天国か地獄


 23

 どうして、会長がここに。
 あまりのタイミングの悪さに、咄嗟にブレザーを羽織るが、スラックスを履き直すことまでは出来なくて。
 躊躇いもなく教室へと足を踏み入れてくる会長に、壱畝遥香は目を細める。そしてすぐ、笑顔を浮かべた。けれど、顔が強張っているせいかその笑みがどこかぎこちないことに気付く。

「どうしたんですか?……ここ、二年の教室ですよ」
「何をしていると聞いてるのだが、君の耳は飾りか?」
「……見てわかりませんか?ゆう君を脱がせたんですよ。変なアザがあったんで、もしかしてと思ってね

 誤魔化すわけでもなく、壱畝はそのまま言葉にした。
 確かに、状況が状況なだけに下手に誤魔化すよりは効果的だろうが、会長がそんな言葉で納得できるはずがない。
 押し黙る会長のその表情が、その目が、鋭くなるのに気付いたようだ。その反応が、壱畝に引っ掛かったようだ。

「っ、まさか……」
「……彼の怪我のことは既にこちらで手当をしてある。君が余計な首を突っ込む必要はない」

「齋藤君」壱畝の言葉を遮るように、会長はこちらに向かって手を伸ばした。
 来い、と言っているのだろう。
 もしかしてまた連れ戻されるのだろうか。今度こそ、授業に出るなと怒られるかもしれない。そう思うと、自然と足元が竦んだ。
 けれど、行かないと。会長に失望されるのは、嫌だ。会長のあんな顔を見るのも嫌だ。
 一歩、足を踏み出したときだった。会長に手首を掴まれ、思いっきり引っ張られそうになる。その時壱畝に肩を掴まれる。

「待てよ」

 そう、俺を無理矢理会長から引き摺り離した壱畝は、そのまま俺を背に会長の前に立った。

「……アンタじゃないんですか?ゆう君に傷を付けたの」
「どういう根拠があっての発言だ、それは。……言い掛かりはやめろ」
「怪我のこと知ってて、よくもアザがついてる手首を掴めますね。……恋人にそんな真似、普通出来ないと思うけど」

 壱畝の口から出てきたその単語に、冷水を掛けられるようだった。
 やっぱり知っているのか。俺と会長のこと。それでいて、何も言わなかったのかと思うと何も考えられなくなって、それよりも、会長に真正面から壱畝に心臓が痛くなる。
 どうして、放っておいてくれ、壱畝には関係ないだろう、そこまでして俺と会長の邪魔をしたいのだろうか。こんがらがる頭の中、庇うように目の前に立つ壱畝の背中に、昔の記憶と、重ねてしまう。

「俺と齋藤君の関係を知ってるのなら尚更だ。他人の事情に首を突っ込むのはやめろ」
「それなら、俺とゆう君に首を突っ込むのをやめろよ。アンタだって全く関係ないだろ」
「……目に余るな」
「壱畝君……ッ」

 溜息混じり。目を伏せた会長が、次の瞬間底冷えするようなあの目になっていることに気付いた俺は、咄嗟に壱畝の制服を引っ張った。
 何故だろうか、このまま会長に嫌われればいいと思うのに、気が付いたら俺は壱畝を止めていた。

「っ、触るなッ!」

 瞬間、こちらを振り向いた壱畝に思いっきり振り払われる。
 危ない、と思った時には遅くて、咄嗟に受け身を取ろうにも身体が思うように着いてこず、背後、机の角が目に入った時。伸びてきた身体を支えられる。

「……大丈夫ですか」

 音もなく現れた灘は、俺の肩を抱き、こちらを覗き込んでくる。
 正直、灘の登場にも驚いたが一先ず一命を取り留めたことに安堵する。緊張の糸が解け、その場に崩れ落ちそうになるのをなんとか堪えた。

「……これ以上騒ぎを大きくするつもりならそれなりの対処が必要になってきますが」

「如何しますか」と、芳川会長に目配せする灘。その言葉に、俺は遠くから足音が近付いてくるのに気付く。
 こんな場面、他の生徒にまで見られたら間違いなく面倒なことになるだろう。

「放っておけ、一人がただ騒いでるだけだろう」
「畏まりました」

「歩けますか」と、灘に尋ねられる。
 歩けないこともないが、どこに行くつもりなのだろうか。この後のことを考えると生きた心地がしなくて、俺は、灘に答えることができなかった。
 背中を押すように、歩かされる。そんな中、静まり返った教室に壱畝の声が響く。

「そいつをどこに連れて行くつもりだよ」
「彼は俺達が保護をする。だから君は安心して勉学に励んでくれ。……人の恋人に横恋慕をするよりかはよっぽど有意義だぞ」
「ッ、……!」

 笑う会長に、その言葉に、カッと壱畝の目の色が変わるのを俺は気付いた。
 横恋慕なんて。壱畝の神経を逆撫でするような会長の言葉にもヒヤリとしたが、それ以上に、壱畝のその鋭い目がこちらを睨んできて思わず足を止める。

「……お前もそいつの顔色ばかり伺いやがって……ッ!言いたいことがあるなら言えよッ!」

 ――言いたいことあるんなら口で言ってくれないと俺、分かんないんだって。頭、悪いから。
 どうして、こんなタイミングで思い出すのだろうか。こんなこと。
 壱畝の言葉に、忘れかけていたものが、忘れようと押し込めていた何かが胸の奥から滲み出す。

「っ、お、俺は…………」

 言いたいことなんて、ない。
 会長が安心してまたいつものように笑ってくれるならそれでいい。そう思うのに、なんでだろうか。そう言えば良いだけなのに、口が思うように動かない。
 俺は本当にそう思っているのだろうか。俺は、そう思い込もうとしているのではないのだろうか。会長のことを、会長が一番だと。

「ッ……会長、あの……俺は……大丈夫です……」

 逆らってはダメだ。そう思うのに、なんでだろうか。口から出てきた言葉は俺が何度も頭の中で繰り返していたそれらとは違うものだった。

「……ありがとうございました、助けて頂いて」
「齋藤君……?」

 何言っているんだ、俺。駄目だ、余計なことを言うな。そう思うのに、どうしてだろうか。驚いたように目を丸くする会長に、胸が苦しくなる。けれど、ここで従ってしまえば本当に俺は自分にまで嘘を吐くことになる。それだけは、壱畝の前で、そんなことだけはしたくなかった。

「……駄目だ。それは、許さない……」

 それは、いつもの命令とは違う、会長の言葉だった。手を掴まれる。ほんの一瞬、驚いて顔を上げたときに会長の目の奥が揺らぐのを見て、息が止まりそうになる。
 どうして、そんなに悲しそうな顔をするんだ。

「随分と大人げないじゃないですか。……芳川会長」

 言葉に詰まり、確かに、こちらまで揺さぶられてしまった時だった。
 開いた扉から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。けれど、それは俺が知ってる優しくて明るいそれとは違い、冷たくて平坦としたもので。

「彼が『大丈夫』だと言ってるんですからそれを尊重するのが恋人としての役目ではありませんか。……少なくとも、俺はそう思いますけど」
「っ、し、おり……」

 阿佐美詩織。本当に、阿佐美なのだろうか。
 足音も立てずに教室に入ってくる阿佐美は、そうあくまで諭すように続ける。

「……部外者が口を挟むな」
「俺ではなく、当の本人である彼がそう言っているんですよ。本来耳を傾けるべき存在を無視してるのは貴方の方だろう」

「無駄な意固地で下手に目立つ真似をしても逆効果、面白がって彼にちょっかいかける人間が増えるだけでしょう。普段の貴方はそれを踏まえてどっしり構えていたじゃありませんか」饒舌で、有無を言わせないその言葉遣い。
 いつものふにゃっとしている阿佐美からは考えられない、その冷静な言葉に俺も、壱畝も、会長も耳を疑った。ただ一人、灘は相変わらずだったがその胸の内までは計り知ることが出来ない。

「……お前……」
「弱味を見せる真似、得策ではないと言ってるんですよ」

 あくまで姿勢を崩さない阿佐美に、会長は何かに気付いたようだ。その口元に、先程までには無かった笑みが浮かぶ。それも、凶悪な。

「……人でなしの為り損ないがご大層な口を叩くな。どういう風の吹き回しだ?」
「勘違いしないでください。俺は、ゆうき君の身を案じてるんですよ。……子供のような我儘で危険に晒すような真似をするなら、俺が許さない。そう言ってるんです」

 長い前髪の隙間、細められた目が会長に向けられた。
 それには侮蔑の色が含まれていて、それを真正面から受けた会長は怒るわけでもなく、笑った。
 声を堪えるように、喉を鳴らし、乾いた笑い声を漏らす。そして、会長は俺から手を離した。

「……っ、あの、会長……」

 阿佐美の言葉に納得した、というよりも、興味が俺から別のものに動いた。そんな気がした。俺の耳元に口を寄せた会長は、「何があればすぐに連絡しろ」と小さく耳打ちした。

「灘、行くぞ」
「……良いんですか、それで」
「あぁ。……それに、用事を思い出した」
「……畏まりました」

 灘はこちらを一瞥し、そのまま先を歩く会長の後ろを追いかけて行く。
 本当に、このまま行かせていいのだろうか。迷ったが、阿佐美に「ゆうき君」と名前を呼ばれ、ハッとする。いつもと変わらない、優しい声。

「詩織……」
「……あの人なら大丈夫だよ。……心配なくても、あっちゃん並にタフだしね」
「……」
「ぁ……あの、もしかして、余計なことした……?」

 押し黙る俺に、何か勘違いしたようだ。阿佐美は「ご、ごめん」と項垂れる。慌てて、俺は首を横に振って否定した。

「違う、違うよ……ほっとして……本当に、助かったんだって……」

 助かった、なんて言葉が自分の口から無意識に出て、自分で驚く。
 俺は、会長から助けられたかったのだろうか。益々混乱しそうになるが今はただ、落ち着きたかった。
 それに……。

「……っ、ぁ……」

 壱畝を目で探したときだった。丁度、教室から出ていこうとする背中が目に入った。思わず声を上げる俺に、阿佐美は「ゆうき君?」と不思議そうに小首傾げた。

「ううん、なんでもない……もう大丈夫だよ、詩織」
「……そっか、なら良かった」

 阿佐美のことも、会長の豹変した態度も気になったけど。
 阿佐美に別れを告げ、俺は教室を後にした。自分から自分の首を締めに行くようなものだと分かっていても、それでも、気になったのだ。頭から離れなかったのだ。
 庇ってくれたその背から見た、あの壱畝の顔が。
 壱畝は怖い。怖いけど。

『アンタじゃないのか、ゆう君に傷付けたの』
「……ッ」

 あの時の声が、目が、昔と重なった。いつも、隣にいてくれたハルちゃん。思い出したくもなかったし、ずっと忘れていたかった。それなのに、壱畝の背中を見てしまってから蓋をしていたものがドッと溢れ出しては止まらないのだ。

『もっと自信を持てよ。……少なくとも俺は、ゆう君は頑張ってると思うよ』

 最初から、全部演技だったのだと。
 あの頃俺の背中を押してくれたハルちゃんはどこにもいないのだと分かっているのに、愚かなことに俺はハルちゃんの面影を見つけては居ても立ってもいられなくなった。
 本当に、馬鹿みたいだと思う。過去の幻影に囚われているのはどちらというのか。

 壱畝遥香はすぐに見つかった。
 人気のない、空き教室が並ぶ通路。そこで、壱畝は窓の外を眺めていた。

「……」

 ここに来たからと言って、俺にはなにもできないと最初から分かっていたはずだ。遠くからぼんやり眺める。
 ……前にもこんなことがあったような気がする。壱畝が転校してきたばかりの頃だ。一際目立つ容姿に、季節外れの転校生。田舎の中学校では、壱畝はまさにうってつけの話のネタだった。常に誰かに囲まれていた壱畝は、時折、誰もいなくなった教室で一人になると疲れたような顔をしていたのを覚えている。
 俺は、声を掛けることも出来ずにそれを眺めていた。

「……」

 近くにいるのに、何を考えているのか分からない。
 なんて声を掛けたらいいのか、分からなかった。そもそも、壱畝は俺に声を掛けられることを望んでいないはずだ。
 それでもお礼だけは言っておきたかった。けれど……やっぱり、やめよう。逆に壱畝の逆鱗に触れるだろう。それに、今更あいつにお礼を言ったって、なんにもならない。
 そう、来た道を戻ろうとした時だった。壱畝がこちらを振り返り……目が、合った。
 音には注意したはずだが、気配を感じたのかもしれない。まずい、と慌ててその場を離れようとしたが、下腹部に痛みが走り、つい、蹌踉めく。瞬間、伸びてきた手に身体を支えられる。

「……っ、ぁ……」

 声を漏らしたのは、壱畝だった。すぐ傍にあった壱畝の顔にお互いにギョッとし、それも束の間。壱畝は俺から手を離した。

「……何しに来たんだよ。コソコソ人を付け回して」
「っ、俺は……その……」

 何しに。俺だって分からない。
 けど、放っておけなくて、それで……。  
 上手く、言葉が見つからない。口籠る俺に苛ついたのか、舌打ちをした壱畝に胸倉を掴まれる。

「っ、ぅ、……ッ!」
「ほんっと、お前といるとろくなことがない。……なんなんだよ、あいつ。なんだよ……恋人って……ッ!」
「っ、壱畝、く、やめ……っ」
「俺は壱畝君じゃないッ!」

「ッ!」

 振り上げた手に思いっきり頬を張られる。目の前がチカチカして、蹌踉めきそうになったがすぐに身体を起こされ、壱畝の方を向かされた。
 焼けるようにひりつく頬。鋭い痛みと恐怖に、身体が、頬が、痙攣する。

「本当に……付き合ってんのかよ」
「……っ、……ハルちゃ……ッ」
「答えろよ、お前が好きであいつと一緒にいるのかって聞いてんだよ」
「……っ、俺は……その……」

 分からない。会長のはずは好きでいたはずなのに、なんでだ。壱畝に尋ねられると、迷う。
 会長のこと好きなのに、力になりたいって思うのに、壱畝に問い掛けられるとそれが真意なのか分からなくなってしまうのだ。見開かれた目に、怒りを滲ませた表情に、身が竦む。
 ここまで感情的になった壱畝を見たこと、なかった。俺の中の壱畝はいつだってつまらなさそうに笑っていて、他人を見下すような目で周りを見ていて。それで。それで……。

「……ッお前なんも変わんねえな……自分の意見もろくに言わねえで……っ!周りに好き勝手言われてもヘラヘラ笑って……ムカつくんだよ、そういうところ!」
「っ、ごめんなさい……ッ!ごめんなさ……っ」

 ぐっと、拳を握り締めるのが目につき、身体が震える。
 殴られる。骨が潰れるような痛みに構え、ぎゅっと目を瞑った瞬間だった。ゴッと鈍い音を立て、背後の壁が軋む。
 やってこない痛みに恐る恐る目を開けば、壱畝の拳は壁にぶつけられていて。
 赤くなったやつの拳に、目を疑った。

「……っ、ハルちゃ……」

 どうして殴らないんだ、俺を。そう目を見開いたときだった、壁に上半身を押し付けられる。

「……本当、すげぇムカつく……ッ」

 視界が壱畝の陰で暗くなった瞬間、唇に、鋭い痛みが走った。無造作に重ねられたそれに、自分がキスをされているのだと気付くのに時間が掛かった。

 壱畝遥香は、少なくとも、当時の俺にとって大きな存在だった。周りから虐められるようになるその前からだ。
 壱畝遥香は、友達だった。そう思っていたのは俺だけかもしれないが、それでも、あまり他人と接することが苦手だった俺にとって唯一気兼ねしなくてもいい相手だったのも悔しいが、事実だ。

『ゆう君、どうして何も言わないんだよ』
『何が?』
『さっき、松山のやつに言われてただろ。嫌味。とろいって』

 とある教師に雑用を押し付けられ、それに手間取ってしまったお陰で怒られたのだ。
 やっぱり聞かれてたのか、なんて、俺は笑って誤魔化す。

『まあ、でも……あれ、本当のことだし……』
『なんだよそれ、悔しくねえの?』
『……分からない。悔しいっていうよりも、申し訳なくなるのはあるけど……』
『申し訳ない?文句言われて?』
『……実際遅くなっちゃったし……迷惑掛けてると思ったら何も言えなくなるんだ』

『結局、ハルちゃんにまで迷惑掛けちゃったし……ごめんね』おまけと言わんばかりに追加の雑用を押し付けていった教師だったが、それを見兼ねたハルちゃんがこうして荷物を運ぶのを手伝ってくれていた。
 断ったのだが、それでも強引に壱畝は俺から荷物を奪ったのだ。そんな強引さが、当時素直に頼れない俺には有り難かったのかもしれない。

『違うだろ、俺は好きでやってんだからいいんだよ。……それに、一人よりも二人の方が早いんだし』
『……ありがとう、ハルちゃん』

 せっかくの休み時間だ、ハルちゃんだって遊びたいだろうに何かとハルちゃんは俺を気に掛けてくれていた。
 それは、きっと俺とハルちゃんの境遇が似ているからかもしれない。共働きの多忙な親は家に帰ってもいない。俺の家には使用人が何人かいたが、それでも、家族団欒ということは少なかった。
 それで、よく放課後の時間を潰すために図書室を利用していたのだが……そこで、俺はハルちゃんと出会った。
 元々クラスメートだったが、全く会話もなかった。けれど、お互いにお互いの存在は認識していたため、顔を合わせた俺達は他愛のない話をするようになり、それから、気がつけば図書室以外でもよくハルちゃんと一緒に行動するようになった。

 ハルちゃんは、俺とは対象的な性格だった。明るくて、前向きで、それでいて誰よりも敏い。人の動作に、挙動に気付き、さり気なく気遣うのだ。

『やっぱり俺は納得行かないな。……あんな量、一人で運ぶのは無理だしそれを運ばせておいてとろいなんて、ならお前が運べよってな』
『は、ハルちゃん……』

 誰が聞いてるかも分からない廊下に、壱畝の声が響く。もし先生に聞かれてたらどうするんだろう、慌てて止めようとすれば、ハルちゃんは俺を睨んだ。

『でも一番ムカつくのはゆう君だよ』
『……う』
『どうして最初から俺を頼ってくれなかったんだよ。そのせいでとろいとか言われるんだろ。……二人だったらもっと早くできたんだし』

 そう、あっけらかんとしてハルちゃんは口にする。
 二人でやれば、なんて俺には思い付かなかった。断られたらとか相手の都合とか、そういうのを考えると結局一人でやろうとしてしまうのだ。そんな俺を分かってくれてるからの発言だろうが、それでも、俺には到底口に出来ないだろう。

『……やっぱり、ハルちゃんはすごいね』
『は?』
『僕は、そういう風に誰かに手伝ってもらうっていうの、考えられなかった……』

 理由は分かっていた。自分が困ってる他人に手を貸すことを恐れてしまっているからだろう。勝手な真似をするなと怒られるような気がして、そう考えるとどうしても、他人との関わりを避けてしまうのだ。

『ゆう君は本当馬鹿だよな。頭でっかちだから余計なことばっか考えるんだろ?』

 図星を刺され、何も言えなくなる。そんな俺を見て、ハルちゃんは笑い、そして『でも』と小さく口を開けた。

『……でもさ、いつも一生懸命で、俺、すげーって思うよ。誰も見てないところでもさ、人の何倍も頑張ってんの』
『ハルちゃん……』
『羨ましいよ。俺には地道な努力とかそういうの、出来ないから』

 そう、笑うハルちゃんの横顔は今でも鮮明に思い出せた。
 俺とハルちゃん……壱畝遥香がまだ“友達”だった頃の記憶だ。
 忘れていた。全部。それなのに、今更そんなことを思い出してしまうのは、きっと。

「ッ、ふ、ぅ……ッ!」

 キスなんて生易しいものではなかった。噛み付かれ、唇の薄皮に尖った歯が食い込む。感触を残すように舌を這わされ、唇を捲られ、その隙間から侵入してくる肉厚な舌に酸素すら奪われて。

「……ふ、く、っ、んん……ッ」

 殺されるのではないだろうか。そんな気配すらする暴力的で独善的なキスは痛みを伴い、俺に混乱を与える。
 何故、どうして、俺は壱畝に。
 苦しくなって何度も壱畝の胸を叩き、押し返し、首を振る。けれど顎を掴まれ、何度も角度を変えて執拗に唇を貪られれば抵抗が無意味なものだと思わずにはいられなかった。
 長い時間が経ったような気も、あっという間の間だったような気もする。ずるりと舌を引き抜かれ、自分の唇と壱畝の舌が糸を引くのを見て俺は、気が遠くなる。
 唇を離した壱畝だったが、手を離してくれる気配はない。それどころか、肩を掴む手は先程よりも強くなっていて。

「……ッ、嫌がれよ……ッ!嫌いなやつに触られて、嫌だって、言えよッ!死ぬ気で抵抗しろよ!」

 何を言っているのか分からなかった。嫌だと言って何度も止めようとしてる、それなのに、壱畝には足りないというのか。それとも俺は、まさか。

「っ、ハルちゃん、……っ!」

 口を開けば、塞がれる。
 こいつのせいで俺の人生がめちゃくちゃになった。ろくに人の目を見ることも出来なくなったし、親にとっても恥ずかしい子供になってしまった。それでも、ようやく変われると思ってここまで来たのに、それなのに、ここにきて俺はまたこいつに狂わされるということなのだろうか。
 拒絶してた。忘れたくて、顔を見たら反吐だって吐きたくて。それなのに、そんな相手にキスをされ俺は拒絶出来ていないというのか。その事実にひたすら絶望する。
 頭蓋骨凹む程殴られた方がましだと思うのに、後頭部に回されるその大きな手に、いつもとは違うその手付きに優しさを感じてしまっている自分を殺したくて仕方なかった。
 俺は何を血迷っているんだ。壱畝の言うとおりだ、死ぬ気で抵抗しろ。そうしないと俺は、なんのためにここまで来たんだ。
 目を固く瞑り、俺は、思いっきり壱畝の唇に歯を立てた。ガリッと肉の潰れるような感触とともに、甘い血の味が口いっぱいに広がる。ほんの一瞬、顔を歪めた壱畝だったがすぐに俺を引き剥がし、そして次の瞬間腹部に重い一発がのめり込む。

「っ、が、は……ッ!」

 勢いのあまり、臓腑が口から飛び出すかと思った。反動で壁に背中がぶつかり、一瞬、意識が飛ぶ。蹲った矢先、伸びてきた手にベルトを掴まれた。

「っ、ひ……ゃめ、て……ッ」

 おかしい、おかしい、俺も、壱畝も。やつが殴ることは寧ろ正常なのかもしれないが、それでも、今の壱畝は可笑しい。それは一目瞭然だった。

「っ、やめて、ハルちゃ……ッ!」

 肩口に顔を埋め、歯を立ててくる壱畝に堪らず呻く。壱畝だって唇が痛むだろう、それなのに噛み付くのをやめない壱畝に、お互いの血の匂いに頭がクラクラしてきて。

「お願いだから……ッ、やめ……っ」

 逆らったら、どんな目に遭わされるか分からない。それを考えるならば、好きにさせておくべきなのだろう。それが一番俺にとって“楽”な方法だ。けれど壱畝は俺に止めてほしいのではないのか。そう思えたのだ。

「やめろってばッ!」

 拳を握り締め、俺は思いっきり壱畝の頬を殴った。人を殴ったことなんて、生まれてこの方初めてだった。考えるよりも先に身体が動いていた。
 ガタガタと震える手のひら。ちゃんと、力が入っていたのかすら今となっては不思議だ。
 それでも、壱畝には伝わったのだろう。

「ッ、……ゆう君……」

 動きを止めた壱畝は呆然と俺を見た。見開かれたその目に自分の酷い顔が反射して映る。

「……ッ」

 俺は、出来ることなら俺は壱畝のこんな顔なんて見たくなかった。
 壱畝のことなんて知りたくなかった。ただ最悪なやつで、俺にとって害悪な人間でいてほしかった。壱畝にも喜怒哀楽があって、ちゃんと人間で、罪悪感も感じるようなやつなんだって知りたくなかった。
 俺は非常識で俺のことなんてなんとも思っていない壱畝のことを嫌いでいたかった。
 壱畝がそんな顔をするなんて、知りたくなかった。


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