向けた。

「なんだ、亮太まだ居たのかよ」
「居ちゃ悪いですか。自由にしていいって言ったのアンタでしょ」
「齋藤君に言ったんだよ、お前は今夜奎吾のところにでも行けよ」
「絶対嫌です。あの人、俺の目見て話してくれないし。あと話し合わないし」
「だってよ、齋藤君どうよこいつ。この上から目線。可愛くないよなー」

 笑いながらテーブルに近付いてきた縁。どこか買い物に行ってきたのだろう、その手には袋が握られていて、それをソファーに置いた縁は、不意にこちらに顔を近付けてくる。

「っ、え、あの……」

 髪に鼻先を寄せてくる縁は、すんすんと人の匂いを嗅ぎ、にっこりと笑う。

「齋藤君、お風呂入った?」

 その一言に、意味深な笑顔に、ドクリと脈打つ。
 バレないだろう、と思っていたわけではないが、速攻で言い当てられた俺はつい言い淀む。

「す、すみません……あの、使いました……」
「いや、いいんだよ。自分の部屋だと思って寛いでくれて全然いいんだからね。寧ろ俺の下着とか服とかも使ってよ、あ、ってことは俺がいつも使ってるタオル使ったんだ」

 俯くこちらを覗き込んでくる縁は、目を細める。
「あ、あの」暗に、縁が何を言わんとしてるのか気付いてしまえば、その視線に、顔が熱くなる。
 確かに、縁の部屋のタオルを借りた。洗濯カゴに入れっぱなしにしているそれを思い出して、慌てて立ち上がる。

「すみません、洗濯機……お借りします」
「いいよ、俺がやっとくから」
「でも」
「気にしない気にしない、君はお客様なんだから」

 それ以外の意図が明らかに含まれている気がしてならない。
 狼狽えていると、いつの間にか脱衣室にいた志摩が戻ってきた。そして扉の奥から聞こえてくる洗濯機の音。

「ああ、方人さん。大丈夫ですよ、全部洗っておいたんでそのままゆっくりしていてください」

 笑う志摩に、縁の笑顔が凍り付く。正直、この空気は耐えられないが、この時ばかりは機転を利かせてくれた志摩に感謝せずにはいられなかった。

「亮太、お前いい加減帰れよ」
「別にいいでしょ。齋藤いるんだから俺いたって」
「なら齋藤君から離れたらどうだ?それじゃ齋藤君、休めないだろ」
「……齋藤、俺がいても休めるでしょ?俺はここで見張ってるから寝なよ」
「見張ってるってな、人を変質者かなんかみたいな言い方やめてほしいんだけど?俺だって疲れてる子にどうとかしようなんて程人間終わってないから」

「ね、齋藤君、俺が嘘吐くように見える?」と、縁に話を振られ、正直二人の言い合いも耳に入ってこなかった俺は「ええと……」と言い淀むしか出来なかった。
 確かに縁と二人きりはちょっと、なかなか勇気がいるかもしれないが、そこまで邪険にする志摩も志摩というか。

「絶対嫌ですから、別にベッドも使わないからいいじゃないですか」

 またそんな言い方して……。
 段々雲行きが怪しくなる二人に、喧嘩しないだろうかとヒヤヒヤしていたときだった。
 縁が立ち上がり、俺の隣に張り付いていた志摩の首根っこを掴む。

「その態度が気に入らねえって言ってんだよ」
「っ、え、ちょっ、待っ、方人さん!おい!」
「え、縁先輩……!」

 まさか殴り合いでもするのか、と思ったが、志摩を掴まえた縁はそのまま玄関口へと歩いていき、扉を大きく開く。そして、そのまま思いっきり志摩を通路の方へと放り投げた。

「おい!この……ッ!!」

 俺よりも力があり、体格もいい志摩を簡単に引き摺る縁にも驚いたが、それよりも、慌てて部屋に戻ってこようとする志摩を蹴り、乱暴に扉を閉め切る縁にぎょっとする。
 ドアノブを掴んだまま、手際よく内側からロック掛ける縁。
 外から志摩の罵声が聞こえてくるようだった。
 一連の出来事を愕然と眺めていた俺は、こちらを振り返る縁にぎくりと緊張する。

「ごめんね、齋藤君、付き纏われて大変だっただろ?気にせず休んでていいから」
「い……いえ……」

 どんどんと乱暴に扉を叩く音が聞こえてくる。
 そんな叩き方したら手が痛くなるんじゃないかと心配していると、縁は思いっきり扉蹴り上げた。
 鈍い音ともに扉が軋む。「ひっ」と息を飲んだとき、先程まで響いていたノックの音は止んだ。正直、こっちまで心臓が停まりそうになる。

「大丈夫?齋藤君、疲れただろ?一日中あいつの面倒見てて」
「……俺は、その……」
「本当?気遣わないでいいからな、ここには俺と君しかいないんだから」

 何事もなかったかのように、戻ってきた縁はこちらを覗き込んでくる。
 伸びてきた手に髪を触れられそうになり、驚いてつい、身を退いてしまう。

「…………」
「あ、あの……縁先輩、さっき、どこに行ってたんですか?」
「……んー?俺のことが気になるの?嬉しいなぁ」
「そういうわけじゃないんですが……その……」
「ええーなんだ、残念。少しは俺のこと好きになってくれたかなって思ったんだけど」

 怒ってるわけではなさそうだ。いつもと変わらない人良さそうな笑顔を浮かべ、縁は袋の中から何かを取り出した。

「そろそろ齋藤君お腹減ったんじゃないかって思ってさ、ご飯の用意をしようと思ったんだよ」

 そう袋の中から出てきたのは玉葱だった。他にも、トマトや葉野菜、様々なものが入っていた。
 学園内では食材自体は売り買いできないはずだが、もしかして学園の外へわざわざ買いに行っていたのだろうか。驚く俺に、縁は「何か食べたいものはある?」と首を傾げる。

「あの、縁先輩が作るんですか?」
「うん、こう見えて、割りと料理は好きなんだよね。あ、でも凝ったものは期待しないでね。なんか食べたいのとかある?」
「いえ、お任せします。……けど、いいんですか?」
「いいよ。俺、それに好きな子には尽くしたい派だからさ、これくらい朝飯前っていうの?趣味みたいなもんだし」
「……え、ええと……ありがとうございます……」

 ここまで直球に言われると、恥ずかしさを通り過ぎてなんか、こう、緊張してしまう。
 なんで縁はここまでよくしてくれるのだろうか。初めて会ったときからだ、俺のことが好みだとかなんだとか言っていたけど、それだけでここまでしてくれるなんて、俺だったら出来ないだろう。
 ここまで分かりやすく好意を示してくれる縁だからだろうか、甘えてしまうのは。

「やっと、笑ってくれたね」

 俺の顔を覗き込んだ縁は、そう言ってにっこりと笑う。その一言に、いつの間にかに緊張が緩んでいたことに気付く。
 あ、と思ったとき、縁は立ち上がった。

「それじゃあ、齋藤君のために頑張っちゃおうかな。洋食と和食どっちが好き?」
「ええと……それじゃあ、洋食で……」
「了解」

 袋に詰め込んだ野菜を抱え、携帯端末をテーブルの上に置いた縁はそのままキッチンの方へと向かう。
 食欲はないが、わざわざ準備してくれるというのにその好意を無碍にするのも悪い。
 エプロンを身に着ける縁。部屋自体に物は少ないが、確かにキッチンだけは様々な物が置かれている。名前の分からない料理器具に調味料。その場限りの嘘ではないのだろう、本当に好きなんだろうなというの感じた。
 鼻歌混じり、流しから水を出して準備してる縁をぼんやりと眺めていたときだった。
 いきなり、テーブルの上に置きっぱなしになっていた縁の携帯端末が点滅し、着信音が響く。電話だろうか。中々鳴り止まない。

「あの、先輩……電話が……」
「電話?……ああ」

 水を止め、やってきた縁はテーブルの上のそれを手に取る。
 縁が持っていくその直前、俺は見てしまった。画面に八木の名前が表示されているのを。

「もしもし、俺だけど。どうかした?……うん……やっぱそうなんだ。いや、気にしなくていいよ。それよりさ、そっちはどうなの?」

 八木、というのは、やはり、風紀委員の八木のことだろう。親しげ、というほどでもないが、変わらない調子で話す縁に、俺は正直、生きた心地がしなかった。
 縁も縁だ。俺が八木と縁が繋がっていることを会長に口を滑らせでもしたらそれで八木は終わる可能性だってあるのに、堂々とここで話すなんて。
 ……いや、縁は俺が会長に洩らさないと思って敢えてここで話しているのかもしれない。
 そう考えると、自然と呼吸が浅くなる。

「じゃあ、やっぱ気付いてんだ。……いや、お前は悪くないだろ。とにかく、伊織もだけど、お前は自分のこと心配しとけよ。……ああ、頼んだよ」

 通話時間は短かった。それなのに、長い間息を停めていたようなそんな息苦しさからようやく解放され、ほっとする。
 やっぱり八木、だよな……相手。阿賀松、まだ見つからないのか。
 風紀委員の八木でさえ掴めていないということは、やはり、生徒会で匿っている可能性が大きいのではないか。
 人目に付かず、簡単に出入りすることが出来ない、生徒会だけが使用できる部屋。
 まず浮かんだのが、生徒会室に繋がる仮眠室だ。もしかして、と一抹の可能性が脳裏を過る。

 八木や縁は、あの仮眠室のことを知っているのだろうか。
 けれど、まだいると決まったわけではないし……俺が首を突っ込んでいいのか分からない。ただでさえ、見捨てられた俺が、生徒会のみんなを裏切るような真似。

 縁に悟られないよう、テレビを眺めていた。けれど、その内容見事に頭に入ってこない。
 やがて聞こえてくる包丁の音を聞きながら、テレビを眺めていた。
 裏切るも何もない、俺がこれ以上深入りすべきではないというだけだ。元々は、俺は部外者だ。関係ない。
 そう自分に言い聞かせるが、胸の奥の蟠りがただ気持ち悪くて、俺は、それを誤魔化すため縁に水を貰った。


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