天国か地獄


 05

「知ってるんだろう。お前、何か見たんじゃねえのか」

 静かに尋ねられる。
 掴まれてるわけでもない。それなのに、首を締められるような、そんな息苦しさに言葉に詰まった。

「っ、俺は……」
「安心しろ、別にお前を取って食おうなんて思っちゃいねえよ。俺はお前に話を聞きたいだけだ」

「何か知ってるんだろ」と、耳元で尋ねられる。
 知ってる、どころか、俺の方が聞きたいくらいだ。阿佐美がどこまで阿賀松に説明しているか分からない今、勝手に口を割っていいのか分からなかった。
 言葉に迷っていると、「ああ、でも」と阿賀松の手が、肩に乗せられる。

「お前の態度次第だけど」

 食い込む指先。強い力で肩を掴まれ、動けなくなる俺に構わず阿賀松は「歩けよ」と軽く指先で俺の肩を叩く。

「お前はなんも疚しいことはないんだろ。それとも、あるのか?だからさっきからなんも言わねえのか?」

 笑顔が、逆に不気味だった。冷めた目が、いつもと変わらない言葉が、下手な作り笑顔よりも笑顔なそれが、全てがチグハグで。俺は首を横に振る。
 そうすることでしか、阿賀松に訴えることができなかった。
 俺は、別に疚しいことなんてない。ただ、阿佐美とあの場にいて、そして、落下物に気付いた阿佐美に助けられた。それだけなのに。胸の奥が、苦しくなる。俺は、何か知ってるのか。阿賀松の言うとおり、何か疚しいことがあるのか。分からないが、言われた通りに歩くことを躊躇ってしまう自分がいた。

「俺は……っ」

 隠し事等出来ない。阿佐美には言うなと言われたが、阿賀松がここまでやってきた時点で、阿賀松には大方想像ついているのかもしれない。俺があそこから見下ろしていた意味を。

「俺は、詩織に、助けてもらって」
「……」
「それで、あの、……いきなり、落ちてきたんです。煉瓦が。それで、気付いたのは詩織で……俺が気付けなかったから、詩織は庇ってくれて……」

「すみませんでした」と、謝罪を口にする。自分で自分の謝罪の意味が分からなかった。俺は、何に対して、阿賀松に謝ってるのだろうか。わからない。
 けれど、肩に食い込む指先に先程以上の力が加わり、激痛のあまりに呻いたとき、阿賀松に頬を掴まれた。乱雑に顎を持ち上げられるように向かされたその先、見開かれた阿賀松の目に、ゾッとする。

「……お前、詩織に助けてもらっておいてここで何してんの?」
「……ッ、……」

 たった一言だった。その言葉に込められた阿賀松の感情はどろどろに混ざり合っていて、その中でも色濃い静かな怒りに、俺は、言葉を失った。

「あいつも口を割らないわけだな。そりゃあ、自分が助けたやつがこんなところでノホホンとしてるってなりゃ、恥ずかしくて言えるわけがねえ」

 殴られたわけではない、それでも、殴られた以上の衝撃が、俺に襲う。
 阿佐美は、阿賀松に言わなかった。俺が襲われたことも、あの時、約束したように。
 けど、本当は。

「鎖骨の骨折程度で済んで良かったなぁ。後遺症にでもなりゃ、俺はお前を一生恨んでたぜ」

 いつもと変わらない軽い口振りだった。だからこそ余計、絡み付くようなその居心地の悪さに、俺は、何も言えなくなる。鎖骨の骨折。想像もつかないが、身体を動かそうとすればどうしても動いてしまう場所だ。その痛みを考えると、計り知れない。

「自分で歩け、三階だ。お前にはまだ話がある」

 恐らく、というか、間違いなく、犯人についてだろう。俺の背後についた阿賀松に、俺は、逃げることすらできなかった。そもそも、俺が逃げていい訳がなかった。阿佐美のことを考えるなら、逃げてはならない。
 けれど。と、芳川会長の顔が過る。勝手にいなくなったら、また、会長たちにも迷惑を掛けるんじゃ……。そう、思ったときだった。

「おい、そこの赤髪!何してんだよ、俺が小便行ってる間によぉ……」

 正面、いきなり影が現れたかと思えば、聞き覚えのあるその声に、目を見張る。
 なんてタイミングだ、そこには、櫻田がいた。いつもの気味の悪い女装とは違う、私服姿の櫻田は一瞬誰だか分からなかったがすぐにわかったのはその派手なプリン頭のお陰だろう。

「そのスットコドッコイは会長の……あれだ、なんか、その……まあ、ぼちぼち大切なやつなんだよ!勝手に連れて行ってんじゃねーぞ!」

 流石櫻田だ、この間の悪さ。おまけに相手は阿賀松だと思うだけで胃が痛くなる。
 あの櫻田が助けてくれたことには驚いたが、この場合は余計なことをしないでくれ、と言わざるを得ない。
 背後から聞こえてきた阿賀松の溜息に、血の気が引く。まずい。

「さ、櫻田君……俺は、大丈夫だから、あの、会長たちによろしくお願いって伝えて……」
「あ?何言って……あー!まさかお前、また芳川会長を騙すつもりか?!最初からそこの赤髪とグルだったのかよ!!」

 確かに、確かに間違いではないいかもしれないが今はそんなことを言ってる場合ではない。
「良いから、櫻田君」とあっちに行くようにと必死にジェスチャーをしたとき、阿賀松に押し退けられる。

「キャンキャンと随分躾がなってねぇ犬っころだなぁ……そんなに構ってほしいのか?」

 ああ、最悪だ、ただでさえ虫の居所が悪い阿賀松だ。
 櫻田に近付こうとする阿賀松に、慌ててその腕を掴み、止めようとする。「先輩」と、「こんなことしてる場合ではないじゃないですよ」と。案の定、お前が言うなと言わんばかりの力で思いっきり振り払われた。尻餅をついた俺に、阿賀松がこちらを見下ろす。

「……っ、ああ、そうだよな、元はと言えばお前のせいだよなぁ……」

 阿賀松の見たこともない笑顔に、血の気が引いた。
 相当我慢していたのかもしれない。阿賀松の辞書に我慢という文字があるのかは分からないが、俺の言葉のせいで何かしらの阿賀松を堰き止めいたものが壊れてしまったのだろう。
 胸ぐらを掴まれ、強引に立たされる。殴られる、と目を瞑ったときだった。鈍い音とともに、俺を掴んでいた阿賀松の手が離れた。
 阿賀松の背後、その顔のすぐ傍。櫻田の回し蹴りを腕で受け止めた阿賀松は、ゆっくりと視線を俺から外した。その後ろ、受け止められた櫻田はというと「おお」と感動したように声を上げる。

「すげぇ、俺の蹴りまともに受け止めんの、会長以外じゃ初めてなんだけど、アンタやるなぁ!」
「あぁ、こいつぶっ殺していいよな。これ、正当防衛だろ、なぁ、ユウキ君」

 最悪に最悪を重ねて更にそれを最悪でサンドしたようなこの状況を最悪以外の何で言い表せばいいのだろうか。
 凍り付いていると、不意に、制服の裾を引っ張られていることに気付いた。驚いて振り返れば、誰もいない。不思議に思い、そのまま視線を下げれば、そこには江古田がいた。

「……先輩、こっちです……」

 そう、小声で奥の通路を指差す江古田。
 た、助かった……。が、違う、ダメだ、この状態の阿賀松を一人にするのは危険だ。
 そう伝えれば、江古田は「大丈夫です」と続ける。

「……もうすぐ、会長が……」

 きますから、とその色素の薄い唇が動いた矢先のことだった。
 後方から、かつりと、靴の音が響く。

「なんの騒ぎだ……これは」

 腹の底から響くような、冷めた声に、今度こそ俺は凍り付いた。
 最悪を煮詰めて作ったそれに最悪をたっぷり絡めたソースを掛けたような、そんなカオス空間の中。櫻田の蹴りを躱した阿賀松は、そこに現れた芳川会長と対峙した。

「なんの騒ぎだ、と言ってるんだが」

 櫻田は、現れた会長に気を取られたその瞬間。櫻田の足を掴もうと手を伸ばした阿賀松に、櫻田は「おわっと!」と言いながら慌てて飛び退いた。
 蹴りを食らってもびくともしない阿賀松は元より、相変わらずの櫻田の軽い身のこなしには目を見張るものがある。

「会長っ!聞いてくださいよ!やっぱりこいつ、齋藤先輩裏切り者だったんすよ!!」
「ち、違……っ」

 まさかそんな報告をされるとは思わず、慌てて否定するも、会長は櫻田の話なんて聞いちゃいなかった。
 俺達の向こう側、そこに立つ阿賀松を見て、目を細める。それに、騒ぎの原因を悟ったのだろう。

「なるほど、あちこちで面倒の種を撒き散らして分散させてその間に彼を籠絡するつもりだったのか。貴様らしい、姑息な手段だな」

 普段の阿賀松なら「お前がそれを言うのか?」と逆に挑発していただろう。だから今回も笑顔で火に油を注ぐのだろう、と思っていたが。
 芳川会長の方を向いたまま、動かなくなる阿賀松。やつから滲むその不穏な空気に気づき、俺は、咄嗟に江古田君を会長たちから離す。

「……お前、よくもノコノコとその面出せたなぁ……」

 一歩、また一歩と踏み出す阿賀松。その先には芳川会長がて。

「あっ、コラ……ッ!」

 嫌な予感がする。それに気付いたのは櫻田もだったようだ。駆け出した櫻田が阿賀松と会長の前に割って入った瞬間、乱暴に薙ぎ払う。
 俺は、この時まで、こんなに簡単に人が吹っ飛ぶものとは思わなかった。
 鈍い音ともにまともに壁にぶつかった櫻田に、俺は思わず目を瞑った。俺の物陰にいた江古田は「……痛そう……」と呟いていた。
 櫻田の呻き声が聞こえ生きてるようで安心したが、つまりは、武力的に阿賀松を止められる人間が、いなくなるわけで。

「随分と気が立っているな。……俺の前で堂々と暴力行為とは、随分と……」

 会長が言い終わる前に、阿賀松の手が、芳川会長の胸倉、そのネクタイを掴んだ。その反対側の手が、すでに拳を作っているのを見て、まずい。そう思った次の瞬間だった。
 容赦なく振り翳される阿賀松の拳。咄嗟に、目を瞑った瞬間、硬いものが擦れるような、そんな鈍い音が響いた。
 今のは絶対やばい。血の気が引き、恐る恐る目を開いたとき。俺は、目を見開く。

「……別に、俺を庇う必要はない……と言っていたはずだがな」

「灘」と、会長は、阿賀松の前、立ち塞がるその影の名前を口にする。
 真正面から阿賀松の拳を受けたらしい。ボタボタと溢れる鼻血を制服の裾で拭った灘は「すみません」とだけ口にする。

「邪魔だ、退けよ、お前に用はないんだよ、木偶の坊」
「会長は戻っていて下さい」
「逃がすかよッ!!」

 芳川会長が「そうだな」と答えた。それに間髪入れずに、芳川会長を捕まえようとする阿賀松。だが、それよりも早く、阿賀松の腕を掴んだ灘はそのまま、阿賀松のネクタイを掴み、引き寄せる。が、それも束の間。すぐに灘の脇腹に蹴りを入れた阿賀松はそのまま距離を取った。
 見てるこっちが顔を顰めるような蹴りの決まり具合にも関わらず、灘は眉一つ動かさずに体勢を立て直す。

「チッ、うぜぇ……ぬるぬる動きやがって……」
「理事長の孫とは言えど、問題行為を犯した人間には相応の処罰を下し、反省させる必要がある。……と、教えていたのは貴方ではありませんか」
「……」

 灘の言葉の意味が分からなかった。
 阿賀松が?と思った次の瞬間、阿賀松の殴りが灘の頭側部に思いっきり入る。重い一発、横殴りの衝撃に流石の灘も体勢を崩したが、それも一瞬、阿賀松の足首を掴んだと同時に制服のポケットから何かを取り出した灘はそれを阿賀松の手首に嵌めた。
 ガシャンと音ともに銀色の輪が阿賀松の手首にハマり、それと番になった片方の輪を灘は思いっきり引っ張る。それらを繋ぐ小さな鎖のチェーンがピンと張った。……手錠だ。

「……ッ、随分と、いい趣味じゃねえか……」
「ありがとうございます」

 鮮やかな手付きで両手首に手錠を掛けられた阿賀松。
「……なんで持ち歩いてんだよ……」と江古田の声が聞こえたがそれに関しては俺も同意だ。だが、そこではない。

「待って、灘君……」
「動かないで下さい」
「……ッ」
「貴方も、指導対象です。なので下手に動けばそれなりの対処をさせていただきます」

 櫻田のさっきの発言のせいか、相変わらず感情のないその灘の言葉に、全身が硬直する。
 条件反射で頭より高く両手を上げれば、灘は「そのまま、動かないで下さい」と口にした。
 嫌な予感がひしひしとする。両手を拘束したところで、阿賀松は、動けるのだ。足を縛り、柱に括り付けでもしない限り、安全とは言えないのではないか。
 と、一瞬、両手を拘束された阿賀松の口元に、嫌な笑みが浮かんだ。
 両手の拳をくっつけた阿賀松は、そのまま、こちらを向いていた灘の背後、思いっきりその拳を振り上げた。
 影に気付き、灘が振り返った瞬間だった。すぐ傍で、トン、と微かに床を叩く音がしたと思ったとき、阿賀松の拳の先に、投げ入れられる熊のぬいぐるみ。それがクッションとなり、思いっきり灘の顔面に直撃するが、俺が予期していた骨が折れるような音は聞こえなかった。

「……ツメ、甘すぎませんか……」

 立ち上がった江古田は、言いながら自分の口元をハンカチで押さえる。そして、何か棒状のものを取り出したかと思えば、その安全装置を外し、プシューと音を立てて阿賀松の顔面に向って放出する。

「この、チビ……」

 瞬間、辺りに白い霧が広がる。その独特の匂いに、慌てて口を塞いだ。が、阿賀松は、怒りのあまり江古田を捕まえることに気を向けた。それが失策だったのだろう。至近距離からまともにその煙を受けた阿賀松は、次の瞬間糸の切れた人形のようにその場に倒れ込んだ。

「えっ、江古田君……それは……」
「……催眠スプレー……櫻田君が暴れたときようだったんですけど……」

「……今ので、全部使い切ってしまったみたいです……」そうしょんぼりしながら呟く江古田に、俺は、まだ心臓の音が収まらなかった。
 阿賀松が、倒れている。あの阿賀松が。今、俺の前で。どこにいても、眠っていても隙がない阿賀松が、今こうして無防備に倒れているのを見ると、急激に不安になる。
 けれど、一先ずは切り抜けた……のだろうか。いや、そもそも丸く収まるはずだったのに……と思ったが、その保証はどこにもない。そう考えれば、ある種、助かった、のかもしれない。少なくとも、灘たちは。

「っ、灘君、大丈夫?血が……ッ」
「問題ありません。……それよりも、江古田君、すみません。自分の鼻血でこの熊が汚れてしまいました」
「……別に、構いません。……どうせクリーニングに出すつもりだったんで……それよりも、その方、早く縛って連れて行って下さい……今度目を覚ましたら、僕、殺されそうなんで……

 言いながら、江古田は海老反りで倒れていた櫻田をひっくり返し、ペチペチと頬を叩く。
「んん……?!」と呻き、もぞもぞと寝返りを打つ櫻田。
 どうやら打ちどころ悪く気絶していたらしい。櫻田もだが、灘もだ。よく、阿賀松の拳を食らって平然としている。

「……灘君、腫れが……早く、保健室に行った方がいいんじゃ……」
「後で行くので気にしないで下さい。それよりも、動くなと言ってたはずですが」
「あっ、え、ご、ごめん……なさい……」

 つい灘に駆け寄ったのがまずかったらしい。自分のネクタイを外し、阿賀松の足首を縛った灘はどこかに電話する。そして、暫くもしない内に現れた、風紀委員たち。そこに八木と呼ばれたあの男はいない。

「灘さん、その怪我……!」
「申し訳ございませんが、この方を指導室まで運んで下さい。重たいので、そこの倉庫からカート持ってきて乗せてもいいですよ」
「あっ、で、でも、この人って……」
「口よりも手を動かして下さい。後の責任は生徒会で請け負いますので」

 早くしろ、と言わんばかりの鋭い目に、風紀委員達は青ざめ、慌ててカートを運んでくる。それに丁重に乗せられる阿賀松の図は中々見れるものではないが、俺は後のことを考えるとただ胃が痛くなった。
 誰だって、阿賀松を指導室に連れていけるわけがない。俺だったら全力でお断りするだろう。それでもしなければならない風紀委員達には同情せざるを得ない。

「様子がおかしかったですね」

 カートに乗せられ、運ばれる阿賀松を見送りながら、灘はそのまま静かに俺を見た。

「少なくとも、俺の知っている阿賀松伊織は一時の感情に流されて動くような人間ではありませんでしたが……それも、こんな分が悪い状況で」
「……そう、だね……」

 阿賀松が、冷静ではなかった。
 確かにそうだろう。普段の阿賀松なら、この状況下で、単身で乗り込んでくる真似、それも、明らかに不利な状況で生徒会に突っかかるような自殺行為、しなかったはずだ。
 ……間違いなく、阿佐美のことが原因なのだろうが、何をそこまで阿賀松を突き動かすのか、俺には見当つかなかった。
 それも、阿佐美相手にだ。だって、阿佐美と阿賀松は、それ程親しいようにも思えなかったのだ。

「……」

 俺が、素直についていけば、こんなことにならなかったのだろうか。
 この感情を、罪悪感と呼んで良いのか分からなかった。
 まさに傍若無人。秩序を乱し、俺の平穏も乱しては笑っていた阿賀松のこんな姿を見たことに対し、俺は、思っていた以上に動揺しているらしい。
 灘の言う通りだ。阿賀松はおかしかった。
 恐らく、芳川会長に襲い掛かろうとしたのも……阿佐美の怪我をさせた犯人だと思ってるからか。
 分からないが、これから、指導室で口を割られることになるのだろう。どうなるかは分からないが、少なくとも、まだ安心できるような状況ではない。それどころか、どんどん騒ぎが大きくなっている現状に俺は人知れず不安を覚えた。

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