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「っ、……」
これ以上、壊されたくなかった。今まで信じて疑わなかったものをこんなタイミングで。だから、俺は壱畝を思いっきり突き飛ばしてその場から逃げ出した。
力なく尻餅をついた壱畝がどんな顔をしているのか、後ろを振り返る余裕はなかった。けれど、俺の全力疾走でも壱畝の足なら簡単に追い付くことが出来たはずだ。
それなのに、一向に壱畝が追い掛けてくる気配はなく、俺はとうとう壱畝から逃げ出すことに成功した。
「……っ、は……ぁ……っ」
息を切らし、やってきた階段の踊り場。下半身が何度も刺されるように痛んだ。ここまでくれば、壱畝から逃げられたも同然のはずだ。
そう考えると、全身の力が抜けるようだった。壁に凭れ、堪らずそのまま座り込む。
……どうして壱畝はあんな真似を。
考えたところであいつの思考なんて理解できるはずがないと分かってても、今だけは、教えて欲しかった。
そうじゃないと、背筋の凍るような自惚れた考えが脳裏にこびり付いて離れないからだ。あり得ないと分かっていても、それでも、希望的観測をしてしまう都合の良い頭が情けなかった。それが自分の願望だという事実にも嫌気が差す。
思い違えるなよ、あいつが人間らしい頭をしているわけがないだろう。言い聞かせるように何度も首を振り、思考を振り払う。それでも、気分は晴れなかった。
「……最悪だ……」
元はと言えば、壱畝を追い掛けた自分が悪いのだと分かっていた。甘い考えに踊らされ、過去に夢見て動いた自分が。
……どうしよう、これから。
会長にも合わせる顔がないし、壱畝とは顔を合わせたくない。壁伝いに立ち上がる。……全身が痛む。それでも、殴られた頬よりも噛まれた唇の方が焼けるように痛くて。
……教室に、戻らないと。
阿佐美がせっかく助けてくれたのに、また逃げ出してコソコソするような真似はしたくない。
壱畝には会いたくないが、壱畝は周りに人がいればそう派手な真似はしてこないはずだ。
そう思い立ち上がった時。足音が一人……二人だろうか。もう授業が始まってる時間だと思うが……。
不審に思い咄嗟に俺は階段の陰に隠れた。
『やられたなぁ、今度こそ戻れなくなるんじゃねえのか?お前』
そして、聞こえてきたその声に息が止まる。
阿賀松だ。
どうして阿賀松がこんなところに、と思ったが奴も一応はこの学園の生徒だ。校舎にいても不自然ではないが……。
『……アンタには関係ないだろ』
聞こえてきたもう一つの声に心臓が跳ねる。鷹揚のないその声に聞き覚えがある。
栫井平佑――生徒会副会長である栫井が何故阿賀松と一緒にいるんだ。
そこまで考えて、この前会長が栫井のことを“鼠”と呼んでいることを思い出す。
……まさか、また、何かを企んでいるというのか。
息を潜め、極力気配を消す。
無理な体勢に節々が痛んだが、それでも、ここでバレるわけにはいかなかった。
こちらに近付いてくる足音、二人の声は次第に鮮明になっていく。
「可愛くねえな。ま、あのメガネに捨てられたら俺が肉盾にでもしてやるよ。でもお前、薄いから弾除けにもなんねーか」
「……無駄話はいい。それよりも、いつまで放っておくつもりだ」
「なんだ?そんなに邪険にしなくていいだろ。元はと言えばお前んところのご主人様が連れて行ったんだからよ」
「いい加減目障りだ。……さっさと回収してくれ」
「……そう急くなよ。心配しなくても、アイツの方から俺んところに泣き付いてくるはずだ」
「都合の良い頭を持っていて羨ましい限りだな」
「お前には敵わねえよ」
阿賀松の笑う声が近付いてくる。身体が固くなり、必死に陰に隠れた。そのまま通り過ぎろ、そう念じつつ、俺はやり過ごそうと試みる。
その矢先だった。すぐ背後から聞こえてきた微かな足音に、身体が強張った。恐る恐る振り返ったとき、そこには見覚えのある男が立っていた。
青い髪に制服の上からでも分かる満身創痍のその男は。……縁方人。こちら見下ろす縁方人に、確かに心臓が停まった。
バレた、気づかれた。おまけに、縁の足音で阿賀松たちも気配を感じたのだろう。足音は止まり、その話し声も途切れる。
まずい、まずい、まずい。
こちらを凝視する縁に、全身から汗が滲む。誤魔化さなければ、そう思うのに言葉が出なくて。
見つかった、と全てを諦めて目を固く瞑ったときだった。
「あれ、伊織何してんの?」
俺の横を通り過ぎ、縁方人は階段を降りていった。
まるで何も見ていなかったかのように、そのまま素通りする縁に俺は、一瞬何が起こったのか分からなかった。
「……チッ、方人かよ」
「舌打ちすんなよ。……ってあれ、副会長も一緒なんだ。めっずらしー。ね、ね、俺も混ぜてよ」
「別に好きで一緒にいるわけじゃない。……後は勝手にしろ」
縁から逃げるように栫井はその場を立ち去った。その後ろ姿に舌打ちをした阿賀松だったが、特に引き止めるわけでもないようだ。
「あーあ、気分が萎えた。……帰って寝るかな」
「寝るんならどっか飲みに行こうぜ、暇なんだろ?」
「暇じゃねえよ、寝るっつってんだろ」
絡んでくる縁をしっしとあしらいながら歩いていく阿賀松と、その後ろについていく縁。
……もしかして、俺のために阿賀松の気を逸らしてくれたのだろうか。
なんて思ったが、二人がいなくなった今、逃げるチャンスだ。俺はなるべく足音を立てないように階段を登り、阿賀松たちのいない階へと移動した。
逃げ出したところで何も変わらないと知っているくせに同じことをするのだからどうしようもない。阿賀松たちから離れた俺は最早自分がどこにいるのかさえ分からなくなっていた。
大分頭は冷静になってきたが、頬の痛みは痺れになり始めている。こんな顔をして教室に戻るのも、と考え始めたときだ。向かい側から数人の生徒が歩いてくる。
どうしてこんな時間に、と思ったが、その腕に付けられた腕章に気付いた。金色の『風紀』の文字。……風紀委員だ。
隠れる前に、相手と目が合ってしまう。やばい、と思ったが、風紀委員たちは驚いたような顔をして、すぐに頭を下げてきた。
「……?」
どうして頭を下げられたのか分からなかったが、すぐにその理由に気付く。後ずさったとき、背中に何かがぶつかる。壁とは違う、背の高いそれを振り返った俺は青褪めた。
「……ご苦労。お前らはさっさと授業に戻れ」
そこには以前阿賀松たちに頭を下げていた風紀委員がいた。
確か、名前は……八木だ。
「っ、あの……」
「人にぶつかっておいて『ごめんなさい』も言えないのか?お前の口は」
「……っ、ご、ごめんなさい……っ!」
驚きと戸惑いで反応に遅れてしまったが、確かにそうだ。慌てて頭を下げれば、こちらを見下ろしていた八木は面倒臭そうに息を吐いた。
「別にいい。けど、なんだよ……その面は。お前、芳川のところにいたんじゃないのか」
「……っ、そ、れは……その……」
「……まあいい。おい、ちょっと来い」
腕を掴まれ、ぎょっとする。もしかして阿賀松たちのところに連れて行かれるのだろうか。だとしたら、まずい。非常にまずい。
「あっ、あの……どこに……」
恐る恐るその背中に声を掛ければ、八木はこちらを一瞥した。鬱陶しいと言わんばかりの鋭い目に余計不安になる。が、すぐに八木は俺から目を逸らした。
「保健室。……そんな顔をしたやつを放ったらかしにしていたら後輩に示しが付かないからな」
返ってきた言葉は、予想していたものとは違ったものだった。こうして、直接話したのは初めてだったが正直、俺は驚いた。その言葉が本当かどうか分からなかったが、それでも確かに八木の歩いていく方角は保健室のある場所で。
まさか、本当にそれだけなのだろうか。
不安な俺を無視して、やってきたのは学園内保健室。
幸か不幸か、他に生徒はおらず養護教諭がすぐに俺を手当してくれた。
怪我のことを聞かれたが、良い渋る俺に教諭も深く追求しては来なかった。
氷嚢をもらい、それを腫れたそこに押し当てる。痛みはしたが、それでも焼けるように熱かったそこには驚くほど馴染んだ。
手当を済ませ、八木とともに保健室を後にする。
本当に、俺を保健室に連れて行くだけだったのか。疑ってしまったことがただ申し訳なくて、終始俺は八木の顔を見ることが出来なくなる。
「それ、殴られた跡だろ」
保健室を出た直後、八木に尋ねられる。
「それも、それほど時間が経っていないはずだ。……芳川と喧嘩でもしたのか」
静かに尋ねられる。他の風紀委員から俺が会長と一緒に行ったことを聞いたのきもしれない。それでも、嫌に鋭い八木に俺は口籠らずには居られない。
「っ、これは……その……違います。友達と、喧嘩して……」
「喧嘩、ねえ」
「……っ」
やっぱり、この人苦手だ。怒られているわけではないと分かっていても、威圧感から責められているように感じるのだ。
何も言えなくなる俺に、八木は小さく息を吐く。そして、制服のポケットを漁り始めた。
「……お前、確か……齋藤だっけ?」
「っ、あ……はい……齋藤、佑樹です……」
なんでいきなり名前なんて、と顔を上げたとき、八木に「手を出せ」と命じられる。
「手……?」
どうしてそんな、と不思議に思いながらも恐る恐る手を出せば、手のひらにころりと何かが転がる。透明の袋に包まれたそれは飴玉のようだった。益々混乱して八木を見上げれば、八木はボリボリと髪を掻きながら顔を逸らした。
「やるよ。……それ」
「っ、え、でも……」
「悪かったな、強引に連れてきて」
「後は好きにしていいから」と、八木は踵を返す。「あの」と声を掛けたが、それを無視して八木はその場を後にする。
……お詫び、ということなのだろうか。俺は暫く手のひらの上の飴を眺めていた。
芳川会長の言っていた鼠があの人のことだとして、どうして、八木が阿賀松たちと一緒にいるのか益々分からなくなる。
悪い人、なのだろうか。飴玉一つで絆されたつもりではないが、俺にはそう思えなかった。確かに顔は怖いけど、本当に心配してくれただけみたいだし……。
考えながら、俺は歩いた。
少しだけ喉が乾いたので俺はラウンジに立ち寄る。そこで八木から貰った飴玉を口の中に放り込んだ。プリン味は少し、俺には甘すぎた。頬の痛みも、もう感じなくなっていた。
氷嚢で冷やしたお陰で大分頬の腫れも引いた。完全には赤みまで取れていないが、それでも少し赤くなってる程度で収まっているだろう。
いつまでもボケッとしてるわけにもいかない。そう心に決め、俺は教室へ戻ることにした。
教室前、廊下。
窓から覗く教室の中に、壱畝と志摩らしき陰はない。
阿佐美も……いないみたいだな、と窓から顔を離そうとしたときだった。不意に、背後から肩を掴まれ、飛び上がりそうになる。慌てて振り返れば、そこには同様驚いた顔をした阿佐美がいた。
「あ……ご、ごめん……ゆうき君」
「し、おり……」
びっくりしたと同時に立っていたのが阿佐美だったことに心底ほっとした。けれどそんな俺とは対照的に、俺の顔を見た阿佐美は顔を顰める。
「……どうしたの?その頬……」
どうやら、壱畝に殴られた跡に気付いたようだ。
触れるその指に少し驚けば、阿佐美は慌てて手を引っ込める。しかしその咎めるような視線は外れない。
「あ……こ、これは……大したことないよ、その、ぶつかっちゃって……」
「……」
「……大丈夫だから、心配しないで……」
バレバレの嘘だとわかったが、下手な心配は掛けたくなかった。
気まずくなって、咄嗟に視線を泳がせ、話題を探す。
「詩織、珍しいね……普通に授業に出てるなんて」
「……ゆうき君が、なるべく一緒に授業に出たいって言ったんじゃないか」
「そ、そうだったね……」
「本当に大丈夫?……授業に出ても。休むんだったら、俺は休んだ方がいいと思うよ。……色々あって疲れてるだろうし」
「……ありがとう、詩織。でも、大丈夫だから……本当。ごめんなさい、心配かけて……」
安心させようと変えた話題のはずだったのに、逆に余計に心配掛けてしまうなんて情けない。
けれど、その優しさは純粋に有り難い。自分のことでも本当に心配してくれる人もいるんだと、安心するのだ。
話が途切れてしまい、なんとも言えない沈黙が続く。何か言わないと、何か言わないと、と焦る度に何も考えられなくなって、暫く見つめ合う時間が続いた時だった。阿佐美が、重い口を開く。
「あの、さ……ゆうき君、会長のことで話があるんだけど……」
そう、阿佐美が何かを言い掛けた矢先のことだった。言葉を遮るように、廊下にチャイムが鳴り響いた。そして続いてやってきたのは担任の大きな足音だった。
「おーい!チャイム鳴ったぞー!早く席に付けー!」
相変わらず元気そうな喜多川は、廊下に溜まっていた生徒たちに声を掛けていく。それを見た阿佐美は少しバツが悪そうな顔をして、そして微かに微笑んでみせた。
「……また、後で話すよ」
「うん……」
阿佐美の言葉は気になったが、無理矢理聞き出せる雰囲気でもなかった。阿佐美に促され、俺は自分の席に着く。
それにしても……阿佐美は何を言い掛けたんだろう。会長のこと、だよな。
なんとなく阿佐美の言葉の続きが気になって授業が身に入らなかった。
浮ついたまま受ける授業程勿体無いものはないだろう。内容は何も頭に入ってこなかったが、ただ一つ、志摩と壱畝が授業に戻ってくることがないのだけは分かった。
そして、再びチャイムが鳴り響く。授業が終わり、俺は阿佐美の元へ向かおうと席から立ち上がったときだった。
「しお……」
「失礼します」
り、と言い終わると同時に教室の扉が開く。
現れたのは、灘和真だった。視線を集める灘はそれらを無視して真っ直ぐに俺の元までやってくる。
「齋藤君、会長が生徒会室でお待ちです」
まさか、ここまで迎えを寄越すなんて。
何故会長が来ないのか気になったが、どちらにせよ誘われていることには違いない。
俺は、こちらを見る阿佐美に助けの視線を向けた。
「し……詩織」
「……会長の言うことは聞いていた方がいい。……俺の用件は後ででもいいから。行ってきなよ」
そう、阿佐美は言った。確かに、会長を怒らせるような真似はしたくない。阿佐美と話したかったというのが本心だが、阿佐美もこう言っているんだ。従った方がいいだろう。
「それでは行きましょう」
阿佐美には悪いが、俺は灘とともに生徒会室へと向かうことにした。前はあんなに会長に誘われることで一喜一憂していたというのに、なんだろうか、素直に喜べない自分がいた。
灘と歩く廊下はやけに長く感じた。会話がないというのもあるだろうが、会長のことを考えると自分が遠くに感じるのだ。けれど、だからと言って逃げ出すことも立ち止まることも出来ないまま、俺は灘の斜め後ろを歩いていく。その足は鉛のように重かった。
どんな顔をして会長と会えば良いのだろうか。そんなことを考えている内に、生徒会室まで辿り着いてしまう。
学園、生徒会室。
三度、その扉をノックした灘は「失礼します」とだけ呟き扉を開いた。瞬間、食欲をそそるような匂いが生徒会室から溢れ出す。
「よく来てくれた、齋藤君」
芳川会長は、俺を笑顔で出迎えてくれた。テーブルの上に並べられた、二人用の昼食。その傍に置かれて銀のカートからして食堂から持ってきてもらったものだろう。
待っているとは言われていたが、まさか昼食を取るつもりだとは思っていなかっただけに、俺は戸惑った。
「急に呼んですまなかったな。……一緒に昼食が食べたかったんだ」
「は……はい……」
「……どうした?もしかして、都合が悪かったか?」
「いえ、その……そういうわけではないんですが、すみません、色々気を遣わせてしまって」
「なんだ、そんなことか。気にするな、俺が好きでしているんだ。……それよりもこっちに来い。お腹、空いているだろう」
そう、ソファーを叩く会長に、俺は「は、はい」と慌ててソファーに腰を下ろす。
隣に座る勇気はないので、向かい側に座ったが会長は特に何も言ってこなかった。
「それでは自分はこれで」
そんな俺を横目に見た灘は、会長に向き直り頭を下げる。
まさか、もう帰るのか。
俺が声を掛ける暇もなく、灘は生徒会室を出ていった。会長はそれで視線で見送るだけで、それもすぐに俺に向けられる。
「飲み物は何がいい。色々用意しているが」
「あの、俺のことはお構いなく……」
「そう言うな。俺がしたいんだ。……それに、今は気分がいい」
そう、会長は優しく微笑んだ。不気味な程機嫌がいい会長。その理由が見当も付かず、なんだかその笑顔が逆に不安になる。
あれ程怒っていたのにどうして……。
「君は阿佐美詩織と元々ルームメイト同士だったな」
その理由を考えていると、突然芳川会長はそんなことを尋ねてきた。
「……はい、そうですけど……」
どうしていきなり阿佐美のことを聞いてくるんだ。脈絡のないその発言に、胸の奥底に芽生えた違和感は膨らんでいく。それでも、会長は口を止めない。
「君と彼は仲がいいのか?」
仲がいい……と呼んでいいのだろうか。
助けられることもあるが、普通の友人のそれとは少し異なっているのも事実だ。俺は、返答に迷う。
「……色々お世話になってますが……その、どうしてそんなことを聞くんですか?」
「何、少し気になっただけだ。……君を知りたいと思うのはおかしいことか?」
「あのっ、会長……」
「……気にするな、他意はない。気になっただけだ……それに、阿佐美君はどこの委員会にも部活にも所属していないのに二年では常に学年主席だ。……授業になどろくに出ていないというのに」
「不思議だな」と、会長は口にした。笑みを浮かべたまま、目を細めて。
なんだろうか、なんだか酷く落ち着かない。どうして会長がそんなに阿佐美のことを気にかけるのか、さっきのことが気になっているのだろうか。阿佐美に止められたことを、根に持っているというのか。
「俺の知り合いにもいた。ろくに授業に出ていないのに常にテストは満点。主席で有り続けるんだ。……俺がどれだけ勉強しても奴は簡単に越えて見せる」
「天才というのは本当にいるんだなと思ったよ」そう話す会長の目はどこか遠い。
俺には、会長がなんのことを言っているのか、その真意がまるで分からなかった。
けれど、三年の学年主席は確か、阿賀松伊織だと聞いたことがある。
俺が反応に困っていると、こちらを見た会長は小さく喉を鳴らした。
「その様子では……君は本当に何も知らないようだな」
「あの、会長……すみません。俺には会長言っていることが、よく……わかりません……」
「気にしないでくれ。……ただの戯れ言だ、悪かったな」
「……」
……気にするなと言われて、はいそうですかと頷けるわけがなかった。
それ以上会長は阿佐美のことに触れることはなかったが、それでも頭の中では会長と阿佐美のことばかりがぐるぐると頭の中を回って、どんな料理を食べてもまるで味を感じることは出来なかった。
会長は、本当に何もなかったように俺に接してくれた。それは、余計俺の不安を掻き立てる。
食事を終え、「教室まで送ろう」という会長に言われるがまま、俺は会長とともに教室へ戻った。
手を握り、周りの目なんて気にしないみたいに歩く会長に色々な意味でドキドキして、俺はろくに頭を上げることが出来ずにいた。
そして、辿り着いた教室前。
「また迎えに来る」
そう、俺に耳打ちした会長は小さく笑い、そのまま教室の前を後にする。
会長と別れた俺は、周りの視線から逃げるように教室へと逃げた。
教室には阿佐美がいた。携帯端末を弄っていた阿佐美に「詩織」と声を掛ければ、こちらを振り向く。そして、「ゆうき君」と立ち上がり、持っていた端末をポケットへと仕舞った。
「詩織……ごめん、あの、さっきは……」
「いいよ、そんなこと。それより……大丈夫だった?」
「う……うん、ただそのご飯を一緒に食べようって誘われただけだから……」
ここまで心配を掛けてしまっていると、逆に申し訳なくなってくる。
そんな俺に僅かに頬を緩ませた阿佐美だったがそれも束の間、阿佐美はすぐに口元を強張らせた。
「だったらいいけど……あの、ゆうき君」
「話だよね。……うん、いいよ。まだ、時間あるし……」
「……ありがとう。なるべくここから離れたいんだけどいいかな」
「うん、詩織に任せる」
ありがとう、と阿佐美はもう一度口にした。お礼を言わないといけないのは俺の方だというのに。思いながら、俺は阿佐美とともに教室を出る。
まだ次の授業まで時間がある。とは言っても、まさかここまで来るとは思わなかった。
学園敷地内、校舎裏。
人気どころか人の声すらしないそこは、ジメジメとした空気が漂っていた。
「……ここなら、カメラもないし……大丈夫かな」
「カメラ?」
「うん……あまり、ゆうき君と一緒にいるところを見られると都合が悪いからね」
その言葉に、阿賀松と会長の顔が過る。
阿賀松と阿佐美の関係も……聞きたいとは思っていた。が、それよりも本題はさっきの阿佐美が言い掛けていた話だ。阿佐美は少なくとも会長の何かを知っているには違いないはずだ。
「……詩織、あの……さっき、言い掛けてたことなんだけど」
「芳川会長のことだね」
小さく答える阿佐美に、俺は頷いた。学園内部のはずなのに、まるで切り取られたみたいに静かな空気が流れるそこに阿佐美の声だけが響く。
「……あの人は、厄介なところがある。ゆうき君のことは会長なりに考えているみたいだけど、ゆうき君の立ち位置は今危険なところにあるんだ」
「……危険?」
「あっちゃん……伊織はそれを分かってて企んでるみたいなんだ。ゆうき君のことなんて、考えていない。寧ろ、君に害が及ぶことを狙っている」
仁科にも、似たような忠告を受けていた。けれど、けれどだ。
「ちょっと、待って……どうして詩織がそんなこと……」
「それは……その、……俺の口から言えるのはそれだけだから……無責任かもしれないけど、俺は、君を助けることは出来ないんだ」
「……詩織」
何か、事情があることには違いない。それは、俺には分からなかったがそれでも、それに阿賀松が深く関わっていることには違いないだろう。
本当は、話してもらいたかった。阿賀松と話していたときの阿佐美の姿を思い出すと、本当に信じていいのか不安になる。
けれど、芳川会長を止めてくれた時も、志摩との仲裁に入ってくれた時だって、いつだって阿佐美は俺のことを助けてくれた。
……こうして人目を盗んでここまでしてくれること自体、阿佐美にとっては大変なことなのかもしれない。
そう思うと、わがままをいう気になんてなれなかった。
「無責任だなんて思わないよ。……ありがとう、教えてくれて」
「……ゆうき君……」
歯痒そうに、阿佐美が低く唸った。そしてほんの、一瞬のことだった。頭上から、窓が開くような微かな音がした。
「……ッ!」
瞬間、ハッとした阿佐美の手が、伸びる。
「ゆうき君ッ!」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。名前を呼ばれ、身体を抱き締められる。
いきなりどうしたのだろうかと顔を上げたその阿佐美の肩越し、空から何か黒い物体が落ちてくるのが見えた。
「え」
何かが潰れるような鈍い音。それと同時に、全身を庇うように抱き締めてくる阿佐美の身体が短く痙攣した。
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